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第37話 懐かしき国で(2)
「……あなたは全部知っていたのですね。当然でしょうが、ノアの素性のことも、あたしがそれを知らなかったということも。あたしもようやく、ノアの――ランドリュー皇子のことを知りました。ただあたしには情報が足りないのです。本当は裏でどうなっていたのか。ノアは何をしてくれていたのか。あたしとノアとのことで、あなたがどういう役割であったのか。教えてくれませんか、ウィンストン卿」
目の前にいる灰色のひげの持ち主は、ゆっくりと頷いた。
パトリーはソファに座り、暖炉の近くに立っているウィンストン卿を見上げていた。
このウィンストン卿と、パトリーは一度しか会ったことはない。しかし、彼はそのときノアと共にいた。そして何かを知っているような感じがしていた。
そのとき受け取った名刺には彼のシュベルク国での住所があり、パトリーは空いたピース部分の話を聞くため、やってきたのだ。
いつまでも混乱していればいいものではない。知らなければならない。
「……まずは、自己紹介からしましょう。儂はランドリュー殿下の側近、とでも言えばよいのでしょうかな。イライザの父親と共に、エリバルガ国へ殿下が留学されたときから、指南役として側に仕えておりました。彼が国外追放処分となったものですから、今では儂が最古参の側近、ともなりましょうな」
「ノア、いえ、ランドリュー殿下は、あたしとの結婚を最初から知っていたんですか?」
「ええ。クラレンス家のパトリー嬢と結婚することが決まった、と儂がお伝えしました。少々美化しすぎた肖像画と、儂の偽造した恋文つきで。おかげでパトリー嬢とお会いして、しばらく婚約者だと気づかなかったそうですぞ」
パトリーは思い出す。そう、出会いは本当に偶然であった。
「シュベルク国は、殿下にセラへ向かうよう指示を出しました。そのままつつがなく結婚式が行われるはずでした。……貴女が逃げなければ、ですが」
「だって、あのとき、ノアが一緒に逃げよう、って……だから、ノアは結婚したくなかったんでしょう?」
「本当にそう思われますかな? 殿下が結婚したくなかったと。貴女と同じ気持ちであったと」
ウィンストン卿は灰色の眉の下から瞳を射抜くように光らせた。
『結婚して欲しい』『パトリーは今でも結婚したくない?』『会ったことがあって、決してパトリーを不幸にしたくないと思っている男なら? 結婚が不幸でなかったら? その未来が幸せなものだったら? 仕事はできないかもしれないけれど、代わりに相手が愛していたら? 仕事よりも充実した何かがあったとしたら?』『好きなんだ』
パトリーに言い逃れはできなかった。弱々しく首を振る。
彼はずっと、自分を見ていたのだ。見続け、そして、結婚を望んでいたのだ。
「貴女のために、殿下は共にセラから逃げ出した。挙句に婚約破棄までシュテファン殿につきつけて。けれど、貴女のために、再び破棄を取り消した。そしてこの前、キリグートでも退院時、それが結婚を猶予する期限だったというのに、貴女を逃がしたのですぞ。……ご自身の国での立場なども全てかなぐり捨てて」
パトリーは瞳を揺らしながらそれを聞いていた。
「貴女のため……いや、あなたのせいです、全て」
ウィンストン卿は裁判官のような目で見下ろしている。
パトリーは泣きたいような、自分を罵倒したいような気分となり、口元を押さえた。パトリーは、彼のことを思い出す。いつも笑っていたような気がした。いつも、彼は、不満も苦しみもないような顔で。
それはパトリーのために、抑えていたからだったのだろう。パトリーのために抑え、パトリーのために自らを削り、パトリーのために表面だけでも優しい真綿でくるむように穏やかに笑っていた。
「殿下は全てを貴女のために優先された。いつだって貴女と結婚できたのですぞ。誰も遮る人間はいなかった……貴女以外。強硬に結婚を反対し続け、殿下を理解しようとも正しく見ようともなさらなかった、貴女は、ずっと」
パトリーにも言い分はあった。けれど、それまでのノアのことを思うだけで、考えるだけで、自分の言い分なんてどうでもいいことだった。
口元を押さえていた手が震えていた。
キスをされたとき……驚きがあったことが確かだ。でもそれよりも、どうして彼がこんなことをするのだ、という認識の反転で混乱していた。彼はパトリーにとって定位置にあった。パトリーにそれは不満なく、ノアも不満を持っていないだろうという、驕りに近い考えが無意識にあった。
