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 第42話 異常(2) 


 時間は、パトリーが最初にノアへ食事を運んできた日にさかのぼる。
 ノアとの会話中に将軍がやってきて、パトリーは将軍に部屋を出るよう指示をされ、その通りに動いた。
 そしてパトリーは扉越しに、二週間後に裏門が開くとの情報を得た。
 その扉の中のことである。
「食事に不満は?」
 ノアはヤカール将軍がこんな世間話をしてくることを怪訝に思いつつ、小さく答える。
「……ないよ」
 自分は捕虜の身である。文句なんて言えるはずがないとわかっているだろうに……。
「そうですか。我慢を知っている方でよかった。これから、食事の内容は厳しくなるでしょう。それも二週間後までです。ちょうど二週間後の新月の夜、この籠城中のチーマの城に、ハリヤ国から援助物資が届けられる」
 ノアはヤカール将軍の目が、扉へ向いていることに気づく。
 食事のよしあしなんて、ノアに知らせる利点なんてない。特に、この将軍は無駄なことを話さない人物だと、ノアは知っている。
 わざわざ、話すべきだから、将軍は話している……?
「……どうやって」
 疑問に思いつつ、先を聞けば何かわかるだろうかと思い、慎重に問いかけた。
「秘密裏に裏門を開けるからです」
 将軍は少し声の音量を上げた。まるで、部屋の外に聞かせるように――
 それに気づいたとき、外にいるであろうパトリーへ、だめだ、と叫ぼうと口を開いた。
 だが喉の奥から言葉として発される前に、将軍はノアの口をふさぐ。
 抵抗するも、びくともしない。
 呼吸がうまくできなくて、意識が朦朧とする頃にようやく、ヤカール将軍は手を離した。
 ごほごほと、せきこむ。
 呼吸が整うと、きっと睨み上げた。
「将軍……! あんたは……!」
「彼女はあなたの婚約者だ。シュベルク国皇子の婚約者ならば、彼女にも責任はある。十年前、私を国外追放に処した皇家の一員として責任が」
 皇家、と口にするときだけ、将軍には感情が見えた。
「パトリーは関係ない!」
「いいや。……それとも本当に彼女を引きずり込みたいなら、全てを話しなさい」
 ノアはわなわなと唇を震わせる。
「彼女には関係ない……! 彼女を解放してくれ」
「……彼女は自らここへ来た。レジスタンスのスパイとして。その彼女に、レジスタンスの利となる情報を与えて、何が悪いと? 彼女を危険な目に遭わせているわけではない」
「俺を笑わせる気か。この前の夜、パトリーたちがこの塔に来たときも、俺が一緒に部屋を出て塔を出れば……俺と一緒に、彼女も殺しただろうに!」
 ノアは知っている。
 この将軍は十年、この計画のために生きていたようなものだ。
 その計画の要たるノア自身を、容易に逃がすはずがない。逃がすくらいなら殺すことを、わかっている。
 あの夜も、大声を上げてパトリーを追い払った後、将軍はすぐに現れた。それだけ近くにいたのだ。
「頼む……彼女を解放してくれ……」
「私はあなたと協力関係を望んでいる。だから、あなたがあれほど望むから、イライザも逃がしてやった・・・・・・・。婚約者と会える機会を設けてやった。これ以上を望むに足る、代償のカードはあなたにはない。あなたは無力な、ただの皇子だ」
 そのとき、将軍は険しい岩のような顔を少しだけ緩めた。
「あと二週間で全てはすむ。あなただって死なずにすむかもしれない。まさか、彼女に計画を明かしはしないでしょうね」
 それは疑問でもなく確認でもなく、絶対に当たる予言のようなものである。
「……わかった。計画には従う」
 ノアは散乱した食事を見下ろしながら、視線を合わせずに頼み事を言った。
「したがう。だからひとつ、ちょっとした頼みがある。最近、俺は眠れないんだ。死ぬかもしれないと思っているんだ、当然だろう? だから、睡眠薬をくれないか?」
 ヤカール将軍はノアを追及するような目で見る。
「本当にただ眠れないだけだ。……自殺なんてするつもりはない。したところで、この計画には何の支障もないだろう? 頼むよ」
 ノアは捕虜となる前よりやせている。それにあざも残っている。この生活は、安眠できるものではない。それくらい、将軍にもわかるだろう。
 将軍は沈思して、「わかった。後で渡そう」と許した。
 それから……パトリーが食事を運んでくるたびに、逃げてと、時に頼み、時に脅した。しかし聞き入れられなかった。
