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 第37話 懐かしき国で(3) 


 シュベルク国のレベン港では、パトリー貿易会社の副社長・マレクが食糧の手配を行っていた。書類に書かれた数字と現実に船に運ばれていく品々を監督している。
 そこに、パトリーが青ざめた顔で現れた。
「シャチョーさん」
 マレクが気づいて呼ぶと、パトリーは厳かに告げた。
「あたしは、社長を辞任するわ」
 マレクは動物のような目を見開く。
「……そんな顔しないで。どうせ今表向きはあたしは倒れていることになっていて、マレクが社長代理としているところなんだから。別に問題はそれほどないわ」
「それ、表向き。実際、シャチョーさん、社長の、まま」
 パトリーは小麦の袋が運ばれてゆくのを見ながら、硬い表情で話し始めた。
「……ハリヤ国へ荷を届けるのは、あたしが行くからよ。かなり有力な情報で、シュベルク国とハリヤ国の貿易はじきに完全に禁止される。他の国を通じて回って行くことになるだろうけれど、あまりに危険だわ。だから、あたしが行く」
「でも……」
「話を聞いて。ハリヤ国はかなり危険よ。シュベルク国人だからという理由で逮捕もかなり考えられる。……処刑もね。社長が捕まり処刑なんてことになれば、会社は大混乱だわ。だからあたしは、社長を辞任する。マレクがトップにいれば、まだ混乱は最小限に収まるでしょう」
 「それと」とパトリーはやはり静かに続ける。
「あたしはしばらくハリヤ国にいることにするの。私用でね。今のハリヤ国だと会社の経営ができない。だから、会社への責任のためにも、社長を辞めるのよ」
 マレクはごうごうと風の吹く波止場で、しばらくしてから問うた。
「それ、もちろん、一時だけ、決まってる、ね? ずっと、社長辞める、違う、ね?」
 パトリーはマレクへ顔を向けず、その期待混じりの問いに、無言であった。


