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第27話 不信(2)
しばらく馬は進む。人通りの少ない道だ。
「ところで、そろそろパトリー、体を上げたらどうだ?」
馬に乗ってから時間は経つ。いつまでもそんなへっぴり腰は格好がつかない。
パトリーは躊躇しながらも、ゆっくりと体を馬から離す。
ぐらぐら揺れる馬に、それに合わせて臆病なほどにゆっくりと、安全を確かめるように離してゆく。
地面から垂直に、すっと体を伸ばしたとき、見る世界は違った。
いつもより高い視界。それは新鮮なもの。車椅子に乗ったときも感じた、見るものの新鮮さ。
うわあ、と頬を緩ませ、辺りを見回す。
ちょうど少しだけ馬が曲がり、パトリーの体も外側に揺れた。
オルテスはパトリーの腕をつかむと、オルテスの体へ倒れさせた。
「危なっかしいな。こうやっていれば、まだ安全だろう」
パトリーの胸が高鳴った。
「あ、ありがとう……」
オルテスの胸に体を預けていると、否が応でも意識してしまう。少しオルテスが動くだけで、どきどきとして。たてがみをつかんでいるから男らしい腕がすぐ横にあって。かなり密着していると考えてしまう。
以前はこんなこと、なかったような気もするけど……。
彼の胸は、緊張と同時に、安らぎの場所だった。
パトリーにとっても、オルテスは懐かしい。陽だまりの中で、まどろんでいるような気分にさせる。そんな、暖かで、安心できるような人で。
このままこうしていたい、と考えるような、安らぎのひととき。
――そして、限界だった。
今まで耐えていた頭痛、震え、そういった症状の。
特に頭痛がきつかった。最近は薬で抑えていて、調子がいいときはほとんど感じなかったほどであった。が、このどたばたと体を動かしている間に、薬は切れたらしい。
断続的に鋭く頭痛は襲う。
頭痛は意識の喪失を伴う。
「……オルテス……行く当てはあるの……?」
「ん? いや、まったくない」
「そう……じゃあ、街の東にある、ホテルに向かって……場所は……」
と、昨日泊まったホテルの場所をオルテスに説明した。ノアたちは今日、何か用事があったようだが、運がよければまだいるかもしれない。そこまで運んでもらえれば……。
「わかった。あまり大通りを通らないように進もう」
「ありがとう。じゃあ……あたしは……寝るから……。ちょっと、ごめんなさい……」
オルテスが抗議の声を上げるのを聞いた。「馬の上で寝るなんて何考えているんだ」とか、「おれに任せっきりか」とか。
悪いのだが、無視する形で、パトリーはオルテスの胸の中、目を閉じた。
冷や汗は何本も降りて。大きな頭痛の連続に身を任せた。
「まだですか、殿下ー?」
扉の前でイライザは手を組みながら、いらいらしているように指で腕を叩いていた。
「もういいよ」
扉を開けて、ノアが出てきた。
その姿は、キリグート城へ行ったときの服装とは違う。服装としては、ほんの少しランクが下がっている礼服。ポランスキー夫人の舞踏会へ行ったときに着ていたものと同じようなもの。
「城へ行ったときと同じものでよろしいのに」
「シュテファン相手に最上級の格好をして着飾れって? 冗談じゃない」
ふん、と鼻息も荒いノアに、イライザはなんだかな、と思わずにいられなかった。先ほどとあまり変わらないだろう、とイライザは思う。
「――ともかく、行きましょうか」
イライザとノアはホテルの一階に降りて、大きな扉から出た。そこでは馬車を待たせていたのだが、あいにくと他の客が馬車に乗り込むところだ。正門のすぐ前で少し待つことになった。
そこは見る限り、見るだけで楽しめる建物が立ち並んでいる。道歩く人の服装は優美で、走っている馬車もぴかぴかに磨かれている。