 何とか二週間のうちに、将軍には知られずに彼女を逃がそうと、ノアは頭を働かせていた。


「うーむ、困ったのう」
「何がですの? これは絶好の機会ではありませんの?」
 テオバルトはがりがりと自分の頭を掻く。さすがに、上半身裸ではなく、軍のトップとしていかめしい服を一枚、適当に着ている。
 チーマの城から離れた場所にある、レジスタンス軍の陣営だ。
 その奥にある作戦司令本部たるテントに、テオバルトとケートヒェンがいる。
 何度かの小競り合いの後、チーマの城は籠城戦に持ち込んだ。
 そこへ、隠し通路を通じて、ムツィオが知らせてきたこと……。
「二週間後に裏門が開く……ううむ」
「それくらいなら持ちこたえられますでしょう? それに、二週間もしたら、同盟を結んだシュベルク国軍が陸上して、戦力は倍以上になるでしょうし。大軍で攻められるなら、こちらの犠牲も少なく、制圧できますでしょう? 何が問題なんですの?」
「そうじゃなあ……」
 テオバルトは難しい顔をしながら、ケートヒェンに要領の得る答えを返さない。
 若いが、テオバルトはこのレジスタンスのリーダーとなり、何度も戦いを経験している。戦いを経ての勘が、何かを告げている。
「あの隠し通路……崩れたんじゃってな」
「え? はい。ムツィオさんが戻ってから、途中で岩崩れを起こしましたの。古い隠し通路ですから、そういったこともありますわ」
「ううむ……つまり、それを使っての奇襲は無理、ということじゃな……」
 ムツィオからその情報を得るまでは、その隠し通路を使って奇襲を仕掛けようと思っていた。その準備を整えているところで、こうだ。
 地形の書き込まれた綿密な地図が長方形のテーブルの上にある。
 テオバルトはチーマの城の上に、とん、と指を置いた。
「ううむ……」
 テオバルトはうなり続けている。
「何か……気になることが?」
「全部じゃ。どうも、体中が蚊にさされたような気分じゃ。むずむずする」
 テオバルトは顔をむう、としかめている。
「そんなに気になることはないと思いますけれども……」
「そう言われればそうかもしれんが……のう」
 とんとん、と指の腹で紙の上のチーマの城をたたいた。


 レジスタンスでは、来るべきチーマの城を制圧する戦いのため、各兵士には鍛錬に余念がない。
 オルテスは二十人連続で倒すと、休憩をしに、その鍛錬場を離れようとした。結んでいた髪をほどく。
 が。
「一つ、私と手合わせをしてくれませんか?」
 鍛錬場の出口にいるのは、イライザである。
 彼女はチーマの城から救出されて以後、激しい己に課した訓練により、めきめき前の実力を取り戻している。
 意識を取り戻して、彼女だけが助かりノアが救出されていないと知ると、すぐに自殺しようとしたが、ノアの言ったという『絶対自ら命を絶つようなまねはするな』という言葉を聞いて、思いとどまった。
「あなたに勝てるなら、前の力を取り戻したと自信が持てるのですが」
 ノアを助けるため、イライザは誰よりも鍛練を重ねている。
「今、あんたとする気分ではない」
 オルテスは彼女の横を通り抜ける。
 それをイライザは追いかけてきた。
「ついてきたって、やらないぞ」
「確認したいだけです。――過去へ戻るのですよね?」
 オルテスは足を止めた。
「どこで聞いた」
「私もさまざまな情報を得ることにかけては、昔取った杵柄きねづかがあります。具体的に言うならば、あなたが聖剣ハリヤを手に入れようとしている、という話を聞いただけなのですが、そこから推測して、ですね」
 夏風がそよぐ。このあたりは風がよく吹く場所である。
「別に何かをするという話ではありませんよ。むしろ歓迎しています。あなたが過去でもどこにでも行ってくれるのなら」
「どこまでもノアの忠臣なんだな」
「ええ。もういない過去の家族より、今いるノア様の方が、私にはずっと大切です。私は十年前、過去を捨てノア様のために尽くすと、そう誓いを立てたのです。何の未練もありません」
 言って、ちらりとオルテスを見て、焦ったように付け足す。
「まあ、これは私の話です。あなたが過去へ戻ろうとも、文句はありませんし、ありがたいかぎりです。あなたを殺さないようノア様に誓いを立てさせられたため、消去したくとも殺せないのですから」
 殺伐とした女だと、オルテスは思った。以前のような殺意は感じないが、敵意は感じ続けている。
「……気になっていたが、ノアと誘拐されたとき、共にいたのだろう? それだけの強い相手がいたのか?」
