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 第32話 後悔の末(1) 


 パトリーは泣きたかった。
「うう……もう許して……」
 ベッドの上で、パトリーは隣の男に懇願する。
「だめ」
 すげない言葉に、パトリーはそれを再開する。いったいいつまで続くことか……。
 そのときノックの音がして、扉が開いた。
「おはよう。パトリー、そろそろ……って、何だこれ」
 現れたオルテスは、体を引いた。
「紙に埋まっているじゃないか、この部屋」
 そう、今パトリーの病室は書類の山ができあがっている。パトリーはベッドの上で上半身だけ起こし、書類のサインなどをし続けているのだ。
 それも隣にマレクがいることで、逃げることはできない。
 マレクが病院にやってきたのは、パトリーの治療がひと段落ついたころだった。大量の書類と共に。
 病気の間滞っていた書類を、一気に処理させられている。
 あれでマレクも、なかなかシビアなところがあるのだ。
「仕事終わらないなら、今日の外出は、なしにするのか?」
「え、それは困るわ。ねえ、マレク」
 パトリーが横に顔を向けると、マレクは仕方がない、というように肩をすくめた。そして彼は持っていた書類を横に置く。
 パトリーは置いてあった松葉杖を使い、扉の前まで行く。
 椅子に座って休憩しようとするマレクに手を振り、パトリーは病室の外に出た。
 ――パトリーの体は調子を取り戻そうとしていた。
 ビリュコフ医師による治療は成功したのだ。ただ、うまく歩くのには少々訓練を要する。
 だから松葉杖を使って、パトリーは歩く。
 廊下で横に歩くオルテスは、肩の傷は治りかけているらしい。あまり話したがらないので、傷の具合はよくわからない。
「街の様子はどうだった?」
「普通だった。人間とはどういった状況でも、大概自分の生活を変えないものなんだな。政権交代、クーデターまがいのことが起こったというのに」
 そう、今いるグランディア皇国では、クーデターまがいのことが起こった。
 あの洞窟のあと、ダニロフ公は兵を連れて信じられないスピードでキリグート城を占拠したらしい。以前から計画されていたのだろう。アレクサンドラ皇太子は逃亡。彼女は国内にはいるらしいが、どこにいるかはわからない。
 そんな状況でも、皇王は病床にあるといってもまだ生きていて、表面上は何もない、とされている。ただ単に次の皇王位を継ぐのが皇太子ではなく、ダニロフ公に代わっただけで。
 街の人々へは、いつもどおりに生活するように、とお達しがあるそうだ。遠い村に住んでいる人だと、そんな交代劇があったことすら知らされていないらしい。これが、情報網の発達していない国の特性だろうか。
「けれどさ、いくら城を掌握したからって、次の皇王になる、って言って簡単になれるものなの?」
 パトリーとしては、複雑な気持ちだ。アレクサンドラが女皇になる、というのは好ましいものとは思えない。しかし、だからといって武力で皇王位を奪取する、という方法もいいものだとは思えない。
「簡単にはなれないだろう。現在も皇王は生きているわけだしな。ただし重要なことに、皇王になるためには、最も重要なのは、聖具の継承なんだ。グランディア皇国の皇王と認められるには、聖具を持っていること、というのが法の文言としてある。この国には聖杖アランと聖鏡シャーリングスの二つの聖具があるわけだが、歴史上、片一方ずつに分け与えられ、とんでもない戦争に発展したこともある。法の文言には『聖具』としか書かれていないものだから。現在は二つとも、城の宝物庫にある。城を押さえたダニロフ公なら、手にすることは容易だろう」
 ただ、とオルテスは言葉を続ける。
「ただ、現在皇王が生きている。そこで奪ってしまえば、さすがに、簒奪者の烙印は免れない。ただでさえ、アレクサンドラを追い出しているわけだからな。かといって、病床の皇王が、娘を追い出した男に聖具を譲る、というのも考えにくい。無理やりにでもそうさせたら、噂が広まるのも早いだろう」
「じゃあ、しばらくは現状維持?」
「そうだろうな。危うい均衡の上だが。あの女だって、黙って見ているわけもないだろう」
 あの女、とはアレクサンドラ皇太子のことだ。
「それに、ダニロフ公だってイメージは悪化している。それを払拭するのにも、相手を悪者に仕立て上げるか、自分に正当性があるとするか、どうにかするだろう。スムーズに城を占領するために、以前からいろいろと潜ませることができるくらいの頭はあるんだ。そういった、政治上の駆け引きが水面下で動いている時期だな」
 パトリーは熱心に聞きながら、何度か頷いた。
 商売というのは政治と切っても切り離せない関係にある。
 その他にも、街の様子、さまざまな物の物価、噂、などを聞きながら、パトリーは病院を出た。


