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 第45話 人生の墓場に花束を(3) 


「そう、社長を続けるんですわね」
 ケートヒェンの姿は、清楚で真っ白なウェディングドレスに身を包まれていた。
 レースの重なり合った、薄いドレスは、南国だからだろう。袖もない代わりに、肘が隠れるほど長い手袋をしている。
「ええ。二人の結婚式に出て、レジスタンスとの今後の取引を話し合ったら――二、三日かかるだろうけど――すぐにシュベルク国に戻って、会社が潰されないよう、手回ししなくちゃ」
 クラレンス家の娘でなくなったから、貴族と会うのは難しいだろうけれど、難しいからといって、諦めるつもりはない。
 眉を寄せてあれこれ考えるパトリーを、座っているケートヒェンが下から覗き込んだ。
 慌てて、笑顔を作る。
 もうすぐケートヒェンとテオバルトの結婚式である。難しい顔はするべきではない。
 ケートヒェンは再婚だから、ウェディングドレスを着ることなく、質素にしたかったらしいが、テオバルトのたっての希望で、お披露目の意味も兼ね、しっかりと式をすることにしたそうだ。
 チーマの城攻略のすぐ後ということにパトリーは驚いたが、レジスタンスは危険がつきまとうし、できるうちにすると決めたと聞いた。
 パトリーはケートヒェンの頭に、ベールつきの帽子をかぶせる。
 鏡の中には、嬉しさが満ちあふれた顔をしたケートヒェンが、はにかんでいる。
「ねえ、ケートヒェン。別に非難するわけじゃなくて、本当に疑問だから知りたいんだけど、訊いてもいい?」
「? ええ」
「どうしてテオバルト様と結婚しようと思ったの? 結婚して幸せになれると思えるような、何を見い出したの?」
 鏡の中で、ケートヒェンは赤い口紅を塗った口元を緩めて、微笑む。
「幸せになるのではなく、一緒に幸せになろうと努力できると思えたから、結婚するのですわよ」
 それを聞いて、胸の中でちぐはぐだった歯車が、ぴったりとかみ合い、答えが出てきた気がした。
 物事は単純なのかもしれない。結婚したからといって、幸せになるとは限らないのは、自明の理だ。
 幸せはつかむもの。
 それを、相手と共に、つかもうと努力できるか。
 どんな苦難がやって来ても、乗り越えるため、努力できるか。
「ケートヒェンにとって、テオバルト様が、そう思える人なのね?」
「ええ」
「……いいなあ……」
 パトリーの言葉は、単に羨ましがっていると言うよりも、自分の中の何かを考えて、思わず言ってしまったものだった。
 ケートヒェンが顔を上げた。
「ところで、あのオルテスさんは、姿が見えないようですわね」
「オルテスは、ムツィオさんと一緒にいるよ」
 聖剣ハリヤを詳しく調べるのだとか。
「それで、彼はどうしますの? いつまでもレジスタンスにはいないんでしょう?」
「……オルテスは、遠い自分の故郷に帰るんだって……」
「まあ。それで、パトリーはどうしますの?」
「何もしないわ。あたしは……この世界で、貿易商人として、やっていく」
「それでいいんですの?」
 パトリーは答えなかった。
 ハリヤ国に来る前から、何度も見た夢があった。
 暗い闇の中、オルテスが光の方へ行き、ノアが闇の方へ行ってしまう。そしてパトリーは、マレクやほかの従業員の手によって、足が捕らえられ、書類に埋まり、動けず、追いかけられなかった。そんな夢。
 違う。違うのだ。動けず、追いかけられなかったのではなく、動かず、追いかけなかったのだ。誰のせいでもどこに原因があるのでもない。
 自分の世界を捨てられなかったから。
 オルテスも、同じくらい、過去を大切に思っていたのだろう。過去と現在と未来、それらを超越した恒久の時、変わらず過去を大きいものだと感じていたのだと、死んだヴェラを揺さぶり問いかけているのを見たとき、わかった。