「…………。はい。あのチーマの城にいるはずの、ヤカール将軍という男が。私に隙があったこと、鍛錬が足りなかったこともありますが、彼は……強いです。間違いなく」
 イライザはきゅっと口元を引き締め、その時のことを思い出しているのか、つつ、と頬を冷や汗が流れていた。
 オルテスは彼女の強さは認めている。生かして捕らえるのと、殺すのと、難しいのは前者である。イライザを生きて捕虜にさせるだけの腕……生やさしい相手でないことは確かだろう。
 彼女に隙を作らせただけでも、実力が知れようというものだ。
「次は……あのような失態はしません。殿下を救い……必ず、あの男を、殺します」
 イライザの闘志は高まっているようだ。ノアを目の前で誘拐された屈辱、生きて捕虜にされた屈辱、それらを経ての数限りない屈辱、誇りを傷つけられた屈辱などが理由だろうか。
 彼女はノアさえ助かればいいのだろうと思っていたが、相手を殺すことも決意するとは、将軍はイライザをそれほど怒らせたのだろうと思う。何か因縁があるようにも見えたが、オルテスは追及しない。
 彼女が後ろ暗い部分を持つことは分かっている。へたに追及して再び殺意を抱かれても困る。ノアの言葉がなければ、本当に暗殺でもされかねないと疑っているくらいに、信頼感はない。ただその力だけは信じている。
 双方共にチーマの城を攻めるときには、味方側でよかったと思うことだろう。
「それでは私はこれで」
 イライザがそれで去ろうとする間際、付け加えた。
「ああ、そうでした。城から助けてもらったことは感謝しておきます。過去へ行くときも、お元気で」
 イライザはきびすを返し、鍛錬場の方へ向かっていった。
 オルテスは苦笑しながら別方向へ進む。
 人の密度の濃いレジスタンスのキャンプ地から離れた場所に、崖がある。
 森の中の坂道を行くと、急に空が開ける。岩が一つ置いてある向こうは絶壁の崖だ。崖はかなり高い。
 だが、ここから見える景色がとても美しいと、オルテスは知っている。
 到着し、岩に腰掛けると、ルースが降りてきた。
「お前はどうする?」
 オルテスはいつもの喧嘩するような苛立ったような言葉でなく、静かにこの鳥に尋ねた。
「おれが過去へ戻るとき、ついてくるか?」
 ルースはガラス玉のような目を向け、キ、と首を傾ける。
 そして空へ飛んでいってしまった。
 オルテスの髪を、崖へ向かって吹く風がさらう。一瞬嵐のように激しい突風があり、髪は空を舞う。
 ゆるりと髪は降りてくる。
 本当は……過去へ戻る確かな理由などない。
 ミリーがどうなったのか、オルテスは知っていた。
 リュインが聖剣ハリヤを取ってくるようオルテスに言ったとき、前報酬だと、ミリーの行く末だけは教えてくれていた。
『彼女は、ルクレツィアが即位したとき、探し出されて、玉座の前まで連れてこられました。ルクレツィアがあなたに激しい恋情を抱いていたことは、衆目の知る事実です。それが、あなたが事故死したからといってその感情や、ミリーへの嫉妬がなくなるとは、誰も思っていませんでした。誰もがミリーは殺されると思った中で、あなたの部下のヨナス=ポランスキーが前へ出て、許しを嘆願したのです。ルクレツィアは……あなたの死後の冥福を祈るような生き方を、ミリーには望みませんでした。それもまた嫉妬でしょう。
 だから、ヨナスに妻とするよう命じました。誰かの妻となれば、あなたが求婚したという事実を消せるとでも思ったのかもしれませんね。後は……語ることは少ないですよ。ミリーはヨナス=ポランスキーの妻となり……奴隷身分であったことは隠されて……夫婦仲はよかったようで、五人の子を授かり、孫の顔を見て、安らかに死んだと聞きました』
 リュインは知らなかったろう。
 それが、手に入れられるのなら、後は何もいらないくらいにオルテスが希求していた情報だとは。
 それを聞いて、一瞬、過去はどうでもよくなった。
 くびきとなっていた。
 ミリーが幸せとなることが、オルテスの背負っていた責任である。リュインの言ったような人生であったなら、彼女の恋したヨナスと結ばれ子供に恵まれ幸せであったというのなら、文句は何もない。
 一瞬、もう過去へ行く必要はないのではないか、と思った。
 いくらリュインが聖剣ハリヤを取ってこいと言っても、そんなことをする必要なく、ここで生きるのもいいのではないか、と思った。
 だが。
 やはり自分は過去の人間なのだ、と、タニア連邦へ入国し、草原を馬で駆けたとき、思った。
 同じ草原でも、空気も草も空も違う。
