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第36話 別離(2)
『入り口』に到着してから数日して。
窓からルースが夕焼けを背景に優雅に飛ぶのを見た。ふと、二階の部屋の窓から見下ろすと、オルテスがルースと戯れている。なんてのんきそうなんだろうと思いながら、ここしばらく彼と話をしていないことに気づいた。
「ねえ、オルテス」
窓から身を乗り出して、パトリーは呼びかけた。オルテスは顔を上げる。
「何だ」
「最近、何していたの?」
「何も」
「何もってことはないでしょう」
「……こうしてルースの世話をするくらいかな」
「暇ってことよね。ちょうどいいわ。ちょっと頼みたいことが……」
オルテスは露骨に嫌そうな顔をした。
「ただ働きさせようとしているな?」
「ちょっとしたお使いよ。あのね、もうここを引き払おうかと思うの。仕事の都合でシュベルク国へ行くわ」
オルテスは少し興味深そうにする。
「シュベルク国、か。パトリーの母国の島国だな。そこへついてこい、って? ……方向は同じだから構わないが」
「いや、それは嬉しいけれど、頼みはそういうことじゃないの。船で行くのはわかるわよね。エディって人の船で、シュベルク国行きのがあったら、乗せてもらおうと思うの。そこでオルテスに頼みよ。エディのところに行って、パトリーがシュベルク国行きの船に乗りたいのですが今ありませんか、って訊いてきてくれない?」
「……面倒だな」
「そこをお願いよ。記者に見つかりたくないし、ちょっと今、忙しくて部屋から出られないの」
「『ちょっと今』? 『ここ最近ずっと』の間違いだろう」
それは正しかったので、パトリーは言葉を呑んで、切実な口調に変えた。
「……お願いよ。ほんと」
「まあいいか」
オルテスは、あっさりと承諾した。それにはパトリーも肩すかしを食らった気分だ。
「何だ? おれだって、たまには役に立つさ。エディってやつのところだな」
「ええ。『隻眼の海運王』と呼ばれている人。本人は確か西大陸にいるはずだけど、このあたりのどこかに会社はあったから、そこの人に言ってもらえれば……」
オルテスはそのまま、宿屋の裏庭から外へ出て行った。ルースも肩に留まって。
パトリーは再び、部屋の席に座る。そのとき、ルースとは別の鳥が飛び込んできた。会社の連絡用の鳥である。
運ばれてきた文書を開くと、シュベルク国にいるマレクからのものだった。
中身は、やはり武器の貿易をするべきだ、という意見。
はあ、とため息をつきながら、パトリーはとりあえず全文を読んだ。
レジスタンスに武器を売れば、儲かることは分かっている。けれどパトリーの中にある何かが、それを引き留めるのだ。
パトリーは天井に顔を向けた。ふう、と深呼吸する。
ノアのことが、思い浮かぶ。
仕事が忙しくなって良かったと思えるのは、ノアのことだけだ。忙しければ忙しいだけ、考えなくてすんだから。
彼については考えることが多すぎた。ポランスキー夫人の館でのパーティで、彼は『結婚してほしい』と言っていた。それを本気にとらなかった自分に、彼はどう思ったのだろう。どれだけ傷ついたろう。
長く一緒にいすぎた。思い出が、思い当たることが、解かれた謎が、多すぎた。何も知らずにいた時間があまりに長く、明かされた真実は唐突すぎた。
何かを、彼には言わなければならない。
けれど、パトリーにはたった一言しか、言うべき言葉を持ってなかった。最良とは思えない言葉。
かちゃ、と扉が開いた。そこにはオルテスがいる。
「早すぎるじゃない。会社の場所見つからなかった?」
「いや、すぐ近くだったんだが……そこで……」
「ひっさしぶり! ごうつくばりで毒婦と大評判の女社長」
オルテスの後ろから現れたのは、眼帯の、無精ひげの男――エディ本人であった。
「え! 西大陸にいるんじゃなかったの!?」
パトリーは思わず立ち上がる。
「はは、船が難破しちまってな」
「ええ!?」
エディはどたどたと部屋に入ってきて、勝手に近くにあった椅子に座った。同時に、オルテスは何も言わずに出て行った。パトリーはオルテスに一言お礼を言いたかったのだが、間に合わなかった。
慌しくエディが楽しそうに話す。
「パトリーのとこ、大変なことになってるそうじゃねえか。どうせ外に出れねえと思って、こっちから来てやったぜ」
パトリーは菓子を出しながら訊く。
「それは嬉しいけど。難破したってどういうことよ」
エディは頭をかきながら、少し視線を逸らした。
「う……まあ、な。そのまんまの意味だ。西大陸に向かう途中、船が転覆してな……。通りかかった船に助けられて、九死に一生を得たわけだ」
「エディが? 隻眼の海運王のあなたが?」
「そう言われるとつれえな」
