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 第35話 童話の終わり(2) 


 草原を馬が駆ける。
 パトリーは草原というものは一面緑の原、と思っていたのだが、実際にこのタニア連邦に来て、それは違うと分かった。
 緑にも、多種多様な色がある。くすんだような青みのある緑から、鮮やか過ぎるほどの黄に近い緑まで。
 そして草も違う。そこにあるのは一本一本地から生え、生きている草だ。
 パトリーは次の日、ノアと共に馬に乗っていた。
 彼女は横乗りで、ノアが手綱を操っている。
 驚いたことに、ノアは馬術に優れていた。何でも、嗜みとして教え込まれたそうだ。
 パトリーは得意ではない。機会もあり、家としてもシュテファンだけでなく、義姉のシルビアすら乗れたのだが。一人では乗れないのだ。
 パトリーは大人しく、ノアに掴まりながら、草原の色合いを見ていた。
 ……オルテスの馬に同乗させてもらう、という選択肢もあった。しかしパトリーはそれを選ばなかった。
 昨晩のことがあって、どうして次の日、いつもどおりすごせるというのだろう。
 昨日は本当に、オルテスと同室でなくてよかった、と思っていた。あんなことがあって、同じ部屋で眠れるわけがない。
 あれからパトリーとオルテスは一言も言葉を交わさず、首都ファザマを出てきた。
 もんもんと考えるパトリーは、まったく動けず何も言えなかったことを考えていた。
 シュテファンから、無理やりにそういうことが起こりそうなときは、と、さまざまな対処法を学んでいた。
 そんなこと無縁のことだ、とパトリーがこれまで油断していたのは確かだが、それでも悲鳴を上げるとか、オルテスにどくように言うとか、逃げようとするとか、頭の中に学んだ対処法があのとき浮かんでいた。それでもしなかった。
 黙りこくり考えているパトリーに、ノアがちらりと肩越しに顔を向ける。
「今日はやけに静かだね」
「……そう?」
「そうだよ。何か心配事があるならさ、俺はいくらでも話を聞くよ?」
 パトリーはノアの背に掴まりながら、風を受ける。胸がいっぱいになるような風だ。小さなことなど吹き飛ばすような。
 よし、とパトリーは決意した。
 そんなパトリーにノアは少し首をかしげた。


「昨日のことは、一体何なの」
 パトリーは直接オルテスに問い詰めることにしたのだ。
 昼だから、と、四人は休憩をとることにした。そこで、少し離れた場所にオルテスを連れ出し、こうして問い詰める。
 悩み続ければノアにも心配をかけるし、一人で考えたところで答えが出なさそうなことを考えるのも精神衛生上、気持ちよくない。
 こうして問うことには怯えがある。が、問わずにいても仕方がない。
 精一杯、きりっと眉を上げて、オルテスを見上げた。
「一体、どういうつもりで、あんなことしたの。からかったつもり?」
 そう言うと、オルテスは苦々しい顔でパトリーを見下ろした。そのとき、空を飛び回っていたルースがオルテスの肩に降りてきた。
「パトリーが理解しないからだろうが」
「? あたしが理解しない?」
「ノアに不用意なことをするな、と言ったところで、真に受けないだろう。突然あんなことが起こるかもしれない、って危機意識は持つようになっただろう?」
 パトリーはあんぐりと口を開けた。
「そ、そんなことのために、オルテスは……あんなこと、したってわけ!? 何考えているのよ! あたしが真に受けなかったからって、いくらなんでも、やりすぎでしょう! こっちが、昨日からどんな思いで……」
「まあ……確かにやりすぎた感はあったが……」
「それにノアは、オルテスとは違うわよ! ノアはねえ……」
 ノアはそんな馬鹿なことをするはずがない。それに重要なこととして、彼には好きな女性がいるのだ。ノアの性格上、その彼女一直線だ。
 そのことを説明しようとする前に、驚きがオルテスの顔に広がり、彼は呟いていた。
「……パトリーにとって、おれとノアが違う……なるほど、そういうことか。何だ、ばかばかしい。パトリーがノアをそう思っているのなら、おれの危惧も無意味、ってことか。お互い想いあっていて、一件落着、ハッピーエンドか」
「何言ってるの?」
「安心しろ。二度とあんなことはしない。ただ一つ言っておくが、何とも思っていない男相手なら、せめて悲鳴上げるなりなんなりして、抵抗した方がいいぞ。ああいう場合、合意の上、と男は取る。……まあ、驚いてそれどころじゃなかったのかもしれないがな」
 オルテスは勝手に納得し、去って行った。
 ルースが騒ぎ立てていて、去っても騒がしい鳴き声は聞こえていた。
 パトリーは彼の答えを聞いて、拍子抜けしたような安堵感と、寂しげな気持ちを味わった。
 別に彼は、最初からパトリーをどうこうしようとするつもりはなかったということだ。まるで保護者のような物言いである。
 パトリーは気づいた。
 なぜ、自分があのとき、悲鳴も上げず抵抗もしなかったのかを。
 ああそうか、簡単なことだったのだ。
 ――自分は、オルテスが好きなのだ。
 ごく自然と、それはパトリーの胸に落ちていった。