 あなたにとって、過去とは何なのだ、と問われたなら、オルテスはこう答えるだろう。
 地、だと。
 国でも家族でもない。そういった、覆ってしまう、ある意味自由を阻害するものではない。
 自らが歩き、走り、立つ場所だと。
 大地がなければ人は生きられない。己として立つことはできない。
 それを十分に自覚したとき、オルテスは、過去へ戻ることを望むしかないのだと、悟った。
 明確な理由はない。パトリーにミリーのことを半分しか話さなかったのは、ただただ帰りたいというこの欲求を伝える言葉を持ち得ず、でも、どうしても帰りたいのだ、ということを伝えたかったからだ。それにはミリーの理由は最適だった。
 理由はない。
 懐郷病と断じられれば否定するすべはないが、生やさしい欲求ではない。
 耐えられぬ欲望に近いもの。
 今なら、過去へ帰るため誰かを殺せ、と言われたなら、誰でも躊躇なく殺す。そう、たとえ妹と同じ顔をしたアレクサンドラだろうと、誰だろうと。
 この欲求に気づいてしまえば、オルテスに行くべき道はただ一つしかない。
 もし……過去へ帰れないと、今更言われてしまえば、もう立つことができないだろう。地を失うのだから。
 ……この自分の欲求がわかっているから、パトリーには……応えられなかった。ここにいることは、できないのだ……。
 オルテスは美しい景色を眺め見る。
 崖の向こうは、鬱蒼と茂る、動物の鳴き声、鳥の鳴き声の聞こえてくるような森が眼下にある。その森をまっすぐに大きな澄んだ川が通って、湖につながっている。焼き付けるように、その景色を見る。
 遠くから、オルテスを呼ぶ声が聞こえた。岩から立ち上がり、景色に背を向けた。


 ノアと将軍の会話から情報を得て、一週間後の夜である。
 パトリーは深夜、目を覚まして、汗は汗でも冷や汗のたぐいが額に流れていることに気づき、上半身を起こし、ぬぐった。
 見た夢は、以前海上で見たものと同じだった。
 オルテスが光の一つへ進み、ノアが闇へ消えてゆく。そして自分は、マレクや会社の社員に足をつかまれ、書類に埋もれ、追いかけられない。
 背筋がぞくっとする。
 暑すぎるくらいだというのに、寒気がする。
 あの夢が本当のことになる……なんて、考えたくない。
 別のことを考えようと思った。
 そう、会社はどうなっただろう。
 レジスタンスと食糧の貿易は成功し、足りなかった金は足りているだろう。それにしても問題はある。取引停止など、会社は大変な目に遭っていることだろう。
 マレクなら……やってくれると信じている。
 彼はイメージ戦略上のパフォーマンスをするのは苦手だが、こつこつと地道に勤勉に働く人だ。会社はパトリーが社長として取っていた、派手に人目を惹きつけて仕事を取る方法はせず、軌道修正をするだろうが、マレクならマレクなりに……やってくれるはずだ。
 それでも、内実を知っているために、どうにもさまざまなことが不安になってくる。
 もうどうせ社長でないのだから考えても無駄だとわかっているのだが、どうしてもいろいろと考えてしまう。
 考えると、会社に対する焦りや不安が芽生えるが、どこか安堵する気持ちも生まれる。
 パトリーはどれに対して逃避しているのか、時々わからなくなる。
 彼女が貿易業を始めたのは、結婚をしたくなくて、違う人生を選ぶための逃避の手段だった。
 今も同じなのかもしれない。
 オルテスから受けた打撃や、ノアの命に迫る危険を考えることから、逃げ出したいのかもしれない。それから、自分の未来に。
 この張り詰めた情勢は、パトリーの心なんて関係ないところで動いている。
 放り出して泣きたい今、その代わりに会社のことを考えてしまっているとわかるから、この逃避方法に慣れて安堵する自分に、少し自己嫌悪に近いものが生まれる。
 それでも現実を見なければならない。明日の朝食時こそはノアをなんとか説得しなければ。
 寝言が聞こえた。隣のベッドに眠る、同じメイドの一人である。ぐっすりと眠る彼女を見て、パトリーは再びベッドに横になった。
 それが、この城でパトリーが眠る、最後の夜となった。

 暁よりも早く、まだ太陽の光が空に差していない頃、
「敵襲!」
 という声が、チーマの城に響き渡った。
 ムツィオがレジスタンスに伝えた、この城に奇襲を仕掛けるのに最適だとされた日より、一週間早い日のことである。
 異常、極まれり、夜明け前である。




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