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 第44話 星のかけらを探せるか(1) 


 走って、走って、走って。
 将軍とノアは追われるように走り続けた。
 東へ向かって走る内に、ヤカール将軍を呼び止める声はいくつもあったが、止まらなかった。まだ東はレジスタンス軍が来ていない。
 ノアは置いてきたパトリーのことが気になったが、走るのを止めるわけにはいかなかった。
 自分はシュベルク国の皇子なのだから……戦争を引き起こすために、逃げなければならない。
 それがお前の望みなのか。そう誰かに訊かれたら、迷わず違うと答える。
 だが、では、皇子とは何なのだ。自らの思うがままに国を動かしたければ、皇帝になろうと努力すればよかった。ノアはそんなことを望まなかった。
 皇子として生きるため、その誇りがほしかった。今までのようにこの身分を嫌わずにいられる、理由がほしかった。そうして与えられた役目が、戦争を引き起こすことだと言うのなら、どうして断れるのか。
 国のためだと言われ、それが皇子の役目だと言われれば。
 ノアは国を背負おうとはしなかった。第三皇子だから目立たないようにと周囲に言われたのもあるが、それでも玉座を望まなかったのはノアだ。
 無理矢理に母と離れ、留学させられた。シュベルク国で行われた政治全てに賛成できはしなかった。
 それでも異を唱えず、間違っていると言わなかった。
 ノアは心中うめきながら、将軍に手を引かれて走る。
 ヤカール将軍は東の塔の扉を開けた。
 塔一階の隅にある木の扉を乱暴に開くと、
「な、将軍! どうしてここに……! 城中、レジスタンス軍が攻めてきたというが、どうなったんじゃ!?」
 白いあごひげが腰近くまであるおじいさんがそこにいた。
 ノアは初めて会う、ムツィオである。
 ムツィオは手に一杯の箱や花瓶を持って、逃げる算段を整えているところであった。
 部屋は他に扉はない。テーブルが中央にあり、周囲は棚で埋め尽くされている。物がかなり多い。
 将軍は一本の剣を鞘から抜き払った。
 ぎょっとするノアとムツィオを無視し、右の棚の前に将軍が立つと、一刀で棚が真っ二つになる。
 ムツィオが、「ああっ! そこは歴史学的資料が!」と叫んだが、将軍はやはりこれも無視して、崩れた棚や物を乱暴にどかしてゆく。
 石で固められた壁があったのだが、将軍がそこを蹴ると、もろくも崩れていった。
 人ひとり入れるだけの穴ができあがったのだった。
 穴から臭気が漂ってくる気がした。穴の奥にはちらりと、下に降りる階段が見える。
「こ、こんなところにも、隠し通路が……!」
 ムツィオが驚きつつも、興味深そうに穴へ近づいた。
 将軍が見下げるように炯眼を光らせる。
 ノアには止めるひまがないどころか、目に見えなかった。
 まさに一瞬のできごと。
 その目にも留まらぬ一瞬を境目に、ムツィオの背中から血が滝のように噴き出した。
「! ……あ、ああっ……!!」
 息を吸い叫んだのはノアで、ムツィオは何一つ言わず、ごとりと倒れていった。彼が持っていた花瓶は割れ、箱は転がってゆく。ムツィオの背中には斜めに切り傷があり、血がおそろしい早さでにじんでゆく。床を流れてゆく。
 将軍の持つ剣には血がべっとりとついていた。
「どうして!!」
 ノアが絶叫して見ると、ヤカール将軍は、そこにいるのはムツィオではなく虫だと思っているかのように、眉一つ動かしていない。
「ここですぐさまレジスタンス側へ走られるわけにはいかない。この男はレジスタンスのスパイだ」
「だからって!」
「あなたは皇子だ。人が何人死のうと、役目だけはなしとげてもらう。シュベルク国のために」
 将軍はノアの手を引き、穴の中へいざなう。
 足下にはムツィオの伏した姿。穴の奥は闇色の地下へ続く階段がある。

