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第42話 異常(1)
ノア救出作戦は、失敗に終わった。
城内にはパトリーと学者のムツィオが残る。彼らが何もできずにいる間に、レジスタンスは着実にこのチーマの城に近づき、とうとう戦争が始まってしまった。
レジスタンス軍と、チーマの城との戦い。それは大きな戦争とならず、小競り合いの後、籠城戦へもつれこんだ。
もはやムツィオは外に出られず、レジスタンスと連絡も取れない。
城内は人がどっと増え、メイドであるパトリーも忙しくなる。ノアへ近づくどころではない。レジスタンスと情報がつながらないから、どうしたらいいかわからない。
となれば、パトリーはメイドの仕事をこなすしかない。
その日もまた、メイドとして朝早くに目覚め、いつものように仕事の準備に取りかかろうとした。
ところが、その日は違った。
朝起きたばかりのメイドが広間に全員集められたのだ。
みな困惑している。
並んだメイドの前に立ったのは、ヤカール将軍である。
彼は何も言わず、並んだメイドたちを見つつ、その間を歩く。
ぴたり、と足が止まったのは、後方にいたパトリーの前である。
「来い」
心臓がぐっと握られた気がした。
「あ、あの、あたしは……!」
「来い」
将軍はすべてを――パトリーがレジスタンスのスパイであり、一度ノアを救出しようとしたことも――見透かすように見る。
他のメイドは顔を見合わせながら、パトリーと将軍が行くのを見ていた。
向かったのは、北の塔だ。
パトリーは思わずごくりと唾を呑む。
殺されるのだろうか、そう思いながら、北の塔の階段を登る。
おかしいことに、一度ノアを助け出そうとしたことを知っているはずなのに、北の塔の警備は厳重になった様子もない。そういえば、メイドの間の情報網にも、そんな不審人物がいたという噂は流れていない。
首を傾げるどころではなく、異常と言うほどのことだ。
将軍の後をついてゆき、ノアが捕虜とされている部屋の前まで来た。
ここにもまた、異常なことがあった。
以前いた、扉の前にいた兵士たちが誰もいない。つまり、見張りの兵士がいないのだ。
ヤカール将軍は扉を開ける。
鍵も使わずに、簡単に扉は開いた。
パトリーは目を疑った。まさか、ノアは別の所へ移動させられたのか――そう思ったが、部屋の中にはノアがいた。
将軍は部屋へ入ってゆく。が、思わずパトリーは部屋の前で立ち止まった。
先日、自殺をすると脅されてまで、入るな、と言われたからだ。
ノアを見ると、彼はこわばった顔でパトリーを見ていた。彼はふいに顔をそらした。
将軍が、入れ、と促す。
パトリーは恐る恐る部屋へ足を踏み入れる。
部屋には粗末なベッドと小さなテーブルと一脚の椅子くらいしか物はない。テーブルの上には、壊れていない水差しがある。
ノアの顔のあざは、以前よりも薄れている。
彼はパトリーなんて知らない人だと言い張るように、顔を向けない。パトリーも、なるべく知らないふりをした。ここで知り合いだとばれれば、どうなることか……。
将軍は口にする。
「本日から、皇子の食事を運んでくる役目は、彼女となりました」
頭を下げろ、と将軍が目で言うので、パトリーはメイドらしく頭を下げる。
食事を運ぶ役目なんて、今までずっと違う人がしていたはずだ。なぜ、自分にその役目が……そう思いつつ、
「よろしくお願いします」
と口にした。
これは悪いことなのか、幸運なことなのか――とりあえず、ノアと接触する機会を得たということである。
近づき、ノアと話す機会があるのなら、救出する方法だって、まだどうにかなる。道は見える。
パトリーは幸運と受け取っておき、頭を下げ続けていた。
その前で、ノアが、ぎり、と歯ぎしりしたことを、知らなかった。
