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第39話 不貞の女(2)
――パトリーさんがレジスタンスに入ってから時間もあったし、もうすでにケートが言っておったと思っておったんじゃが……。そうか、ケートはまだ言っておらなんだのか。ケートの夫のニファー伯爵は、二年前、病気を患って、亡くなったんじゃ。ケートは結婚して、一年も経たずに、死に別れてしまったということになる……。
パトリーは大股で歩いていた。
聞いていない。全然聞いていない。
二年。
その間、そんな手紙を受け取ったこともなければ、こうしてレジスタンスに入ってから、そんな話を聞いたこともなかった。
パトリーは休憩中の人々の合間を突風のように過ぎ、ケートヒェンを探していた。
仮設の幕で覆われただけのテントの前に、彼女はいた。
「ケートヒェン!」
パトリーの声には怒りが滲んでいた。ケートヒェンは気づいていないようである。
「あ、パトリー、ちょうどいいところですわ。今ね、あなたの……」
「旦那さんが亡くなっていたって、本当!?」
ケートヒェンは白い顔色になった。
「……どうして、教えてくれなかったの。二年も。あたしたち、友達じゃないの?」
「だって……」
ケートヒェンの声は小さなものだった。伏せた目の睫毛の影が頬に落ち、かすかに揺れていた。
「パトリーはあの事件から、結婚は不幸なものと思って、結婚をしたくなくなったのでしょう? そんなあなたに……夫が亡くなった、と言って……それ見たことかやっぱり不幸だ、と言われるのも、亡くなって良かったわね、なんて言われるのも……耐えられませんわ……」
パトリーは目を見開いた。
ケートヒェンは目を伏せ、唇を噛みしめていた。
そんなこと……。
パトリーは小刻みに首を振り、おもむろにケートヒェンを抱きしめた。
「……っそんなこと、言うわけないでしょう……!」
「パトリー」
「……辛かったんでしょう? 一番辛いときののあなたを支えられなくて、ごめんなさい。そう思わせてしまって、ごめんなさい……!」
ケートヒェンは顔をパトリーの肩に埋めた。彼女の肩は、小刻みに震え始めた。
パトリーは自分の愚かさに気づいた。
結婚をしたくない、と言ってしまったことが、友を二年も黙らせてしまっていた。
そしてその間、辛さを分かってあげられなかった。
……ノアも、苦しめていた。
パトリーは自分の愚かさに、怒りが湧くほどだった。
自分は、世の中が自分だけであるとでも思っていたのだろうか。言葉は誰かに伝わるということ、自分は誰かとつながって影響し合っていることを、忘れていたのだろうか。一度、あの事件で後悔したことを……もう一度繰り返してしまった……。
結婚は幸せだ、とはパトリーには言えない。
それでも、結婚というのは関係であり、その関係を不幸だと言ってしまえば、聞いた相手がどう思うか。人生の墓場にすぎないと言って、聞いた人間はどう思うか。
パトリーはケートヒェンの背を撫でながら、ごめんなさい、とつぶやき続けた。
……しばらくして、ケートは赤い目でパトリーから離れた。
そして、ぽつりと話した。
「私、テオと結婚しますの」
「え……」
「……彼は、夫が亡くなってから、ずっと支え続けてくれましたの。それで……」
「で、でも、国も違って、宗教も違って……」
「国のことは問題にはなりませんわ。元々私はシュベルク国からミラ王国へ海を渡って嫁いだ女ですもの。宗教は、結婚前に改宗しますの。ミラ王国の婚家の方も、私へ再婚を促しておりますし……」
なぜかパトリーは焦ってしまう。
「で、でも、テオバルト様は、レジスタンスのリーダーでしょう? その妻って、危険すぎるわ」
「パトリー……祝福してくれませんの?」
ケートヒェンが悲しそうな顔をした。パトリーは即座に首を振った。
「違う、そうじゃない! でも、そんなにいろいろ違って、苦労するのが目に見えるから……」
祝福したくないのではない。ただ、心配なのだ。彼女が幸せになれるのか。
そんな確証はどうやっても得られないと分かっている。だけど、本当に幸せになってもらいたい。それには、レジスタンスのリーダーの妻では、
「不安なの……。ケートヒェンが、本当に幸せになれるのかって……」
ケートヒェンは遠い目をした。
「……パトリー、二年前、同じ時期に婚約者を得て、気が合い友人となり、それからいろいろなことを話しましたわね。ほとんど会えない婚約者のこと、嫁ぐ家のこと、相手の好み……。あなたの婚約者のコーマック卿は天文学に興味があると知れば、私たちは夜に星空を見上げ、いろんな星座を探しましたわね……。星が、きらきらと輝いて……」
