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第44話 星のかけらを探せるか(2)
パトリーは今の自分の状況が信じられなかった。
オルテスと剣を向け合っているなんて……。
彼の剣はランプの灯に刀身が照り、鋭い白さを浮き立たせていた。一方パトリーの持つ細剣は鈍い銀色の頼りないもの。
パトリーが動揺して信じられないように、オルテスも驚きが顔中に広がっている。
だが、二人とも剣を引けない。
パトリーはヴェラをノアのいるこの先に行かせないために。
オルテスはヴェラから聖剣ハリヤの情報を得るために。
パトリーは目の前の男におびえていた。
こうして対峙して、わかったのだ。彼は強い。あまりに強い。
はたから戦いを見ていただけではわからない、向き合った者にわかる強さ。まず持っている剣を落とし、降伏して手を上げたくなるような、泣いてしまいたくなるような、絶対の強さである。
現にパトリーの膝はがくがくと震えている。
ここから逃げられるのなら、喜んで躍り上がって逃げる。
これまでオルテスの前に立ち戦った人々に、敬意を表したいくらいである。
オルテスが、ふいに動いた。
剣をパトリーへ向けたのである。パトリーは思わず、持っていた細剣で守る。
二つの剣が組み合う。
パトリーはどこまで力を入れればいいのか、困った。だって、オルテスを倒そうという気にはなれるはずがないからだ。
だが、オルテスは剣を向けてきた。途端に、恐怖が身を支配する。それを見て、ヴェラが笑っていた。
剣がぎりぎりと組み合う中で、二人はかなり近づく。
オルテスが、沈黙と膠着を破って、口を開く。
「パトリー、聞こえるか」
あまりに小さな声であった。剣を組み合うほどに近くなって、はじめて聞こえるほどの声量だ。
パトリーは戸惑いながら、小さく頷く。
「いいか。これからおれがパトリーに剣を振る、フリをする。それに合わせて、倒れるんだ。あの女にはなんとか誤魔化して、死んだと思わせておく。そのままそこで黙って倒れるんだ」
「え……」
「おれが、みすみす言いなりになるわけがないだろう」
パトリーは自分が恥ずかしいような思いだった。
一時とはいえ、オルテスが剣を本気で向けると疑うとは。
パトリーはその計画に喜んで頷こうと、した。けれど止まった。
細剣を見下ろして少しして、悲壮な顔で、首を横に振った。
「パトリー」
「……だめ、だめよ。ここであたしが死んだふりをしても……ノアには、そんなフリはできない」
ノアに剣の腕は皆無だ。いくら最近剣の稽古を始めたからって、振られた剣にあわせて、倒れて死んだふりができるほどの腕はない。
となれば、オルテスはノアを殺す。彼の望みのために、殺すしかない。
それはさせるわけにはいかなかった。
ノアの身を守るために、オルテスと剣を向き合うしかなかった。
パトリーは首を小さく横に振りながら、血まみれの両手で細剣を持ち直し、力を入れる。組み合った剣を離す。
ノアを守るために、ここは譲れない。
唇を引き締めて、複雑な感情を垣間見せるオルテスを、見上げた。
では、オルテスを、殺せるのか……?
それには即答できる。
できるはずがない。
剣の腕といった、実質的な強さの問題だけではない。
もっと根本的な、精神的な問題で、オルテスを殺せるわけがない。
こうやって剣を向けていても、それを突き刺す、殺意を向ける、なんて、考えられない。どうして彼にそんなことをできるというのか。
では、どうすればいい?
背中の向こうにはノアがいる。目の前にはオルテスがいる。
どちらか一人を、選べと……?