 だからもう、すがりついてここにいてと、言うことはできない。
 笑顔で、泣くことなく、見送ろうと思う。
『もうあたしは大丈夫。過去でも、元気でね』
 安心して、彼が行けるように。
 パトリーは傍らの台にあった、ブーケをケートヒェンに渡した。
 それはハリヤ国産のガリヤラカという赤い花が五輪、中央に飾り立てられた、パトリーの会社で扱っている花々で作られたブーケだ。花嫁を引き立てることだろう。パトリーが心を込めて、作った。
 ケートヒェンは受け取って、きれい、と呟き、感謝の言葉を述べた。
「ねえ、パトリー。知っています? 式の後、ブーケを花嫁が後ろ向きに投げて、それを受け取った人が、次の花嫁になるって、そんな話」
「? 知ってるわよ」
「私、パトリーに向かって投げますから、受け取ってちょうだいね」
「ケートヒェン……」
 パトリーは言葉を続けようとしたがうまく理由が言えなくて、首を横に振った。
「パトリーがいつか、望む人と、幸せになれる未来を進むことを選べるよう、友として、望みますわ」
「だめよ。あたしは……」
 控え室の扉が叩かれた。もう、式の時間だ。


 ハリヤ神殿の前に、ケートヒェンは立っている。
 今、彼女の左手の薬指には、指輪が光っている。
 ケートヒェンは後ろを向いて、ちらりと女性の中にいるパトリーを見た。
 未婚の女性が集まる中で、パトリーは端の方にいる。
 ケートヒェンがウィンクした。
 そして、花束は投げられた。
 空をくるくると回る。
 女達の黄色い声が上がる。
 どこまでも青々とした空に、赤いガリヤラカのブーケは、くっきりと切り取ったように目立ち、空を飛ぶ。
 パトリーは見上げる。青い空と、白い小さな雲と、向かってくる花束と。
 そうして――手が伸ばされた。


 オルテスはどこかで歓声があがった気がして、振り向いた。
 人気ひとけのない場所である。誰の声もするわけがない。
 オルテスは崖にいた。そして破れた紙を読んでいた。
 腰には、宝剣――聖剣ハリヤ――がある。
 つい先頃、チーマの城の、ムツィオの研究部屋に行き、鑑定が行われた。聖剣ハリヤか否か。
 答えは、星のかけらを砂漠で探し出すような奇跡が、オルテスの身に降りかかっていたということ。
 ムツィオの歴史学資料室は、オルテスが前に来たとき同様、物であふれかえっていた。剣戟があったということで、一つの棚が壊されていた。
 その棚に、手紙があった。棚が一刀両断されたように、中にあった手紙も切れていた。
 オルテスは鑑定中、することがなくて、ふとその手紙に目を向けた。
 これは、とオルテスが問うと、ムツィオは聖剣ハリヤの細工を見ながら答えた。
 昔のチーマの城主宛の、ルクレツィア女皇からの手紙だと。
 その切れた手紙は、ムツィオが原本を書き写した物で、また書き写さなければならないと、ため息を吐いていた。
 オルテスはその切れた手紙をもらい、こうして崖で読んでいる。
 ルクレツィア、晩年の手紙である。
 体を悪くしていたようだ。当時のチーマ城の城主からよく効く薬草をもらい、それに対してのお礼の言葉が記された書簡だ。
 妹はそのとき四十近い年齢で成人した息子もいたはずだが、十四の妹しか知らないので、どうも想像できない。
 ばさばさ、と木々を通り過ぎる影を見た。
 鳥だとすぐに推測できたが、それはルースだった。
 しかも同種の鳥と、一緒に飛んでいる。ルースが一歩分前に出て、似たような鳥が追いかけるように隣を飛ぶ。つがいだ。
 オルテスはあっけに取られた。
「ああ、ここにいましたか」
 今度は空耳ではなく、しっかりと鼓膜を打って聞こえた。
 ふうふう言いながら、坂道を登ってくる――リュイン。
