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第28話 川の流れ(1)
「SF小説?」
パトリーは受け取った本をしげしげと眺めた。見ると、流行の、機械で時間を行き来する話だ。想像もつかないような未来の描写が面白いと、聞いたことがある。
ベッドの脇の錆びた椅子に座っているオルテスが軽く頷いた。
「入院やら何やら、どうせ暇だろう? 暇つぶしに。それと、これも」
そう言って、オルテスは石を取り出した。それは蒼い石だった。磨きこまれて、三日月の角を丸くしたような形の石。掌に収まるような小さなもの。つるつるとして、もしかして宝石なのだろうかと思うほどに、綺麗なものだった。紐を通すためなのか、穴が一つ開いていた。
高価なものだろうかと思って、押し頂くような形で手の中にパトリーは受け取った。
「お守りに貸してやるよ」
「不思議な石ね……本当に効果がありそうだわ」
「そうだろうな。妹の形見だから」
パトリーは顔を、横にいるオルテスへ向けた。オルテスの表情は淡々としたものだ。
窓の方から聞こえる、緩やかに流れる川の音が、静かに響いていた。
「最後に会ったときに、お守りに、ってくれたものだ。形見になるなんて思いもよらなかったが……。お守りとしての効果は保障する。難しい治療なのだろう。やると言っているんじゃない。貸すだけだ。治ったら返してくれ」
断ろうとしていたパトリーは小さなためらいの後、うん、と言った。
ノックの後、ガラ、と扉が開いた。入ってきたのはノアだった。
入ってきたノアは、二人を視認すると、オルテスに睨むような視線を向けた。
「パトリー、話があるんだけど……」
近寄って、ちらりとオルテスを見る。その目は、「だから出てってくれ」と語っていた。
素直にオルテスは立ち上がり、部屋から出てゆく。扉が閉められる。
「単刀直入に言うよ、パトリー。オルテスを信用しちゃだめだ」
「え……」
パトリーは何を馬鹿な、といった様子であしらおうとした。だけれども、ノアのまなざしは思ったよりも真剣で切羽詰っているようだった。
「さっき聞いたんだ。オルテスが、『殺す』って言ってビリュコフ医師を脅しているのを……。きっとろくな人間じゃないよ」
「そんな……オルテスは……」
「そんなに信用できる人間なの? その根拠は? そもそもあいつはどこのどういった人間なんだ?」
パトリーは詰まった。
「素性は……知らない。でも、出会ったとき、盗賊に襲われたところを助けてくれたわ」
「それだけ?」
再びパトリーは詰まった。
「色眼鏡なく、真剣に考えてくれ。あれが、信用できるような人間? 見るからに怪しすぎる。絶対に後ろ暗いところがあるような奴だよ。パトリーを利用しようとしているに決まっている」
そのとき、コンコン、と扉を叩く音があった。どうぞ、と声を掛けると扉が静かに開かれた。
「ノア様、そろそろ約束の場所へ行かなくてよろしいのでしょうか」
入ってきたイライザは頭を下げてから、ノアに向かってそう言った。
「約束? そんなものがあるなら、ノア、行かなきゃ」
「でも……」
「これ以上遅くなっては、先方にも失礼かと思われます」
二人の女性はノアを促した。けれどノアはまだ躊躇いがあるようだった。
そのノアを、強引にイライザは連れ出す。
目を丸くしながらも、パトリーは「いってらっしゃい」と言って、手を振った。
パトリーは自分の手の中にあるものを見た。SF小説とお守りの石。
石は首から吊り下げることにした。首元から掛けてある鎖を取り出す。そこにはすでに、指輪が吊り下がっていた。それを見つめた後、指ではじく。鎖に新たに、蒼い石が加わった。再び首に掛けなおし、服を整えた。
残ったのは一冊の本。ぱらぱらとめくっているうちに、声を掛けられた。
「ようやく行ったか」
ひょっこりとオルテスが顔を出した。そのままパトリーの元へ向かわずに、食事をしているルースに悪態をつく。
パトリーはさっきのノアの言葉を忘れたわけではなかったが、口に出さなかった。
「ねえ、この本、もしかしてオルテス、読んでないの? 買ったばかり、ってくらいに新品じゃない」
「ああ、まったく読んでいない」
「どうして?」
オルテスの目が泳いだ。キ、とルースが鳴く。それで観念したように、ベッドの隣の椅子に座って言った。
「読めないんだ」
パトリーの口が少しだけ動く。一度、瞬きをした。
「おれは現代語の字が読めない」
苦笑するように言ったオルテスに、パトリーは何と返せばいいのか、迷う。
世界的に見て、識字率は高いとは言えない。貴族などの上流階級や、富裕層での識字率は高い。だが、普通の、特に低い所得の家庭では識字率はかなり低い。女性は特に教育を受けられない。教育というものは、金と時間がかかるから。成人男性でも読めない人間は多い。