二年前、ケートヒェンと見上げた夜空は、まるで落ちてきそうな程、たくさんの星が美しく輝いていた。
そこには希望と未来が、不安を押しつぶしていた。
「あのときのパトリーなら、きっと私のことを何も言わずに祝福してくれましたわね。不安よりも、大きなものがあると分かっているから……」
「……それは虚像よ。二年、時が流れたのよ。時は戻らないのよ。今のあたしは、あなたの決断を不安に思う。祝福したくないわけではないのだけど」
どういった相手なら、どういった条件なら、不安にならずにすむのか、パトリー自身理解できない。自分自身の問題に近すぎて。
「たとえパトリーが反対しても、何があっても、どんなに危険でも、私たちは結婚するつもりですわ。パトリーの言葉で諦めるような気持ちではありませんの」
ケートヒェンは堅固な意思を示す。
それを聞いて、内心もやもやしても、こうなれば友として祝うしかない、と思った。彼女の熱意に負けたのだ。
そこまで思えるのは何故なのか、聞こうとしたところで、急にパトリーの全身が影に包まれた。
目の前にいたケートヒェンが、あ、と声を上げ、パトリーの後ろを見る。
「かしましい、とはこういうことなのだろうな」
少し低い、冷たい男の声である。
パトリーは、身が、骨まで冷えた。
ゆっくりと振り返る。
そこには……冷たい眼差しの兄……シュテファンがいたのだった。
全力疾走で逃げた。
感情、理性、パトリーの中の全てが、彼から離れるよう指示を出していた。
人々の合間を縫い、ケートヒェンを置いて、とにかく走っていた。
胸からこみ上げるものがある。シュテファンから受けた罵倒の言葉がまざまざと浮かび上がり、治りかけた傷口に焼き付いてゆく。
呼吸の仕方すら忘れてゆく。
胸を押さえて、パトリーは走った。
そのとき、ぐい、とパトリーの手が引かれた。
「どうしたんだ」
強制的に立ち止まると、手を引いていたのはオルテスだった。
「う……あ、あ……」
喉が震えて声が出ない。
何とか、言葉に出そうと喉を振り絞るが、声は言葉にならない。赤ん坊の泣き声のような、喘ぎ声となってしまう。
オルテスは真剣に見ていて、パトリーが焦りとショックで何も言えずにいるのを認めると、優しく軽く抱きしめた。
「落ち着け。ちゃんと、話せるまで待つから」
パトリーは目をぱちくりとさせると、胸から聞こえる心音に、まるで貝からさざなみの音を聞いている気持ちになった。
肩を抱く冷たい手に、安堵する。
ああ、やっぱり彼のもとは、安心する……。
いつのまにか胸の締めるような痛みも、呼吸の辛さも、なくなっていく。
「……シュテファン兄様に、会ったの」
オルテスの胸に顔を預けながら言うと、彼は体を離した。
「なぜここに?」
「わからない……。突然会って、そのまま逃げてきたの」
「何も理由なく、というわけもないだろう。……ノアとの結婚話は、今回の誘拐騒ぎでそれどころではないだろうし……」
「どうでもいいわ。とにかく、もう二度と会いたくない」
もう二度と。
毛を逆立てた猫のようなパトリーである。
「……ずっとこのままでいるわけにもいかないだろう」
「じゃあどうしろって? あたしが謝ればいいって?」
パトリーの顔がゆがむ。
一個の人間としてのパトリーを否定した人に、謝る――それほど誇りのない人間ではない。
「……あいつは、パトリーを結婚させようとしてそう言ったんだろう」
「オルテスがそう言うとは思わなかったわ」
パトリーは傷つく。彼がパトリーではなく兄の味方をするとは……。
「別に肯定しているわけじゃない。パトリーとノアが結婚する方向となった以上、そう反発しても仕方ないだろうと言っているんだ。ばかな男だが、あいつが本気で、妻のシルビアの推測したとおり考えていたとすれば……」
パトリーは硬い表情で地面を見ている。
理屈じゃない。この感情は、理屈じゃない。
オルテスはパトリーのそんな様子を見て、言葉をやめた。
そして、突如、
「腹が減った」
と言い出した。
「そろそろ昼食ができる頃だろう。早く行かないと、食いっぱぐれるな」
パトリーは目を白黒させる。昼食の用意されたテントへ、オルテスに手を引かれた。
兄とのことから逃げられたことに、オルテスが逃がしてくれたことに、パトリーはほっとした。
昼食の用意されたテントは、仮設ながら大きい。一人一人にパンとスープを取り分ける。
パトリーたちは並んで食事を手に入れると、テントの外に出て、長大な葉の茂る高い木の下で、スープにスプーンを入れた。中には豆が入っている。
パトリーが口に含むと、そこには豆の味と辛いスープの味が舌の上に広がり――どこか、異常で独特な風味がした。
パトリーは飲み込まず、その風味に神経を集中させた。
この、におい、この、味……!
