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 第31話 夜明け(3) 


 パトリーは足に手を感じた。見下ろしてみると、オルテスがパトリーのふともものあたりを下から持っている。
 そして、オルテスはパトリーを持ち上げ始めた。
 パトリーは揺れながらも、手を必死に伸ばす。
 なんとか、出っ張った壁に両手をつかむことができた。
 あとはまさしく、腕力である。足は使えないのだから、純粋な腕力だ。何とか上へ登ってゆく。そして、穴のふちに手は到達した。ここからも難関である。頭上より高い場所にある手、それより上に体を持ち上げなくてはならない。しかも、そのふちは持ちやすいようにできていない。
 パトリーは身体能力が低いわけではない。
 オルテスやイライザには劣るが、剣をそこそこ扱えるくらいにはできるのだ。剣だって軽いものとはいえ、扱うには重い。
 パトリーは歯を食いしばり、腕を震わせながら、体を持ち上げてゆく。
 頭の天辺が穴から出る。
 顔全体が出る。指にはもう、全ての爪に土が入り込んでいる。
 胸が出たとき、パトリーはそのまま前方に倒れた。
 下半身は穴の中とはいえ、パトリーは穴の外に出ることに成功したのだ。
「よし、出たな。よくやったな」
 穴の下からオルテスの声がするが、今のパトリーには返事をすることができなかった。息を整えることだけで精一杯だ。
 呼吸と同時に胸が上下に動き、酷使した腕の感覚はない。
 いつの間にか流れていた汗が、目の中に入った。ずりずりと、体を完全に外へ出した。
 顔を上げて、辺りを見回す。
 そこは、斜面だった。木々がまばらに生えている。どこかの山の中だ。
 小屋一つ見えない。人影もない。
「パトリー、縄みたいなものはないか? ツタでもなんでもいい」
 オルテスが下から呼びかける。
 パトリーは周囲の木々を見渡すが、そんなものはなかった。木々はすべて針葉樹の杉。それもかなりの年月が経過しているような、背の高い杉の木ばかりである。
 枝を使うことも考えていたが、その枝が高い位置にありすぎる。折ることはできそうにない。木の皮は取れるだろうが、縄代わりとしてはいささか心もとない。
 パトリーはこの現状に焦り始めた。
 オルテスを引っ張り出すためのものが何もない。
「誰か!! 誰かいませんか!!」
 パトリーはどこかへ向けて、叫ぶ。
 その声に、何羽か鳥が飛び立つ。
「誰かぁ!!」
 応えるのは鳥の飛び立つ音のみ。
 パトリーは渋い緑の中で、呆然としてしまった。夜明け前で、こんなところに人がうろついているわけがないのだ。
「もういい、パトリー。へたして人を呼んで、兵士たちが来たら困る」
 穴の中を覗くと、オルテスは仕方がないという顔をして、屈伸運動をしている。
「受け取れよ」
 と言って、オルテスは何かを上へ投げてきた。
 パトリーは取りこぼしそうになりながら、全身でそれを受け止めた。
 見てみると、剣だった。
 龍の巻きついた宝剣。オルテスの剣だ。ちなみにそれはパトリーが金を出して買った。
「ある程度おれが壁を登ったら、そいつを上から下ろしてくれ。つかまって、登れないかやってみる」
 と、オルテスは壁を登り始めた。
 苦戦しながらも、なんとか登りやすい場所を見つけてゆく。思ったよりも順調だ。
 ある程度登ったら、パトリーは剣の鞘を下ろす。なぜ鞘だけかというと、刀身が抜けたら大変だからである。
 オルテスは片手でその鞘をつかんだ。
 もう一方の手はもちろん壁で、鞘をうまく利用して、登ってゆく。
 オルテスの鞘を握る手は、どんどん上へ伸びてゆく。パトリーの手が届くところまで来たら、オルテスの手をつかんだ。
 パトリーの手が、鞘の代わりとなる。しっかりつかみ合うと、鞘を回収する。パトリーはもう一方の手で地面をつかみ、穴へ落ちてしまわないように力を入れる。
 オルテスの大きな手が、パトリーの手を上ってくる。
 もうあと少しだ。
 そう思ったところで、がらがら、と何かが崩れた。その瞬間、パトリーの手に倍増する負荷がかかった。
 思わずパトリーのバランスが崩れる。体が穴に引っ張られる。
 爪を地に立て、全身に力を入れた。
なんとか落ちずにはすんで、パトリーは息をつく。
下を見てみると、オルテスがパトリーの手にぶらさがっているのだった。
「壁が、崩れた」
 オルテスのその言葉だけで、現状がわかった。