エディはますます所在なさげに頭をかいている。
彼の船が転覆するなんて、ワインの値段が水と同じくらいになっても、信じられないことだった。
「海ってのは人間には敵わねえもんなんだよ。おれをどれだけ過大評価してんのかしらねえが。海に生きるっつうのは、綱渡りの日々なんだぜ。そうだ、おれに用があるんだろ? そこの男を使って会社に来させたってことは。それにしても、前の男と違うな。意外と男遊びが激しいんだな」
パトリーはぎろりと睨んだ。
「……もしかして。あたしが毒婦だとか中傷記事書かせたの、エディじゃないでしょうねえ?」
じとっと見ると、エディは慌てた。
「じょ、冗談! だあれが、そんなみみっちい蹴落としなんてするかよ! バレたら、こっちの会社のイメージが悪くなっちまう! あー、でもあんたのとこ、特にイメージ戦略重視してるから、今回のは本当に大変そうだな」
「そうよ、大変なのよ。ちょっとでも同情してくれるなら、協力してくれてもよくない?」
「協力ぅ? 金を一銭も使わない、百パーセント応援程度なら、考えてやってもいいぜ」
なんてせこい男だ、と思いながら、パトリーは少し甘えるような声を出した。
「実はね、シュベルク国へ行きたいの。で、今うちの会社で使える船は、この『入り口』にはないの。そこで、シュベルク国行きの船があるなら、ただ乗りさせてほしいな、って」
ただ、というところでエディが顔をしかめる。
「おいおい女社長さん、それはずうずうしい話じゃねえかい?」
「食料とかは自分で持ち込むから、荷物と一緒にでも運んでくれるだけでいいんだけどな。あたしと、さっきのオルテスと、鳥一羽の分」
「……まあ、いいか」
「あれ、いやにあっさりと決めるわね」
肩すかしをくらった気分である。エディは腕を組みながら、しみじみと言う。
「いや、おれもいろいろ人生について思うところがあったわけさ。この前難破しかけたときにな。人間いつ死ぬかわからねえ。また会えると思った奴でも、その別れがいつ最後の別れになるかわからねえ。そう思っちまうとな、こーやってパトリーと話すのも最後で、これが最後の頼みごとかもしれねえ、と思うとな」
まるで悟りきった神父のように見えた。言っている内容は、沁み行くようにパトリーにも伝わる。
「そうね。もし難破したとき救助する船がなかったら、あたしは今ここでエディと話はできていなかったのよね。別れとは思いもかけないときに来るのかもね」
「だろう? もしかしたら、本当に今度こそこれがおれたちの最後の会話かもしれねえ。おれはな、また西大陸に行くことにしたんだ」
パトリーは目を見開いた。
「難破して舞い戻っちまったけどな、西大陸ですべきことはできてねえし」
「一度難破して、どうしてもう一度行こうという気になるの?」
「おれは商売に命を懸けている、って言ったろ?」
パトリーは黙った。一度死を身近に感じ、そしてその死の近くに再び行こうという。それは勇気か、無謀か。
「これがおれの覚悟ってことさ。こんなもんにびびっちまうようなら、部下に申し訳が立たねえよ。部下に全部任せてしまえるなら、社長なんていらねえだろ」
「エディのは極端すぎるのよ。……不思議だわ、どうしてエディはそこまで商売のためなら全てを捨てる、と言えるのか」
パトリーは自分の直面している問題を考える。武器の貿易は、絶対にいけないと思う。けれどそれは、自分の勝手なエゴか?
「それだけ甘い世界じゃねえ、ってことだよ。半分慈善事業でやっていける世界なら、おれだってそんなこと思わなかっただろうよ。慈善事業がしたいなら、尼にでもなれよ」
エディの言葉は厳しいながら、本当のことだ。それでも。
「……完全に自分の利益だけを考えて、本当に今後の世の中ににいいのか、って思うのよ。正しいことなの? あたしはごうつくばりだって中傷されて、その理由の中身は嘘っぱちだけど、その『ごうつくばり』って言葉だけは正しいわよ。だって商売で儲けようと日々努力しているんですからね。……本当にこれでいいのか、って最近思うの」
武器の貿易。それは戦火を拡大させるという結果が見えている。商売だけを考えてみれば、儲けることができて良いのかもしれない。けれど……。
パトリーは、もし「最も信用できない人は誰か」と問われれば、すかさず迷いなく、
自分以外にはいない。
と答える。
自分ほど信用できない人間はいない。
ここでしょうがなく武器貿易に手を出し、その後すっぱりとやめられるだろうか……。儲かるのなら、また何かを理由づけて、ずるずると続けてゆく気がする。
それが怖い。
儲けよりも大切なこと、手をつけてはいけない領域というものが、あるのではないかと、パトリーは考えてしまう。
「……そういうことのドツボにはまると、抜け出せなくなるぜ」
エディはさりげない様子で続けた。