 これがお前の望みなのか。

 頭の中で、誰かの声がする。
 仕方ないではないか。自分は皇子で、シュベルク国のために行かなければならない。
 それが皇子の役目で……。
 『ノアは皇子だからって、それだけが使命じゃないでしょ!』
 閃光のようにパトリーの言葉を思い出す。
 伏しているムツィオは動いていない――そう思っていたら、骨張った手がかすかに動いているのが見えた。生きたい、生きたい。そう言っているかのように。
 もう一度声がする。

 これが、お前の望みなのか。

 それは内にある、良心からの問いの声だった。
「……違う……!」
 震える声で、決断するように言葉にした。
 死にかけている人を見捨ててまでしなければならない使命とは、何の価値があるのだ。
『人生なんて、与えられた選択肢だけじゃないわよ』
『誰かが不幸になる選択肢しかないのなら、他の選択肢を探すしかない』
 ああ、そうだ。皇子として生きるとしても、与えられた使命だけじゃない。自分の良心と意思により、最良の道を選ぶべきなんだ。
 ノアは将軍の手を振り払う。ムツィオの横に座り、自らの服を裂き、傷をふさごうとする。
 医学部時代に学んだ応急処置の方法を思い出す。
「おい、意識はあるか?」
 傷口に布をあてても、どんどんと染み出す。
 集中力と頭の回転はいや増す。その集中力が、鋭い風を切る音をとらえたのは、運の良さもあった。
 ノアは直感的に身体を反らした。
 次の瞬間、肩口に鈍い大きな痛みが生じる。
 一気に意識を喪失しそうになるほどの衝撃である。
 だが気を失うわけにはいかなかった。すぐさまその場から離れる。逃げつつ見ると、将軍の持つ剣についた血の量が増えていた。増えたのは、ノアの血の分である。
 ノアの肩口に、将軍から剣を振り下ろされたのだ。
「ほう……私の剣から逃げるとは。皇子には剣の才能があったのかもしれない。もう、遅いが」
「しょう……ぐん……」
「ここで時間をロスするのなら、死んでもらうしかない。大丈夫だ。殺した相手はハリヤ国の人間だとしておく。ハリヤ国とシュベルク国の戦争は確実なものとなる。あの世でも安心するがいい」
「……死ぬ……わけには、いか……ない……」
 痛みの元に手を当てると、べっとりと血がつく。
 傷あとが熱い。じくじくと痛む。
 手で押さえつつも、血は止まる様子はない。
 本当ならば動かずにいて、自力でも治療をしたいところだ。だが、ぬらぬらとした剣を持つヤカール将軍がいる以上、逃げるしかない。
 死ぬわけにはいかない。
 戦争を起こさないために。そして、皇子として、別の責任を果たすために。
 ノアはふらふらとしながら駆け、扉を開け、東の塔へ入った。
 背中に再び衝撃があった。
 倒れてしまう。
 背中を切られたのだ。
 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。意識がそれ一色になる。
 荒い呼吸をしながら、痛みと熱に支配されてゆく。生理的な涙が流れる。
 顔を動かし上を見ると、将軍が剣をぶんと振って、血を払っていた。周囲に血の飛び散る音がしたような気がした。ノアは自分の呼吸音が激しく、あまりよく聞こえなかった。
 ヤカール将軍のそり上がった頭の下の鋭い目も表情も、何も変わりはない。
「あなたの名は歴史に刻まれよう」
 ヤカール将軍がそう言って、剣にぐっと力を入れるのを見た。
 ノアは一歩でも逃げようと、自らの血でまみれた手で這う。
 生きたい、死にたくない……!
 強烈な意識がはじけた。
 空を切る刃の音。
 ……死ぬ……。
「将軍!」
 声と共に、別方向からひゅんとしなるような風の音がした。
 背めがけて振り下ろされようとしていたヤカール将軍の剣は、直前で振り上げられた。
 飛んできた別の剣から身を守るためだ。
 キィンとはじいて、将軍に傷を負わせることはなかった。
