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 第36話 別離(1) 


 ――……殿下……?――
 そうパトリーが口に出したとき、ノアは少し微笑んだ。張り詰めたものから、解放されたように。
 イライザは慌てていた。
「いえ、あの、パトリーさん……ノア様は……」
「いいんだよ、イライザ」
 イライザをゆっくりとノアは止める。
 先ほどの熱い気持ちをぶつけ、熱い口づけをしてきた人間と同人物かと疑うくらい、穏やかであった。
 ノアは真摯にパトリーへ顔を向ける。
 彼の瞳はどこまでも澄み、空の色、清い海の色をしている。茶色の髪は太陽に照り、全てが太陽の下にある中で、何もやましいところはないかのように悠然として、そして、彼は告白したのだ。
「俺の正式な名前は――」
 雲が、流れた。


 オルテスは草原に横たわっていた。
 太陽はまぶしい。くるくるとルースが旋回しているのを見ると、何が楽しいのか、と苦笑する。
 人の足音が近づいてくる振動を感じ、竜の巻き付いた宝剣に手をかけながら起き上がる。
 すぐにその手を緩めたのは、近づいてきたのがパトリーだと分かったからだ。
 パトリーはぐちゃぐちゃな顔をして、走って近づいてきていた。
「オルテス……! オルテス、オルテス!」
 何度も彼女は名前を呼んだ。
 どうしたらいいのだろう、パトリーの顔にはそう書かれていた。
 オルテスは立ち上がる。パトリーは彼の両腕をつかみ、混乱した様子である。
「の、ノアが……ノアが、ただのノアじゃなくて……皇子で、婚約者のランドリュー皇子殿下で、あ、あたしは、あたしはどうすれば……」
 それだけで、オルテスには、彼女が全てを知ったのだと分かった。
 ふと、彼女の首筋を見て、思わず目を見張った。
 首筋にはキスマークがあった。彼女は気づいていないようである。
 その相手は、考えるまでもない。
 二人がそういう関係である、と証拠を見せつけられたような気分で、オルテスは苦笑を表情に出すのを抑えるのがやっとだった。
「ノアがランドリュー皇子でも構わないじゃないか」
 ことさら他人のようにオルテスは助言した。
「何も問題はないだろう」
 オルテスは、ただパトリーが情報を与えられすぎて混乱しているだけだと思った。
 混乱から落ち着けば、後は二人の結婚だ。二人が好き合い、そして一線を越えているというのなら、自分が何も口出しする筋合いではない。
 さまざまなことがばからしくなりながら、オルテスは『見守る年長者』の役をする。
「とにかく落ち着け。……あいつが悪意から黙っていたとは、思わないだろう?」
 パトリーはあちこちに視線を向けながら、頷いた。
「あいつだって黙っていたのが悪いとは思っていただろうよ。けれど、そんなことどうだっていいと、パトリーなら思うだろう? あいつはパトリーのことが好きだ。観察眼のあるおれが保証してやる。今はまだ混乱しているだろうが、ちゃんと……結婚のことも考えてやれ」
「それで、オルテスはいいの?」
 パトリーがすがるように上目遣いで、訴えるような眼差しで見上げてくる。
「オルテスは、あたしがノアと……結婚してほしいの?」
「…………。そんなことはパトリーが決めることだ。おれには関係ない」
 困った質問を……と思い、オルテスはその質問には答えず、はぐらかした。
 パトリーは、切り捨てたようなその答えに、うなだれた。
 オルテスはパトリーの肩から手を離す。
 この少女には、もう自分は必要ないのだろう。
 草原の風が頬を撫でる。
『オルテスさん。あなたは……殿下にとって害となる』
 女騎士が言った言葉を、ふいに思い出した。
 ……そうかもしれない、とオルテスは思った。
 それはノアに対してと言うより、パトリーとノアの二人に対して、パトリーにとって。邪魔な存在となっている。
 そう思ったときオルテスは、自分の進む道を選択し、決断した。あまりに遠い、可能性も分からない道を。まるでこの草原のように終わりの見えない場所を、終わりがあると信じて。


