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第40話 ノーブレス オブリージュ(2)
*
ちらちらと影と日差しが交代に現れるような木の下で、現在のパトリーは頬杖をつきながら、物思いにふけっていた。
そのとき、パトリーの目の前に、パンとスープ皿が上から現れた。
「ほら、食べてないだろう」
オルテスが後ろに立っている。
「ありがとう」
パトリーは少し注意深く、パンを食べ始めた。
オルテスも隣に座り、パンをむしり始める。ルースがスープにくちばしをつけている。
――結局、大量毒殺未遂のことがあり、休憩時間は大分長引いている。
「……昔のことを思い出していたの」
ぽつりとパトリーが言うと、オルテスはからかうように笑った。
「昔、だなんて、年寄りみたいな言い方だな」
「揚げ足をとらないでよ。……いろいろ、後悔することが多くて、やになっちゃう。そのときは最善だと思っていたんだけどね」
「どんなことも最高の答えを導き出せるなら、人生はつまらないさ」
「……そうね」
結婚はしない――そう言い切ったときのパトリーなら、その二年後、ノアとの結婚を承諾したことを、信じられなかっただろう。あのときの自分なら、こんな未来を想像していなかった。
「世の中は、うまくいかないことも、多いけれど、辛いことも、後悔することも、あるけれど。全部投げ捨てたり、腐っちゃだめよね」
オルテスはパンを食べるのをやめた。
「……ノアはチーマの城にいるらしいの。……あたしはそこへ潜入して、ノアを助けるために動くことに決めたわ」
ヴェラがチーマの城にいるかもしれない……あの、憎しみが全身を包み、毒殺をもいとわない彼女が。となれば、ノアが今生きている、と言われても、彼女の危険さを身をもって知っているパトリーには、ノアたちの命の猶予がないように思えた。彼女はパトリーだけでなく、シュベルク国、そして皇家を憎んでいるのだから。
パトリー自身の能力など、そんなことを言っている場合ではない。できることがあるなら、しなければならないと思った。
すでにテオバルトには決断を伝えてある。
パトリーは決意をし、大きめにちぎったパンの最後のひとかけらを口に放りこんだ。
「そんなにあいつのことが……」
オルテスはぼそっと呟いた。
「? 何?」
「いや……。おれが止めたって聞かないだろうしな。シュテファンはどうするんだ?」
パトリーは肩を震わせた。
「……関係ないでしょ」
「あるだろう。兄妹なんだ。……命の危険だってあるんだろう。何も言わずに行くつもりか?」
「…………」
「憎いか?」
切り込むようにオルテスが問う。
「憎いわよ!」
パトリーも間髪入れず、答える。
道具だと言った兄、信じていた心を裏切った兄。
オルテスはほのかに笑い、ゆっくりと指摘した。
「本当に憎んでいる奴は、そんな泣きそうな顔で言わないものだ」
言われて、パトリーははじめて、自分がくしゃくしゃの顔で、唇を震わせ、瞳が潤んでいることに気づいた。
「本当は、全然憎んでいないんだろう? 今だって慕っているんだろう?」
悔しい、と思った。
オルテスの言うとおりだからだ。
あんなことを言われ、傷ついて、それでも憎めない自分が、いやだ。
でも、十六年、きょうだいとして育ち、慕い続けていた。優しさがあると思っていた。
憎もうとしても憎めず、それが、どうにもならなくて、嫌だった。
「……っ、だって、シュテファン兄様は、あたしのこと、道具にしか、思ってなくて……あたしは、兄様の望むとおりにできなくて、兄様が喜ぶと分かっていても結婚をしようと思えなくて……妹として情けなくて……」
パトリーは膝を抱えて顔を伏せた。涙声である。
「道具としてでも役立てないと思うと、もう……憎むしかないじゃない……。決別するしかないじゃない……。それでも、憎めなくて……」
とりとめのないパトリーの泣きながらの言葉を聞きながら、オルテスは彼女のくせのある髪をなでた。
「……感情なんてな、思い通りにゆかないものだ……。どうしたって、憎めず、想ってしまう人間はいる……」