 パトリーの会社の食糧を積んだ船は何艘もあり、マレクに替わってパトリーはそれらの点検を行う。パトリーは出航を早めるため、点検を急いでいた。
 早く、ハリヤ国へ行かなくては。
 ばさばさ、と、書類をチェックしていたパトリーの元へ、鳥が飛んできた。
 パトリーの短い髪が舞い上がる。
 落ちてきた鳥の羽は、極彩色。ルースの羽である。
 思わず瞑ってしまった目を開けると、そこにはオルテスがいた。藍色の長い髪が、海からの風に絹のように流れる。碧の瞳がパトリーを見ていた。機敏な動きで長い足を動かし、近づいてきていた。
 自分が彼を見続けていると気づくと、パトリーは視線を外した。
「ハリヤ国へ行くのか」
 微細なパトリーの変化に気づいていないように、オルテスがいつものように訊いた。
「……ええ」
「行ってどうする?」
「ノアを助けに、よ」
 自分がそんな力を持っていないと分かっている。それでも行かなくてはならない。
 このままあれが最後だなんて、信じたくない。できることなら何でもしなければならない。会って、話をしなければならない。いや、話がしたい。
「内乱状態でも?」
「ええ」
「このシュベルク国と戦争する国だというのに?」
「ええ」
 パトリーの固い意志に、少し面白くなさそうな表情をしつつ、オルテスは頷いた。
「そこまで言うなら、おれには止められないだろう。まあ、同じくハリヤ国へ向かおうとしている男が止めたところで、聞くはずはないと思っていたが」
「え? どういうこと?」
「おれもハリヤ国へ行くってことさ」
 軽く肩をすくめながら言う彼に、パトリーは笑顔になった。
 が、すぐに何かおかしいことに気づいた。
 いつもなら、今までのパトリーなら、頭に浮かんだ疑問は置いておいて、共に行けることに喜んだだろう。
 だが、パトリーは自分のそういった面を反省していた。それがノアの正体に気づかない原因となり、悪く言うと見て見ぬふりをした結果ともなった。
 もっと早く気づけていれば、といろいろ後悔しているパトリーには、浮かんだ疑問を無視できなかった。
「……どうして?」
「別にいいじゃないか」
「よくないわよ。何か、ハリヤ国へ行く理由があるんでしょう? ……新聞もハリヤ国の部分を何度も読んだわね。前からオルテスはハリヤ国のことに興味を持っていた。前から気に懸けていた。何か理由があるんでしょう」
 いつからだった? オルテスがハリヤ国のことを口にし始めたのは。
 タニア連邦にいたとき? いや、違う。
 アレクサンドラとリュインに再会した後、そう、そのとき。そのときからだ。
「……まさか」
 パトリーは気づいた。オルテスが動く理由に。
 そうして、自然と顔が石のように強張っていった。
 そんなパトリーを見て、オルテスがごまかせないと思ったのか、軽く笑った。
「ああ、そうだ。その通りだ。おれがハリヤ国へ行く理由。――おれが過去へ戻るためさ」
 彼は諦めていないとは思っていた。
 けれど、いずれ諦めると思っていた。
「リュインが言ってきた。おれを過去へ戻す代わりに、聖剣ハリヤを取ってこいと。アレクサンドラを皇王位につかせるため、聖具が必要なんだとさ。キリグート城の聖具は厳重に守られ、手に入らない。代わりに、もう一つの聖具、聖剣ハリヤが必要なんだと。その聖剣ハリヤは、ハリヤ国で情報を得なければどうにもならない」
「っ! リュインさんが『不老不死の魔法使い』なのか疑問だって、オルテスだって言っていたじゃない! その彼の言うことを信じるの!?」
 パトリーはオルテスのコートをつかんだ。
「そうだ。どこにも確証はない。それでも、おれは探すしかない。他に方法がないのだからな。あいつを信じるしかないのさ。おれは、過去へ戻りたい」
 パトリーは引き留めたかった。
 たとえノアと結婚しても、友人としてでも側にいるならまだいい。それでも、パトリーのいるこの世界からいなくなる、というのは我慢できなかった。
「そんなに、過去の世界がいいの? そんなに!?」
 ふと、パトリーは気づいた。
「……そんなに、ミリーさんのことを……愛しているの?」
 オルテスが過去、結婚を望んだ女性。
 彼がそれほどまで過去を望む理由を、彼女だと思った。
 どんな人間かは知らない。だが、オルテスが結婚したいと思った女性なのだから、素晴らしい女性なのだと思う。パトリーは思い描ける限りの最上の女性像を思い描いた。
「ミリー? ……そうだな、彼女も理由の一つだな」
「……過去へ戻って、……結婚、したいの?」
 ためらいがちに言うと、オルテスは笑い始めた。滅多に見られないほどの哄笑は、しばらく続いた。
 ひとしきり大きく笑い終わると、オルテスは話す。
「……おれはな、結婚運がない男なんだ。おれがミリーに結婚を申し込んだのは本当だ。ミリーがそれを受けたのも本当だ。だが、それは真実じゃない」
 彼は少しだけ笑い続ける。どこか自嘲気味に見えた。
「……当時の身分制度は、今よりも厳しい。奴隷身分に自由はほとんどなかった。ミリーはその奴隷身分だった。だから、おれのプロポーズを受けた。分かるか? ……彼女はおれを好きでも何でもなかったってことだ。いや、好意は感じていた。だからこそ結婚を申し込んだんだが、彼女の好意の視線は、おれのいつも後ろにいた、部下のヨナスに向けられていたのさ」
 とんだお笑い話だろう、と言わんばかりにオルテスは続ける。
「ミリーの本当の気持ちを知ったのは、すでに親父に結婚すると宣言した後のことだった。相手が本当は別の奴に好意を持っている、と知って猶、結婚しようとは思わない。ただ、その時期が悪かった。おれがミリーと結婚したがっていると親父は知ると、かなり強く異母妹・ルクレツィアとの結婚を強制し始めた。そんな時におれが『ミリーと結婚するのはやめる』と言ってしまったら、ルクレツィアと結婚することになってしまう。だから、ミリーに頼んでしばらくの間、恋人関係だと偽装してもらった」
 パトリーは呆気にとられている。
「それじゃあ……諦めたなら、過去へ戻る理由にならないじゃない」
「……ルクレツィアが女皇にならなければ、な。……おれはあの最後の日、親父との決闘で死ぬことを覚悟していた。おれの死後の未来も予測していた。ただ、一つだけ、予想外のことがあった。それが妹のルクレツィアの女皇即位だ。ルクレツィアはおれと結婚したがっていた。その妹が、絶対的君主として即位して、権力を持つ――そうなれば、誰もミリーを庇ってやれない。ヨナスにミリーのことは頼んでおいたが、女皇となったルクレツィアに逆らうことはできなかっただろう。ルクレツィアはミリーのことを憎んでいた。妹は血眼になってミリーを探し出したことだろう。……ミリーがどうなったのか、おれは想像したくない」
 海から塩辛い風が流れてくる。オルテスの長い藍色の髪が、パトリーを覆うように流れた。
「おれには責任があるんだよ。恋人のふりをさせてしまったおれには、ミリーをそんな目に遭わせるわけにはいけないんだ。たとえ過去を変えてでも。……婚約者のパトリーが責任感から、ノアを助けに行くのと同じようにな」
 同じように。
 それはずるい言葉だ。反論させない言葉だ。
 同じようだと言うのなら、
「……どうしても、何を言われても、過去へ行きたいと……言うのね」
 オルテスは、分かっているだろうと言うかのように、答えは口にしなかった。
 パトリーはコートのすそをつかんだまま、オルテスと見つめ合った。
 彼の鋭い目にある瞳。濃くて深くて計り知れない色の瞳孔を中心に、虹彩が放射状に広がっている。その虹彩の部分には透明さがある。
 そしてその目に自分の姿が映っていた。泣きそうで、無様な姿だ。
 オルテスの表情に少し揺らぎがあり、薄い唇から言葉が漏れた。
「なんなら」
 彼は顔を下げ、パトリーの耳元で、囁いた。
「過去へ、一緒に来ないか?」
 パトリーは思わず呼吸を止めた。
 瞬間、想像する。草原に立つ自分とオルテス。
 美しい草原。遊牧民のテント。馬に乗って感じる風。
 後は何もない。けれどそれは空虚でなく、満たされた空間。
 想像して、オルテスのコートをつかみ続けているパトリーの肘の辺りを、オルテスの手のひらが包む。
 美しい場所だろう。
 美しい時間だろう。
 それは夢のように。
 けれど。パトリーは自分でも説明できないが、なぜかコートをつかんでいた手を離した。
 本当になぜだか、自分でも分からなかった。
 オルテスも苦笑して、手を離す。
「……パトリーなら、そういう気もした。明日にでも出航できそうなら、そのハリヤ国行きの船に乗せてくれ」
 そう言って、彼は去っていった。
 塩辛い風が、強く吹いていた。