彼はそれに満足していなかった。だけど、それを発言することは、パトリーのふるまいのために……できなくさせられていた。
「この結婚の諸悪の根源は貴女です」
それを否定はしなかった。結婚だけではない。何よりノア自身に対して、多くのものを背負わせて、今も背負わせ続けている。
ウィンストン卿が糾弾するのも当然だ。
「貴女が全てを邪魔し、壊す。結婚したくないなどと自分勝手なことを言い出したのも、会社を立てたのも」
「……? 会社がどうしたというんですか」
「皇子の妃が私的な会社を持っていれば、社会のバランスを欠く。……貴女が会社を立てなければ、従業員も今のような苦労をしなかったでしょうな」
「……まさか……うちの会社の中傷記事を書かせたのは、あなたですか!」
パトリーは立ち上がった。
一つの後悔も申し訳なさもない顔で、ウィンストン卿は頷く。
「そうです。皇子の――ランドリュー皇子の妃として、社会的な立場から、会社を持っていては困るのです」
「そんな! そんなの! もしたとえ万一結婚するとしても、あたしが会社を辞めればいい話でしょう! 会社を潰そうなんて……!」
「ただ辞める、では困るのです。貴女と会社と裏でつながれることは非常に考えられる。そうなれば、国と一企業の癒着問題ですな。大問題となり、結果的にランドリュー皇子に多大なる迷惑がかかるのですぞ。そういった問題を起こさないために、潰しておこうと思いました」
「それなら! あたしがそれほどノアの相手として不適格だと分かっているなら、婚約者にしなければよかったでしょう! 会社を潰そうとする前に、あたしを婚約者から外せばよかった! あたしがノアの相手として、ウィンストン卿は望んでいないのでしょう!?」
絶叫するようにパトリーは言う。
パトリーを見る冷ややかな目。それは望ましい人間を見る目ではない。ウィンストン卿が、自分を好ましいと思っていないことは、分かっていた。
ウィンストン卿はその指摘に反応し、ひげを撫でる。
「……確かに、儂は貴女を殿下の妃として、好ましい感情を持っているかと聞かれたなら、持っていないと答えるかもしれませんな。貴女の兄・シュテファン殿はあまりに危険すぎ、殿下が操られるやも、子供を使って何をするやも分かりませんからな……。だが、儂の危惧や感情は置いておいて、貴女が妃になってもらわねば困るのです」
「どうしてですか。嫌いなら嫌いで放っておいてください……」
「簡単な話です。殿下が貴女を妻にと望んでいるからです」
ウィンストン卿はゆっくりと近づいてくる。
「儂はランドリュー殿下をずっと見てきました。儂の勝手な思いですが、殿下をかわいいかわいい孫のように思っているのです。儂の望みは、殿下の幸せです。その殿下が望むのなら……叶えるのが臣下のつとめです」
ウィンストン卿は温かい優しげな眼差しでノアのことを語っていた。まるで、イライザがノアのことを語っているときのように。パトリーにはそれが嘘いつわりなく、本当の感情であると分かった。
「だからそのために、貴女には妃になってもらいたい」
ウィンストン卿がすぐ前まで現れた。
「……でも、あたしは……。時間を、考える時間をください」
パトリーはウィンストン卿の目を直視できず、後ろめたそうに顔を背けた。考えることが多すぎた。けれどウィンストン卿は残念そうに首を振る。
「いいえ。もう待つことはできんのです。このままでは国の命を聞かない反逆心のある皇子、と、ランドリュー殿下が捉えられてもおかしくないのです。今ここで、貴女から承諾の言葉を聞きたい。さもなければ、貴女の会社は近いうちに潰れるでしょう。中傷記事どころではなく、国からの絶対の命令で」
「な……!」
「儂は長い間宮廷で生きてきたもので、つながりはいくらでもありますからな。儂を甘くはみないことです。……どうします。貴女は殿下に申し訳ないという感情はありませんかな? 今まで殿下がなさってくれたことに、恩返しをしてもらいたいのです。殿下は待った。十分すぎるほど、貴女の気持ちを最大限尊重なさった。あのような優しいお方、めったにいますまい。貴女に殿下へ他で返せるあてはありますかな? 殿下が望むのはただ一つです。それとも、貴女が築き上げた全てを失いますか。それで貴女の部下に責任を取れますか」
ウィンストン卿は、さあどうしますと、見下ろし威圧する。
パトリーはへたり、とその場で座り込んだ。
答えが他にあったなら、パトリーは何としても頼み込んだだろう。だけど、つかみ取れる答えは、そこには一つしかなかった。全てを見捨てるか、そこにある答えを取るか。どうするかなど、決まっている……!