厨房から朝食を運びに行くと、パトリーの前にノアへ食事を運んでいたというメイドから、少し注意を受けた。
ノアは凶悪な犯罪者だとされていたらしい。だがいろいろ上の方との折り合いなどがあり、北の塔に閉じこめていると。
だから、姿は普通でいい人に見えるけど、油断してはいけない、何を聞かれても何も話してはいけない、と忠告を受ける。
「それにしても、私は何かしたかしら。お役ごめんになるようなこと、したつもりはないのだけど……」
首を傾げている彼女を適当にあしらい、朝食を持っていく。
北の塔を登ると、やはり扉の前には誰もいない。そしてこれもやはり、扉にも鍵はかかっていなかった。
ノックをして開けるとそこには、苛立つノアがいた。
「どうしてまだここにいるんだ!」
「しっ! どこで誰が聞いているか……」
パトリーは料理をテーブルに置きつつ、焦ってきょろきょろと周囲を見回す。
「誰もいないよ。見張りも、兵士も。この北の塔には誰も」
「どうして?」
「俺が逃げないってわかっているから」
ノアは当たり前のような物言いをする。
パトリーには理解できない。
「ねえ……どんな逃げられない理由があるの? あたし、何でもするから……」
「じゃあ、俺と結婚してくれる?」
ノアは笑いながら軽口を叩く。
思わずパトリーはノアの頬をはたいた。
「本気であたしは言ってるのに……!」
横を向いた彼の頬は、パトリーによって赤くなったもの以外に、あざが残っている。それに気づくと、パトリーははっとして近寄り、ハンカチを水差しの水で濡らし、当てた。
「ごめんなさい……!」
「いいよ。冗談だから。たとえ受けてくれたって、今の俺は出て行かないしね。……あ、冷たくていいな、これ」
ノアはどこまでも悟ったように軽く笑っている。
「……もう、いいんだ。皇子として生まれ……そして、皇子として憎まれ殺されるのも、俺の役目なんだ」
水は流れ落ちるのだ。人はいつか死ぬものなのだ。そう言うかのような、諦念の観がある。
パトリーの顔が歪む。助けたいのに、どうしてそんなふうに諦めるのだ。どうして自分の命を大切にしてくれないのだ。
口をきゅっと締めて、目からぼろぼろと涙が溢れた。
「え! パトリー……!?」
ノアは慌てて手を動かしつつも、泣き続ける彼女に触れられない。
「どうして……どうしてそんなに簡単に、ノアも……オルテスも……いなくなろうとするのよ……!」
簡単に、この世界を捨て去る。未練などないように。
未練がないのはこの世界? それとも自分に?
悔しさを超えたやるせなさが、パトリーの涙を止めどなく流れさせた。
「オルテス……? あいつがどうしたんだ?」
「……ふられちゃったわ」
できるだけ重くならないように、ぎこちなく笑う。
ノアにこれを言うのは酷いと思う。
けれど、嘘を言って隠すより、まだいいと……思った。ひどい女だと思われ、嫌われてもいい。
ノアはしばらく黙っていたかと思いきや、パトリーに、
「辛かっただろう?」
と慈しみの声をかけた。
虚を突かれた。
「辛くて落ち込んで……寂しいよね。我慢していたんだろ? よくがんばったよ」
パトリーの心は石ではない。
どんなことにも負けたくないと思っている。だけど、そうありたいと思う時点で、そうではないのだ。
優しいいたわる言葉に、揺れ動かされない冷たい鉄壁の心を持ってはいない。
それでも流されてはいけない、と背を向けた。
「そんな……慰められる資格は、あたしにはないわ」
「そんなことはないよ。俺がパトリーを好きなだけなんだから」
「だって、あたしは……ノアに恋してない」
結婚を承諾したのも、会社のためだった。彼の純粋な想いに応えるには、自分は利己的すぎた。
ノアのあかるく笑う声が聞こえた。
「それでも、俺はパトリーが好きだよ」
