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   ジギスムント王伝
 ――4―― 


 ロタールはため息をついた。
『どうしたのですか?』
 と、ソフィアが書いたことで、あわてて、
「なんでもないんですよ」
 と返した。
 そこは塔内部。シーツなどをつないで登ってきたのだった。
 なんでもない。ロタールは確かになんでもなかったのだが、気がかりなのはジギスムントだった。
(あの後、呆然としていたままで……。エディのときや、アルブレヒト様や皇后様の亡くなったときを思い出す。だが、あのとき以上に不安定な様子だった)
 あの遺書に何か原因が書かれていたことは推測できるが、それがジギスムント宛である以上、読むことは越権である。
 どうしたものか、と考えあぐねていると、ソフィアがじっと見ていることに気づいた。その視線があまりに真剣なもので、ロタールは居住まいを正して、なんでしょうか、と真剣に言った。
『私は、ここを出ようと思います』
 書かれた言葉に、一瞬ロタールはつまった。そして急いで言う。
「……ああ、それはいいことです。出てくるんでしたら、私の館の別邸に住んだらどうでしょう。そこなら誰も素性を詮索しませんし、ゆったりと過ごせるかと……」
 ソフィアは首を振る。
『私はエリバルガ国に帰ります』
 ロタールは声が出なかった。すらすらと字を書く音だけが響く。
『あそこが、私の故郷なんです』
 ソフィアは遠い目をした。
 エリバルガ国を懐かしんでいるように、遠い目をする。
「……一時的なことですよ。慣れればどこだって都です。慣れれば……忘れますよ」
 とげが混じる声音。
 心のどこかでは、当然のことではないか良いことだと、それを祝福しているのに、どうしてもそうできない。
『私には一生忘れられない。ここにいて、自覚しました。私はエリバルガに生まれ、エリバルガで死ぬ人間だと。他の場所では、うまく生きられないと』
 決断した者の力がある。
「……私とは、別れるというわけですね」
 静かに、ロタールは苛立ったように言う。
 ソフィアは悲しみを顔に出して、でも何も書かなかった。
「私ではなく、遠い国を選ぶのですね」
 ソフィアはペンをにぎりかけて、でも、何も書かなかった。
 それが答えかと、ロタールは絶望するほどの落胆があったが、表面には出さなかった。
 ロタールはハンカチを取り出す。
「これは、お返ししておきます」
 かつてソフィアが刺繍したハンカチ。
 ソフィアは首を振って返すが、ロタールは受け取らない。
 ロタールは立ち上がる。
 ひとつしかない窓から帰ろうとする。
 ソフィアは服のすそをつかみ、歯がゆそうな顔で、急いで何かを書いた。
『あなたを愛しています』
 ロタールはそれを見て、声をあげる。
「だったら! なぜ……」
 最後は小さくなって消える。
「もう、そんな話も、無意味ですね」
 ロタールの顔が歪む。
 彼女の決心の固さはわかっている。彼女は、どうしようともそれを変えない。
 二人は静かに抱き合った。
 彼女は一週間後に出てゆくという。ロタールはやりきれない思いを感じながら、それでも決心を覆すのを望んで、自分の館の住所を教える。そんなことはないとわかっているだろうに、ソフィアは何も言わずに頷いた。



