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第29話 永訣の日(2)
* *
それはとても寒い冬だった。家畜が死に、人も死んだ。
毎日のように吹雪が襲いくる。
外へ出て、歩いているだけで凍死した、という報告もあった。あまりの猛吹雪に、外へ出られない日々が、長く、長く続いた。
聖職者は、神の試練だ、などとのたまった。長老達は、かつて経験のない寒さだと言った。伝承にもない、と。
何とかやっていけたのは、夏のうちに南方の領地から戦い奪った食料などがあったためだ。
その冬、その寒さゆえの問題に、おれは掛かりきりだった。
その日の朝、リュインがやってきた。
暖炉は燃え盛っていたといえど、部屋はあまり暖かくない。
彼に会うのは久しぶりだ。前に会ったのは、バガリ=シルタとの戦場の場でだった。
一つ段の高い間、そこで椅子に座って見下ろす。リュインは下の段で膝を折っている。
おれは苦言を呈した。
『魔法軍の長として、その魔法でこの寒さはどうにかできないのか』
リュインは頭を下げる。
『申し訳ありません。魔法使いとはいえ、できることとできぬことがあります』
『……ならば、できるだけのことをしてくれ。春が来る前に、国民皆、凍死してしまう』
『はい。全力を尽くします。ところで、本日は陛下から、言葉を預かってきました。もし、ミリーとの結婚を諦めないと言うのならば、聖窟へ来るように、と』
横で侍っていたヨナスが腰を上げかけた。おれは腿の上に置いていた手に力をいれ、石のように固くした。
『聖窟……な』
『今さらではありますが、お諦めにはなりませんか』
『ここまで来て諦めると思うか。聖窟とは、あの親父も本気ということか。準備をしたら、すぐに向かってやる』
リュインは頭を下げて、引き下がった。
ヨナスが忠言した。
『これは罠です。陛下はオルテス様を亡き者にしようと……』
『そうだろうな。しかし、あの聖窟で卑怯なまねはしないはずだ。親父はおれに、一対一で剣を向ける。グランディ族の長の息子として、それから逃げるわけにはいかない』
おれは簡単な武具を身につけた。グランディ族は、鉄の重い鎧は着込まない。代わりに防寒は念入りだ。
戦場に赴くときには、いつも神の前で祈る。城の教会で、しばらく祈りをささげた。
その日も寒い日だった。
聖窟は城の外、山のふもとにある。行く間に凍死してもおかしくなかった。
『ヨナス、お前は帰っていいぞ』
『いいえ。いつもオルテス様のお側に』
おれは少し笑った。
城の外へ出ようと、閉ざしていた門を開けさせようとしたとき。
『兄上!』
と後ろから声がかけられた。
それは思ったとおり、妹のルクレツィアだ。
『父上と決闘をなさるとは……本当でございますか?』
心配そうに、憂いに満ちた顔で妹は言う。
『ああ。ミリーとの結婚を親父が認めない以上、こうなるしかあるまい』
『なぜ、なぜ……!』
扉が開いて、冷たい風が吹きすさんできた。
『ルクレツィア、部屋へ戻れ。行くぞ、ヨナス』
おれは力強く歩き出す。
どっ、と後ろから圧迫感があった。
ルクレツィアがおれの腰にすがりついていた。彼女の藍色の髪に挿した髪飾りが、音をたてる。
『それほど……ミリーを愛しておられるのですか』
おれは答えなかった。
振り切るように、再び歩き始める。
それでもルクレツィアはすがりつく。
『それほど! 兄上は私と結婚したくありませぬか!』
おれは振り返るわけにはいかなかった。
『お慕い申し上げております、兄上。兄上の母上が亡くなられ、私と共に暮らすようになってから、ずっと……! 兄上の妻となることが、夢でした……』
冷たく、思い出しながら考える。
妹の気持ちを知ったのは、親父に結婚を持ち出されたときだった。迂闊なことに。同母妹のように思っていた異母妹から、そんな気持ちを打ち明けられるまで、まったく気づかなかったのだ。
親父はルクレツィアの気持ちを知っていた。おれが断るはずがないだろう、と、ルクレツィアとおれとの結婚を決めた。
……ルクレツィアにも、親父にも、説明したところでわからないだろう。
そういった相手として見られない、ということは。
同母妹として見ていた、というのはおれの勝手だ。異母妹であるルクレツィアにとってみれば、それほど理不尽なことはないだろう。
言ってしまえば、傷つけると分かっている。
だから、何も言えない。
『ミリーなど、奴隷に過ぎないではありませぬか! 兄上にも、正妻に迎えるのは不可能だと解っておいででしょう? 私は、自分だけを妻にするように、と無茶な頼みはいたしませぬ。私を正妻にしてから、側妻としてミリーを迎えればよろしいでしょう』
答えないおれに、ルクレツィアは泣き始めた。
『……それほどお厭いですか。一片の情すら、おかけになってはくださいませぬか……』
手が緩められた。