オルテスのスープに、鳥のルースがくちばしをつついて飲もうとしている。パトリーは彼のスープ皿を倒した。
「おい……?」
パトリーは口に含んだものを吐き出す。
「毒よ!」
ほぼ同時であった。
レジスタンスの集団が食事をとる各地で、痙攣して倒れる人間が続出したのは。
「うが……! な、んだ、これ……」
「おい! どうしたんだ!」
「あ、ああ……」
パトリーはオルテスに背を叩いてもらい、胃液まで吐き出す勢いで吐いた。
そのおかげか症状は現れず、二人は昼食を作っているテントへ向かって走った。
「このスープを作ったのは誰!?」
突然の乱入者にほとんどが驚き、動きを止めた。
ところが、ただ一人だけ、そのパトリーの叫びと同時に、逃げる影があった。
影はテントの裏から逃げ出す。
パトリーとオルテスはそれを追う。
レジスタンスの人間の密度が高い。人をかき分けながら、二人は追いかける。
人混みから離れ、石と砂で囲まれた川へ出る。対岸には崖がある。
二人はすでに遅かった。川では舟が動き出していて、影はそこにはとどまってはいなかったのだ。
その舟には覆面の船頭と、立ち上がりパトリーたちを見ている、女がいた。
女の顔は頬骨が出っ張り、どこか痩けた印象がある。目が落ちくぼみ、ほつれた髪が風に流れている。
立つ姿は針金のようにぴんとした女である。
彼女の表情には、不快さがあった。
「……お前に、一番死んでほしかったのに」
どす黒い憎悪と嫌悪が彼女の顔に広がる。
女の視線はオルテスにはまったく向いていない。どこまでも、パトリーだけを射殺しそうなほどに睨み付けている。
パトリーは唇を震わせた。
「ど……して、ヴェラさんが……」
「どうして? そんなことは決まっている。お前と、シュベルク国に復讐をとげるためさ……ひゃはははは……」
女は――ヴェラは、笑い出す。
舟で遠ざかっていきながらも、彼女の哄笑がどこまでも響いていた。
運良く、死人はいなかった。
それでもこれは重大な問題であった。どこかのスパイが潜り込み、大量毒殺を仕掛けたのだ。
「パトリーさん、話を聞かせてほしいんじゃ。あのスパイのことを」
テオバルトが彼女を呼び出しそう尋ねるのも、無理からぬ事だ。
「……彼女は、元シュベルク国人です。……二年前、国外追放となった人で……」
パトリーはテオバルトと目を合わせない。
「国外追放……罪人か。レジスタンスのスパイをしとったっちゅうことは、ハリヤ国側の誰かに仕えとるっちゅうことじゃな。チーマの城も考えられる……」
「彼女はシュベルク国を憎んでいます」
「ふむ。そんな女が、チーマの城におるっちゅうことになれば……ランドリュー皇子の身も……。……いや、これはすまん。今のは忘れてくれ。貴重な情報、ありがとう」
テオバルトは彼の部屋をあわただしく出て行った。
残ったパトリーの瞳には、過去が映っている。
テオバルトには言えなかった……パトリーとヴェラとの因縁の、そして最大の後悔の過去を、生々しく思い出す。
『あなたたちさえ結婚していれば、あたしは……!』
パトリーは、ヴェラの人生をねじ曲げた。
『お前さえいなければ! お前さえいなければ!』
ヴェラはパトリーを憎んだ。
――ヴェラは、パトリーのかつての婚約者・コーマック卿との間に子供をもうけた女性であったのだ。
目をつむり、パトリーは自分の罪を思い出してゆく。
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