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第33話 アフタヌーンティー(2)
振り向くと、そこに老夫婦がいた。か細い声で声をかけてきたのは、おばあさんの方。パトリーよりも背が低く、ちょこんとして、そこにいると癒されるようなおばあさん。
「さっきから見ていたら、ここで迷ったのでは?」
パトリーは顔が赤くなるのを感じながら、頷いた。
「やっぱり。ここは広くて、いくつも道があるでしょう。恥じることはないんですよ。どういった方たちと別れてしまったの?」
パトリーは三人の名前と特徴を述べた。
「そう。それなら私達が探してあげるわ。遠慮することはないのよ。私達はここでは知り合いが多いし、きっとすぐに見つかる」
「あ、ありがとうございます……」
すると、おじいさんが答えた。おじいさんもどこかちんまりとして、似たもの夫婦だ。
「いいんだよ。一人で泣きそうになっているお嬢ちゃんを見たら、見て見ぬふりなんてできないものだよ。では私は市場の知り合いに、お嬢ちゃんの仲間のことを伝えてこよう。では、トーシャ、お嬢ちゃんを家に案内してあげなさい」
「そこまでしてもらわなくても……」
「こんなところでずっと立たせているわけにもいかないわ。松葉杖をついているということは、体がそんなによくないのでしょう。私の夫がきちんと探してくれますから、落ち着いて、ね」
トーシャにやんわりと諭されると、パトリーは自然に頷いていた。
そうしてトーシャに案内され、市場の近くにあった老夫婦の家に入った。
そこは小ぢんまりとした、かわいらしい家だった。いくつか風景画が飾ってあり、人形も何体か置いてある。窓の外には詰め物が吊り下がっている。
座っていて、と言われて、椅子に腰掛ける。
トーシャは奥に行くと、しばらくしてコップを持ってきた。
「ほら、落ち着いた? もう大丈夫よ」
このおばあさんには一体何歳だと思われているのだろうか、と思いつつも、パトリーはそのコップに口をつけた。
飲んでみると、本当に落ち着いてきた気がした。
「私達には娘はいないの。だから、どうしても放っておけなかったのよ。……あなたを見ていると、昔の夢を思い出すわ。娘と一緒にしたかったことが。一緒に買い物に行ったり、お菓子を作ったり」
トーシャは頬を緩ませて、いつくしむような目を向ける。
「ああ、そうね。ねえ、一緒にお菓子を作らない?」
「ええっ。だ、だめです」
自分の料理の腕を知っているパトリーは遠慮する。
「なぜ? すぐに作れるお菓子よ。伝統的な菓子でね。私がしっかりと教えますよ」
パトリーはためらう。
「ほら、一緒に、ね」
トーシャはパトリーの手を取る。しわくしゃの小さな手は眠りたくなるほど温かかった。
気がつくと頷いていた。
台所に案内されると、テーブルの前に椅子が置かれた。パトリーのためだ。そこに座ると、テーブルの上にナイフと林檎が置かれた。
「じゃあまず、林檎の皮むきをお願いね」
パトリーは口元を引きつらせながら、そろそろとナイフを手に取った。
……しばらくした後には、まさに無残の一言の光景があった。
「あらあら、手は大丈夫?」
「手は……大丈夫です」
林檎は大丈夫ではない。皮むきどころか実まで抉り取ってある。
「もしかしてお菓子作りは初めて?」
「いえ。友達と一緒に作ったことは何度かあるんですが……やっぱり、苦手で……」
友達にも、もう菓子作りは諦めろと言われた。何度目かの失敗の後。
料理もうまくできないのだ。する前から分かっていたことだけれども。
「大丈夫。苦手だって、いずれうまくなりますよ」
か細い優しげな声に、パトリーは顔を上げる。そこには慈愛に満ちた顔がある。
パトリーは言葉がなかった。
菓子作りは続行された。小麦粉や卵を作った生地を協力して作ってゆく。トーシャはパトリーに優しく助言しながら、微笑みつつ見守っている。
しばらくすると、おじいさんが帰ってきた。
「お嬢ちゃん、出来る限りの人に呼びかけてきたよ。見つかったらこの家に案内するようにしておいたよ」
「あ、ありがとうございます」
トーシャは椅子に座ったおじいさんに、飲み物を差し出す。おじいさんは軽く頭を下げて飲む。
「甘いにおいがするね。二人で菓子を作っているのかい?」
「ええ。……ああ、小麦粉が足りなくて……」
トーシャが言い終わる前に、おじいさんは立ち上がって、棚に手を伸ばした。
「これでいいかい?」