おれは振り向かず、扉へ進む。
行くしかなかった。
それが、妹に偽りの情もかけてやれないおれの、進むべき道だった。
『……お待ち下さい』
再びルクレツィアの声。
今度は、妹は目の前に回ってくる。そっと涙をぬぐいながら。
『これを、お持ち下さい』
そう言って妹は何かを差し出した。
『……蒼海石か』
伝統的な、さまざまな災厄からのお守りに使われる石だ。
『ご無事でありますように。どうか、どうか、生きてお帰り下さい』
ルクレツィアは低く頭を下げる。
『――これは、私の心です』
しばしの逡巡の後、おれはそれを受け取った。
『安全を願う妹の心だけ、受け取っておく』
ルクレツィアは、悲しげな顔をしながら、もう一度頭を下げた。
『……ひどい方。兄上は、ひどい方です……』
妹の瞳は潤んでいる。
至宝の玉、と世に言わしめた美しき妹が、苦悶の表情で悩み、悲しみ、泣く姿を、見ていたくなかった。
何も知らず、ふざけあって笑いあった関係には戻れない。
それを惜しむ気持ちはなかった。
いくつもの屍を見てきた。踏み越えていた。部下の、友の、家族の。
後ろを振り返り、感傷に浸り、悔やみ泣いていては、生き残れなかった。
ただ自らの力、自らの手で、血路を切り開くしかない。
おれは過去を振り返らない。
石を手に、妹の横を通り抜け、城を出た。
……吹雪は比較的ましだった。髪や眉などさまざまな部分は凍ったが、聖窟へたどり着けたのだから。
聖窟の前には兵士がいる。おれに対して一斉に礼をとる。
兵の中には知った顔もいる。親父を守る職にあった奴だ。
すでに親父が聖窟の中にいることは確かなのだろう。
暗い穴を前に、瞳を閉じる。
ここが、この日この時が、おれの人生の最大の岐路であるだろう、と思った。
親父を倒せば、親父が抑えつけていた元老院の賛同を得、そして聖具を手に入れ、おれが皇王となる。良くも悪くも、新たなる御世の幕開けだ。
そうでなければ、おれの死しかない。
『行くぞ、ヨナス』
暗闇の洞穴へ、おれは足を踏み入れた。
水滴の垂れる音が響く。松明の灯だけが明かりだ。洞窟の細い道は階段状になって、どんどんと下へ降りてゆく。
水が凍り付いてすべりやすくなっている。
『……ヨナス、もしおれが死んでも、仇討ちの反乱は起こすなよ』
『! オルテス様!』
『もしも、だ。もしもの話をしている。兵力からして、親父の持つ軍には勝てないだろう。かといって、何も済むはずがない。おれの側にいた兵は全て、粛清されるかもしれない。だから、ヨナス。ルクレツィアに頼れ。ルクレツィアの母は大きな部族の出身だ。あいつに保護されたなら、親父も容易に手は出せないだろう』
『不吉なことをおっしゃらないでください。死ぬおつもりですか』
ふと立ち止まる。松明を向けると、ヨナスは青い顔をしていた。
『明日も生きていると、信じることができた日はおれには一日たりともない』
言って、おれは軽く笑った。
ヨナスは言葉に詰まっていた。ヨナスの唇が震えている。おいたわしい、と唇が動いたのを見た。
おれはそれに気づかないふりをした。
『……それと、お前に頼みがある。ミリーのことだ。おれが死んだなら、あいつのことは頼む』
ヨナスは言葉を荒げる。
『たかが奴隷ではありませんか。奴隷一人に、命をお賭けになるのですか。どうしてルクレツィア様ではいけないのです』
ヨナスもまた、おれの考えが分からない人間だった。だからこそ、彼の解る言葉で話さなくてはならなかった。
『いいか、ヨナス。おれはグランディ族の長の息子だ。
そのおれが、その『たかが奴隷』のために、どうして曲がらねばならない。
族長の命に従うのがグランディ族の掟であろうとも、その族長の理不尽さに全て目を瞑れと言うのか。この戦乱の世、上の命令だけ従っていれば生きてこられたか? そんな容易い時代か、今は。
いいか、おれは従順な羊などになるつもりはない。おれは人間だ。長老達は、餌で養われた肥えた豚になれ、と諭しているか? そんな誇りもない奴がグランディ族の者であると、おれは認めたくない。尊い祖父、曽祖父の血を受け継ぐものとして、恥じる行動はしたくない』
ヨナスは沈黙した。
時代が変わりつつあることは分かっていた。
遊牧しつつ居住地を移動するスタイルから、固定の場所で生活するスタイルへの変化も、一つの例だ。
おれの考えは古いものなのだろう。
『ミリーのことを、気に留めておいてくれ』
おれが死んだなら、特に近くにいたヨナスは多大な労苦を味わうだろう。そこで何よりもまず、ミリーのことを考えろ、とは言えるはずがない。それについては答えを求めなかった。
『とにかくだ。仇討ちは絶対に考えるな。わかったな、ヨナス=ポランスキー。他の部下にもこのことは伝えるんだ』
『……分かりました。もし、御身にそのようなことがあれば、の話ですが……』
しぶしぶながらの彼の答えに満足し、再び松明を前方へ向けた。
