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 第26話 引かれる手に(1)


「医師ですが、あいにくと今、城外へと派遣できません。城内での治療となります」
「城内……って、まさか、キリグート城、ですか?」
 アレクサンドラは微笑み続ける。
「キリグートで城と呼べるのは、キリグート城の他にありません。明日にでもいらっしゃい。皇太子であるわたくしの名を出せば、通すようにしておきます。ええと、名は……」
「パトリーです。パトリー=クラレンスと申します」
「クラレンス家の名は聞いております。ランドリュー皇子の婚約者だとか?」
 アレクサンドラはちらりとノアを見た。パトリーは複雑そうな顔で、
「いえ……多分、公には婚約者となっていますが、でも……」
 と、口よどむ。
「婚約者ではない? ……もうすでに結婚したも同然だと?」
「ち、違いますっ!」
 ノアとパトリーが同時に言った。なぜそこでノアが口に出すのかと、パトリーが疑問を口にしようとしたとき、アレクサンドラが声を立てて笑った。
「……どうやらいろいろと複雑なようですね。そろそろわたくしは行かなくてはなりません。それでは、明日、また会いましょう」
 アレクサンドラは鎧の騎士を引き連れて、部屋の外へ出て行った。ノアとイライザもそれを追った。

 静々と歩くアレクサンドラを追いかけるノアは、使い慣れない敬語を使おうと、たどたどしい言葉で感謝を表現しようとした。
「あのっ、皇太子殿下、今回のご……ご尽力には……」
「よいのです。知らぬ仲ではないでしょう。それにしても、数年ぶりですね。あれは……7年ほど前でしたか……。あなたは変わりませんね。引き連れている護衛も変わらないようですね」
 イライザは頭を下げる。
「その節は、お世話になりました。ところで、皇太子殿下。呆れた頼みかもしれないのですが、このことは、公にしないでほしいのです。その……特に、彼女の実家、クラレンス家には……」
 クラレンス家に知られると、またあのシュテファンが何をするかわからない。
「……本当に、いろいろと複雑なようですね。……わかりました。絶対に、とは言えませんが、できる限りなら。わたくしはランドリュー皇子殿下の考え方を気に入っています。それに免じて……」
 ノアは低すぎないように頭を下げる。
 高級なそのホテルの前には、輝かしい馬車が付けられており、馬車の側には騎兵隊もいる。その一隊が過ぎ去ったとき、ようやくノアは緊張の糸がゆるんで、ため息を漏らした。
 そして部屋へ戻ると、どういうこと? と言わんばかりのパトリーがいた。
「あ、あの方、本当に皇太子なの? 女性じゃない」
「パトリーは知らなかったんだ。確かにあの方は、皇太子殿下だよ。正真正銘ね。グランディア皇国は、シュベルク国とは違って、別に女性が皇王になれない、ってわけじゃないんだ。ほら、ミラ王国だって、現在は女王陛下がおられるだろう?」
「え……そうなんだ……でも、グランディア皇国って、女性が上に立つ、ってイメージがあまりない国だから……」
 ノアは苦笑しながら、立派な樫の木でできた椅子に腰掛けた。
 確かにそうなのだ。あのポランスキー夫人も、実質的に当主であったが、正式には当主ではない。そういう意味で、グランディア皇国は女性の社会進出が遅れがちなのだ。
「そこなんだよ。グランディア皇国は約600年で、女皇に正式に即位したのは、第四代ルクレツィア女皇のみなんだ。それからずーっと男しか皇王に即位していない。
 アレクサンドラ皇太子は、現在の皇王陛下の、ただ一人の御子なんだ。その皇王陛下にも男の兄弟はおられない。ややこしい法律によると、アレクサンドラ皇女が皇太子となる。現在、皇王陛下がお年を召しているから、このままいけば、皇太子殿下が女皇に即位する……となっているけど、そうとは限らないんだよな」
 ノアは困ったように頭を掻く。
「どうして? 皇太子になったということは、次に皇王になる、ってことなんでしょ? どうしてそこに問題があるのよ」
「まあ……結局、意識の問題なんだよ。今まで男が統治してきたところで、女が出てくるのはどうなんだ、って。人気はあるんだよ。あの容姿だし、『微笑みの皇太子』なんて呼ばれているようだし」
 アレクサンドラは確かに美しい微笑を絶やさなかった。パトリーも頷いている。
「ただね、現在の皇王陛下には、男の兄弟はいなくても、妹ならいるんだ。その皇妹様は貴族に嫁がれて、男の子が生まれている。それがダニロフ公だ。この方がアレクサンドラ皇太子殿下や俺達と同じくらいの年。
 元老院や大貴族たちを巻き込んで、次の皇王はアレクサンドラ皇太子か、ダニロフ公か、って微妙に揺れているんだ。勢力的にも均衡してて、どちらが玉座を手にするかはわからない」
 そんな、とパトリーは俯いた。
「だってアレクサンドラ皇太子が皇太子だって認められたなら、次に皇王になるはずじゃない……。女だからダメって、それはおかしいわよ」
 パトリーは深くアレクサンドラに同情した。女というだけで男より低いというのはおかしい。血筋的にも、制度的にも、アレクサンドラが女皇となるのは当然だ。全員ではないとはいえ、アレクサンドラの即位を反対し、ダニロフ公へつくなんて、その大貴族、元老院議員は何を考えているのだ。そういった意識だから、この国は他より遅れている面もあるのだろう。
 パトリーはそう思い、眉根が寄っている。それを見たノアはパトリーが何を考えているのか察し、
「……そういう意見、多分、皇太子殿下が聞いたら喜ぶと思うよ。けど……」
 と、言いかけて、苦笑しつつ曖昧にノアはやめた。
「さ、もう寝て。明日、キリグート城で治療を受けるんだから。もう無理できる体じゃないのはわかっているよね?」
 パトリーはノアの手を借りて横になった。
 薬のせいか眠たげな眼でパトリーはノアを見上げる。
「けど……ノアがこんなに皇族とかの事情に詳しいなんて、驚いたわ……」
 ノアはぎくりとする。
「あ、あはは……こ、個人的に、各国の王族とか知りたくて、ね……。それよりも、パトリーが知らなかった方が驚きだよ」
「それ……は……、まだ……この国に……本格的に進出……してな……く……」
 言いつつ、パトリーは眠りに落ちた。
 ほっとノアは息をついた。側にいるイライザをノアは見上げる。
「これで……俺も一安心だよ。医者も大丈夫なようだし、あとはパトリーが治るだけだ」
「よくぞ、がんばってこられました」
「そう言ってもらうようなことしてないさ。皇太子殿下が俺を覚えていたことは驚いたな」
「そうでしょうか。アレクサンドラ皇太子殿下は七年前、ランドリュー殿下を大層気に入っておられた様子でした」
「気に入って、って……。あれも不思議なんだよな。俺何もスゴイこと言った覚えないんだけど……」
 ノアは首をかしげて、記憶の糸を手繰る。