馬の走る音。それ自体は別段不思議なことはない。馬車は走り回っている。
ただイライザは護衛として、特に外に出るときは何でも注意を向ける。馬が近づいてくる音に、そちらへ目を向けた。
見た瞬間、普通ではない、とわかった。
鞍や手綱がついていない裸馬。それに乗って、たてがみを手綱代わりにして乗っている男女。女は男に寄りかかっている。
男女が相乗りすることは構わない。しかし、それが裸馬というのは、どう考えても場としておかしかった。
一方向を見続けていたイライザに、ノアは不思議そうな顔をする。
「どこを見ているんだ?」
「あちらの馬をです」
「馬? ああ……あんな遠いところ、よく見えるな……」
イライザは観察するように、馬に乗る人物を注視した。女の髪の色は黒……いや、赤みがかっている。男の髪は藍、こちらは長髪。女は……まさか……。
「殿下、パトリーさんです」
イライザは切迫した様子でささやいた。
「え? そんなばかな。パトリーはさっきキリグート城まで送ったばかりじゃないか。こんなところにいるわけが……どこだって?」
「あの馬の上にいます。眠っているのか……眠らされているのか、気を失っているのか、見知らぬ男に抱えられて」
それを聞いて、ノアの顔も真面目なものとなる。考えることは同じだろう。シュテファンあたりに連れ去られたのか。あの男は、シュテファンの手下だろう。
ノアはすがるようにイライザを見る。
イライザはじり、とノアを守るように前に出る。
前の客は馬車で立ち去り、ちょうど偶然、人通りがイライザと馬との間にはなかった。
馬は近づく。男は看板をちらりと見て、まっすぐに向かう。
「イライザ」
緊張した声でノアがイライザの服のすそをつかんだ。
イライザはうなずく。
馬は近づく。イライザもゆっくりと近づく。
イライザの頬から冷や汗が伝った。
尋常な腕ではない。視線の向け方一つでわかる。イライザは数々の猛者と戦ってきた。激戦の後、敗北に帰することもあれば、勝利を得ることもある。猛者と呼ぶものに共通するのは、目に見えぬ覇気だ。それは他を威圧し、地に伏せさせるもの。男にはそれがあった。
シュテファンには部下が多くいるはずだが、この男なら一人でも構わないだろう。
こうしてイライザが見ていることに、相手も既に気づいているはずだ。
武器は剣一本か。パトリーの体の陰に隠している可能性もある。
イライザは注意深く相手の様子を伺う。離れたノアの向ける、心配そうな眼差しを背中に感じる。
さやさやと葉の揺れる音。すぐ右手の、緑豊かな庭からだ。塀でなく柵であったので、よく見える。だが、今それに目を向ける暇はない。
イライザと男の操る馬が近づき――一瞬。
男は蹴り、馬を急に走らせる。同時にイライザは柵に手をかけて、簡単に柵の上に立つ。剣を抜く。機先を制したのは、イライザだった。
「はあっ!」
馬がイライザの隣を駆け抜ける瞬間、イライザの神速の剣は振るわれる。男は抜きかけた剣で防ぐ。剣と剣のぶつかる音は一瞬。これはフェイク。もう一本の剣を振り下ろした。――近場で見た瞬間に男に他に獲物がないと分かっていた。守るものはもうない――
しかし、防がれた。それは、龍の巻きついた鞘。
馬はそのまま直進する。その方向はノアのいる……。
イライザは馬の尻を剣の腹で殴るように打った。
馬はいななき、暴走を始めた。見ると、ノアはホテルに入るか入らないかの位置に避難した。
通行人たちの悲鳴があがる。
男は暴れ馬から飛び降りた。
パトリーの姿を馬の上に探るが、男はパトリーを抱えて降りたのだった。
イライザは舌打ちをしたい気分に駆られた。あくまでもパトリーを連れて行こうとするわけか。
だが人一人抱えている分、イライザの方が有利だ。
男は逃げなかった。イライザへ向き直り、パトリーを抱えながら走ってきた。
ギイン!
