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第45話 人生の墓場に花束を(2)
「見苦しいけどごめん。もうちょっとちゃんとした格好で会いたかったけど、時間がなくて」
ノアは包帯だらけの上半身に、シャツを着ようとぎこちなく袖を通す。
「手伝うわ」
パトリーが近寄って、服を着るのを手伝ってくれた。ノアの上半身、特に背中と肩は包帯で巻かれ、肌はほとんど見えない。手を一定の高さより上げると、痛みがある。完治はまだまだだ。
テントの中では二人だけである。イライザは外にいる。
パトリーが袖に通すのを手伝いながら、ノアに尋ねてきた。
「もう、すぐにでも行くの?」
「うん」
医者にはまだ安静にする必要があると止められたが、振り切った。
海上にいるシュベルク国軍に一刻も早く会い、戦争を止めるために。
服を着れば、もう行く。
パトリーは手の上がらないノアのため、首元に手をやり、ボタンをつけてゆく。
「パトリーは?」
「あたしは、二、三日したら国を出るわ。会社の取引のことで、レジスタンスと話し合いたいから」
「大変そうだなあ」
彼女の表情は、迷いのない決意が見えた。
パトリーは一番下まで、ボタンを留め終わった。かけられている上着を取り、傷にさわりがないよう袖を通す。
「それで、話があるんだろ?」
服を着終わったところでノアが問うと、パトリーはしばらく沈黙し、そして頭を下げた。
「結婚は……お受けできません」
ノアは頭を下げ続ける彼女の頭をじっと見た。つむじが見えた。
上着がずりさがったので、痛みがありながら整える。
「それは、オルテスと一緒になるから?」
パトリーは顔を上げた。ふるふると首を振る。
「会社の社長を続けるって、決めたから」
「そうか……それじゃあ、皇子の妻になるのは、無理だね」
「うん……」
いつも会社が第一だったなと、ノアは思い出す。
グランディア皇国で、貴族のパーティに出たときも。
その夜、結婚を申し込むと、彼女は真剣に取り合わず、仕事があるからと断わった。
彼女の決意は変わらなかったということか……。
ノアは一度あまり大きな音とならないよう、震えながら小さく息を吐く。
大きくショックを受けているとは、見せたくなかった。
「いや、俺も悪いんだよ。俺だって、パトリーのこと好きだけど、結局、皇子の位を退くことは選べなかったんだから」
今になればなおさら、そんなことはできない。
皇子である限り、その持てる力を使うと、決めたのだ。
皇子の位でなければ彼女はもうちょっと考えたとしても、前も今も、それを口にすることはできなかった。
「それを言うなら、会社を選んでノアを選べなかったあたしも、悪いわ」
「それは違うよ」
ノアは苦笑する。
「同じよ」
パトリーは強く言う。
半分は信じていない。ノアの心を知らないから、同じ、なんて言うのだと思う。
だけど、本当に、同じなら。同じくらい葛藤してくれたなら、嬉しいことだ。
「ノアと結婚したなら、本当に優しい未来が待っていると、思ったわ。ノアのこと、嫌いじゃない。むしろ好きなのよ。それだけは信じてほしい。いろんなことを悩んで、決めたの」
「悩んだ?」
「ええ。正体を明かされてから、何度も考えた。あたしはそんな暮らしをしたことがないけれど、会社のことを考えずに暮らすノアとの生活はどんなものだろうかとか。途中でノアが誘拐されたと知って、悠長なことを考える暇なく、とにかくノアの命のことを考えていたけれど」
「…………。そうか」
少なくとも、悩む余地はあったということか。少しでも自分との結婚生活を考えてくれたということか。
ずっと、何の脈もなく、一刀に断れるだろうと思っていたから、悩まれたと知って、それだけ意味はあったのかな、と思った。心が揺らいでくれるくらいには。
ノアは少しだけ表情を緩めた。
それを見て、パトリーはほっとしたように、同じように微笑みを浮かべる。
「あのさ……お願いなんだけど、これで最後のお別れには、しないでほしいんだ。お互い忙しくなるだろうけど」
「もちろんよ」
「それと、これからも、ランドリュー皇子でも、殿下でもなく、ノアと呼んでほしい」
「ノアがそれを許してくれるなら」
彼女がためらいなく言ってくれたもので、ノアの目は滲みかけた。
最後に抱きしめようと、手を伸ばした。
だけど、肩の傷がビリっと痛んだ。手がどこにも届くまでもないところで、止まった。
最後まで、哀しい結末だと、苦笑したくなった。
すると、パトリーは察知したのか、おもむろに両手を伸ばし、傷にさわりがないように、優しく抱きしめてきた。
強くはない、傷に触れないような、そんなぎりぎりの、だけど温かい抱擁。
「あたしにとって、ノアはいつでもノアよ。それ以外ではないの」
すぐ近くで、今、どうして、こんなことを言うんだと思った。
これじゃあ、諦められないじゃないか。
傷にさわりがないよう、肘より下だけを動かし、彼女の身体に触れる。
向き合った二人は、まるでダンスを踊っているようだった。
「好きなんだ、パトリー」
求めるようでもなく、答えを欲するでなく、ノアはかつてと同じ言葉を口にする。
今度は、パトリーは答えた。
「ありがとう」
ごめんなさい、と謝られなかったのは救いだ。
きっと、すっぱりと諦めることはできなくて、今までのように、思い悩むこともあるだろう。状況も彼女自身も、自分自身も変わり、多くの後悔も生まれるだろう。
しかし未来はわからないから。意味はあったと思うから。
テントのかすかな隙間から、青い空が見えた。
未来の自分は、その空を重い灰色だったと思い出すのか、虹のような輝きがあったと思い出すのか、わからないけれど、目に焼き付けたいと思う。
