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第40話 ノーブレス オブリージュ(3)
夜に作られたキャンプ地は、森の近くである。
夏草がおいしげり、膝丈まで草がぴんと立っている。その丈は、森へ近づけば近づくほど高くなり、腰よりも高いものとなっている。
遠くから見たら麦畑のようにも見える。
昨日雨でも降ったのか、草には水滴がついていた。小さな虫もしがみついている。
オルテスは森へ向かって歩いていた。そのすぐ後ろをパトリーが歩いていた。
寂然たる場所である。
レジスタンスの人々の声も聞こえない。
ルースも、テントで眠っている。
いるのは二人だけである。
森の奥は濃い闇が広がる。静かさが不気味で、パトリーはそれを壊した。
「静かすぎるわね」
オルテスが立ち止まった。
彼の顔を照らすのは、青ざめた月だ。
パトリーはことさら場の空気を明るく軽いものにしようと、肩をすくめた。
「もうこのあたりでいいんじゃない?」
本当は……怖かったのだ。
このまま森の奥、知らない場所へどこまでもいつまでも、行ってしまうのではないかと。
まるで御伽話のように、森の奥へ進むと、別の世界へ行ってしまう……そんな空想が働いた。
それを望んでしまえるのなら、きっとパトリーはここにはいなかった。
腰よりも高い草が風に揺れ、くすぐったい。
「きれいに空が見えるわね」
藍色の夜空に、鮮明に月がかかっている。
「明日……行くんだな」
「ええ。明日の、日が昇る前に」
パトリーはチーマの城へ向かう。
テオバルトは言っていた。現在の状況から予測するに、レジスタンス軍は、チーマの城を攻めることがありえる。だから、身の危険は、かなりのものとなる。それでもいいのか、と。
パトリーはそれに頷いた。
「……スパイだと発覚したとき、どういう扱いを受けるか、わかっているか?」
オルテスは草のてっぺんにしがみついている虫を見ながら、厳しい顔である。
「相手方は、情報を得るために何でもするだろう。捕らえられるのは当然として、目を覆いたくなるような拷問も、もちろん死ぬことも――」
はっと彼はパトリーを見る。
「すまない。怖がらせるつもりはなかった」
「……わかっている、わ。所詮あたしは素人だから、無理をしないように、とも言われてる。あたし自身、いつだって十分注意を払い、あくまで手に入れられるだけの情報を手に入れようと思っている」
夏草はいきいきと命の花を咲かせているかのごとく、身をしならせている。
「やっぱり、おれが止めたところで、止めないようだな」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
「パトリーが選んだのだろう」と、オルテスは視線を外して続けた。
「……オルテスの、聖剣ハリヤの方は……どうなの?」
「かんばしくない。いまだ情報はゼロに近い。正直、困っている。一刻も早く見つけたいところなんだが」
パトリーはうつむく。
「そんなに……早く、過去へ戻りたいの……?」
「心配するな。パトリーがいない間に、勝手にさっさと帰ったりはしない。パトリーが帰ってくるまで待っているさ。挨拶一つなく、帰るなんてまねはしない。もう二度と会えないんだからな」
もう二度と、とパトリーは口の中で呟く。
遠い草むらの中に、かすかな小さな灯が見えた。
「なんだ?」
オルテスは音をたてないよう、静かに近づき、背を丸めて何かを取った。
パトリーも近づくと、彼は両手で何かを覆い持っている。顔を近づけると、彼は手をほんの少しだけあけ、中を見せた。
そこには、光る虫がいた。
ほんわりと柔らかな光である。
オルテスの手から、慎重に、パトリーの手へと移された。
二人は微笑みあった。
緑に近い黄の光が、二人の顔を照らす。
「きれい……」
「ああ」
こうして、こんなふうに話すことも、もうあと少しなのだ。
そう思うと、パトリーは思わず口にしかける。
「ここに、いて……」
パトリーの小さな言葉を聞き取れなかったのか、それとも意味を判じかねたのか、
「何?」
と問い返されると、
「……ううん、なんでもない」
パトリーは大きく息を吸う。
そして手の中にある幻想を、手放した。
薄くはかなき灯が、ゆらゆらとさまよっていった。
――チーマの城は、堅固な城である。何百年もそこにあり、ハリヤ国の地理的な面からも要所である。それは現在も。
上から見ればだいたい四角の形をしたその城は、角に当たる部分に高い塔がある。
石造りのその城は、歴史上数々の悲喜劇を生み出し、過去数えきれぬほどの人間が、その城の主に忠誠を誓った。
そして現在の城主は、その城を焦りながら走っていた。
「ヤカール将軍! どこにいるのじゃっ!」