 二人とルースは、廃墟の町に戻ってきた。
 町に入ったとき、二人の頭上で鳥が暴れたような様子で降りてきた。ルースではない。
 その小さな鳥はパトリーの肩に留まった。
 足に手紙が結びつけられている。
 慣れた様子でパトリーがそれを開く。すると表情は険しくなり、絶句してしまった。
「……な……そんな、こんなこと……!」
 パトリーはその手紙を握りしめると、廃墟の町へ走った。そして荷の置いてある場所へ急いだ。
 後ろから追ってきたオルテスが問う。
「いったいどうしたんだ」
「中傷記事よ! うちの会社の、根も葉もない中傷記事が新聞に載ったって言うのよ! それも、大きな新聞にね! 信じられない、信じられないわ! こんなの、倒産することだってあり得る……! 急いで千鳥湾の『入り口』に向かわなくちゃ……!」
 パトリーは焦った様子で自分の荷を整え始めた。
 そのとき、ノアとイライザが現れた。
 パトリーとノアが目が合うと、二人とも、一瞬動きが止まった。
「……あたしは、今から急いで千鳥湾の『入り口』に向かうことにするの」
 動揺が滲み出る声で、パトリーは二人に告げる。
 ノアは一瞬目を伏せ、
「そうか。……忙しいようだね。気をつけて」
 と、別れの言葉を告げる。
 イライザは、「いいのですか」とノアに念を押すが、彼は静かに頷いていた。
 パトリーはさっさと荷を整えると、馬を引く。
「いいのか」
 今度はオルテスがパトリーに念を押す。
「あたしはパトリー貿易会社の社長よ。『入り口』に行かなければならないの。それが何?」
 そんなことよりも、ノアと別れることに念を押したかったのだが、強ばった顔の彼女に、オルテスは問うのはやめた。
「『入り口』に行くんだったな。……それなら、おれもついて行く」
 パトリーはちらりと顔を向けて、「ありがとう」と言った。
 パトリーとオルテスとルースは、急いで千鳥湾へ向かうこととなった。ノアとイライザとの別れは、あまりにもあっけないものだった。
 ノアとパトリーは、最後まで、どこまでもぎこちなかった。
 一頭の馬にオルテスと同乗させてもらったパトリーは、廃墟の町から草原を行く。
 町のすぐ外で、別れを告げたノアたち。
 パトリーは町からずいぶんと離れてから、一度、そちらへ振り返った。
 彼女の目に、彼らの姿が映ったのかは、分からない。


 かなり急いでパトリーたちは千鳥湾へ向かった。草原は馬を全速力で走らせ、険しい山を越えずに行ける千鳥湾沿岸へ到着したのは、五日後である。
 その間、パトリーの元へは、会社の方から、そしてすでに千鳥湾の『入り口』にいるマレクから、数々の情報が寄せられていた。
 それは良いものではない。むしろ、情勢は悪化している。
 新聞社に謝罪を要求したが、聞き入れた様子はない。むしろ、中傷記事を更に出され、会社はかなりの被害を被っている。
 その中身は、パトリー個人への中傷も含まれる。営業妨害も甚だしく、それは深刻な被害を巻き起こしていた。
 パトリーたちは千鳥湾岸沿いから定期船に乗り、千鳥湾から外海へ出る『入り口』へ向かう。
 船の中でも、パトリーにゆったりとする暇はなかった。鳥を使って指示を飛ばし、情報を集め、多くの手紙を送り……。彼女に眠る時間はほとんどなかった。