 ジギスムント二世は、最近様子がおかしい。
 それに気づいたのはロタールだけではない。妻であるカタリナ姫もであった。
 ピクニックの日である。
 王宮の中庭、というが、通常の中庭とは思えないほど広い。
 遊歩道は建物と噴水をつなぎ、その中間あたりにテーブルと椅子が設置されている。そこで、カタリナ姫とジギスムントは食事を取っている。少し離れたところに給仕の侍女たちがいる。
 噴水のあたりにガリヤラカが真っ赤に咲く。
 ジギスムントの頬はこけ、寝不足なようでクマができている。何よりもうつろな瞳は不安にさせる。
 お茶の用意をしながら、心配そうにカタリナ姫は言う。
「ジギスムント様、何かありましたの?」
 ジギスムントは少しだけ口を開いて、小さく答える。
「何も、ないよ」
 目を伏せて、もう一度言う。
「何も、ない」
 ……あの四枚目の手紙にはこう書かれていた。
『この四枚目の手紙を読むことを決めた弟に、敬意を表する。
 母が異母兄弟を全て暗殺していたのは知っているな。だが、母が暗殺したのはそれだけではない。私たちが生まれたときの、母に仕えていた女官たちも全て殺していたという。
 なぜなのか。
 母は言った。お前たちの父は、本当の父親ではない、国王の血は継いでいない、と。
 母はどうしても『自分の子』を国王にしたかったらしい。『国王と自分の子』ではなく、『自分の子』を。
 父は何でもどうでもいいという性格だから、疑いもしなかったのだろう。
 母は、真実を知る者、知る機会のあった者はすべて暗殺したというから、私たちが黙ってさえいれば、誰にも知られることはない。
 だが私には耐えられない。自分が王の血を継いでいないのに、国王としてあることが耐えられない。
 だから私は死を選ぶ。
 ジギスムント、この秘密を黙っておれなかった私を許してくれ。
                     アルブレヒト   』
 読み終わってすぐ、細かくちぎって燃やした。揺らめく炎はすぐに灰となり、灰はこの中庭のガリヤラカの花壇に撒いた。
 それから、一週間だった。ずっとそれだけを考え続けているにもかかわらず、答えは出ない。どうすればいいのかわからない。
 ぱちん、と目の前で手が叩かれた。カタリナ姫だ。
 目を丸くするジギスムント。
「いま、二回同じことをおっしゃいましたわ。『何もない』と。二回言うときは、ジギスムント様が自分に言い聞かせるときですわ。『何もない』と自分に言い聞かせたいくらいのことが、あったんですわね」
 ジギスムントはゆっくりと目を見開いた。
「何が、あったんですの?」
 張り詰めた何かが、氷のように溶けてゆく。
 言葉は、一言しか出ない。うつむいて、ジギスムントはのどの奥から搾り出した。
「……助けてくれ……」
 精一杯の、心からの叫びだった。
 カタリナ姫は息をのんで目を見開いた。国と政治のことと考えたのかもしれない。そして優しく声をかけた。
「何が怖いんですの?」
 言うわけにはいけない。だが、感情を吐露せずにはいれない。
「どうしたらいいか、もう分からない。アルブレヒト兄上は、自殺した。ぼくも……死ななくちゃいけないのかな」
「そんなばかなことありませんわ!」
 ぴしゃりとカタリナ姫は断言する。
「ジギスムント様は、義兄様より、義父様より、誰よりも長生きしなければいけないんですわ!」
 ジギスムントは目をぱちくりと瞬いた。
「……そんなに、長生きしないといけないの?」
「当たり前ですわ! だってジギスムント様はわたくしと子どもを作って、一緒に孫を見てひ孫を見て、わたくしを看取らなければいけないんですもの!」
 子どもを作って、というくだりにジギスムントは顔を赤くする。彼女はきっとその言葉の意味を理解していないに違いない。
(それにしても、勝手な人生設計)
 そう思うと笑ってしまう。
「ぼくが、カタリナ姫を看取るの?」
「そうですわ」
「それじゃあ、ずるいよ。ぼくもカタリナ姫に看取られたい」
 カタリナ姫は考え込んだ。
「なら、一緒に死ぬというのはどうですの?」
「一緒に? 心中でもするつもり?」
「う・・・な、何とかなりますわ!! 愛の力で!! 愛は世界を救うんですもの!」
 支離滅裂である。笑いすぎて、涙が出そうだ。
 ふと、彼女なら、と考えてしまった。そして、それを訊かずにはいれなかった。
「ねえ、もし、もしぼくが国王でも王子でもなかったら、カタリナ姫はどうする?」
 カタリナ姫は即答した。
「何も変わりませんわ。だって、子どもを作って一緒に孫を見てひ孫を見ることに、王子も国王も関係ありませんもの」
 嘘でもよかった。ただの慰めでも幻想だとしても。
 それでも、その言葉がとても、泣きたいくらい聞きたかった。
 カタリナ姫は大きな瞳を輝かせて、金の髪をなびかせて、極上の笑顔をしていた。
 思いっきり顔を上げて、晴れ上がる空を見た。
「……カタリナ姫がいて、よかった……」
 小さな声で、聞こえたかは分からないけれど。
 カタリナ姫が、不恰好なサンドイッチとお茶を出した。



 その同じ日の午後。ピクニックも終わってカタリナ姫は自室にいた。王妃の間である。
 彼女の部屋は可愛らしい部屋だ。ぬいぐるみや人形が並んで、ピンクを基調としている。
(……やっぱりジギスムント様、様子がおかしかったですわ)
 先ほどのピクニックで少しは浮上したようなのだが、まだ安定していない。
(ジギスムント様は、もろい人ですもの)
 彼の精神が弱いことは分かっていた。昔から変わらない。
 何があったのかは分からないが、とにかく心を安定させなければ。
(沈んでらっしゃるようだから、何か、喜んでいただきたいですわ。……そういえばこの前、ロタールが恋人から刺繍の入ったハンカチをもらったことを聞きましたわ。わたくしも、そうしましょう!)
 カタリナ姫は侍女に必要なものを求めた。
(刺繍は得意ではありませんが……大切なのは愛ですわ、愛!)
 得意どころではなく下手というレベルなのだが、カタリナ姫はかまわない。
 王妃の間には、大きな窓から太陽の光がさす。この王宮は窓が大きくとられている部屋が多い。
 夏がやってきていた。
 レーヴェンディアは最高に美しい季節だ。
 ガリヤラカは赤く咲き誇り、アルジャの東の森では渋めの緑から強い光が地面に降りる。
 そのとき、国民がどれだけ税に苦しみ泣いているかなんて、カタリナ姫にとって別世界の話だ。
 彼女はそういう人間だった。彼女の世界は王宮とその周りで、美しいものや清いものを見て、生きてきた。政治のことはろくに知らない。
 だから、そのとき、反国王軍がまとまりを持ってきたこと、セランポーレ公爵が不穏な動きをしていることを知らなかった。いや、知っていたとしても、それが何を意味するのか、理解できなかっただろうが。
 彼女にとって、身近な夫や周囲の優しくしてくれる人間のことを考え生きている。
 視野の狭さは、幼さのせいだったかもしれない。
 それは、彼女のせいだったのかもしれない。いや、もしかしたら彼女のせいではなかったのかもしれない。
 そんなことは、彼女にとってどうでもいい。考えたこともない。
(ああ、ジギスムント様、喜んでくださるかしら)
 彼女の顔にはまだ見ぬ未来への希望と喜びにあふれている。
 カタリナ姫は身近な人間のふとした小さな事件や小さな喜びに心を動かす。それは王妃としては正しくないことを知らない。
 彼女はそれゆえに、待ち構えるものへの道を逸らせなかった。
 そんなことも彼女にはどうでもいい。
 レーヴェンディアは最高に美しい季節。
 ガリヤラカの咲き誇る姿は、夏を強烈に感じさせる。数年前北方の国からわざわざ氷が届けられたことも、思い出の一つ。削って食べたのは、とても美味しかった。
 レーヴェンディアは、最高に美しい……。
 窓から差し込む光を浴びて、うっとりとカタリナ姫は考えていた。




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