 病院の横にはクラン川が流れている。
 場所柄として、あまり人通りはない。建物が林立しているわけでもない。現に、病院の隣には建物は立っていない。
 病院の左隣には、木々の茂る場所が広がっている。一種の小さな森のようである。
 パトリーはそこまで来ると、いつも一人で歩く訓練を開始する。
 木の幹に手をついて、普通に歩こうとするのだ。
 いろいろ聞いたところによると、比較的パトリーはいいということだ。重度ではないと。
 この訓練も何度もしているので、慣れ始めている。
 当初より、ずっと歩くのがうまくなっている。もちろん、以前のようにはいかないのだが。
 誰かが側にいると何となく嫌なので、オルテスにはここで帰ってもらう。
 いなくなったところで、訓練を開始するのだ。


 オルテスは、帰っていったと思わせただけだった。
 パトリーのプライドを考慮して、目に見える位置には居ない。
 木々の中にいれば、パトリーにはよく見えない。とある木に背をもたれさせる。
 なぜ、こうして見張りのようなまねごとをするかというと、暇だから、という理由が相当だろう。
 実際オルテスは何もすることはないわけで。病院には読める本もなく、街に行っても金がないので楽しめるわけもなく。
 今後の自分の展望を考えるためにも、こうして緑の中で腕を組んでいるのだ。
 皇太子の『願い』のことが駄目になった以上。
 諦めた、というのとは違う。喜び勇んで行くと、肩透かしを食らったような落胆だ。
 おかげで胸の奥で、くすぶったままだ。
 たとえば、全部忘れることも、考えないこともない。
 事実、戦場にいたときの自分は、過去は切り捨てて生きてきた。
 しかし、オルテスはもう大人だった。そのときの自分とは違うのだ。そこには埋めようのない、年月の川が流れている。
 忘れたふりはできても、忘れることはできないだろう。
 過去へ戻ることを、諦めることはできないだろう。
 パトリーの言葉が何度かよみがえりつつも。
 オルテスは顔を上げる。
 黙考していた彼の前に、ノアとイライザがいた。
 ノアはむっとしたような表情である。……そもそもオルテスは、むっとして不機嫌でないノアの顔なんて、見たことがない。パトリーがいる場所以外で。
「パトリーならあっちだ」
 オルテスは指で示す。だいたいノアの行動原理としては、パトリーのことが絡んでいる。短い時間でそう判断していたオルテスは親切にも言ってやったのだが、
「いや。あんたに話がある」
 とノアは顔の硬さをほぐそうともせず、まっすぐに見る。
「何だ、パトリーのことか?」
「そうじゃない。……あんた、皇子なんだってな」
 オルテスは平然と、ああ、と答えた。
 どこからその情報を知ったか知らないが、嘘をつく理由もない。
「あの……あんたはさ、皇子に生まれて、嫌だ、とか、皇子に生まれるんじゃなかった、と思ったことはないか?」
 ノアは緊張しているようだ。オルテスは疑いを持って槍先のように目を細める。
 何の意図をもってそういった質問をするのか、理由がわからない。
 そもそも、目の前にいる男が何者なのか、オルテスは知らない。
 パトリーによると、旅の途中のとあることがきっかけで、一緒に旅をすることになったとか。あとはノアのこともイライザのことも何も知らないそうだ。
 オルテスからすれば信じられない。見るからにそんな怪しいやつと旅を共にするなんて、絶対にできない。パトリーと共に旅をしていたときに出会ったなら、旅の共にすることを、何が何でも阻止したことだろう。
「おい、答えるつもりあるのか?」
 いらだったようにノアが睨む。
 とりあえず、答えておこうと思った。その反応で、何か分かるかもしれない。
「皇子が嫌だ、と思ったことはない」
 ノアがびっくりしているようだった。
「ない? 皇子だからって、友達に卑屈になられたり、自由が阻害されたり、いろいろなことが面倒になったり、ってなかったのか?」
 オルテスはそのたとえに、呆れた。
「そもそも最初から皇子に生まれていたんだ。最初からそういうものだと分かっているものだ」
「だ、だけど、分かっていても、嫌になること、あるだろう? 別の人生とかに憧れたりしなかったのか?」
「それはあれか? 試合をしても、相手がこちらに気を使って手を抜いて負ける、とか」
 ノアは顔を輝かせて、大きく首を縦に振る。
「腹立つことは腹立ったが、別に試合なんて、たかが練習だろう。真にこちらが強くなれば、相手は手を抜くことすらできない。手を抜かせたということは、こちらがそれだけの腕だ、ということだ」
 ノアの少し後ろにいたイライザが、小さく反応していた。ノアはまだ納得していない。
「だけど、だけど、誰かと対等に話したい、とか、思ったことはないのか? いつも頭を下げられ、誉められおだてられ、それで満足したのか?」