小さく丸くなっているパトリーの頭をなでながら、オルテスはゆっくりと、そしてしっかりと告げた。
「シュテファンとちゃんと話せ」
「だ、だって……シュテファン兄様は、あたしのこと……」
「その妻のシルビアが、言っていただろう?」
パトリーは顔を上げた。涙がいくつも頬をつたっている。
「シルビア義姉様の話って……あんなの、嘘に決まっているじゃない……。あんな、ばかな話」
「人間はばかなことをするものだ。なら確かめればいい。ちゃんと本人を前にしてな」
「でも……」
まだ言うか、という様子でオルテスは息を吐く。
「そういえばな、シュテファンは使者としてこのハリヤ国へ来たそうだ。シュベルク国とハリヤ国で、もうすぐ戦争が始まるだろう。その件でな、シュベルク国とハリヤ国レジスタンスが手を結ぶために。……ところが、うまくいっていないそうだ。戦争時での使者、というのはこういうとき、どういう扱いを受けるか分かるか? 最悪、首を切られることだってある……」
途端、パトリーは立ち上がり、走った。
それを見送りながら、オルテスは苦笑していた。キ、とルースが空であかるく鳴いた。
毒殺騒ぎで、人々は浮き足立っていた。
パトリーはシュテファンと会った仮設テントのあたりを見回したが、彼はいない。焦りながら、幕を上げたりして周囲を探し回った挙句、ハリヤ国独特の木にもたれ、葉巻をくゆらせているシュテファンを見つけたのだった。
パトリーは躊躇なく近づき、彼の手を取った。
「逃げてください!」
シュテファンは葉巻を口から離し、
「……なんのことだ」
「とにかく、急いで逃げてください。騒ぎのあった今なら逃げられますから、早く」
パトリーはシュテファンの手を強引に引っ張る。
シュテファンは数歩引かれ、そして立ち止まった。
「なぜ私が逃げる必要がある」
「殺されるからです! 使者として交渉に失敗したのなら……」
「失敗? 私が失敗しただと?」
強く引っ張っていたパトリーは力を抜き、視線を上げた。
この私がか、と言いたげな傲慢さのあるシュテファンである。
「……失敗していないんですか……? じゃあ、殺されない……?」
「このレジスタンスがだまし討ちするつもりでなければな。ここの連中が、シュベルク国を敵に回すことはあるまい」
呆気にとられていると、オルテスに対して怒りが湧いてきた。誰が、嘘は吐かない主義だ。
シュテファンは葉巻の火を消し、靴で踏みにじった。
「なぜお前がここにいる」
「……それはこちらが訊きたいことです。なぜシュテファン兄様が使者なんて」
その兄と妹の会話には、冷たさが走っている。
「シュベルク国の貴族としての責務だ。戦争への参加は、貴族に義務がある。まさかお前は、殿下を救出に、などと思ってはいないだろうな」
シュテファンは冷徹な目で見下ろしている。
パトリーは緊張しつつ、探るように見上げる。
この兄の本音は、どこにあるのか。
唾を飲み込み、パトリーは勇気を出して、試した。
「シュテファン兄様……あたし、実はオルテスと結婚したんです」
早口で言い放つ。
「ランドリュー皇子と結婚を強制されるのに疲れて、してしまいました。みんなに秘密で。あたしはアラン派ですから、離婚もできません。これで、クラレンス家の娘として、役に立つことはできません」
言って、パトリーは見上げて兄の顔を確かめられなかった。
どくんどくん、と心臓が高鳴る中、シュテファンの対応を、長く待った。
頬を殴りつけるだろうか、怒鳴り出すだろうか……。
木の葉が何枚も落ちるほどの時間を待つと、彼の手が伸びる。
顔の位置までのぼり、その手が下ろされたのは――肩だった。
「おめでとう」
あまりにもあっけないその兄の声を聞いたとき、パトリーは思わず顔を上げ、影の中にいる兄の顔を見た。
この、人は……。
パトリーは額に手をやり、シュテファンからたたらを踏むようにして離れ、ひなたに出る。
「そんなわけ、ないでしょう……! 嘘に決まってるでしょう! どれだけノアに対して失礼なことか、分かっています。そんなやり方、するわけがないでしょう……!」
この人は……!
