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第32話 後悔の末(3)
「殿下はどうして素性を明らかにされないのですか」
「藪から棒に、なんだよ」
うなだれたまま、ノアは前を行く。
病院で、パトリーは一言も口をきいてくれなかった。シュテファンのような氷の視線は耐え難い。
ノアたちは、キリグートのとある場所に向かっていた。
「ご自分がランドリュー皇子である、と明らかにされれば、パトリーさんも全て納得しますよ。そうなれば、パトリーさんも自分の結婚について、考え方が変わると思いますが」
イライザは口には出さないが、さまざまなことを考えている。主に、ノアのためになることを。
今言ったことは率直な彼女の意見だった。
ノアは頭を少しだけかく。細い三つ編みが揺れる。
「……本当のことを言うと、俺さ、このままでいたいんだ」
ノアの空色の瞳は美しい山間の川のように澄んでいる。
「パトリーと一緒に旅して、ばかみたいなことで笑ったり、話したり、して。今までの旅も、とても楽しかったと思うんだ。すっごく。俺が皇子だって明かしたら、全部崩れる気がしてさ」
少しだけノアは目を伏せる。
「オルテスの言うように、そんなことは望むべきでないことかもしれない。けれど、さあ、ノア、ってパトリーは呼ぶ。殿下でも、皇子、でもなくさ。怒るけど、恐縮することはない。それって、とても嬉しいんだよ。臆病だろう? 何度か話そうと思ったことを、今さら言うのが怖いなんて。けれどさ、一緒にいればいるだけ、壊すのが怖くなっているんだ」
気持ちが解る分だけ、イライザも少しうつむく。それでも彼女は言うのだ。
「いくらパトリーさんがそう言おうと、殿下は皇子です。それが変わることはありません」
「わかってる。もうそれは、諦めかけてる。納得はしていないけどさ。ただ意味がわからないんだ。俺が皇子である意味って何なんだろう。それに意味を見出せないんだ。パトリーは頭を下げるだろう。もう、ノアって呼ぶこともないだろう。それすら捨てて得られる価値って、あるかな」
「それでは、殿下はパトリーさんと結婚しなくてもよろしいのですね?」
それにはノアは慌てた。
「そ、そうは言っていないだろっ! もっと仲良くなって……結婚はそれからでいいんじゃないかなあ、って。パトリーにも俺にもそれが一番なんじゃないかな、って」
イライザの意見は違う。
なるべく早く素性を明らかにし、今無理やりにでも結婚しておくべきなのだ。
それは外側から見た人間ゆえの考えかもしれない。けれど外側にいる立場ゆえに分かることがある。
看過できない存在がイライザの目の前にちらつくのだ。
今後のことを考えると、ノアにとってもパトリーにとっても、なるべく早いほうがいい。絶対に。それは確信に近い。
そうイライザは思っている。
「私はそうは思いませんね。殿下のためには、結婚は早い方が良いです」
理由は言わず、イライザはそう助言した。ノアは顔を向けた。
ノアは深刻そうに考え込む。
しかし彼の考えがまとまる前に、目的地に到着した。
そこはホテルだ。ノアたちの宿泊している場所ではない。だが同じくらい立派なホテルだ。ほとんどの客は馬車で訪れる。
ホテルの従業員に、ノアは言った。
「すまない。ウィンストン卿という人物が泊まっていると聞いている。取り次いでくれ」
しばらく時間がかかった後、一階のフロアに彼は慌てて降りてきた。
「殿下から参られるとは。お越しになると知っていたら、ここで待っておりましたぞ」
驚きながらも、ウィンストン卿は嬉しそうだ。
「さきほど言い忘れたことがあったとか?」
ソファがいくつも置いてある待合室で、ノアの前にウィンストン卿は腰を下ろす。
「無理だ」
ノアはきっぱり言った。
「パトリーを退院までに納得させることは不可能だ」
それがノアの結論であった。
さっきの言い争いなど、惨憺たるものだ。あれから一転、結婚したいです、なんて彼女が言い出すはずがない。
「それで?」
ウィンストン卿は手を上げ、コーヒーを頼む。