ノアを守って、オルテスと戦うか。
オルテスを選び、ノアを見殺しにするか。
左手の傷のせいで柄が血にまみれた細剣を握りなおす。
それを見下ろしていると、パトリーは気づいた。
長い時を経て、ようやくパトリーは気づいた。この細剣の意味を。
兄・シュテファンが渡したこの、何の意味があるのかわからなかった細剣。普通の剣としては頼りなく、戦うのには不向きなこの細剣。
ああ。
これは。
――自殺用の剣だ。
誰かと戦うには心もとないが、己を殺すことなら、できる。
これは兄なりの、結婚する妹に対しての、贈り物だったのだろう。姉たち全員に渡しているに違いない。
結婚がイコール幸せだとは、兄自身も考えてなかったはずだ。それでも強制して結婚させる妹へ、せめて、何かに耐えられないときのために、渡したのだろう。
世界は困難で、望み通りに生きがたく、苦しみや痛みに満ち、思うようにすべてを選べない。そんな世界に直面する妹に、誇りを守る最後の砦として、渡したのだろう。
やはり、なんて屈折した人なのだと思う。こんなものを贈るなんて。
だけど兄らしい。
『死ぬな』と、兄は言っていた。その言葉は兄の真実だと、信じている。
だけれども、それでもこの細剣を持って行くよう確認させた。
さまざまな思い出が頭の中をかけめぐる。クラレンス家で育った日々。シュテファン、姉たち、シルビア……会社を始めて仲間としてやってきたマレクたち、そして、オルテス、ノア、イライザ……。
どうすればいいのか、それが最善でなくても、何かを捨てることになっても、選び取りたいものがある。
パトリーは、道を、選んだ。
その細剣を握りしめ、改めて剣先をオルテスへ向けた。
オルテスは驚いていた。迷いなく剣を向けられたことに。それ以上に、パトリーにまったく闘志がないことに。
オルテスとノアの生と死。
パトリーにはどちらの死も選べなかった。
だから、盾となろうと思った。
ノアの逃げる時間稼ぎ。それだけだ。けれど、彼を守るためにオルテスを殺すことはできない。
だからただの盾だ。
オルテスの腕なら、パトリーを殺すことはたやすいだろう。……ノアも殺してしまうかもしれない。だけど、イライザもいるはずだから、ノアは逃げ切れるかもしれない。
どちらの死も選べなかった自分には、自分の命を盾にするしかない。
運がよければ、ヴェラはパトリーの死に満足しノアを殺させず、オルテスの望む聖剣ハリヤの情報を与えてくれるかもしれない。
それが、パトリーの望む限りの、最善。
死ぬな、と言ったシュテファンは即座に、それは感情からではないと言うように、言い訳した。
けれど、きっと自分が死んだと知れば、悲しむだろう。目に見えず、誰の前でなくても、表情ひとつ変えなくても。
ごめんなさい、とパトリーは小さくつぶやく。
パトリーは目の前のオルテスを見上げる。
藍色の長い絹糸のような髪。意思のある強い翡翠色の瞳。切れ長の目の形。薄い唇の口元。その口からいろいろな言葉を聞いた。いろいろな話をした。宝剣を握るその手は冷たかった。大きくて、その手のいろいろなしぐさに目をひかれた。体はパトリーよりも大きくて、何度もこの体に守られた。
抱きしめたかった。抱きしめられたかった。
だけどもうかなわない。
パトリーは選んだ。オルテスの生だけを、選ぶことができなかった。
それが自分なのだと思う。オルテスの死を望めないかわりに、ノアの死も望めない。どちらの生も、望んでしまった。
ここでノアの死を、オルテスの死を、許してしまうような人間となるなら、パトリーは自分で命を絶つ。死ぬとわかって見捨てるなんて、できるはずがない。それを許したくなかった。許してはいけないと思った。
パトリーは見上げる。
「オルテス=グランディ」
初めて、パトリーは彼を正式な名で呼ぶ。
「……過去へ行っても、あたしを忘れないで」
オルテスは険しい顔で、何かを言おうとした。だが聞かないように、言葉を続ける。
「あなたの言う、この未来を忘れないで。醜くて、汚いけれど、覚えていてね。それが……あたしの、美しい世界なのだから」
パトリーは細剣を、振り上げる。オルテスは機敏に剣で防ぐ。
それに笑った。
さあ、振り下ろして。
目と目を合わせ、そう意思を示した。彼のゆがんだ顔から、それが伝わったとわかる。
もう一度細剣を向ける。剣でやすやすと防がれる。同時に、細剣は手から零れ落ちる。
パトリーは穏やかに、笑った。
最期まで彼を見続けられるならいい。彼に笑顔の自分を覚えられたらいい。だから、無様に苦しんだ顔は見せたくないと思った。
オルテスなら、一撃で、苦しみなく、してくれると、信じている。
パトリーの意図を、オルテスは完全に理解しただろう。
オルテスは白い刀身のその剣を構える。
ヴェラが見ものだとばかりに笑っている。
身を守るものはパトリーにはない。細剣を拾おう、どうにかしてここを切り抜けよう、とはもう思わない。
「おれは過去へ戻りたい……どうしても」
知っているわ。パトリーはゆっくり頷く。
誰もが譲れないものを持っている。
オルテスは顔をゆがませながら、壊れたように言葉を続ける。
「ここはおれの世界じゃない。言葉も、人も、全部違う。十年、おれは帰りたいと思っていた。ずっとそう思っていた。ずっと、ずっと、何をしても、どんな困難があろうとも……!」
わかっている。だからもういいのよ。
パトリーは笑顔を浮かべ、惜しみながら、目を閉じた。