「パトリーは社長に向いてねえのかもな」
パトリーは息を呑み込んだ。
部屋に沈黙が訪れた。
キィ、と音をさせて、エディが立ち上がる。
「じゃあ、おれも忙しいもんでな。船なら、明日、日の出とともに出る奴がある。その前にうちの会社に来な。……そうだ、船でおれがあんたを認めたら事業提携を結ぶって話があったな。……この分じゃ、当分は無理そうだな」
エディは音を立てて、夕焼けの照る部屋を出て行った。
その後しばらくしてから、パトリーはマレクへの手紙に、武器貿易の不許可の手紙を書いた。
肉がそぎ落とされ、骨だけのような老爺がぎょろりと目を向けた。暗い店に入ってから、店主であろうそのやせぎすな老人は、ずっとオルテスの動きを見ていた。肩にはルースが、いつになく大人しく留まっている。
店には怪しげなものが並んでいる。古ぼけた欠けた花瓶、ずらっと並ぶフォークとスプーン、絵皿、胸像に飾られた首飾り。
オルテスはの胸像の肩の上に無造作に手を乗せた。
「おい」
老爺がぎろりと白目が暗闇の中で目立つ目で、にらみ上げた。
「うちの商品に勝手に触るんじゃねえ。それはかのグランディア皇国で唯一の女帝、ルクレツィア女皇が身につけたと言われる、由緒正しき首飾りなんだ」
オルテスは鼻で笑う。
「この首飾りがルクレツィアの? 冗談はやめろ。こんな趣味の悪いもの、ルクレツィアがつけるわけがない」
老爺は目を丸くした。
「……ほう。兄ちゃん、見る目があるな。そうだ、それはそんな古いものじゃない。もう200年ほど下ったものだ。価値も本当はそんなにねえ。見栄えはいいから飾っているだけだ。兄ちゃんだな? 最近、この『入り口』の骨董品屋を回っているっていうのは」
オルテスは胸像から手を離す。
「ハリヤ国のものを探している。十五年前のレーヴェンディア王国の滅亡と、ハリヤ国の建国のどさくさに失われたと言われる財宝……」
老爺は口を開けて笑う。歯が何本も抜けているのが見える。
「十五年前……思い出すなあ……あの内乱のドサクサで、かなりの量の財宝が、裏に流れ込んできた……。裏でうごめいていた俺のような奴らは、喜んだものさ。だが、財宝のほとんどはどっかの富豪と美術館に買い取られたんだぜ。探したいなら、こんな裏の骨董品屋ではなく、そっちを調べた方が早いぜ。ええと、どこだったかな……」
「ミラ王国のアラヴァリオ美術館、大貴族ボルッキだ。他にもエリバルガ国のゲッティア博物館に所蔵されている」
老爺は驚いた顔を向ける。
「なんだ、知っているじゃねえか」
「最近大分調べたからな。そこに所有されている財宝もここで調べられるだけ調べたが、見つからない。どうやらそこにはないらしい」
「ふうん……兄ちゃんの探している財宝ってのはなんだい?」
「聖剣ハリヤだ」
オルテスはなんてことないように口にしたが、老爺はひとしきり驚くと、へへ、と笑い、身震いした。
「国宝級か! そんな大物、裏で流れた、って話は聞いたことがねえな。ハリヤ国が所有しているんじゃないか?」
「情報が手に入らない。南方三国との戦争、レジスタンスとの内乱で、国内の状況はほとんど耳に入らない。かすかに聞いた噂が、ハリヤ国は十五年前の混乱時に聖剣ハリヤを失った、ってことだけだ。盗まれたのなら、裏に流れていると思ったんだが……」
「情報は流れてねえな。流れていたとしても、聖剣ハリヤという名が明かされずにただの古い剣として流れていたとしたら、それとも素人のような奴が扱っていたとしたら、気づかれないかもしれないな。そうなると、探すのはほとんど不可能だ。隠され続けた秘剣ならどんな形のどんなものかも分からないから、鑑定もできねえだろうし……。裏の世界も広い、とても手がかりもなく探せるものじゃねえ。数十年かかるかもな」
数十年など、一生がかかってしまう。見つからないと同義語だ。
「……そうでないことを願っている。せめて手がかりでも知りたいところなんだが……」
「おれもハリヤ国の宝に特別詳しいわけじゃねえからな……ムツィオならそういうことに詳しいだろうが……」
「誰だ? それは」
「偏屈考古学者さ。歴史学的資料を守ることにかけては口やかましい。あんな状況だってのに、ハリヤ国にいる。……やっぱり、ハリヤ国じゃねえと、聖剣ハリヤの情報は手に入らないんじゃねえかな。今は危険だから、数年待ってから行ったらどうだ?」
数年?
オルテスは首を振った。それほど待てるわけがない。
聖剣ハリヤ。それにどれだけ懸けているか。それにどれだけ、願っているか。
それが行く末のための、最後の道だとしたら。パトリーからの逃げ道だとしたら。
それがどんな危険な国でも、向かうのに、躊躇はない。
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