ずいぶんと降りてくると、広い空間があった。
壁には水晶が白く輝いているところもある。コケのようなものが仄かに光っているのも。
洞窟の中にしては、異常に明るい。
天井は見えないくらいに高い。
『ようやく来おったか』
親父はいた。
奥の一段高い場所で、椅子に座って。
その周りには親父を守るための兵士がいる。
親父の後ろの祭壇には、光り輝くものがあった。聖杖アランと、聖鏡シャーリングスだ。
世界に三つしかない聖具。そのうちの二つが、ここに飾られ納められている。もう一つの聖具である聖剣ハリヤも、侵攻が進み、バガリ=シルタの首都・アルジャを落とせば、手中にすることができるだろう。
三つの聖具をこの国が手にする時、全てが統一された世界帝国となるだろう。そのときこそ黄金帝国として、永遠の繁栄が約束される。
それがために、この国は戦ってきた。
おれ自身も、その聖具二つをめったに見ることはない。体が思わず震えた。
聖杖アランは、ギリンシア神教を教え広めたアランの杖、と言われている。杖の形自体は普通のものだ。が、中央部に、見たことのないくらいの大きさのアメジストが埋め込まれている。深い色合いは見るものを惹きつける。それはこの世の悪を吸い込み、正しい願いを叶えるという。
聖鏡シャーリングスは、エリバルガ地方で広まっている運命の女神・シャーリングスの鏡と言われている。聖鏡と謳われているにも関わらず、大きさは掌ほど。深い緑色をしたふちの金属。鏡は驚くほど鮮明だ。それは望みの自分を映すという。そして映ったとおりの自分になれるように、運命をシャーリングスが変えてくれると言われる。
歴史的に、三つの聖具を求めて、幾度となく戦いは行われてきた。
しかし、二つもその聖具を手中に収めたのは、このグランディ族のみだ。
それが更なる戦いの原動力ともなり、領地を増やしている。
貪欲な親父――ヴァシーリー皇王によって。
目の前にいる親父は、不敵に笑う。
年は随分行っているはずだが、威厳と圧倒的な気迫は変わらない。
おれにとっては親近感のまったく湧かない『父』であった。
戦場で騙され、おとりにされ殺されかければ、そんなものが湧くはずもなかった。命からがら戻ってきたときには、『なんだ生きていたのか』と親父は驚いていた。
憎いわけではない。しかし、いつ寝首をかかれるか、そう警戒する相手であった。事実、何人もの家族、親族は、さまざまな理由で殺されている。……母も。
ルクレツィアとの結婚も、妹の意見を尊重して、なんて立場をとっているが、そんなことを信じる奴は誰もいない。
『もう話すことはないだろう、親父』
中央付近まで進むと、おれは立ち止まった。
親父も立ち上がり、近づく。
ヨナスや、親父の護衛の者たちは端にいる。息を飲みつつ見守り、手を出すことはない。それがグランディ族の決闘への作法であり、掟だ。
親父とおれは同時に剣を抜く。剣はきらめく。
構えてしばらく、どちらも動かなかった。円を描くように、双方動く。
それでも剣はまだ交わされない。
どこかで水滴が落ちた瞬間。
猛然と剣を振り上げる。洞窟全体に響くほど、剣同士がぶつかる音がした。即座に、第二撃、第三撃、と続く。
何度か剣が交わされると、おれは押され始めた。
経験の差だった。今はふんぞり返っているとはいえ、何十年戦場にいて、国を広げた男だ。剣の腕が悪いわけがない。
一撃が重い。それが年月の差だった。
どんどんと後退してゆく。親父は手を緩めない。
背中に壁が当たったとき、はっ、とした。親父は剣を振り上げる。そこで親父は、聖具の魔法の力にすがる。
『聖鏡シャーリングス、聖杖アランよ! 我に力を!』
親父はそう叫び、おれへと剣を振り下ろした。
命の瀬戸際の、最後の力だった。おれはその剣から全力で逃れ、かがんだ。
『ぬっ!?』
がっ、という音がして、親父の剣は壁へと突き刺さる。
これが最後のチャンスだ!
おれは目を見開き、剣を親父へ突きたてようと、剣を強く握りしめた。
しかし。
そのとき親父が壁に剣を突き立てたことによって、壁が崩れた。壁伝いに、床も。
その場でかがみ安定した姿勢でなかったために、おれは逃げることはできない。
おれは後ろ向きに、壁の向こうへ勢いよく落ちてゆく。
次の瞬間、どっ、と体全体に何かが襲ってきた。痛みか冷たさか熱さか、それすら分からない、一瞬のこと。ただ言えるのは、心地よいものではないということ。
後は何も意識がなかった。
最後に見たのは、親父の後ろから見えた、聖鏡シャーリングスと、聖杖アラン。鏡は光を放ち、杖はアメジストの宝石が漆黒の闇を放っているように見えた。
光と闇。魔法の光と闇だ。
親父の声に呼応した光と闇。
それが、最後だった。
おれにとって、全ての。
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