 男の体を支えている腕は、まさしく関節が抜けそうだ。
「オルテスっ! 何とか、あたしの腕をつたって、登れない? もう、そんなにもたない……っ」
 そのとき、大きな音が聞こえ始めた。
 兵士達の足音、声。音は消えることはない。確実に近づいている。
「離せ、パトリー」
 静かにオルテスが言う。
「何言ってるのよ! さっさと登って……」
「無理だ。そんなことをしたら、おれに引っ張られてパトリーも落ちる。それに、今のおれには登ることは無理だ」
 パトリーは、何を言っているのだ、と思いながら、目を凝らしてみた。
 ぽたり、ぽたり、と落ちている。
 だらりと下がったオルテスの腕。その肩から、血が流れ落ちている。大きな広間で見たときよりも、格段に。
「ついてない。さっき壁が崩れたとき、岩が傷口にぶつかってきた」
 オルテスは少しだけ苦笑する。兵士達がどんどん迫って来る音がする。
「離せ、パトリー。この高さなら、落ちても平気だ」
「……それで、あとどうするの。どうやって穴を出るつもりなの」
 オルテスは答えない。
 肩全体に血が広がっているような怪我で。もう壁だって登れやしないだろう。そして兵士達が迫ってきている。
「離せ、パトリー」
 その声は、パトリーが聞いた中で最も低く、迫力のあるものだった。命令しているようで、懇願しているような。
「離せ、そして行け。なるべく遠くへ」
「オルテスを置いて!?」
「そうだ」
 パトリーは腕が震え始めた。
「おれは平気だ。敵を倒して、突破する」
 そんなことは不可能に近い。いくら凄腕のオルテスといえど、出口のない場所で、向かってくる兵士を全て倒すなんて。おまけに肩の怪我はひどいのだ。
「っ、じゃあ、あたしも降りて……」
「だめだ。這ってでも遠くへ行け。できるかぎり。足手まといはいらない」
 オルテスの手はどんどんと落ちてゆく。
 パトリーはその言葉にショックながらも、動揺してはいけない、と己を律する。オルテスの手を強く握る。
「ふざけないで。ここで手を離せば死ぬ、と分かっていて、あたしがそうできると思うの。そんな人間だと思うの」
 もしそんなことをしてしまえば、自分が自分を許せない。目の前で見殺しにするも同然だ。
 そんなことは、もう、二度と耐えられない。そう思っていたのに。
「おれがそう言えるのも、めったにないことなんだがな」
 オルテスは軽い調子で言い始める。しかしその内容は、決して軽いものではなかった。
「いつだって死にたくないと思っていたし、そのためならさまざまなことをしてきた。戦場でもどこでも。生きる意味なんて分からなくても、それでも必死にだ。もし状況が違えば、おれはパトリーを底へ落としてでも、登っていったかもしれないな」
 淡々とオルテスは続ける。
「けれど今は、もういい。かつてないくらい、おれの中には何もない。生きようとする意地も、何もな」
 パトリーの顔が青ざめる。
「死にたいっていうの?」
「……少し違う。腐った医者共におぞましいことをされたとき、おれの中に初めて、望みというものが生まれた。一種の逃避に近いのかもしれない。しかし願ってしまったものは仕方がないんだ。初めて、過去へ戻りたいと思った。とても強烈に。不思議だろう。生きやすい場所でない過去を、強く、帰りたいと思ってしまった」
 抑えきれない執着が彼の言葉には溢れている。
「そのためなら何でもしたいと思った。リュインに何度も頼んだ。皇太子が願いを叶えるというのなら、ここまでほいほいとやって来た」
 だけど、その願いは誤解だった。
「おれは落胆しているんだ、パトリー。自分でも驚くくらい。今のおれなら、意地汚いことをせず、立派に死ぬ用意がある。全てどうでもいい。すがすがしいくらいだ」
 オルテスは笑う。
そこにあるのは死を前にした潔さだろうか。
彼の手に力はない。ぶらさがっているのは、パトリーがつかんでいるからだ。
手の力を緩めれば、オルテスはすぐに落ちるだろう。笑いながら。
そう考えながら、パトリーは強くオルテスの手を握りしめた。
「ふざけないでよ」
 パトリーは怒っている。言葉に、潔い笑顔に。
「誰だって、望みどおりには生きられないわよ。誰にだって、挫折の一つや二つはあるわよ。願いが叶わなかったくらいで、何を言っているのよ。わからないでしょう、未来は。もしかしたら、あんたが過去に行く何かが発明されるかもしれない。未来は、わからないでしょう。もっと強い望みだって生まれるかもしれない。未来には可能性がある。