「ええ」
とトーシャは小麦粉を受け取る。
「できあがるのを楽しみに待っているよ」
微笑んで、おじいさんは居間に戻ってゆく。
パトリーは先ほどの二人の様子を思い返していた。
「……なんだか、自然でしたね。言わなくても通じるというか」
そうパトリーが言うと、かすれたような声を出してトーシャは笑った。
「当然ですよ。夫婦ですもの」
その言葉はパトリーの中に、深くしみこんでゆくのだった。
「……いいですね」
「え?」
「……あたしも、そういう夫婦になるというのなら、結婚も、悪くないのだと、思います」
パトリーは見たことがなかった。これほど優しい夫婦というものを。
身近にあった夫婦というのなら、シュテファンとシルビアの夫婦がある。けれども冷たいシュテファンのまなざしからは、その夫婦に愛があるのかは、パトリーにはわからなかった。何年も共に暮らしていたのに。
そして知っているといえば、姉達だろう。嫁いで行ったのだから、あまり会うことはないのだが。長姉の結婚式のときのことが、鮮烈に脳裏に残っている。若い花嫁である長姉の隣には、60歳だという花婿が立っていた。確か花婿には30を越えた息子が三人もいたはずだ。その光景はあまりにも強烈で、忘れることができない。
父母がどうだったのかは、シュテファンから伝えられた話しか知らない。それもいい話ではなかった。
初めて、結婚している二人を見て、それがうらやましい幸せの美景だと思えた。
それでもパトリーは、だから結婚したくなる、というように短絡的には考えられない。
うらやましくはあっても、そう進もうとは思えないのだ。今の自分には。
「……あたしがもっと年をとって、おばあさんくらいになったら、トーシャさんたちのような結婚をしたい、と思えるかもしれません」
年をとって、全てのしがらみを忘れた頃になら。そうしたら、今自分の胸の中にあるしがらみも解けているだろう。
トーシャは少し首を傾けた。
「そうかしら。長い年月を一緒に過ごしたから、私達は今、こうなんですよ。おばあさんになってから結婚をしていたら、きっと相手のことはよくわからなかったでしょうね」
トーシャの言葉は優しく響く。
「時間というものは誰にでも平等。私達だって最初から全部解り合っていたわけではないのですよ。結婚当初はいろいろと、それこそどこに何があるか、なんてことで喧嘩していましたよ。最初から解り合っている夫婦なんていませんよ。何十年も一歩一歩ゆっくりとでも二人が近づいていったから、今があると、私は思っていますよ。明日があるとためらって今を逃してしまうと、明日も失ってしまうでしょう」
か細い声の言葉はゆっくりとして、含ませているようだった。
優しさが溢れた言葉全てを、パトリーは忘れることができないだろう。
パトリーの中で、ゆっくりと何かが変わってゆく気がした。それは本当にゆっくりとして、自分でも気づかないように。
「――さあ、続けましょう」
その言葉に促され、パトリーは菓子作りを再開した。
パトリーが迷子だとわかってから、オルテスたちは分かれて捜索することにした。もちろん、オルテスと、ノア・イライザ組にである。
オルテスはルースを馬車においてきたことを後悔した。ルースがいれば、パトリーの居場所に飛んでいくのを追いかけるだけでよかったのだ。
人ごみの中をかき分けつつ、それらしき姿がないかと見回す。
今のところまったく見当たらない。
「おい」
後ろから呼びかけられ振り返ったとき、そこにパトリーがいた……気がした。一瞬だけ。
男がいる。こんなところにいるのが不自然な男が。
オルテスと同じくらいの背。黒い服に包まれ、亜麻色の髪が揺れる。
シュテファンだ。
二人の間に、張り詰めた空間が芽生えた。
「これはこれはお久しぶりです。クラレンス家の当主代理様」
からかい混じりにオルテスは言うが、シュテファンには気にする様子はなかった。
オルテスとシュテファンは何度か顔を合わせたことがある。クラレンス邸に居候になっているときだ。
その時はどちらも、あえて近づくようなことはなかった。
「パトリーはどこだ」
それを聞いて、オルテスが心の中で驚いた。
この男が出てきたということはパトリーが連れていかれたのだ、と思ったから。
「さあ」
肩をすくめた。オルテスは正直に誠実に返したつもりだが、シュテファンは鋭く睨む。そんな威嚇をオルテスは意に介さない。
「ふん、居場所を教えるつもりはないということか」