「だから、やっぱり結婚は延期してほしい」
「いつまでですかな」
「もうちょっと……パトリーが納得してくれるまで……」
イライザとウィンストン卿は、偶然にも同時にため息をついた。
「まったく、殿下という方は……」
その後の言葉は紡がれることはなかった。そしてそれが感嘆の言葉でないくらい、ノアにも分かった。
「いけないのか。ウィンストン卿だって、俺が結婚に禍根を残したくない、って気持ち、分かってくれるよな。ウィンストン卿にとっては他人の結婚かもしれないけどさ、俺にとっては一生に一度の結婚なんだぞ。せめて喜ばしく式を迎えたいじゃないか」
「まったく! 貴方ほど軍の司令官に向かない人はおりませんな」
「どういう意味だ?」
「肉を切らせて骨を断つ、ということができない、と言っておるのですよ。あなたは重要な決断をいつまでも先延ばしにしたいと考えるくせがある。そしてそれで、自分も誰も傷つきたくないという、信念に似たものすらある。しかし欠点として、その決断にすら、どうしても迷わずにはいられない。決断した後ですら。……昔からそうでしたな」
ノアは押し黙る。
その間に、ウィンストン卿へコーヒーが運ばれる。彼は一口すする。
「聞きましたぞ。一度シュテファン殿に、婚約破棄を申し渡したとか? それでも結局、あなたから取りやめた。……殿下にとって、決断には後悔が付きまとう。あなたは後悔をせずにはいられない。そしてその後悔に、負けてしまう」
「……それが、何だっていうんだ」
「殿下が大学進学するときもそうでしたな。どの学部にするか、いつまでも迷っていた。最初から最後まで、本命は医学部のようでしたが。それでも迷っていらした。そして進学してからも、これでよかったのか、と迷っていらして。簡単に学部は変われるものではありませんから、最後は諦めておられたが」
ノアの頭の中で、ウィンストン卿の言葉がぐるぐると回る。
「もっと以前、殿下すら覚えていない頃の話をしましょうか。殿下がお母上の元から、エリバルガ国へ行くと決まった時。それは殿下にはどうしようもないことでしたな。お小さかったこともありますから。それでも、別れの日、儂が迎えに行きましても、決して家を出ようとはなさらなんだ。お母上がとうとうとその理を説かれても、首を振るばかりで一歩もお動きにはならなかった。結局、将軍が担ぎ上げ、無理やり連れて行きましたな。エリバルガ国への船の中、陸の旅路でも、いつまでもぐずっておられた。長いこと、帰りたいと思っていらしたでしょう? 学ぶことが国策であり、殿下のためになると何度説明したことか。それを理解してもなお、殿下は帰りたいと思っておられた」
それはノアの脳裏にフラッシュバックする光景。
帰りたい、そう泣き叫んだ自分。
覚えのある強い感情。それに引きずられそうになって、ノアは首を振り、虚勢を張る。
「っ当然だろう。子供だったんだ。母親を恋しく思うものなんだ」
「子供なら、仕様のないことでしょう。しかし大人なら、多少のことは耐えねばならぬものなのですぞ。殿下はお優しい心根に育たれた。誰も傷つきたくない。傷つくところを見たくない。ご立派。それはご立派です」
ウィンストン卿はソファを座りなおす。
「それゆえに、あなたは決断ができないお人です。決断には、誰かの、自分の、運命を動かすものだから。ご自分ではそれができないのでしょう。――ここで一つ、予言をしましょうか。もし、殿下のおっしゃるとおり、結婚を延期にしましょう。そうしたところで、殿下は絶対に後悔なさる。望みどおり、パトリー嬢が結婚を承諾し、つつがなく挙式があってもです。何かを後悔するでしょう。あなたは結婚を後悔せずにいられない。そして、ここで我々が強引に結婚をさせたとしても、殿下は後悔なさる。それはさまざまな理由があるでしょうが。そう、どちらにしても、殿下は後悔なさるのです。それなら同じことです」
ノアの中で、コーヒーにたらされたミルクのように、ぐるぐると言葉が回る。
後悔をする? どうやっても、どうしても?