「前に勢いでしたことは釈明の余地はないけれど」と苦笑しつつ、彼は優しいひだまりのように言葉をかけた。
いつの間にか、涙は止まっていた。
「どうして」
パトリーは涙をぬぐいながら、振り向く。
「どうしてノアはあたしのことが好きなの?」
ノアはその核心をつくような問いに困っているようだった。
「具体的に理由を訊かれるとね……たった一つの理由、ってわけじゃないよ。そうだね、でも、あえて一つあげるなら、逆説的だけど、こうして俺を助けに来て、ここにとどまってくれるところかな」
ノアの表情に、一瞬だけ不安と恐怖が覗いた。
「俺は……もう、自分が死ぬことも、覚悟、してるつもりだけど……ちょっと……やっぱり怖いんだ。だから、こうして会えて、話ができたことを、よかったと思う自分もいる。でも、もうこれで未練はないから。パトリーは帰るんだ」
「そんなことできないわよ!」
彼女は彼の腕をつかむ。
「できるわけがないじゃない! これが逆だったら、ノアはあたしを見捨てる?」
「それとこれとは違うよ」
「違わない。病気だったあたしを、厚く看病してくれたわね。いろいろと……たくさん迷惑をかけたけど、一緒にいてくれたわよね」
楽しいばかりの旅だったとは言い難いけれど、ノアは裏で何も見せないようにしていたけれど、それでもこうして思い出すと、優しく語り合って微笑むことのできる記憶だ。
恋してはいないけれど、見捨てられる他人ではない。
恋ではない。単純な友情でもない。では何と言えばいいのかわからないけれど。
「約束したわね。あたしの足が治ったら、一緒にダンスを踊ろうって」
ノアは郷愁に誘われるように顔を歪ませ、視線をそらした。
「いくらだって踊ってあげる。ワルツも、知らない踊りだって、一晩中だって。だから、だから、いかないでよ……」
いってほしくない。
手の届かないところに、いってほしくない。
オルテスと重なる。
彼のことだって整理がついてはいない。再び会える機会があるなら、浅ましくすがりついて引き止めてしまうだろう。振り返らないと知りつつも。
オルテスに対し、いつ離れるかという不安が時折かすめても、ノアにそんな不安は抱かなかった。
ノアは、ずっと一緒にいる人だと思っていた。
離れても、再び簡単に再会できると、なぜか信じてしまう人だ。
その彼が自らの近い死を語るなんて、世の無常どころではない。
足下が崩れ去る。
「いかないでよ……!」
彼の腕を強く握った。
ノアは辛そうに顔をうつむかせた。
「……ごめん」
『すまない』
重なる。
パトリーは思わずノアの胸をたたく。
「どうして謝るのよ……っ」
どうして二人とも謝るのだ。
謝られることなんて、望んでいない。望んでいるのは、別のこと。
いかないで。ただそれだけ。
パトリーは弱々しくノアの胸をたたき続ける。
ノアはそれを止めようとせず、身に受け続けた。
どんどんとパトリーの手は弱まり、ノアの胸の上で、止まった。
再び泣き始めたパトリーの肩から背にかけてをなでながら、「ごめん」と再びノアは言う。
パトリーは首を振る。
そんな言葉がほしいんじゃない。
それでもなでる手は彼同様に、温かさと優しさに溢れている。
二人に沈黙が訪れてしばらくして、扉を叩く音があった。
パトリーは慌てて離れ、涙を払った。
扉が開くと、そこにはヤカール将軍がいたのだった。
躊躇なく入ってきた彼は、こわばった顔のノアの前に立つ。そして、ちらりとテーブルに置かれた食事にその炯眼を下ろす。
「食事がまだなら、どうぞ食べてください」
ノアは警戒しつつ、椅子に座り、冷めてしまった朝食に手を伸ばす。
壁際にいたパトリーに将軍が目を向ける。どきっとした。
将軍は顎を上げ、出て行け、と示した。メイドのパトリーはノアを心配そうに見つつも、出て行くしかなかった。