 草原には遊牧民の住む移動式住居がぽつりぽつりと見える。それはかなり遠くにあるはずだが、さえぎるものは何もないので、よく見える。
 そんな見渡す限りの草原で、それは目立った。
 廃墟であった。
 建物は半壊し、人はいない。盗賊のすみかになっている様子もなく、いるのは動物だけだ。
 馬で移動していた一行は太陽が落ちて行き始めたころ、その日はそこで一夜を過ごそうと決めた。
 またも、パトリーとオルテスは、あれから一言も会話していない。
 今度はパトリーが戸惑っているゆえのことだった。
 気づいて、それからどのように接すればいいのか……パトリーは戸惑っている。
 パトリーは小さな、見るべきものもない廃墟を見て回りながら、カンカン、と木の打ち合う音のする方へ近づいていった。
 廃墟から草原へ出たところ、大きな木の近くで、ノアとイライザが木の棒で剣の稽古をしていた。
 音は緩やかであり、どこか規則的だ。
 上り坂を登りながら、パトリーは声をかけた。
「ノアが剣の稽古なんて、珍しいわねー」
 イライザが一人で稽古しているのは何度も見た。しかしノアが木の棒といえどそういった訓練をするのを見たのは、初めてだった。
 ノアとイライザは打ち合うのをやめて、パトリーの方へ振り向いた。
 イライザは涼しげであるが、ノアは額にいくつも汗が浮いている。
 坂を上り終わると、健康的に笑うノアがいた。
「俺もさ、考えるところがあってね、イライザほどとまでは行かないけれど、そこそこ、せめてパトリーよりは剣が使えるようになりたくてね」
「あたしより? それだったら、あたしとしてみる?」
「それもいいかもしれませんね」
 と、イライザはパトリーに木の棒を差し出した。
 パトリーはジャケットを脱ぎ、側に折りたたんで置いた。そして木の棒を構える。
 ノアも構え、棒の打ち合いが始まった。
 乾いた音が響いてしばらくして、ふらり、と目の前にいたぼんやりとした表情のノアの体が傾いだ。そのまま、どっ、と彼は倒れたのである。
「ノア!」


 額が冷たい、とノアは目を覚ました。
 ゆっくりと目を開けると、強烈な日の光と、それの大部分を遮るような楕円形の葉が生い茂る緑が見える。
 ひょっこりと、そこに、すぐ近くにパトリーの顔が現れる。
「目を覚ました?」
 それはあまりに近すぎた。ノアの視界の半分以上を占め、日の光も遮っている。
 ノアはぼんやりとした意識が次第に覚醒してゆく中、声も出ないような自分の置かれている状況が分かってきた。
 ノアの体は仰向けである。ただ頭部は高く、下に枕が敷いてあるようだ。……と思ったら、その枕は妙に温かく、平らでもなく……。
 ノアはパトリーに膝枕してもらっているのであった。
「……っえ!?」
 分かった途端に起き上がろうとしたノアの額をパトリーが押さえ、再び膝枕する体制となった。
「急に起き上がったらだめよ。ノア、あたしと打ち合いの途中で日射病で倒れたのよ」
「……イライザは?」
「あれ? さっきまでここにいたんだけどね……」
 きょろきょろとパトリーは辺りを見回す。
 大樹の陰に、パトリーとノアはいた。ノアの額には水で絞ったハンカチがのせられている。
 パトリーはジャケットを脱いだままだ。手で彼女はノアに扇いでいる。
 それは扇より効果はなかったが、心地よかった。
 体の熱が落ち着きを取り戻し始めていた。
「……結局、俺ってだめなんだな……こんな風に倒れて……。情けないよ」
「だめなんてことはないわ」
 慌てるでもなく、優しく当然のようにパトリーは言う。
「剣が使えるとか、使えないとか、そんなことで価値が決まるものじゃないわ。そんなことより、大事なものがノアにはあるのを、あたしは知っているわよ。だから、そんなに焦らなくてもいいのよ」
 日の白い光が、パトリーの顔の横を通って降りてきた。そのまぶしさに、ノアは目を細める。
 パトリーはブラウスの上のボタンを、暑さのためなのか、外している。思わず胸が高鳴るほどの新雪のように白く、日に焼けていない肌が見える。
 ジリジリと虫の声がする。あれは何の虫だろう、という意識は、奥へとしまい込まれた。
 額にあったハンカチを取り、上半身を起き上がらせる。
 再びそれを押しとどめようとして伸びたパトリーの手の、手首をノアはつかんだ。そのとき、パトリーには驚きと同時に緊張があったようだ。
 ノアが起き上がり、パトリーの真正面で、彼はついに言ったのである。
 彼女の手の甲に唇を落としながら……。
「好きなんだ、パトリー」
 パトリーは長い睫毛で縁取られた瞳を、目一杯開いた。
 その言葉が、決して友情や軽い意味ではないことは、言葉の響きで、所作で、パトリーに伝わっていた。深く狂おしいような声音である。
 ノアとパトリーはごく近くで向き合っている。
 パトリーの瞳に彼が映り、ノアの瞳に彼女が映る。
 彼女には驚きと揺らぎとがあった。
 ノアは押さえていたものをどうしようもなくなって出したその感情ゆえに、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
 再び、パトリーの瞳が見開かれた。
 パトリーは跳ね返るように体を引く。ノアは反射的にそれを追う。
 そしてそのまま、パトリーは背を地面につけた。草が舞う。
 ノアはまた、パトリーの唇に自分のそれを重ねる。そして離れ、何も言わせないように、もう一度重ねた。それは重ねただけではない、深い奪うようなものだった。
 草の青いにおいと、そして別の甘い香りがする。
 ノアは唇を離すと、首筋に唇を這わせた。
 そのとき、どん、とノアの体が強く押された。
 思わず顔を上げると、パトリーは後ずさりするようにして、ノアから離れる。彼女の背が大樹の幹に当たるまで。
 ノアはパトリーの表情を見た。
 パトリーの赤みがかったくせのある髪の毛から、はらりと草が落ちる。髪型は少し乱れている。
 いまだに彼女の表情には驚きがあった。混乱のうちに青ざめていた。そして同時に、怯えに近い拒絶と、断罪の瞳でノアを見ていたのである。
 言葉よりも雄弁に、彼女の感情を語っていた。
 ノアはそんな彼女を見て、何も言えなかった。熱は急速に引いた。
 ジリジリと、虫の音が響いていた。
 ――蝉の鳴き声だ。