 『入り口』到着直後、パトリーは記者会見を開いた。
 集まった記者は、そこにいたパトリーに、思わず息をとめた。
 さんざん、金のためなら何でもする毒婦と中傷されていた彼女は、まるで貞淑な淑女のように大人しい色のドレスを身にまとっている。赤みのある髪は一般的な女性の長さのかつらをかぶり、地味にまとめられた。手には白いハンカチで、今にも倒れそうな青ざめた顔。
 パトリーはか細い声で、無実であり嘘であることを訴えた。泣き真似も何でも駆使し、自分は被害者であり、中傷記事を出した新聞が、何か手違いで誤解してしまったのだ、と言った。相手を罵倒し怒ることもなく、完璧なまるで生まれたての子鹿のような儚げさが漂っている。パトリーの会社の社員なら、あれが本当に『怒ると怖い鬼社長』か、と唖然としたことだろう。
 女性が家庭的で弱い存在であるべき、という社会通念が男の記者たちにも存在している。理想的な貞淑な女性像を演出したパトリーは、記者たちに好印象を持たれた。
 記者たちは中傷記事にある内容の厳しい質問をいくつかしたが、毅然と、そして出過ぎるほどでもない様子でパトリーは一つ一つに丁寧に答えた。
 そうして、パトリーにとってメディアを敵に回さずに、むしろ味方につけた形で、記者会見を成功に終わらせた。
 記者たちがぞろぞろと帰って行く中、パトリーは頭をずっと下げていた。ふと顔を上げると、まだ一人、記者が残って椅子に座っていた。
 席の配置を思い出すと、それはパトリーと会社の中傷記事を書いた新聞社の、ライバル新聞の記者席である。新聞社の規模はそこそこ大きい。
「社長さん、ちょおっといいですか?」
「あの……質問なら、記者会見中にお願いしたはずですが……」
「かつら、ずれてますよ」
 パトリーは思わず自分の頭に手をやる。ずれていなかった。記者はくすくすと笑っている。
「――失礼。前に貴方を調べたことがあってね、男のように短い髪だった、と記憶していたものだから、おかしいと思ったんだ。いやあ、よく化けたねえ。男勝りで世界中を飛び回って、どんどんと会社を大きくしている……って、そんな『毒婦』が、まるであれは、汚れを知らぬユニコーンの乙女だ」
 パトリーは黙って立っていた。台の陰に隠れた手はぎゅっと握られている。
 とぼけようか、それとも金で握りつぶそうか……いや、それはこの状況では、ばれたら危なすぎる。ますます会社のイメージが悪くなる可能性がある。
「慌てなくていいですよ。別にばらそうなんて思っていないし。他の社でも、珍しい女社長、って情報はあるだろうけど、そこまで調べてないでしょう。下手に調べすぎて貴族の娘、なんてことを知ってしまったら、記事なんて書けなくなる。こうやって記事にしようと記者が集まったってことが、大体みんなろくな調査をしてないってことさ」
 パトリーは張り詰めた息を抜いた。
「私は貴族の娘だろうが記事にするときは記事にするがね、『毒婦』路線はパスさせてもらう。確かに、このカードを明かせば、ごうつくばりの『毒婦』のイメージを完璧にできる……そもそも女性が社長をやっている、ってだけで顔をしかめる人間だっている。けれどね、もう他社がやったネタを追いかけるより、儚げでイメージの良い貞淑な女社長の受難、って記事の方がやりやすいんだ。向こうの新聞を大手をふるって非難できるネタでもあるんだから」
 記者がにやりと笑う。社会正義のため、と謳う新聞であるが、現実はやはり企業なのだな、とパトリーは驚かずに納得するように思った。
「ただねえ、記事としてはもう一つ足りないんだ。儚げで絶対的な被害者である美少女社長、に、もう一つ足りない。あなたに旦那でもいて、『亡き夫から受け継いだ小さな会社をどうしても守らなくては』、なんてエピソードでもあれば嬉しいのだけれど」
 パトリーは眉を寄せる。自分は自分のため、自分がしたいから、籠を担いだ行商から商売を始めたのだ。誰かに強制されたわけでも、誰かのためなんて責任転嫁の材料となるようなためでもない。
「あなたの家庭環境からそういうネタは難しいと思うからね、この件で心痛のあまり倒れてしまった、ということでもあれば嬉しいのだけれどね。いや、強制するつもりはありませんよ? ただこの後、訴訟や会社の後処理で忙しいでしょう。それで表立つのは、賢明とは言えないですよ。あなただって分かっているはずだ。社長としてバリバリとやればやるだけ、『毒婦』の印象を強める。ここしばらく、やるなら裏で動いた方がいいでしょうね」
 自分の素性や正体を知られていることから、ここは大人しく相手の言うことに従った方がよさそうだ、とパトリーは考えた。言っていることもそう間違っていない。
「……わかりました。私はこの中傷記事騒ぎで、胸を痛めて倒れてしまったと、記事に書いてください。ただし、その代わり、私のこのイメージを崩すような情報は漏らさないでいただきたい。最低でもこの件を我が社が乗り越えるまで」
「ええ。ご協力感謝しますよ」
 記者は立ち上がる。そのまま去ろうとするとき、言い忘れたことがあった、と言うように、あ、と声を上げた。
「そうだそうだ。うちのライバル会社があなたの中傷記事を書きましたが、うちも、あなたの会社の中傷記事を書いて欲しい、と金を積まれたんですよ。極秘情報なんですけれどね」
 パトリーは目を見張る。
「だ、誰がそんなことを……!」
「そこまでは答えられませんね。ウチは現在、庶民の味方路線を取ってますから、断ったのですがね。あなたの会社を潰したい人間が、大金を使っているようですよ。相手を知りたければ、ご自分で調査なさってください。では、それではこれで」
 記者はぺちゃんこの帽子を一度下げて、去っていった。
 誰かが裏で動いている……パトリーは目に見えぬ糸が張られているのを感じた。