「よく、こんな所まで来ますね、オルテス。探すのに苦労しましたよ。聖剣ハリヤ探しは順調にいっているか知るためにわざわざ来て、こんな坂道で引き下がるわけにはいきませんでしたから、何とか登りますが」
 リュインはいつも通り、ひらひらした布を重ね合わせたようにして頭に巻き、服もまた同じように重ねて着ている。この南国の夏では、さぞ暑かろう。いや、逆に暑い地域だからこそ、こういった格好はいいのか。
「それで、聖剣ハリヤの探索はどうですか?」
 オルテスは腰にある剣に目を向けることはなかった。
「これを、知っていたか?」
 オルテスは手の中にあった切れた手紙を顔の横で揺らした。
「ルクレツィアの手紙だ。写しだがな」
「知りませんよ」
「今まで思うように生きてきたとは思えないが、それでも満足のゆく人生だったと。晩年の手紙だ」
 リュインは微笑を浮かべ、表情を変えなかった。
「それと?」
「もうすぐ遠い空の国へ旅立つだろうが、兄が迎えに来てくれることを願っている、と。そして、今までずっと、兄は守っていてくれていたと信じ、これからも私の息子や孫、ひ孫、子々孫々、そして国と国民を見守り続け、助けてくれるだろう……と」
 まるで、神様のような扱いだ。
 私の心です、と妹に渡された蒼海石の形見は、コートの中で重く感じた。
 ちらりと、リュインが視線を坂へ向けた。
「リュ……イン、さん……」
 坂を上りながら、驚愕していたのは、パトリーだった。
「どうしてここに……」
 はっとして、彼女はオルテスの腰の剣を見る。その視線を、リュインもとらえた。
「まさか、その腰にある剣が、聖剣ハリヤなのですか?」
 オルテスは腰から、鞘ごと剣を抜く。
「早い仕事ですね。さすがです。すぐに過去へ戻してさしあげますよ。さあ……」
 リュインは手のひらを上に、両手を出す。
 オルテスが見下ろしたのは聖剣ハリヤではなく、切れた手紙だった。
 彼が見たのはリュインではなく、パトリーだった。
 迷いなく歩くと、パトリーの前まで来て、聖剣ハリヤを手渡した。
「これはパトリーが買った剣だ」
 リュインが戸惑ったように、オルテスの名を呼ぶ。オルテスの目は、パトリーだけを見る。
「パトリー自身が使わないというのなら、あのレジスタンスのリーダーにでも、売ればいい。少しくらい商売で役立つだろう。本物の聖剣ハリヤをほしがっていたからな」
「オルテス、正気ですか? 過去への執着はどこへ行ったのです?」
 不老不死の男なんて知り、見たのがいけなかったのだと、オルテスは思い返す。
 老いない男。それはまるで、過去をそのままくりぬいたように、時を感じさせない。
 この世界と過去が、時を経た同じ世界だということを忘れ、まるで別世界のように思えてしまった。アレクサンドラは妹に似た女ではなく、妹の系譜の末にある女だということを、忘れたかった。
 過去は美しく、未来は希望と恐怖を予感させ、そして現実は価値を忘れやすい。
 そう思うのが当然だということを、忘れてしまっていた。
 オルテスの死んだとされる事故から二十年も経ち、なお妹が慕っていたのは、思い出は美しいからだ。
 オルテスが晩年の妹を思い描けないように、ルクレツィアも十年後の兄を思い描けなかっただろう。
 そんな妹も、リュインと結婚し、子を作った。
 決して、空想の世界や思い出の世界へ逃げ込むことなく、現実の女皇として生きた。
 己の世界で、精一杯生き、そして死んでしまったのだ。ヨナスも、ミリーも、複雑な思いのある父も、誰もが死んでしまったのだ。
 彼らはオルテスの死んだと思われた世界で生きた。ルクレツィアが悲憤したことは想像に難くないが、それでも生きた。
 オルテスの『死後』の生を、否定するわけにはいかない。