 ひりひりとしたような日差しである。
 グランディア皇国の南に位置するタニア連邦は、当然のことながらグランディア皇国よりも暑い。風は涼しいが、直射日光は厳しい。
 パトリーはジャケットを着て、前を歩いている。
 その後ろをノアは行く。
 近い距離ではない。きびきびと振り返らずに、パトリーは行く。
 廃墟の町は乾いている。壊れた壁が濃い影を作る。空気が熱を持ってゆらいでいる。
 パトリーは黙々とただ先に進む。
 ノアは何かを言おうと、何度も思った。それは言い訳や、本音や、謝罪や、いろいろな言葉であったが、口を開くたびにパトリーの断罪するような瞳を思い出し、閉ざしてしまうのであった。そうしてただ、パトリーの後ろをついて行く。
 こうなることは、分かっていた気がする。
 分かっていたからこそ、今までノアは言えなかったような気がした。
 今の気持ちは以前想像したよりも冷静なものだった。こうなってしまえば、腹が据わるというか……。
 全てが壊れ、元の通りにはなれない。だからといって、以前のままでいられるとは思えなかった。それはできなかった。抑えられなかった。
 パトリーにとってはひどく迷惑なことだろう。振り向かずに前を行く彼女の姿が結果だ。
 何度目か、ノアが口を開きかけたとき、パトリーの足が止まった。
 そしてそのまま、彼女は腰に差した剣を、鞘から抜き始めた。
 日光を反射した白い刀身に、ノアの足も止まり、ごくりと喉が鳴った。
 そこまで、許せなかったか、と。
 パトリーが剣を両手で持ちながら、振り向く。
 険しい顔で、彼女は叫んだ。
「伏せて!」
 戸惑いは一瞬未満。即座にノアはかがむ。
 ひゅん、と、頭上を何かが通った。
 剣である。パトリーに言われなければ、胴が切り離されていた。
 剣の持ち主の謎の男はノアに、再び剣を振る。
 キィン、という音と共に、パトリーがそれを防いだ。
 ノアが見回すと、誰もいないと思っていた廃墟から、男たちがどんどんと現れ始めていた。皆、覆面で目しかわからない。全員手に獲物を持って。
 ノアがこわばった顔で立ち上がると、パトリーと向き合っている男はにやりとした。
「殿下、大人しく、おいでいただきたい」
 思わずノアは目をむく。
「お前たちは何者だ」
「さて……」
 男たちが、ざっと一斉に動く。ノアとパトリーを取り囲むように。その包囲網はだんだんと狭まってくる。
 じりじりと迫り来る敵に、壁際に追いやられる。
 そのとき、男の持っている剣が、手からはじき落とされた。
「あなたたちは何者ですか」
 ノアの前に現れ、冷静に問うたのはイライザであった。
「ちっ、護衛か!」
 男たちがイライザに剣を向けた。しかし彼女は、瞬く間に男たちの剣を落とし、傷を負わせ、迎撃したのである。
 男たちは不利ととったのか、逃げていった。
「ノア様、ご無事ですか」
 去ってしばらくしてから、イライザが心配するようにして振り向く。
「うん、俺は何もない……」
 パトリーはゆっくりと、ノアへ顔を向けた。彼女の顔にに太陽の日が照る。その光ゆえに、震えている睫毛の一本一本さえも分かるように、鮮明にノアの目に映った。
「……殿下……?」
 彼女の口からその言葉が問うように漏れたとき、ノアは不思議なことに、笑いたくなった。
 全ては砕け散ったのだ。




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