その誤解を訂正するつもりはなかった。
少し反応が見たくて、オルテスは口に出す。
「パトリーはあんたを憎んでいるぞ」
シュテファンは驚く素振りを見せなかった。それどころか、口角を上げて笑う。
「それこそ望む限りだ」
オルテスは目を細める。
くだらないことをする奴だと、前々からオルテスは思っていた。
数ヶ月同じ家に住んでいただけだが、シュテファンが密かにパトリーに冷たくしていたのは分かっていた。パトリー自身が気づいていたのかは分からなかったが。
無理やりにパトリーを結婚に追い込むやり方は、誰も望まないというのに。
シュテファンは冷たい目で、オルテスを観察している。
「以前離れたようだが、またパトリーと共に旅することにしたのか」
否定しても仕方がない、と、オルテスは頷く。
「……したのか」
ぼそっとシュテファンは呟く。
「何だ?」
「パトリーと結婚したのか?」
冷厳に冷たいいつもの表情でシュテファンは言う。
オルテスは一瞬意味を理解できなかった。把握できたとき、思わず吹き出し、笑いかけた。
その反応を見て、シュテファンは、
「そうか」
と何かに納得したようだった。
オルテスは笑うべきか怒るべきかで迷った。
しかし冷静に考えてみると、シュテファンが危惧するのももっとものことだと思った。結婚させようという妹がどこぞの誰とでも勝手に結婚してしまえば、お終いである。
それも――自分で思うのもなんだが――かなり不適当な男と妹が結婚したなんてことになれば、シュテファンは卒倒してもおかしくない。
それならば、これでシュテファンはほっとしているのだろう、と思って見てみるが、喜んでいる風でもない。
何を考えているのか分からない表情で、シュテファンは独り言めいた口調で言う。
「……別にお前とだろうが誰とだろうが構わんが」
「何だって?」
シュテファンは答えず、後ろを向いて挨拶もないまま、人ごみの市場の中にまぎれていった。
『誰とだろうが構わん』――?
オルテスは怪訝に思いながら、その去っていった方向を見ていた。
再びオルテスはパトリーを探し回る。
あまりにも広い市場では、ノアたちにも出会わなかった。
そんなとき、ある店を通りかかると、呼び止められた。聞くと、パトリーはある家にいて待っているという。
オルテスはその場所を聞くと、一直線に向かった。
小さな家だった。
息せき切って走っていたが、扉の前に一人立っていた。
二つの剣を背中に背負っている女。イライザだ。
彼女がここにいるということは、ノアももうこの中にいるのだろう。
一つ、確認したいことがあった。
「ここか」
「ええ、この中に」
短い受け答え。
「……さっき、シュテファンに会った」
イライザはぴくりと、肩を震わせ反応する。
「一人だった。今すぐ襲いに来よう、という様子ではなかった」
「何か話しましたか」
「ためにもならない、よくわからない話を少し。ああ、そうそう……」
オルテスは少し声のトーンを上げる。
「皇子によろしく、って。ノアがそうだとはな。驚かせてもらった」
イライザの目が見開かれる。
「シュテファンどのが話したのですか! 口止めをしなかったのがまずかった……」
下唇をかむイライザ。
オルテスはそれを見て、
「なるほど、おれの想像が的中したわけだな」
と頷きつつ言った。
イライザは愕然とした。
「……まさか」
「シュテファンはそんなことは言ってやしない。鎌をかけてみたら、大当たりか」
イライザは自分の失態に次第に顔を青ざめる。
いろいろとおかしいと思っていた。どう見てもパトリーに気があるようなのに、ノアはパトリーへ皇子との結婚を強力に勧める。いくら大親友だとしても、おかしい気がした。
そして素性を隠していたこと。皇子の友といったら、皇族か貴族しかありえない。護衛までついていれば、疑いようのない。それでも隠す理由は何か。
自然と、パトリーに知られてはまずい人物ではないか、と思った。パトリーの貴族間の交流なんて知らないが、当然のように、婚約者のことが思い当たった。
「ノアっていうのは偽名か?」
「……いいえ、ノア様は、いえ、殿下は、ランドリュー=ノア=シュベルクというお名前です」
「なるほど」
イライザは自分の犯した失敗に、苦しげに額を押さえている。
皇子で嫌だったことはないか、と聞かれたことを思い出せば、素性を隠した理由も想像できる。
「それで……脅すつもりですか」
イライザは自己嫌悪から回復し、顎を上げてオルテスを見る。