 だからこの現実で生きねばならないと、オルテスはパトリーの顔を見ながら、思った。ルクレツィアの望むような、グランディア皇国の守護神としては生きられないが、せめて、見守れるように。
 パトリーの瞳は揺れていた。聖剣ハリヤをしっかりと胸の前で抱え込みながら、紫の瞳は、人に訴えかけるように強い力がある。信じられないけれど、信じたい、嬉しい、といったような感情が満面に現れている。引き結ばされた唇はむずむずと動いている。
 これが現実の目の前の人間だと、はっきりと感じた。
「わたくしが、このままただで帰ると思いますか?」
 リュインが不満そうな顔でいる。崖から、ごうごうと重い風が吹き込んでくる。
「なら、これを土産にすればいい」
 オルテスはひょいと投げ放った。
 あわてて身体を傾けながら両手で捕ったリュインは、手の中のものに首を傾げる。
 蒼海石、ルクレツィアの形見である。
「ルクレツィアの、心だ。お前は欲しかったんだろう?」
 リュインはじっと手の中を見つめたかと思うと、おっとりと笑む。
「わたくしが『不老不死の魔法使い』で彼女の夫だったのか、本当はわからないというのに。ただの詐欺師かもしれない男に、不用意ですよ」
「おれは、それを一番欲している男に渡しただけだ」
「わたくしがこれを欲している?」
 リュインは少しだけ声に出して笑った。一瞬だけ寂しげにその石を見つめたかと思うと、ひらりと布が舞った。
 一陣のつむじ風が嵐のように巻き起こる。
 パトリーがぎゅっと目を瞑り、思わず悲鳴のような声を上げる。
 風が去ったころには、リュインもまた消えていた。


 夕焼け空が、崖から広がっていた。
 明るいオレンジ色の空が、まだ夜ではないぞと主張するように、輝いている。ルースが黒い影となって、空を飛び回る。似たような形の鳥が、それを追いかけていた。
 パトリーが横を見ると、オルテスはいたって普通で、手を上げて伸びをしていた。
「これから……どうするの?」
「そうだな。ここで生きる、生活し続ける、なんて考えてなかったから、どうにか職はつかなくてはな。ああ、あと、字も覚えたいな。いろいろ不便だ。それと、ルースのしつけ方、どうにか勉強したい」
 あれもこれもと、オルテスは並べ立てる。
 パトリーは呆れながら、楽しそうにそれを聞いていた。
 これからは時間があって、そして同じ地面の上で生きていく。
 崖の向こうから、決して優しくない風が吹く。パトリーの髪や彼の髪をなびかせながら、力強くゆく。
 同じ世界で、違う場所でも同じ風を感じるだろう。違う場所にいても、同じ世界の空を見るだろう。
 それが、思わずこの崖から飛び降りたいくらい嬉しいのだと、オルテスは知っているだろうか。
 ふとオルテスが顔を向けた。
「その花束、どうしたんだ?」
 パトリーは聖剣ハリヤを抱えながら、ガリヤラカのブーケを持っていた。
 微笑する。
 ――結婚は人生の墓場なのかどうか。
 そうだとしても、その墓場を花束で飾り立て、美しく幸せな花園にする努力ができるかどうか。
 それが一番大切なのではないか、とパトリーは思った。
 崖下には森が広がっている。夕焼けに染まり、生き生きとした動物の声も響いてくる。
 一本まっすぐに通った川が森を両断するように走り、西の湖まで流れていた。
 東の空に溶けるように浮かぶ月は白々とし、その反対の西の空には、不完全な楕円の火輪が赤々と光る。
 夕日に染まった川は、輝ける太陽へ向かう赤い絨毯のようである。その先には何があるのだろう――きっとそこは――
 二人は夕景を見つめながら、何がおかしいでもないのに、笑い始めた。
 長く長く伸びたパトリーとオルテスの影は、一つになった。




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