「……あれ……? でも……あなた、手紙を書いてきたじゃない。それに、この前だって、あの古代グランディ語で書かれた、不吉な血文字だって送ってきて……! ……そうよ、オルテス、考古学者じゃないの? 字が読めなくて学者ってできるの?」
「おれが考古学者だって? 誰がそんなこと言ったんだ」
オルテスは片眉を吊り上げた。
「え? だって、リュインさんが……」
その名を出すと、オルテスは全てを理解したような顔をして訊いた。
「リュインから他のこと、おれのことを何か、聞いたか?」
そう聞かれてパトリーの脳裏に思い浮かんだことは、オルテスの家族のこと。
父親、妹、甥、それに結婚を約束していたというミリー。みんな、亡くなってしまったということ。死に目に会えなかったということ。
その当の人物を前にして、とても言える話ではなかった。辛い過去を思い起こさせたくなかった。
そんなパトリーの躊躇いを、オルテスは感じ取った。
オルテスはほんの少しだけ、パトリーに近づくように、丸い椅子を座りなおす。
「おれの家族のことか?」
パトリーは瞳を揺らした。そして頷いた。
「ええ……みんな、亡くなったって、聞いたわ。お父様も、妹さんも、甥御さんも……ミリーさんも……」
オルテス自身に問わせ、それに答える、というのは、卑怯な気がした。だからできるだけ簡素に、自分でパトリーは言った。
「それはさすがに、あいつも嘘をつかなかったらしいな」
「嘘?」
パトリーは目をぱちくりさせる。
「おれは考古学者じゃないさ。ただ……育った環境で、古代グランディ語の読み書きができる。その代わり、現代語は読み書きできない」
「待って。でも、手紙が来たわ」
「あれは、代書屋に頼んだ。最後の言葉と署名だけ、おれが書いた。あの血文字も、追われていたものだから、考えている余裕がなかったんだ。とにかく、ルースを預かってほしくて、切羽詰っていた状況でな。あれだとパトリーは読めない、と気づいたのは、後だった」
追われて、とパトリーはつぶやいた。
「……手紙のことは分かったわ。でも、まだオルテスは言っていないことがあるわよね? どうして城で逃げていたのか、追われていたってどういうことなのか……」
「それに、脅迫したというのは本当なのか、か?」
笑うようにオルテスは言った。その笑い声は低く、音としてはあまり出なかった。
「気づかれないと思ったのかな、あいつらは。……いや、少なくとも、あのイライザって女は気づいていたろうに。――本当だ。おれはビリュコフを脅した。それどころでなく、かつて一度、殺そうとしたこともある」
その告白をして、オルテスはパトリーに探るような目を向けた。
パトリーもオルテスに目を向けた。けれど、彼の意図は掴めなかった。なぜ、わざわざそういった話をするのか。どうしてほしいのか。
信じられない、と言ってほしいのか。ノアが同じことを言ったなら、そう言って笑うだろう。けれど、これは嘘ではない、とパトリーは思った。オルテスはノアとは違う。「人を殺したことがあるか」と問えば、「ああ」と造作なく答える。それくらいのことはわかっていた。
オルテスはこんな嘘は言わない。事実だろう。だけど、全ての真実ではないと思う。
緑の瞳の奥は、とても深い色をしていた。底の見えない海を見るような気分にさせる。どんなに深く潜り込んでも、自分の手では底にたどり着けないような……。
ルースが、キ、と鳴いて、パトリーは我に返った。
オルテスは苦笑していた。
「質問はまだあったな。城にいたのは……そうだな、どこから話せばいいだろうな。全部話すのも面倒だしな……。……カデンツァでリュインと会ったとき、そこから話そうか。そこでリュインに言われた。『あなたの願いを叶える』と。それも、『皇太子殿下が叶える』と、あいつはそう言った。だから、キリグートへ行け、とな」
願い、とはなんだろう、とパトリーは思った。
「半信半疑だった。いや、ほとんど疑っていた。皇太子に叶えられるものだとは、まったく思っていなかったさ。だが、それでもキリグートへ向かった。おれにとって『願い』は『希望』だった。むりやりにでも思ったさ。今は科学が発達して、昔はできなかったことができるようになってきた、ってな。
そうして、エリバルガ国の首都でパトリーと別れ、キリグートへ向かった。ところが、グランディア皇国の国境を越えたあたりで、凄腕の奴らに捕まった。――パトリーに血文字の手紙を出したのはこのときだ。奴らに連れて行かれたのは、キリグート城だった。おれを捕らえるように指示をだしたのは、皇太子だった」