ただそのままの色の空として。
目の前の今のパトリーの微笑みも、また。
「お忙しいことだ、殿下も」
進んでゆく馬車の窓から、ノアが小さく手を振っている。
隣にいる兄・シュテファンは腕を組み、見送っていた。パトリーは大きく手を振り続け、馬車をずっと見つめている。
「ノアには、自分で課した使命があるんです」
何かが彼の中で変わったのだろう。何かに迷う目ではなく、真剣に見る目があった。
きっと次に会うときには、もっと変わっているだろう。
結婚を断わったことをものすごく後悔するくらい、いい男になっているのかもしれない。――そのときの自分も、未来も、わからない。
「私たちは明日にでも帰国する。殿下の安全が確認されたことで、延期はあるが、挙式の用意もしなければ……」
兄は葉巻を懐にある箱から取り出す。
「いいえ。結婚はしません」
まだ言っているのか、という目でシュテファンは見下ろした。
「結婚が嫌だとか、まだ言うつもりか」
「そうではなく、会社の経営を続けるために、しないのです。ノアにも、結婚は断わることを伝えてあります」
「なんだと」
シュテファンは葉巻に火をつけようとしたところで、止めた。
「直接に、断わっただと?」
「はい」
パトリーの声には緊張がはらんでいた。
「愚かな! 万一断わるにしても、面と向かってなど、大馬鹿者だ! 間に人を立て、でっちあげでも家の格式・礼儀を損なわない方法を取るに決まっているだろう!」
それでも、ノアに直接言いたかった。
彼が真っ正面から好意を向けてくれた、お返しに。
「これが、あたしのノアへの、せめてもの礼儀です」
「ふざけるな。お前は国への、皇家への責任を放棄した」
「国への責任なら、社会的にこれから社長として、果たします。近代化するシュベルク国のため、貿易を行い、発展を促すことで」
武器貿易を行おう、と今もまた誘われたなら、前と同じく、許可しない。
たとえ社長に向かなくても、パトリーは自分の方法で、社長をすると決めた。
「母国や社会への責任の取り方は、一つじゃなくて、百も千も方法はあると思います。あたしは、貿易会社の社長としての方法を選びます」
人の道が幾通りもあるように、人や国への愛し方も幾通りもある。
シュテファンは口を噤んだ。
結婚を断わったのは、もはや取り消しようがない。
これ以上怒ろうとも過去は戻りはしない、とシュテファンは気持ちを切り替えたのか、不機嫌な顔で、二、三歩、黙ったまま歩いた。
乾いた砂の音がする。照り返る日差しの中、兄は振り向いた。目元が影になってはいても、優しい微笑みを浮かべてないことぐらいはわかる。
「それで、お前はこの件、私に許しを請うつもりか」
許しを得るのが、どれだけ大変だろう。家の権威を損なった、皇家との関係が悪化した。それを補うだけの、何を持つというのか。
パトリーは首を振った。
「いいえ」
「ではどうする気だ。私はこのままで済ます気はない。国や社会への責任を社長として取るとしても、お前はクラレンス家への責任は取っていない。それくらいはわかるな」
家を大事にするシュテファンは、この被害を生半可なことで、許しはしない。妹だからといって、簡単な謝罪で許してもらおうとは思っていない。
これに関して道は一つしかないと、シュテファンの見下ろす目を見て、了解した。
覚悟は、できていた。
「今この時をもって、お前はクラレンス家の人間ではない」
できていても、重かった。
「私はお前の兄ではなく、お前は私の妹ではない。クラレンス家の領地に入ることも、クラレンス姓を名乗ることも許さん。何の援助もしない」
完全なる絶縁に、パトリーは難しそうにつばを飲み込んだ。
「……はい」
絞り出すように、受け入れた。
そして深々と頭を下げる。
「今回の結婚の失敗は、クラレンス家に非はなく、全てお前の責任だということになる。そして、もう二度と会うことも、話すこともない。これが最後だ」
はい、と応えようとした。
しかし、唇が震えた。厳しくて、卑怯で、父のように育ててくれた兄との日々を、思い出して。
だから、顔を上げた。
「いいえ。……会いたいです」
「…………」
「今、ここで縁が切れても……あたしは、いつか何十年経っても、おばあちゃんになっても、もう一度クラレンス家の、シュテファン兄様の妹として、認めてもらえるよう、がんばります。社長として、クラレンス家にふさわしい人間だと、思ってもらえるよう、がんばります。今回のことを補うに足るほどの、人間になって」
パトリーは一心に兄を見つめる。
「そのとき、兄様が認められたとき、あたしの復縁を、考えてください。お願いします。もう一度会って話ができる日が来るように、あたしは、絶対に諦めずに、世界一の貿易商人となるよう、努力し続けます!」
その日が、本当にいつ来るかはわからなかった。普通に考えても、そんな日が来る前に一生が終わってしまうことも十分あり得る。
だけど、努力する。希望の未来を、つかむために。未来は、わからないから。たとえ、シュテファン自身が首を横に振っても。
シュテファンは一笑に付さなかった。
ばからしい、と嘲笑することもなかった。
「ならば、せいぜいやってみろ」
そう言って、背を向けた。
それが、クラレンス家の兄妹の、別れであった。
ちょうど二つ、雲が浮かんでいた。その二つは別れ、違う空をゆく。
再びその雲が出会うことは限りなく可能性が低い。だが、ゼロではない。
きっと、再会することもあるのだと、パトリーは信じたい。
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