扉を閉めると、中から将軍の声が聞こえた。
「食事に不満は?」
「……ないよ」
「そうですか。我慢を知っている方でよかった。これから、食事の内容は厳しくなるでしょう。それも二週間後までです。ちょうど二週間後の新月の夜、この籠城中のチーマの城に、ハリヤ国から援助物資が届けられる」
「……どうやって」
籠城とは、城を封鎖しているということだ。敵も入ることができなければ、援助物資を持った味方も入れない。
「秘密裏に裏門を開けるからです」
パトリーはごくりと唾の音が鳴るのを、こらえた。
とても大きな秘密情報である。
裏門が開くということは、敵対しているレジスタンスも、そこを狙えば、簡単にチーマの城を制圧できるのかもしれない。ノアの身も、助かるのかもしれない。
将軍は捕虜のノアに言ったところで、どうにもならないとでも思ったのだろう。
パトリーは扉から耳を離すと、静かに廊下を歩き、階段を下りていった。
そして、何とか機会を作り、ムツィオに会った。
ムツィオにこの情報を話すと、目を輝かせた。
「なんと! ならば、これをレジスタンスに知らせれば、城は壊されずにすむかもしれんのじゃな!」
どこか斜めを行くのがこのおじいさんの特徴だと、パトリーは慣れていた。
「けれど、現在籠城中で……ムツィオさんも外に出られませんよね……」
「うむむ……となると、これを使うしかないかの……」
そう言いつつ、ムツィオは歴史学資料室の床を見る。そこには丸い彫刻のある石がはめ込まれている。
そこはオルテスたちが通ってきた、外へ通じる隠し通路だ。
しかし、その通路は長い。この通路を通っている間に城にいないことがばれれば、面倒なこととなるだろう。
じゃああたしが、と言おうとする前に、
「ならわしが行こう」
とムツィオが宣言した。
「大丈夫……ですか?」
ムツィオの背は大分曲がっているし、あごひげも腰ほどに長い。
そんなご老体に無茶は禁物であろう。
「なんじゃ! わしを見くびるな。わしはハリヤ国の歴史的文化遺産のためなら、たとえ火の中水の中と、諸国漫遊したものじゃ。それよりメイドの方が、いなくなったことがばれやすかろう。このジジイ一人いなくなったところで、誰も気にせんわ」
とパトリーの心配を押し切り、ムツィオは隠し通路の穴へ入っていったのだった。
パトリーははらはらとしながら、二日待った。
二日経つと、ムツィオは元気に帰ってきたのだった。
この老人が言うとおり、誰もムツィオの身を気にした様子はなかった。何でも、研究のために何日も部屋にこもったことが何度かあり、そんなときは食事を外に置いておかせ、部屋へ入ることを許さなかったそうだ。周囲は今回もそれと同じものだと思ったようだ。
「ちゃあんと、レジスタンスの者に伝えたぞ。これで安心じゃなあ。二週間後が楽しみじゃ」
ほくほく顔でムツィオは言っていたが、パトリーはどうにも、何かに首を傾げたくなる気分になるのだった。
その何かを追及したくて考えていたが、それでもパトリーにはわからなかった。
ノアへ食事を運ぶごとに、「死ぬなんて言わないで。逃げられる。助かるから」と言ったのだが、ノアはいつも、達観するように首を振る。
それも、不思議で異常なことの一つだ。
結局ノアは、なぜ以前の救出計画のときも出てこなかったのか、明かさない。
ノアはノアで、「とにかくパトリーは脱出して」と言って、二人の話は平行線を辿る。
ヴェラとはち合わせをすることはなかった。それは運がよいことなのか何なのか。
とにかく二週間後を待ちつつ、どうにもパトリーは周囲に膜が張られているような、落ち着かないような気分を味わい続けた。
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