パトリーは歯を強く噛みしめる。
「シルビア義姉様の推測通り、というわけですか……。信じられません……」
義姉は言った。
『おそらくシュテファン様は、パトリーさんを、と言うより他の妹さん方も、結婚させたいのではなくて、結婚させることで、この家から追い出したいのです』
つまり……相手は誰でもよかったのだ。
とにかく結婚させれば。
「身勝手です! 身勝手すぎて……」
パトリーは顔を背け、やりきれないような表情で、あえいだ。
「そんな愛、誰にも伝わるはずがない……!」
落ちてくる木の葉が、くるりくるりと回って、舞った。
『結婚させることで、この家から追い出したいのです』
シルビアはその言葉の後、こう続けていた。
『シュテファン様は……このクラレンス家を一番恨んでいる人なのです。そして、他の妹さんたちに負い目を感じてらっしゃる。妹さん方が父母のいないこのクラレンス家で育ったことに。お義母様を追い出してしまい、その中で、自身の影響下で育ててしまったことに。……だから、このクラレンス家とご自身を、呪われているとでも思っていらっしゃるのでしょう。自身の影響下にある妹さんたちを、かわいそうだと思っていらっしゃるのです。
だから妹さん達を、パトリーさんを、結婚させ、この家から出させたかった。自身の下にいることはいつまでも不幸で、結婚して家から出れば幸せになれると……そう思いこんでらっしゃるのですよ。それが兄として、せめてもの情だと……屈折した、お考えです。……推測に過ぎませんが、おそらく正しいと思いますよ』
パトリーはそれを聞いたとき、信じられなかった。
そんなパトリーにシルビアは、これは秘密にするよう固く言われたのですが、と教えてくれた。
『実はですね、一度パトリーさんが、病気で倒れたときがあったでしょう? グランディア皇国で、シュテファン様がひどいことを言ったときに。パトリーさんが倒れられ、シュテファン様はそれはそれは慌てられて……パトリーさんを背負って、急いで医者を呼ばせました。医者が来たら来たで、そのグランディア皇国の医者には、パトリーさんの病気が何か、わからなかったようなのです。それでシュテファン様は、本当にお怒りになって、わからないとはなんだ、とにかく治せ、それでも医者か、と騒ぎになったほどで……。パトリーさんの身を、ひどく案じておられましたよ』
パトリーはそれを信じられなかった。
あのときは全てが真っ暗に思えて、自分が倒れても兄は引きずってゆくか、見捨てるかのどちらかだろうと思っていた。それが、心配してくれた……?
結婚させるのが、兄なりの幸せにするための方法だったというのも、やはりそれはただの義姉の推測であると、思っていた。
今まで半分も、義姉の言葉は信じられなかった。
――兄が「おめでとう」とパトリーの結婚を祝福して、心から喜び微笑するのを見るまでは。
めったに見られぬ、兄のほほえみ。
なんて、なんてばかな人だろう。
「……あたしはっ、クラレンス家で育ち、幸せでした!」
シュテファンのいつもの冷たい表情に、微細な変化がある。
「シュテファン兄様の妹として生まれて、幸せでした! 四人の姉様の妹に生まれて、幸せでした! 決して、決して、不幸ではありません!」
「……それはお前が、満ちた状態を知らないからだ。父母のいる状況を……。知っていれば、そのようなこと、言えないだろう」
シュテファンは暗い双眸を細め、遠い目をする。
「結婚さえすれば、お前は知っただろう。それが本当の家族というもので、実家のクラレンス家は、本物の家族とは違うものだと。それが、お前はどこまでも愚かに、結婚をしたくないなどと……」
「いいえ! 確かに……暖かさで満ちあふれた家庭ではなかったかもしれません。でも、本物じゃない、なんてことはありません。そこはあたしの家です。帰りたいと思える家なんです」
パトリーは必死に、説得するように言い放つ。
シュテファンは冷たかった。母は離婚で家にいなくて、父もめったに帰ってこなかった。