パトリーはうなだれたのだった。
「……します……」
かすれる声で、パトリーは言明した。
「ランドリュー皇子との結婚……を……承諾、いたします……」
ウィンストン卿は腰を下ろし、パトリーの肩を叩く。
「感謝の言葉を述べるのは、おかしいことでしょうかな。承諾してくれたことはとても嬉しいのですが、会社と今後まったく関わり合わないと、誓ってくれますかな? 殿下と会社のために」
「分かっています。社長もやめます。関わり合いません」
パトリーは呆然とした思いで、いろいろなことを思った。
もう手の届かぬ場所となる会社、自分の夢、そしてオルテス。
鮮やかな、とても鮮やかな……。
パトリーは肩を振るわせて、目元を手で覆った。
単純な己の運命への悲しさとは違う。ノアへの申し訳なさや、会社への無念や、オルテスはどう思うのだろうかという幾分の期待と疑問、そういった多くの感情があり、自分が悲しめばいいのか、喜べばいいのかすら分からなかった。とにかくさまざまな色がごちゃごちゃとしている。
それは決まっていたことのような気もした。……そう思ってパトリーは少し笑う。そう、これは決まっていたことではないか。シュテファンが結婚をしろ、と言ってきたときから。
ウィンストン卿はパトリーを立ち上がらせるために手を差し出した。しかし、彼女はそれを丁重に断り、自分で立ち上がった。
自分が混乱しているのは分かっている。それでも、自分で立ち上がることを放棄するほど、まだ自分を捨てていない。考えることは、多すぎた。
「それでは、今すぐセラへ向かってくださいますな?」
「はい」
「殿下へも、セラへ向かうよう皇家の鳥を使い、手紙を送りましょう。申し訳ないのですが、殿下に信じてもらうため、貴女が結婚に承諾したことを、手紙に書いてもらえませんか」
「……はい、わかりました」
パトリーは、ノアへ短い手紙を書いた。結婚に承諾します、と。会社のことを彼に告げるつもりはなかった。ウィンストン卿も絶対に言わないだろう。
これを、ノアはどういう気持ちで見るのだろうと思う。パトリーには想像がつかなかった。
考えても仕方がない、しかも自分には見ることの出来ないことだ、と思ってパトリーは軽く首を振り、書き終えた。ウィンストン卿はそれを満足そうに見た。
パトリーは一度家へ帰るから、と扉へ向かおうとした。彼女の背へ、彼は言葉をかけた。
「幸せな結婚となるよう、望んでおりますぞ」
まるで痛烈な皮肉のようだ。
パトリーはぎこちなく笑って、扉を出た。
首都・ライツの中央部、大通りに、馬車が横付けされている。そのすぐ側に、オルテスはルースにパンをやりながら、立っている。後ろ姿は前と変わらず、藍色の髪が長く糸のように流れている。
近づいていくと、オルテスは気配を感じ取ったのか、振り返ろうとした。
「振り返らないで」
パトリーが鋭く言うと、オルテスはぴたっと止まり、再び背を向けた。
オルテスのすぐ後ろに立って、彼女は静かに告げる。
「あたし、ノアと結婚することになったの」
オルテスは黙っていた。聞こえなかったのだろうか、と思って、もう一度言おうとしたら、彼は言った。
「ふうん。それはおめでとう」
「……何にも思わないの?」
「……喜ばしい限りだ。幸せになれるだろうさ」
幸せ。それは何なのだろう。
オルテスは続ける。
「それに、パトリーとノアはいずれは結婚するとは思っていたからな」
この言葉はパトリーにかなり衝撃を与えた。
パトリーは、結婚したくない、と、何度も言っていた。それを聞いていた彼ですら、パトリーの意思通りに進まないと思っていたというのは、現実とはこんなものだ、と冷ややかに突きつけられている気持ちだ。
つまり、ほとんどの人がパトリーの意思に関係なく結婚すると思っていたということだ。シュテファンは真っ向から意思を無視し、ウィンストン卿は脅し、イライザだって望んでいたのだろう。残っているのは誰だ。ノアとシルビアくらいだろうか。
オルテスに、そう思われていたと知るのは、かなり胸に打撃を食らった。
「……オルテス自身は、祝福だけしか、思ってくれないのね」
「あと何を思えと? ……前に、おれはパトリーに手紙を書いたな。たとえパトリーが意に沿わぬ結婚をすることになったとしても、おれはパトリーを変わらない態度で接する、と。おれは変わらないさ」
パトリーは聞きながらうつむいて、思わず、すがるようにオルテスの背のシャツをつかんだ。つかんだ自分の手は震えていた。
「……オルテスは、あのときから、その前から、ずっと変わらないのね」
「ああ」
「あたし達の関係も、何も変わりはしなかったのね。そしてこれからも変わらないのね」
「そうだ。何があっても」
それは固い友情を誓うようであった。パトリーにとって、残酷な言葉でもあった。
「おれ達は変わらないさ。どれほど立場が変わろうと、どれほど生きる世界が変わろうと、共に旅をしなくなったとしても」