言葉が響く。
「未来の苦しみがあるとわかっても決断をする……シュベルク国皇帝陛下のそういった果断さは素晴らしいことだと、儂は思っております。ですが殿下には受け継がなかったようですな。肉を切らせて骨を断つ……殿下には、切らせること、断つこと、どちらもできないのでしょうな。たとえ必要だと言われても。それを優しさと言うこともできれば、弱さと言うこともできる。殿下が決断できないからといって、事態は動いております。結婚はせねばならんのです。ならば無理やりにでも、周囲の我々が動くほかないでしょう。殿下にとっては自分で手を下さなかった、という免罪符が救いとなりましょう」
ノアの声が震えている。
「だ、だけど、俺、俺は……」
ウィンストン卿の言葉は頭の中を侵食する。自分というものが固定されるような、わからなくなるような。
そしてそれにノアは反論が持てない。
それがショックなのだ。底なしの穴に落ちてゆくような。
「殿下……。お母上の元から離れたとき、あなたは将軍に担がれながら、ずっと目を見開き、泣いておられた。もうお母上の声も聞こえない場所までいらっしゃったというのに、ずっとずっと目を見開いて、耳を澄ませておられた。儂はこうして」
ウィンストン卿はノアの目を覆う。そして手を離したとき、ノアのまぶたは閉じていた。
「目を閉じさせて、そして」
次に、ウィンストン卿はノアの両耳を手で覆った。
「こうして耳を塞いだ」
ウィンストン卿が手を離すと、ノアはゆっくりと目を見開いた。迷子のように揺れた瞳がそこにある。
「何も見なければいい。何も聞かなければいい。何もしなくてもよいのです。全ては儂がやりましょう。全ての後悔、恨みは儂が背負いましょう。殿下は無理やりに、そう強制されただけ。動かないことを恥じることはありません。あなたはあの子供の頃のように、全て翻弄されただけにすぎないのです。動けば後悔が大きくなりますぞ。何もしないの一番なのです。何もせずともよいのですぞ」
ノアは少しだけ口を開く。だけど、俺は、俺は、と小さな言葉の薄片があっても、文章となることはなかった。
ノアの瞳はずっと揺れている。
ウィンストン卿は、更にノアの子供の頃のエピソードを持ち出してくる。
言ってゆくたびに、ノアの瞳はにごって迷いの色が強くなる。
ぶつぶつとノアは反論のようなものを言っていたが、しばらくして何も言わなくなった。そして苦悩の表情で頭を抱え始めた。
イライザはウィンストン卿を睨む。
何があったのか、イライザは分かっている。
ウィンストン卿は、ノアに思い込ませようとしたのだ。洗脳に近い形で。
何も動かないように、つまり、邪魔をしないように。
子供の頃の話を持ち出して、過去で揺さぶって。
ウィンストン卿はイライザの睨みを受け止めつつ、コーヒーをすする。
この仕打ちは、許せないものだった。いくらウィンストン卿だとしても。
ただ。
イライザにとっても、この件だけに限れば、ノアが何も動かないというのは、いいと思えた。
だから、彼女は頭を抱えるノアに何も言わなかった。
肩を叩いて、しっかりしてください、と言えば、ノアは我に返ると分かっていても。
退院の日は、晴れ渡っていた。
「いろいろと、ありがとうございました」
診療室で、パトリーは深々と頭を下げた。ビリュコフは適当に手を振る。
「感謝しているなら、もう病気なんてしないで、二度と来ないでくれ」
うんざりしたような口調である。
パトリーはこの男に微妙な感情がある。
オルテスの過去の話から考えると、許せない人物だ。
けれど今は、パトリーの命を助けてくれた恩人なのだ。
「実際、あんたが助かってくれて、こっちが感謝している」
ビリュコフは大きく息を吐き出す。
「私はあの男に脅されていたんだ。あんたを何としてでも助けなければ、殺すって。絶対に、何があっても助けろ、って。ひどく恐い剣幕だった。あんたの命も繋がったが、私の命も繋がってくれたわけだ」
「…………」
パトリーは目の前が晴れ渡る。それは誉められたことでなくても、彼が殺意よりもそれを優先してくれたということに安堵し、胸の中が熱くなるのだった。