 パトリーの淑女イメージ計画は成功したと言っていい。
 それでも、会社は危機から脱しきれない。さまざまな問題が生じている。取引停止など。
 パトリーは心労で倒れたことになっているので、表面的にはマレクが社長代理としてトップに立っていることになっている。が、実質的には現在もパトリーが社長業をこなしてる。
 何度も何度も手紙やら直接やらでマレクと話し合った末、持ち直すのには、金が必要になった。それも大金である。
 この状況で貸してくれるところなど、そうない。
 命綱は、パトリー貿易会社で、かなりの量の食糧を持っていることだった。
 世界各国で戦争・内乱が続いている食糧不足の状況。売り場所を考えれば、必要量の金は手に入り、なんとか持ち直すかも知れない。
 パトリーは今、その売り場所を考えていた。
 普通の場所で、普通の値段で売っては――取引停止の相次ぐ現状ではそれも難しいが――必要なだけの金は手に入らない。
 その中で目星をつけたのが、エリバルガ国革命軍である。
 内乱状態にあり、普通の代金よりも高い金で買い取ってくれる。やぶれかぶれの状況の革命軍では、パトリーの会社との取引に応じてくれるだろう。
 エリバルガ国革命軍がパトリーが傷を負った元凶であるとは、一生治らない傷を見ればまざまざと思い出せる。
 しかし、自分の過去など、この現状では言ってられない。ともかく高く売れるところへ売るのが一番である。
 では、と冷徹に決断しようとしているところで、オルテスが部屋に入ってきた。
 パトリーはメディアの取材のうるささから、小さな宿屋にオルテスと共に、部屋は別にして泊まっていた。
「パトリー、すまないが、これを読んで欲しくてな」
 と、オルテスは新聞を持ってきていた。
「ハリヤ国のところを読んでもらいたい」
 前も同じことをオルテスは言っていた。訝しがりながら、休憩のつもりでパトリーはハリヤ国について書かれた記事を読んだ。
 前回と同じような戦争の話で、特筆すべきことは南方三国のうち一国が休戦を申し出たことである。
 こうなれば、もうハリヤ国の勝ちである。
「じゃあ、国内はどうなっているか、というのは書いてあるか?」
 オルテスに問われ、新聞を隅から隅まで見回す。
「あ、あったわよ。レジスタンスは活発さを増している、って。ただ、食糧が足りないから……」
 パトリーは、はっとした。
「そうか、レジスタンス……ここだって場所が場所なんだから、いや、エリバルガ国革命軍より高い金で取引が……」
「どうした?」
「何でもないわ。今からちょっと、そのレジスタンスの情報を集めなくちゃ……!」
 オルテスは首を傾げながら、何も言わずに去っていった。
 食糧を喉から手が出るほどほしがっている、ハリヤ国のレジスタンス。
 マレクとも相談した結果、このレジスタンスに食糧を売ることに決めた。レジスタンスに秘密裏に連絡を取り、順調に話は進み、契約を結ぼうとしたとき――
「食糧だけでなく、武器とか、一緒に売る、いい、思う」
 そう、マレクが言い出すまでは、パトリーにはスムーズに進んでいたように思えた。
「何言っているのよ! 駄目よ、そんなもの! そもそも武器なんてうちでは扱っていないじゃない!」
「武器、いい取引相手、いる。それ、レジスタンス、売る。利益莫大」
 マレクは穏やかで動物的な風貌で、パトリーの後ろで支える副社長である。が、彼もまた、商売人である。そしてそのドライさはかなりのものである。
 パトリーの甘さをカバーする役割の彼は、今までの人生から、甘さよりシビアさをそなえている。パトリーはそれを、自分には持ち得ないゆえに貴重だと思い、今までも彼の決断に助かってきた面もある。
 けれど今、彼が提案したことは、パトリーにとって許可しがたいことであった。
「うちは、食料や衣類を売る商売をしている貿易会社よ。武器商人ではないわ」
「パトリー、硬い考え。それ、可能性、狭める、考え。これから、武器、扱う」
「だめだったら!」
 パトリーとマレクの論争は、長くは続かなかった。
 現在会社が危ない状況で、言い争っている暇もない。
 マレクはしばらくして、シュベルク国へ行った。契約は、食糧のみのことである。
 パトリーは猛烈に裏で働いた。胃が痛くなり、食事はあまり取れなくなった。




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