だけど、シュテファンはやはり兄で、パトリーは慕っていた。
他にもきょうだいはいた。次女のローレルとは仲が悪かったけど、それでも、嫌ってはいない。
優しき義姉・シルビアも、甥もいる。
他の家とは違っても、まごうことなき、パトリーの家なのだ。そこはただ不幸な場所でもない。パトリーにとって、幸不幸合わせて十六年育った場所だ。
パトリーの言葉に、シュテファンは沈黙した。彼は葉巻を取り出し、マッチを擦って、口にくわえた。
「こんな誘拐騒ぎがなく、ランドリュー皇子と結婚していたなら……私の言うことが、理解できただろう。あの方は、私からお前をどこまでも守り、貴族ではめったに手に入れられぬ、家庭の温かさをお前に与えてくださっただろう……」
惜しい人を亡くした、と言わんばかりである。
「ノアは、ランドリュー皇子は、まだ生きています」
「今はまだそうでも、帰ってくるときに生きているかどうかは別だ」
眉一つ動かさない兄の言葉に、パトリーは強く首を振る。
「ノアは死なない! 死なせません!」
シュテファンのくわえる葉巻の先が、じんわり赤くなる。そして煙を吐き出した。
「あたしは、ノアを助けに行きます」
「……正気か」
兄は横目で見る。
「本気です。ノアは、絶対に生きて戻ります」
彼の葉巻から、灰が落ちた。
「愚かなことだ。結婚したくないというのなら、ここで何もせず見捨て、死ぬことを望むのが一番だ。殿下が生きて戻れば、私はお前を結婚させる」
「………」
「何か、考えが変わったか?」
「……多分、変わりました」
パトリーは、今でもオルテスのことが好きだ。たとえ彼が、自分をどうも思っていなくても。
それでも、ノアのことを見捨てられない。彼の近くに死の神が忍び寄っていると知り、背を向けられない。
「どんなことも、目を背けてはならないのだと、思っています」
ノアと、会って話をしなくてはならない。
どうあっても。絶対に。見捨ててはいけない。たとえ、代償に何があっても。
「本気で行くんだな。……死ぬつもりか」
「そんなつもりはありません。でも、危険ではあると思います。だから……シュテファン兄様に、一言、しばしの別れを告げようと思っていました」
パトリーは正面から兄の顔を見る。
「……今までお育ていただき、ありがとうございました」
頭を下げた。
冷たい兄だ。憎もうと思った男だ。
しかし、パトリーは感謝する。子供の時に本を読んでもらったこと、いろいろと話を聞かせてもらったこと、さまざまなこと……。
「死ぬな」
はっと、顔を上げる。
同時にシュテファンは自然に顔を横に向ける。
「……お前はクラレンス家の娘だ。こんなところで無駄死にをしたところで、何の役にも立っていない。道具にすらならない。全部無駄だ」
吐き捨てる言葉を聞きながら、ほろほろとパトリーは口元を緩めた。
「……シュベルク国を出る前、私が渡した箱を持っているか」
「え? ……中身の、指輪なら……」
捨てようと思っても捨てられず、パトリーは首から鎖にかけていた。
「それではなく、一緒に入れたあった、細剣は」
「え、それも、持ってますが……。潜入の時、普通の剣は持って行けないので、せめてそれを持っていこうと思っていましたが……」
ただの価値のない短刀だと思っていたので、シュテファンがわざわざ口にしたことに、パトリーは首を傾げた。
「ならいい。手放すな。……私は使者として忙しい。勝手に行け」
そういうと、シュテファンは葉巻の火を消し、きびきびと歩いていった。
最後まで、兄は兄であった、とパトリーは苦笑気味に思った。
決裂したままでなくて良かった、とも。
パトリーはどこまでも、たとえ冷たくとも見下されようとも、兄のことを、どこまでも――まるで父親のように慕っていたから、こうした話ができてよかったと、思う。
どこかすがすがしさのある熱風を受けながら、額から頬に流れた汗をぬぐう。
ああ、もう……満足だ。
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