 その日の夜。パトリーは夢を見た。
 暗い暗い闇の夢。
 パトリーはそこで立っている。きょろきょろと見回すと、オルテスが遠くにいた。
 彼はこちらを向いて言う。
「一緒にこないか」
 オルテスは手を伸ばす。
 パトリーもそちらへ駆けようとする。
 だが、彼女の足は動かなかった。何かがまとわりついている気がして、足元を見ると、書類の山で埋まっていた。足にすがりつく手があった。マレクや、他の従業員の手だ。
 オルテスはどんどんと離れてゆく。
 一つの光の扉へ向かってゆく。
 待って、と叫んだ気がした。だが声は出なかった。
 パトリーはその場で、動けなかった。
 別の方向には、ノアが背を向けていた。彼は背を向けたまま、幽鬼のように濃い闇の方へ向かっていた。
 叫んだ。
「そちらはだめ、そちらはだめ」
 今度は声が出た。
 ノアは振り返る。だが、すすす、と歩いているとは思えない動きで闇に進む。そしてノアは言う。
「引き止めたいなら、そこから出てくればいいのに」
「動けないのよ」
 そう言うと、ノアは白い顔で首を振る。
「いいや、動けるはずだよ。動けないなら……」
 ノアは闇へ進み、声は聞こえなくなっていった。
 オルテスは一つの光へ進む。
 ノアは漆黒の闇へ進む。
 自分の足は動かない。
 彼らを、引き止められなかった。
 闇の中に、取り残されていた。ずっと……。
 
 ――起きたとき、目から空知らぬ雨が流れていた。
 ただそれだけの夢なのに、パトリーにはそれが心に残った。
 まるで寓話のように思われたのだ。この先の、全ての。


 ――第三皇子を捕虜としたことに対してシュベルク国がハリヤ国に抗議をし、宣戦布告をしたのは……しばらく経ってのことだと、記憶している。




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