この人は、共に逃げよう、と言うことはないだろう。心の中にほんの少しだけあった期待は崩れた。
パトリーは膝の力が抜けて、思わず地面に座り込む。
「おい、パトリー……?」
「振り返らないで!」
オルテスは再び動きをやめ、背を向ける。
逆に、この言葉にすがるしかないような気がした。どうなっても変わらない、という言葉に。変わらぬ友情に。それで、満足しなければならないのだろう……。
パトリーは、ノアに会おう、と思った。
ノアと会って、話をしよう。長いこれまでのこと、そしてこれからのこと。それが自分の未来のことなのだから。
ノアは何度も、真摯な目を向けてくれていた。それを……信じるしかない。
そこが人生の墓場と呼ばれる場所でも、地獄だとしても、耐えなければならない。それが選んだ未来だ。せめて幸せな結婚であることを祈ろう。
何か間違った答えである気もした。それでも怒涛のようにやってくる情報に疲弊したパトリーにはそのとき、こういった答えしか持てなかった。
膝に力を入れる。
大丈夫。まだ立てる。まだ立てる。
ゆっくりと立ち上がる。すん、と鼻が鳴った。
そのとき、かなり早く走らせている馬車が、中央の通りを横切ろうとした。パトリーのすぐ横を通り、猛烈と馬車は走っていった。
その馬車がしばらく走っていったら、止まった。その馬車から降りてきたのは、ウィンストン卿であった。
彼は走ってくる。髪を乱し、目を血走らせて。
そして、驚いているパトリーの肩をつかみ、問いただした。
「パトリー嬢! 殿下の、殿下のおられる場所はどこですか!」
「え……ウィンストン卿……? どうしたんですか、そんなに焦って」
「答えていただきたい! あなたが殿下と別れたのはどこですか!」
ウィンストン卿はがくがくとパトリーの肩を揺らし始めた。
「おい、落ち着け」
それを止めたのはオルテスだった。ウィンストン卿の腕をつかみ、パトリーからはがした。
ウィンストン卿は少し冷静になったようだった。その代わりに、悲壮感が顔中に表れている。
「……殿下が、誘拐された、と……」
パトリーは目を見開き、呼吸の仕方を忘れたように息を止めた。
ゆう……かい……?
「殿下の御髪が、要求の書かれた手紙と共に届けられました」
パトリーはノアと最後に会ったときのことを思い出す。どこか寂しげな、何か言いたげだった、彼の表情。それに、パトリーは背を向けた……。
「殿下はハリヤ国の領地にいたため、敵国の捕虜として捕らえられたと」
「……ち、違います! あたしたちが別れたとき、タニア連邦にいたわ! 違う、違う! きっと別人よ!」
「では、この御髪も?」
ウィンストン卿は懐から紙に包まれた髪の束を見せた。ノアと同じ茶色の三つ編み。彼は、一筋三つ編みがあった。それと同じく見えた。
パトリーの顔は青ざめ、倒れそうになった。
後ろでオルテスがパトリーの背を抱えた。
「あ……ノアを、そうだ。あのとき廃墟で、ノアを襲ってきた連中がいたんです! 殿下って呼んで、襲ってきた連中が……!」
「何ですと!? どこの誰が!」
パトリーは記憶の糸を必死にたぐる。
「わ、わかりません……覆面していて、目しか見えなくて……」
「それを知ってなお、どうして殿下を、あなたは置いてきたのです!」
パトリーは後悔の波が襲い始めた。
そうだ、なぜ、なぜ、置いてきたのか。
……あのとき、別れなければ。ノアがあの場に残る、と決めたのは、自分のせいだった。あのとき顔を合わせられず、混乱して……。離れて考えたい、という感情を、彼は感じ取ったのだろう。だから、ノアはついてこなかった。
あのとき、一緒に行こう、と、いつものようにそう言えば。自分勝手な心に囚われず、そう誘っていれば。そうでなくても、素性を知ったとき逃げ出さなければ。
彼と別れずにいる選択肢は、たくさんあったはずなのに。
そうしていれば、彼は今、こんなことにならなかったのに……!
強烈な後悔が、胸を襲う。
倒れそうなパトリーを、オルテスが後ろで支えていた。震えはだんだん激しくなるばかりであった。
「要求は、シュベルク国のとある海域の制海権。それと領地。……我が国が要求を飲むことは……おそらく、ないでしょう。そして戦争となるでしょう」
エディが言っていた。『また会えると思った奴でも、その別れがいつ最後の別れになるかわからねえ』と。パトリーも言った。『別れとは思いもかけないときに来るのかもね』と。
言ったものの、パトリーは本当の意味でそれを理解してはいなかった。本当に、ノアとは再び会えると思っていた。会って話をして、……謝ろうと思っていた。
「じゃあ、じゃあノアは……!」
ウィンストン卿は、厳かに責める口調で言う。
「……今このときですら、生きているとの保障はないのです」
パトリーは、そんな、と小さく呟いた。
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