城主はきらびやかな耳飾り、首飾り、腕輪を身につけていたが、いかんせん体が貧相なばかりに、身につけられている印象を、多くの者が持つ。
「――いかがなさいました」
きょろきょろ探し回っている主の前に、長身の貫禄のある男が立った。
頭に髪はなく、年は四十を超える。しかし、彼の肉体に衰えは見えず、身につけた鎧は体に馴染んでいるようでもある。そして眼光の鋭さは、経験の浅い若き者に持ち得ないが、それもまた衰えてはいない。老いた人と言うには、いささか精神・肉体共に、まだ早いと言えた。まさに、熟した男、と呼ぶに相応しかろう。
貧相で背の曲がった城主と並ぶと、さらに城主の貧相さが引き立つ。
「ヤカール将軍! 探しておったのだぞ!」
城主は敬意を表して、ヤカールを『将軍』と呼ぶ。ハリヤ国の上層部から授けられた階級ではなく、このチーマの城の、将軍という意味である。
「何かございましたか」
ヤカールの声は、かなり低い。
「それがなっ、ハリヤ国の上層部から、急に手紙が来たのじゃっ! ホラ、捕らえておる、シュベルク国の皇子がおるだろう? ウチの領地に入り込んだから捕らえた……」
「はい」
「それが、シュベルク国から、『その皇子はタニア連邦にいたはずで、ハリヤ国のチーマの領地にいるはずがない』と、そう言ってきおったそうで、ハリヤ国上層部は、我に確認を求めて来たっ。ど、どうすればいいのじゃ、ヤカール将軍」
ヤカールは引き締まった顔の表情を変えない。
「案ずることはありません。シュベルク国が難癖をつけただけでしょう。お館様は胸を張り、そのようなことはない、とつっぱねればよいのです」
「そ、そうだよなっ、堂々としていればいいよなっ。それに、ヤカール将軍たちが、捕らえたのだものな、わざわざ、タニア連邦から皇子を誘拐するなんてことないよな。ははっ。シュベルク国め、驚かせやがって……」
城主はシュベルク国や、さらには伝えてきたハリヤ国にまで悪態を吐く。気の済むまで言い散らすと、ヤカール将軍を信頼の目で見る。
「やはり、頼もしいな、ヤカール将軍。十年前から我の部下としてあってくれて、本当に頼もしい……。お前はシュベルク国出身だが、我の最も信頼する部下だ。ハリヤ国の人間は、やはり信用ならん。ヤカール将軍のような部下がいてくれれば、何も心配はない……」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
人形のように頭を下げる。
「では、すぐさま、ハリヤ国上層部へ返信をしなければっ。返事が遅くなったからって、叛意ありととられては、たまらん、たまらん」
と、焦って城主は走っていった。
ヤカール将軍はそれを見送りつつ、視界から消えれば、すぐに興味を失ったように別方向へ歩き始めた。
軍靴の音が石造りの城に響く。
彼は少し足を止まらせた。
窓から下を見ると、赤みのある黒髪の女が連れられて、城内へ入ってこようとしている。
別段、珍しいことではない。城は広く、侍女の数も百を超える。減ることもあれば、増えることもある。新たな補充として、紹介状を持ち、どこかの田舎から来たのだろう。
ただいつもと違うのが、その女の髪が、男のように短かったことであろうか……。
ヤカール将軍はそれを見下ろし、彼女が城内へ入ったと同時に、再び歩き始めた。
十年、彼はここにいる。城内で迷うことはない。
一角の塔を登り、とある部屋の前へ来た。
扉の前には二人の兵が見張っている。
彼らはヤカール将軍の姿を認めると、その扉の鍵を開けた。
半円の部屋に、一人、椅子に座る男がいる。
男の顔には殴られたようなアザがあり、ヤカール将軍を見ると、椅子をならして立ち上がった。
「……大人しく、言うことを聞いて静かにしていれば、ヴェラや他の者に殴られずにすんだだろうに」
ヤカール将軍の目の前にいる囚われの男は――ノアは、敵意を向けていた。
「イライザは無事なんだろうな」
ヤカール将軍は扉を閉めた。
長期間にわたる拘束、護衛の安全が保証されない現状。
ノアはもはや耐えられそうにないようである。
「……文句を一言でも口にすれば、勝手に逃げだそうとすれば、ますますヴェラたちは殿下への暴力は歯止めを失う……。あなたはここで死にたいか?」
「俺に言うことをきかせたいのなら、イライザを解放しろ」
ヤカール将軍はシュベルク国皇子を見る。彼の炯眼に、ノアは屈しない。
「……あなたに大人しくしてもらわなくては、計画に支障が出る可能性がある」
「計画?」
「この十年、待ちに待った計画だ。駒として、ぜひあなたには参加してもらう……あの方のために」
そうして、ヤカール将軍はノアに、おそるべき計画を話し始めた。
――パトリーがチーマの城に潜入した日と、同じ日のことである……。
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