もう一度、深々と頭を下げて、パトリーは診療室を後にした。
部屋の外に出ると、オルテスがいた。
「オルテスも退院?」
「パトリーが入院してなければ、とっくに退院してたんだぞ、おれは」
オルテスの怪我をした側の肩に、ルースが留まっている。
「――そうだ、これを返しておくわね」
パトリーは服の下から蒼い石を取り出した。預かった、オルテスの妹の形見である。
オルテスは無言で受け取る。
パトリーはビリュコフの話をしようとしたが、名前を出すところで、オルテスが露骨に嫌そうな顔をした。だからそれについては口を閉ざすことにした。
「パトリーの旅に付いていくが、金はないからな」
金がないのは予想の範囲内である。それどころでなく、当然のことでもある。
二人と一羽が玄関に近づいたところで、ノアとイライザがいた。
イライザは心配そうにノアを見ている。ノアは、虚ろな目である。パトリーが声をかけると、びくっとした。
「何よ、そんなに恐がって」
「え、だって、前にパトリー、すっごく怒ってたじゃないか」
パトリーは、ぽん、と手をつく。
「ああ、そういえばそうだったわね」
ノアは緊張させた肩をがくんと下ろした。
「何日も前のこと、引きずってないわよ。え、そんなことが理由で、ここ何日も来てくれなかったの?」
「いや……うん……」
煮え切らない返事である。
「ノアにも見せたかったのに。歩く訓練中、珍しい花を見つけてね。オルテスも看護婦さんも名前を知らないっていうのよ。ノアかイライザだったら知っているかな、って思って、来るのを待っていたのに。来ないと思って、荷物と一緒に、馬車の中に入れちゃったわ。――そうだ、ノアはこれからどうするの?」
「え?」
「あたしはもうほとんど治ったし、他に行く予定でもあるの?」
ノアは立ちすくんで、声を絞り出した。
「……ないよ」
「あらそうなの? それだったらさ、また一緒に旅しない? これから南へ行って、タニア連邦に行く予定なのよ。それから千鳥湾を越えて、千鳥湾の『入り口』に戻るつもり。どう? ノアたちと一緒の旅も楽しかったから、一緒だと嬉しいわ。もちろん、何か用事があるなら別よ?」
「……セラに、行くつもりはないか?」
セラ? とパトリーはしばらく考えた。
「そうね、セラは……しばらく行くつもりはないわね……。今重点的に力を入れているのはミラ王国と千鳥湾の『入り口』だし……」
「そうか……」
小さな落胆がノアにあった。
「ノアはセラに行くの?」
その問いに、ノアは詰まった。
それらの会話や態度をオルテスが観察しているのに気づいていたのは、イライザだけだった。
まあいいわ、と一行は玄関まで歩く。
看護婦たちからの退院おめでとうの言葉に、一つ一つ返して、パトリーは手を振って、病院を出た。
病院の前には馬車が一台つけてあった。大きな馬車だ。
それがパトリーの手配した馬車。荷物も積んである。未処理の書類もだ。マレクはすでに南へ向かっているはずだ。
イライザはノアの背を叩く。イライザは左方を密かに示した。
左を見てみると、続々と馬車の群れが向かってくる。
そこにはウィンストン卿の手の者たちが乗っているのだろう。
ここでパトリーがちょっとでも乗り遅れたり、立ち止まれば、すぐに馬車は取り囲まれてしまうくらいの距離。
『何もしないでいいのです』
ウィンストン卿の言葉がリフレインする。
その瞬間、ノアの手足が石のように硬くなる。動きが鈍る。
馬車に乗り込む前、パトリーが振り向いた。
赤みを帯びた黒髪が、太陽の光に鮮やかに輝いている。
「ノアっ」
そう、彼女は呼びかけるのだ。
喧嘩したり、怒らせたりしたけれども。忘れたように、笑ってくれるのだ。
ノアは、唇を震わせながら、言葉を振り絞る。
「行って」
イライザが驚いたような顔をしている。
「早く、早く行くんだ」
「……ノアは?」
「俺はいいんだ。パトリーは行くんだよ」
ノアはぎゅっとこぶしを握りしめる。石のように動かなかった体が、動き始める。
「だめよ」
パトリーは当然のように言う。
「一緒に行きましょう、ノア」
ゆっくりとノアに何かが浸透してゆく。
パトリーは手を伸ばす。すぐ目の前。簡単に握ることのできる近さ。