 ええ、わかっているわ。オルテスは、だからあたしが手を離すことは悪くないって言い訳を作ってくれたんでしょう。全部自分が望んだことだから、って。けれどね。厳然たる事実として存在するのは、あたしが手を離したらオルテスは死ぬ、ってことだけなのよ。そんな言葉で、あたしが動揺すると思った? 手を緩めると思った? だと思ったのなら大間違い。あたしは、絶対に、手を離さない」
 オルテスを殺してなるものか。
 パトリーは、地面をつかんでいた手を伸ばす。体がずり落ちそうになるが、地面に触れる 全ての場所に、力を入れる。
 そして両手で、オルテスの手を引っ張り上げようとした。
 オルテスの体が揺れる。
「パトリー、女には無理だ」
「だれがそんなこと決めたのよ! 女だってね、やるときはやるのよ!」
 火事場の馬鹿力である。
 全身の筋力を使い、引っ張り上げる。
「死なせない。絶対。……また旅しましょうよ。一緒に、いきましょうよ……」
 その言葉にオルテスが瞠目した。
 パトリーは力を入れる。あちこちが痛かったが、もう構っていられない。
 ぐぐぐ、とオルテスの体が上がってくる。
 ところが、そのとき兵士が現れた。
 パトリーは動揺してしまった。
 それが手のほうへ伝わる。オルテスの体が落ちてゆく。
 しまった、と思ったときは遅かった。
 パトリーの脳裏に、オルテスが落ち、殺される場面が思い浮かぶ。
 いやだ!
 パトリーが必死に手を伸ばしかけたところ、すぐ右隣から手が伸びてきた。
 そしてその手はオルテスの手をつかんだのだった。
「どうやら、いいところで現れることができたみたいだな」
 隣の人物は、嬉しそうな声である。
 パトリーは顔を上げる。
「ノア!」
 そこにはノアがいて、オルテスの手をつかんでいるのだった。
「ノア様、手助けします」
 パトリーの左隣にはイライザがいた。イライザも手を伸ばし、パトリーも手伝うと、オルテスを引っ張り上げることができた。
 座り込んで、呆然と二人を見た。
「どうして二人とも、ここに……」
「あいつが、ここまで連れてきてくれたんだ」
 ノアが上を指差す。
 パトリーが顔を上げると、そこには杉の枝にとまるルースがいた。
「深夜に行ってみると病院にもいないし。どうしようか、ってところであの鳥が現れてさ、ついてこい、って感じで俺たちをここまで連れてきたんだ」
 ルースが枝から降りてくる。そしてオルテスの怪我をしていない側の肩にとまる。
「何の役にも立たないと思っていたが、やるときにはやってくれるんだな」
 そう言うと、ルースは怒ったようにつつき始めた。
 「ここも危ない。とにかく行こう」
 穴の中を見たノアがそう言って、立ち上がる。
 パトリーがオルテスの方を見ると、彼は気づいたように顔を向けた。
 パトリーは泣きそうになりながらも、立ち上がりかけたオルテスに抱きついた。
「おい、パトリー」
 困惑しているようなオルテスの声が、上からあった。
「……よかった」
 絞り出したような声が、パトリーの口から漏れた。
「もう大丈夫だ。おれはここにいる。ほら、また一緒に旅をするんだろう?」
 パトリーは顔を上げた。そこには当然のように言う彼がいる。
「言ったことは守ってもらうぞ。だから、早く病気を治せよ」
 パトリーはもう一度、衝動のように涙が出かかった。
「っ、パトリー、ほら、行くよっ!」
 ノアは焦ったように、パトリーを引き離した。
 そしてそのまま、彼女が立つのを手伝い、ノアの肩に寄りかからせて、強引に進み始めた。
 なんて分かりやすい奴だ、とオルテスは思った。
 その彼は、つき物が落ちたような顔で笑う。
 ノアに強引に進めさせられているパトリーだが、振り返り、オルテスのその表情を見て、顔が緩んだ。
 四人の進む方向に見える山の端から、太陽が現れ始めた。
 白い光は、山を、パトリーたちを、照らす。
 杉の深緑の葉、幹や枝を。葉の落ちた地面を。
 前を行くノアの顔を。イライザの隙のない様子を。肩の傷に気を向けているオルテスを。汚れていながらもどこか堂々としている様子のパトリーを。
 極彩色の羽を広げて飛んでゆくルースも。
 夜明けが、やってきた。




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