やはり、自分に剣を向けられるのは怖い。それにオルテスも、目を開けられたままだと、辛いだろう。
パトリーは胸の前で両手を握りしめる。
オルテスは剣を向ける。
どうすれば殺せるかなんて、考えなくても身について彼にはわかっている。
だが、オルテスの剣は、震えていた。
今までになかった。どんな敵でも、自らの父親と決闘をするときですら、そんなことはなかった。
剣を振り下ろす。ただそれだけでいい。
そうすれば、華奢で弱いパトリーは、すぐに死ぬ。オルテスのために笑顔のまま、逝ってしまうだろう。
今までたくさんの人の死を見てきた。理不尽な死、誇り高い死、静かな死。自らの生を毎夜確信できないように、他人の死だって、どんなものも驚くことはなかった。家族や部下がそばにいてさえも、彼らはいずれ死ぬのだと、達観に似た思いがよぎっていた。
だが、今、オルテスは、彼女の死を見たくはなかった。剣を向けた相手に、初めてそう思った。
剣先を、パトリーの胸のすぐ上へ向ける。
気配くらいは感じているだろうに、パトリーはじっと祈るように目を伏せている。まるで彫像のような静謐な姿で、伏せたまつげだけが、かすかに揺れている。
死にたくないと、どんな小さなつぶやきでも、言ってくれればいい。目で訴えてくれればいい。そうしたら、絶対に殺さない。
いや、違う。
言ってくれればいいのではなく、言ってほしいのだ。自分は……彼女を……。
胸へ向けた剣先が震える。感情が伝わるように。オルテスは、それをそのまま、足下におろした。
「おい!」
ヴェラが非難の声を上げていたが、それは遠くに聞こえた。
パトリーがうっすらと瞳を開ける。そしてゆっくりと、大きな紫色の澄んだ瞳で、見上げてきた。
どうして、と言いたげに。
「おれが、お前を、殺せるわけがないだろう……!!」
オルテスが喉の奥から搾り出すように言うと、パトリーはしばらく放心していた。しばらくして、その放心している瞳から、涙がにじみ始め、紫の瞳を揺らす。そして、その場に座り込んだ。
オルテスが近づき、肩に手をやろうとしたとき、
「貴様……! 貴様が殺さないなら、私が殺してやる!」
ヴェラが剣を構え、パトリーへ走る。
パトリーの背中を突き下ろそうとするのを食い止めるには、方法はなかった。
オルテスは剣を斜めに振り上げる。
ヴェラの足が止まる。オルテスが斬ったとおりに、血がふきだす。
彼女はなおも剣を向けようとしたが、そのまま、前のめりに倒れていった。
……余裕が、なかった。
油断していたところがあり、力の加減ができなかった。
オルテスは倒れたヴェラを凝視する。
「おい……」
オルテスは慎重に彼女の手から剣を取り、起こそうとした。
だが、上向かせると、瞳孔が開ききった、死人となったヴェラがいた。
「おい……」
オルテスは焦ったように、彼女の体を揺らす。
「起きろ。聞いていない。聖剣ハリヤの売った相手を、まだ。誰だ、どこの誰に売ったと聞いたんだ」
だがヴェラはもう反応しない。オルテスが揺らすのにあわせて動くだけだ。
「おい! お前しか知らないと言っただろう! お前から聞かずに、どうやって探せというんだ!」
「オルテス……」
パトリーは揺らし続けるオルテスの腕を引く。
「ヴェラさんは、もう……」
痛ましげにパトリーは彼女を見下ろしている。
「オルテスのせいじゃないわ。あたしの……」
パトリーは後悔と苦しみの表情を浮かべながら、悼むように見ている。
オルテスはそれどころではなかった。この女が聖剣ハリヤについて言ったことは、一言一句すべて覚えている。
「……星のかけらを砂漠で探すように、何十年も、形もわからない雲をつかむようなものを、探せと……?」
オルテスは少しだけ笑ったが、すぐに真顔になった。
「……そんなもの、見つからないのと同じだ……」
「…………」
「過去へ戻れないなら……おれは、どこへ帰ればいい……」
パトリーはためらいつつも、オルテスの手を引く。城内の戦いの音は近づいている。立ち上がり、避難するなり、レジスタンス軍と合流するなりしなければならない。
だが、オルテスは立たない。
「……もう、立ち上がれない」
オルテスは苦笑するように、自虐的な表情で、どこかを見ている。
それを見て、パトリーは無理やり、腕を引っ張り上げる。
「立ち上がって!」
思わずオルテスの腰が浮く。
「立つの! 立って歩くの! 立ち上がれないなら、手伝ってあげる! 立ち続けられないなら、支えてあげる! だから……だから……!」
パトリーはぐぐ、と引っ張り上げ続ける。どう見ても自分より体の大きな男を、諦めずに、腕を引き続けている。
彼女には何の利もないというのに。ただ一生懸命、オルテスを立ち上がらせようと、奮闘している。
生きなさい。
そう、言っているかのように。
たとえ無様に倒れ込んでも、何度でもパトリーは起こそうとするだろう。小さい体で背負い込んでも、自分の力で歩けるようになるまで。
それを見て、オルテスは二、三歩よろめきながら、自らの力で立ち上がった。気力はどこにもなかったけれど、かすかにそんな力が湧いた。
暁鴉の音が、戦い続く城内を、貫くように澄んで響く。
突如道を失い、足下はぬかるんだ暗闇の世界。しかし、かすかな光を見た気がした。そこは決して、底なしの沼ではない。
オルテスは立ち上がりながら、星を見つめた。
見守るような紫の星があった。
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