 だが、それでよかったのだ。それはノアの身を守るためだったのだから。将軍が身を守る間に、ノアの前に人がいた。
 ノアの忠実なる護衛、イライザである。
 イライザは一本の剣を上段に構える。
 向き合うヤカール将軍も、何も言わずに一本の剣を構えた。似た構えである。
 イライザは気迫に包まれている。
 彼女の目に、最初の一撃をどう守ろうか、フェイントをどうかけるか、といった考えはない。
 ただ一撃でしとめるか、一撃で殺されるかの二つである。
 迷いは、ない。
 膠着の一瞬間、響くような剣の音がノアの鼓膜を打つ。壁にあったランプの炎が大きく揺らめく。
 かと思うと、イライザと将軍の位置が入れ替わっている。お互い背を向け合って。
 ノアは息を呑んだ。
 沈黙が訪れる。双方背を向けたまま動かない。
 背を向ける彼らの衝突したであろう、ちょうど真ん中には、血が落ちていた。その血痕はイライザの足元へとつながっている。
 イライザは自らのわき腹を押さえている。手の隙間から、血の赤が見える。
 ノアは起き上がり叫びかけた。しかし、激痛に、再び伏す。
 将軍はふ、と余裕あるように笑った。
「なぜ」
 イライザが震える声で尋ねる。
「二本の剣を使わなかったのですか」
 ヤカール将軍の腰には、もう一本の剣が鞘の中に入っている。抜きはしなかった。
「双剣こそ、あなたが最も得意とする剣術。なぜ……」
 イライザは振り向いた。
 彼女の持っている剣には、おびただしい量の血がついていた。
 将軍の足元には、イライザの傷口の血よりもはるかに多量の血が、今も、滴り落ちている。
 ヤカール将軍は渋い笑顔を浮かべたまま……横に倒れていく。
 彼の腹にはイライザの負わせた傷が深々とあり、倒れたときには、死んでいた。その死に顔は、何の未練もないような、かすかに笑っているようであった。
 イライザは彼を見下ろしながら、深く息を吸い、震えるように吐いた。
「父上……」
 イライザは強く目をつむる。睫毛の下には、光るものがある。
 ノアは痛ましそうに父子の姿を見ていた。
 ……誘拐されたとき、ヤカールが現れたことに、娘であるイライザは驚愕していた。なぜなら、イライザの父親は、重罪で国外追放処分となっており、もう二度と会えるはずがないと思っていたから。
 それがイライザの油断であった。ノアもまた油断していた。幼い頃、エリバルガ国へ遊学する際、一緒に旅したのは彼だったから。そして、その油断をヤカール将軍は見逃さなかった。
 ヤカール将軍は二人を捕らえ誘拐し――そして現在、娘の剣を受け、倒れた。
 イライザはさまざまな思いに、心中うちふるえているだろう。
 彼女の心を慮り、しばらく黙っていたかったのだが、ノアは傷の痛みに、ぐ、とうめき声を上げた。
「殿下!」
 すかさずイライザが駆け寄る。
 彼女はノアの傷の手当を始める。
「俺は……まだ大丈夫だ。その部屋の中に、おじいさんがいる。彼の方が重傷だ。そちらを早く……」
「ですが!」
「俺はまだ大丈夫だと言っているだろう。手当ての指示をするから、おじいさんを早く……」
 イライザはためらいつつも、部屋の中へ行く。血を布で止める、心の臓側をしばる、意識を確かめるなど、指示をしながら、ノアは伏しつつ音を聞いた。
 城中の人々の怒声、悲鳴。それらは一体となって轟音となり、言葉とはなってない。剣の音、地震のような揺れる音。死の音……。それらが耳からだけでなく、骨からも伝わってくる。
 これが自分の引き起こしてしまったことだ。
 なんとしても生きて戻らなければならない。これ以上の大きな戦争を阻止するために。それが、本当の皇子のとしての責任だと、ノアは決めたのだ。
 ノアは重圧に押しつぶされそうになりながら、痛みに耐え、パトリーはどうなっただろうと思った。
 ヴェラを食い止めていた彼女は今……。




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