「そんなこと、脅す気にもならない」
くだらなすぎる。
分かってみれば、オルテスにはそんな感想しか浮かばなかった。当人にしてみれば真剣なことであろうとも。
「それで私が安心すると思いますか。疑わないと思いますか」
オルテスは肩をすくめる。
脅すかもしれないと、疑う理由は探せばいくつもあるだろう。しかし、疑わない理由を探すのは難しい。
だからって、自分は無実で、そんなことは絶対にしない、と、ここで必死になるつもりはない。
疑うなら勝手に疑え、だ。自分が彼女の立場なら、何と言ったところで疑うだろう。
オルテスはイライザの隣に立って、扉を開けようと手を伸ばす。
「オルテスさん。あなたは……殿下にとって害となる」
イライザは見上げている。剣呑な輝きの瞳は敵意がむき出しになっている。
「覚えておいてください。私は、殿下のためならば、何でもする」
ノアも敵意を向けてくることはたびたびあった。
しかし今のイライザのように、殺意までは含ませてはいなかった。
自然と、自分の腰に釣り下がっている龍の巻きついた宝剣の重みを感じる。イライザの背にある二本の剣、腕の動きに気を払う。
近くの市場の喧騒も、そのときの二人は聞いていなかった。
オルテスは、ふ、と笑った。
「ノアもいい部下を持ったもんだな」
緊張した空気を忘れるかのように、無造作に扉を叩く。
中から声がして、老婆が扉を開けた。何か歓迎するような言葉を言っていた。
オルテスは部屋の中に入る。
すると、居間でパトリーとノアと老人が座って、談笑しながらパンケーキのようなものを食べていた。
「あ、オルテス、待っていたのよ。ほら、ちゃんとオルテスの分も残してあるんだからね」
と、パトリーがパンケーキを差し出す。
そのパンケーキは間にサワークリームや果物を挟ませて食べるものらしい。一口食べると、甘さが口の中に広がった。
「どう? トーシャさんと一緒に作ったの。……って、ほとんどトーシャさんがしてくれて、あたしは邪魔しちゃったようなものだけど」
そんなことはないわ、と老婆が言う。
ノアもにこにこして食べ終わっていた。
「……そうだな、パトリーもやろうと思えばできるじゃないか」
オルテスがそう誉めると、パトリーは口元を緩ませて、瞬きを何度かしていた。照れているらしい。
笑顔が満ちた人々。
紅茶と甘いもの。
優しい空気の家。
パトリーが安らいだように笑う。
ぬるま湯につかっているかのような、午後。
ときどき思う。こういうものもいいのではないかと。
忘れられなくても忘れたふりをし続けていれば、本当に忘れられるのかもしれない。戦場の記憶も、家族のことも。戦い方すら忘れるかもしれない。それが希望にすぎなくても。
代わりに、もっと、優しくて、誰も傷つけないような温かさを手に入れられるだろう。
あの当時では望み得なかったものが、今なら。そして、パトリーが隣にいるなら。
しかし。
オルテスは半分残したパンケーキをテーブルに置く。
後ろから感じる、オルテスだけが感じ取れるびりびりとした殺気。
それは緊張を強いる。なじみのある、戦いへ駆り立てるもの。
優しさ溢れた温かい家も人々も、オルテスの居場所ではない。
こうしている今でさえ、すぐに剣を抜けるようにしている。それが日常で、通常のこと。
温かさに浸かり続けることはできない。それが自分の世界だ。
過去の、忘れられるとしても忘れたくない世界だ。
パトリーとは離れた場所の、世界だ。
「どうしたの? オルテス」
隣にいたオルテスはゆっくりといつもどおり、軽く首を振る。
「いや、おいしかった。けど、やっぱりおれは、パトリーみたいにそれほど甘いものは食べられないから」
少し残念そうなパトリー。そんなパトリーにノアが楽しそうに言う。
「パトリーもさ、料理は苦手だ苦手だ、って言っていたけど、練習すればもっとうまくなるんじゃないか? このパンケーキ食べたら、そう思うよ」
「ええ? だって、本当にこれはトーシャさんのおかげなのよ?」
「じゃあ今度は俺が手伝うからさ」
「ノアが料理?」
パトリーとノアの会話が続く。
ずいぶんと気が合うんだな。
オルテスは遠くに感じながら口を出すことはできず、そんな自分に苦笑した。
これではまるで……。
紅茶と甘い菓子の香りが、小さな家にたゆたっていた。
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