「皇太子殿下ですって!? まさか……」
「おれが確実に城へ来るように、そうしたらしい。それは別に構わなかった。結局のところ、『願い』を叶えてくれさえすれば、他はどうだってよかったからな。……ところが、だ。皇太子は、おれの『願い』を誤解していた。何を考えたのか、『おれが皇太子と結婚して皇王の地位を手に入れる』というのが『願い』だと、勝手に誤解していた」
「けっ、結婚っ!? そ、それも、皇太子殿下とっ……!?」
あまりにぶっとんだ話に、パトリーは驚きを隠せなかった。オルテスはというと、苦虫をかんだような顔をして、話を続ける。
「『わたくしと結婚して皇王位をさしあげましょう』と、いうようなことを言い出したわけだ。相手が勝手におれのことを誤解していたと知って、おれの本当の『願い』は叶えられないだろうとわかって、城を逃げ出した」
「……そこで、あたしと再会したわけね……」
オルテスは頷く。
「皇王位はさて置いて、あんな醜い女と結婚するなんて冗談ではないからな」
パトリーは目を見開いて、柳眉を寄せた。皇太子を『あんな醜い女』などと言うなんて……。
なんて美しいのだろう、とパトリーはアレクサンドラに対して思っていた。白く透けるような肌も、微笑みも、整った顔立ちも。オルテスの美醜の判断はちょっとおかしいのだろうか。
オルテスの目に適うような女性とは、どんな人なのだろう。
「……と、『願い』は叶わないし、全くの無駄足だったわけだ」
オルテスは少し目を伏せ、つまらなさそうな顔だった。
パトリーは気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、その『願い』って何?」
オルテスの伏せた目に、幽かな光があった。
窓から水の音がした。絶え間ない緩やかな川の流れに、跳ねる水音。
オルテスは窓の方へ目を向けた。だからパトリーも目を向けた。だが、パトリーの小さな背からは、川はあまり見えなかった。少し、舟が見えた。帆もない、長い棹一つで進む小舟だ。静かに年老いた男が、川を上ってゆく。
「……棹が、ほしかった」
え、とパトリーは尋ねるように言った。
「川を上る棹が……ほしかった。それが『望み』だ」
オルテスは川へ向けていた顔を、再びパトリーに向きなおした。
そして先ほどと同じ、探るような目をパトリーに向けた。
パトリーは心がざわつくのを感じた。さっきと同じで、どう返せばいいのか分からなかった。冗談はやめてよ、と返すには、オルテスの目は真剣すぎた。だからって、簡単に納得できるわけもない。たかが棹一つ、誰だって用意できるものだ。
何かの比喩だろうか。
扉から、コンコン、と音がした。
「パトリーさん、診療室の方へ……」
現れたのはビリュコフだった。ビリュコフは、オルテスの姿に、びく、と体を震わせる。オルテスはビリュコフの横を通り、部屋を出て行った。
パトリーの診療、検査が行われた。ノアの推測どおり、エリバルガ国の奇病だということだ。
具体的な治療は明日から、ということで、パトリーは再び個室に戻った。
オルテスは来なかった。
歩けない以上、自分からオルテスを探すわけにもいかない。
渡されたSF小説をめくった。
それでも頭の中にあるのはオルテスのことだった。
翻弄するような、試すようなことを言うオルテス。本音で言えば、わけがわからない。どういう意味なのか、どういう意図があるのか。そして、どんな答えを待っているのか。
頭の中を埋め尽くす問題。
考えれば考えるほど、わけがわからなくなり、どんな答えも言えなくなる。
おそらく一番よかったのは、言われたときに、さらっと受け流すことだったのだ。最良の答えを持たない以上。
けれどもう遅い。遅すぎる。
はあ、とため息をついて、ページをめくった。
経済系の本は読むようにしているが、小説のような物語はあまり読まない。楽しく読んでいたのは、兄が読み聞かせてくれた幼いときだけだ。
しかしついこの前、ノアから恋愛小説を渡されたので、読んだ。最初は、くだらない、と思いながら読んだが、意外とおもしろかった。
このSF小説もまだ読めるな、と少し読んで思った。科学技術の論理的説明はよくわからない部分もあったが。あらすじとしては、恋人を事故で失った主人公が、過去を変えるために、時間を移動する機械を作る、というものだった。
その主人公が説明していた。
『解らないと言うのなら、もっと簡単な、抽象的な説明をしよう。
いいかね? 時間というものは常に一方向に向いている。過去から現在、現在から未来。これは普遍的な真理でもある。決して逆方向には進まない。
え? そんなことは分かっている、だって? まあまあ、ここからだよ。よく聞いてくれ。