「答えてくれないと、ずっとここにいるわよ?」
ノアは泣き笑いのような表情で、ふっと息をつく。
「パトリーって、ばかみたいだよ」
失礼ね、とパトリーは笑う。
「どう答えるかはノアの自由よ」
パトリーは決断を委ねる。ノアに決断を。
一つの躊躇なく、ノアは当たり前のように言葉にする。
「うん、一緒に行こう」
イライザが再び反応する。
「でもね、ちょっと俺、やることがあるんだ。だからさ、先に行ってて」
「じゃあ、街の外で待っているわ。早く来たら、その珍しい花を見せてあげるからね」
パトリーはすんなりと頷いて、馬車の扉を閉めた。
そしてノアの前から馬車は行った。
ウィンストン卿の馬車の軍団がやってきたのは、すぐだった。
ノアは馬車の前に立つ。イライザが止めても、聞かなかった。
ウィンストン卿は、悲鳴のような声を上げて、直前で止まらせた。
「殿下っ!! 何のつもりですか!」
「ウィンストン卿、俺は、パトリーに無理強いをするつもりはないよ。絶対に」
「何を――見ていたくないのなら、黙って隅におられなさい。邪魔をなさるな」
「ウィンストン卿! 俺は……俺は、決断に後悔するような、そんな、優柔不断な奴なんだろう。思い切ったことのできない、統治者としては失格の性格なんだろう。それでも、それが全てじゃない。俺はこれを、絶対に後悔しない」
ノアはウィンストン卿の話を聞いてから、思い出したことがある。
小さかった頃、母の元へ帰りたいと泣いていた自分。
国策、将来のため。もっともらしい理由はあった。それに後に納得した自分もいた。
それでも泣いていた幼い自分は確かにいたのだ。
後悔は何のためにあるのだろう。同じような失敗を繰り返しても、いつかそれとは違う選択を、決断するためではないだろうか。
決断を逃げることは、正しいことではない。
どんなことも、目を見開き、耳を閉ざすべきではない……もう子供ではないのだから。
ノアはそう思った。
ウィンストン卿は、いらだったように、馬車の手下に命令する。
「仕方ありませんな! こんなことをしたくはなかったのですが……殿下を捕らえよ!」
馬車からぞろぞろと人が降りてくる。
ノアの前に出て、イライザが剣を構えた。
「イライザ……」
「私は殿下のためにいます。殿下の決断や意思を、守るために……」
彼女は微笑んだ。
「ありがとう。けれど、穏便に済ませたい。ここはちょっと俺に前に立たせてくれ」
少し前に立つと、ノアは息を吸い込んだ。
「俺はシュベルク国第三皇子ランドリュー=ノア=シュベルクである!」
武器を持って出てきた人間は、びくりと立ち止まる。
「何人も、俺に触れることは許さない! シュベルク国第三皇子の名において命令する! 武器を下ろし、降伏せよ! 何人も、俺の行く道を塞ぐこと、俺の命に逆らうことは許さない! それでも武器を向けるか! さすれば、そのときより、その者は、シュベルク国に剣を向けたこととなるぞ!」
威厳と見るものを圧倒する何かがそのときのノアにあり、言葉は力を持っていた。まるで誰の頭上にもある太陽が目の前にあるようだ。
そこにいるのは、皆シュベルク国の人間だった。
見たことのないノアの気迫に、普段を知っているイライザやウィンストン卿ですら圧された。ウィンストン卿は玉座にあるシュベルク国皇帝のことが、頭に浮かんだ。
そこにいた者は、皆武器を落とし、座り込む。
馬車から降りたウィンストン卿は呆然として言葉もない。
ノアに戦意を向ける者は誰もいなかった。その彼には普通の人間が持ち得ない威厳があったのだ。
その様子を見ると、ノアはイライザに振り返った。そのときには、いつものノアがいた。
「さあ行こう。パトリーが待っている」
そうして、二人は向かったのだった。
パトリーの馬車はキリグートを出たところに止まっていた。馬車の窓から、パトリーが手を振っている。
見えるようになると、二人は走り始めた。
パトリーの振る手には、見たことのないような黄色い花が揺らめいていた。
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