イライザと男は何度も何度も剣を交わす。イライザの二本の剣と、奇妙なきらめきのある男の剣とが。驕っているわけではないが自分は普通の使い手よりも速くて、しかも二本も向けている。が、それに男は防戦一方とはいえ、速さに対応し、耐えているのだ。
それどころか男は、油断したなら致命傷となるような攻撃も繰り出し始めた。
重い。一撃一撃が重い。
長引かせれば負ける。そう確信したイライザは勝負に出た。防御と攻撃の隙間に、イライザは剣をパトリーへと向けた。……もちろん、本気でパトリーを傷つけようという気はない。男の反応を見ようと思ってだ。
男はすぐさま、パトリーを守った。
それを見たイライザは、ここだ、と瞳をきらめかせた。この男はパトリーを殺したり、傷つけたりするつもりはない。それが、突破口になる。
イライザはパトリーへ剣を向けた。男は目の色が変わった。攻撃の手を、防御へと変えた。
瞬く間に形勢は変わった。男は防戦一方でパトリーを守る。片手でぐったりとしたパトリーを支えて。
本気でパトリーを傷つける気はない。しかし、それが『フリ』であると知られれば、瞬時にそれは隙となり、この男は躊躇わず胸を貫くだろう。本気ではない。だが、本気と思わせなければならない、そして男が守れるような、ぎりぎりの攻撃をパトリーへと仕掛ける。
「ぐっ!」
男の顔が歪む。そのとき、イライザはパトリーへと向けていた剣を男へ向けた。
突然の攻撃目標の変換に、男は肩に近い腕に傷を負った。そしてついに、パトリーを放した。
どさ、とパトリーはその場に倒れる。イライザの向かい合う男の向こうに、見守るノアの姿があった。一瞬だけ、イライザはノアへ視線を向けた。ノアは気づいたように、うなずく。
男はまだ諦めるつもりはないのか、イライザへ剣を向ける。今度は両手で剣を握り、重さは倍加している。だが、退きながら逃げる分には、まだ耐えられる。
イライザはじりじりと後退しながら、男と剣戟を交わした。
男はイライザを押して行っていることで、どんどんとパトリーの元から離れているのだった。その間に、ノアはパトリーの元へ向かっている。
男の重い剣はぎりぎりまで迫る。
ノアがパトリーを肩に担いで行こうとしたのを見たとき、自分の役目を果たせたことを知った。
しかし、それは甘いことだと、イライザは男の口元が緩むのを見てわかった。
「ようやく出てきた、か」
いけない、イライザがそう思ったとき、男は比にならないほどの重い剣を、イライザの肩口目掛けて振り下ろした。二本の剣で防ぐが、まるで木の葉が地に落ちるように自然に男の剣は肩へ落ちる。赤い血が流れ、それでも踏ん張ろうとしたとき、振り下ろされている剣の圧迫感がなくなった。
腹に衝撃がやってきた。
「女を傷つけるのは趣味ではないが」
男はイライザの肩から剣を上げた。イライザは右手の剣を取り落とし、膝をついた。
「ぐっ……!」
地に手をついた視界の先で、男が背を向けて走るのを見た。引きとめようと手を伸ばすが、何も掴めなかった。
霞む視界。それでもイライザは立ち上がらねばならなかった。
剣を拾い上げ、立ち上がった少し先の視界には、男がパトリーを荷のように抱え、ノアの喉元に剣を突きつけているのが見えた。
殿下! イライザはそう叫びそうになるのを堪えた。
男の視線は、鋭くイライザを捉えている。走って助け出すには遠すぎる。何より相手は一挙手一投足に注目している。
そのときノアが何かをしようと動いた……が、男は見逃さなかった。男はノアの背を蹴り、地面に押し倒した。すぐさま起き上がろうとしたノアの背に男は膝を乗せ、地に張り付けた。顔だけを上げたノアの首に、男は剣を添えた。
「動くな」
男の言葉は、イライザへ向けて発せられた。
そのとき、荷同然だったパトリーが、男の腕を掴んだ。
「だ……め! 彼は……」
男が動揺を見せた。
すぐさまイライザは剣を投げつけた。男はぎりぎりで顔をそらした。イライザはその間に走り、ノアの命に手を掛けている剣を弾いた。そのまま男を突き下ろすように剣に力を入れる。
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