「頭を下げたからって、相手が本当に心から敬意を払っているわけがないだろう。どうやら勘違いしているようだがな、おれは皇子だからって、いい待遇だったとは思っていない。何でも命令できたわけではない。形の上ではかなり高い身分だが、実質的に権力を持っていた人間は他にかなりいたんだ。苦虫をかむような思いもいくらでもした。頭を下げるより屈辱的なことだってさせられた」
「だから、嫌だって思わなかったのか?」
 オルテスはため息を小さくつく。
「分からないやつだな。そんなこと、当然のことだろう? 皇子って身分だからって、何でもできるとはいつだって思っていなかった。そういった苦労は、どんな身分の人間だって被るんだ。皇子より上の身分でも、下の身分でも。苦労の度合いは大きく違うだろうが。皇子といっても、何でもできるわけがない。対等に扱う人間を求めることだって、自由にすることだって、望んでも仕方ないことだと、おれは考えもしなかったな。当たり前だろう。皇子というだけで恵まれた面があったというのに、望みすぎというものだ。下の身分の人間だって、上の人間に庶民と対等にあってほしいか、と聞かれれば、そうあってほしいと答えるだろう。だがそう問われれば思うだろうが、本気でいつだって望むわけがない。それくらいの現実は誰だって弁えている」
 ノアは沈黙した。それでも何かを言おうとしていたが、声にならないようだった。
 今の時代の皇子と自分とは違うだろうけれども、とオルテスは付け足して思った。
 戦いの連続のあの時代、皇子であっても戦死するのが普通の時代、そんなときに身分の存在の是非なんて、そんなことを考えた人間が、果たしているのか。
 この時代なら、もしかしたら考えるのかもしれない。身分の不合理さというものを考え直しているようなこの時代なら。そして、皇子ならそんな問いを自らにぶつけることも、おそらく正しい。
 しかし、ノアはオルテスに訊いてきた。
 それならオルテスは自分の答えを返すまでだ。
 黙ってうつむいたノアに、今度はオルテスが尋ねてみた。
「そういえば、訊いていなかったんだが、あんたたちは何者なんだ?」
 二人はあからさまに、ぎょっとしている。
「パトリーに聞いたんだが、エリバルガ国からずっと、付いてきたんだってな。随分ヒマなんだな。おれには意図があるようにしか思えないんだが」
 ノアは動揺している。
「そ、それは……パトリーが病気で、誰かついていなくちゃいけない、って思って……」
「ふうん。パトリーに。そうそう、パトリーの婚約者のランドリュー皇子と友達なんだって? あんたは友達の婚約者と一緒に旅していていいのか? それとも皇子の意思が働いているのか?」
 ノアの目が泳ぐ。イライザですら、顔をそらしている。
 かなり、核心を突いたようだ。
「聞きたいんだが、あんたはパトリーの婚約のことをどう思っている? ランドリュー皇子とパトリーの間にいて、何か思ったことはないのか? パトリーが結婚したくないということは知っているんだろう。皇子には伝えたのか?」
 兄から言われた結婚回避の旅は失敗したと、オルテスはパトリーから聞いた。
 聞きながら、やっぱりな、と思ったことは伏せておいた。
 パトリーは逃げ回った挙句、現在では二人の結婚は延期状態のはずだ。
 これからも、皇子と結婚するつもりはない、とパトリーは強く言っていた。その裏には、無理やり推し進めたシュテファンに対する感情もこもっていたようだ。
「皇子は、知っている」
 ノアは少し後ずさる。オルテスは木から体を離し、追い詰めるように近づく。
「ふうん。それでも結婚するつもりだと?」
「……したい、と」
 ノアの瞳の中に、強い光があった。意思の光に、オルテスは訝しがる。
 けれど問う前に、オルテスはあらぬ方向へ走り出した。
 ノアとイライザは不思議がりながら、それを追う。
 二人が追いつくと、そこには倒れたパトリーの体を支えるオルテスの姿があった。
「あれ、みんな、偶然ね。オルテスも、もういいわよ。ちょっとこけちゃっただけなんだから」
 パトリーは膝を払って、オルテスの手を借りて立ち上がる。それはとても自然なように、ノアには見えた。
 そんな二人に、ノアは思わず顔を背ける。
「ああ、そうだ。みんないることだし、言っちゃうわね。あのね、もう近々退院しようと思うの」
 そうかおめでとう、とオルテスは言った。
 イライザも、おめでとうございます、と言った。
 ノアだけは、顔を青ざめていた。
 彼の脳裏には、シュテファンやウィンストン卿との議論の結果が浮かんでいる。
 『パトリー嬢が退院したら、即刻セラで挙式ですぞ』
 覆すことの出来なかった、結果が。




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