この時間の流れというものを、川にたとえよう。よくたとえられるものでもあるからね。
上流が過去、下流が未来。現在は、その間のどこかだ。川の流れは人間の手では、変えようもない。人は、生き物は、その流れに身を任せているのだ。
さて、その川には小舟が浮いている。小舟には私が乗っていて、手には棹がある。
その棹さえあれば、川の流れよりも早く下流に下ることも出来る。そしてもちろん、上流へさかのぼることだって出来る。
わかったかい? 私の発明品とは、その小舟と棹みたいなものなのだよ。
わからない? それならもう、君に説明することは諦めるよ。私は恋人を助けるために過去へ向かおう』
そう言って主人公は、機械で過去へ向かおうとする。
パトリーは思わず顔を覆った。
分かったのだ。皇太子に叶えられない『願い』というものを。
いいや、誰にも叶えられるはずのない……そして、誰でも願う『願い』を。
パトリーは本を閉じた。
太陽は傾きかけて、橙色に部屋は染められている。
扉を叩く音。そして音をたてて扉が開かれた。
そこにいたオルテスは、さっきと変わりはなかった。
「終わったのか。あの連れてきた馬の様子を見てきたが、大丈夫そうだった」
報告しながら、オルテスは定位置の椅子に座る。
パトリーは絶望に満ちた声で言った。
「あなたの『願い』は、過去へ戻りたい、というものなのね」
オルテスは首を少し傾けた。さら、と長い髪が揺れた。
「そうだ」
パトリーは思う。
父の、妹の、恋人の死を知ったときの、オルテスの心を。責める相手のいない、彼の心情は。
パトリーは元婚約者が亡くなったと聞いたときのこと、愛犬を亡くしたときのことを思い出した。それは悲しく、辛い出来事だった。
けれど、そのときのパトリーの心より、ずっと重いものをオルテスは背負ってきたのだろう。
行き場のない心情の末がそれだというのは、よくわかる気がした。
「途方もないことだと、笑うだろうな。それでもおれは、叶えたかった。どんな犠牲も、どんな苦難があっても。……リュインにも何度も頼んだな。けれどあいつは首を縦に振らず、そして何も言わなかった」
「……科学技術もそこまで発達していないの。この本も、あくまで物語なの」
オルテスは小さく微笑む。
だろうな、と、呟いたのを聞いた。
「どうした? 笑わないのか? ……笑われたほうが、気が楽になったが」
「どうして笑えるというの」
「……なあ、どうしてそこまでおれを信じる? おれが嘘をつかないような聖人君子に見えるか? こんな話も全部、嘘だとは思わないのか? おれが、実は他の世界から来た、と言ったらどうする? そんな与太話すら信じるのか?」
からかうようにオルテスは、再び探る目を向けた。疑うような目だった。
それでも、『願い』の話は本当であると、それだけはパトリーには断言できた。
「なぜ……突き放すようなことを言うの。あたしは、あたしはただ真剣に……」
「信じられたくないからだ。おれはパトリーを信じたくないから。パトリーのような、そんな目で人間を見るようなことを、したくない」
オルテスは反応を見るような問いを向け、探るような目を何度かしていた。
それの意味を、おぼろげながらパトリーは理解しようとしていた。
おそらくオルテスは、パトリーの信頼のまなざしに、影響を受けたくなかったのだろう。だから、パトリーの信頼を、崩そうとした。それも、自分から突き放す形で。
信じたくない、と言われたことは、純粋に悲しかった。
だが納得もしていた。オルテスは疑い深く、自分とは違うとわかっているから。
けれど、ここで違うからといって、パトリーが離れてしまってどうなるというのだろう。あえて周囲を敵に回すようなオルテスには、側に誰がいるというのだろう。誰が理解しようと思うのだろう。
――自分が。
――自分がいたい。
パトリーはそう思った。
「……あたしを信じて、なんて言わない。だけどあたしは、オルテスの味方よ。何があっても」
パトリーはオルテスの右手を取った。
彼の手はパトリーのものより大きかった。その手をパトリーは、両手で挟むように、包み込む。手は冷たかった。
オルテスの顔には鮮やかな夕日が映っていた。
しばらく経って、手は握り返された。強く。
橙色に染まった顔は、どこか苦しげに、笑う。
「……悪いな。いつも。いろいろと、動揺していたようだ」
小さなオルテスの声に、あえて元気な声でパトリーは返す。
「何を言ってるのよ。あたしがいなくて、誰がいるの。ルースが苦労するのがわかるわ」
パトリーは笑って、オルテスもつられたように笑った。
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