 ノアとアレクサンドラは、七年前、キリグート城で出会った。
 当時エリバルガ国で留学中の身であったが、外交のためにグランディア皇国まで行ったのだった。
 子供は子供同士で、という雰囲気で、二人は会話した。とは言いつつも、ノアは、これが外交戦略上、重要なことは言い含められていたし、機嫌を損ねることは絶対に言うな、と言われていたから、緊張しつつ、恐る恐るといった風に話していた。もっとはらはらしていたのは、聞いていつつも口出しできないイライザたちだが。
 涼しい夏。場所は庭だった。これもまた、セッティングしたのは大人だ。
 アレクサンドラは幼いながらも、育った環境のせいか大人びていた。彼女は生まれたときから皇太子だった。ぞんざいな扱いはできない相手。その彼女が言った。
『ランドリュー皇子は第三皇子なのですね』
 はい、と短く答えると、次いでアレクサンドラは質問する。
『ランドリュー皇子はシュベルク国の皇帝になりたいのですか?』
 今から考えると、何て質問だ、と思う。まあ、そこはどちらも子供同士だから許されたことだろう。律儀に、曖昧に濁すことなく、ノアは思っている通りに答えた。
『俺は、なりたくありません』
 アレクサンドラは目を丸くした。
『皇帝になりたくないのですか? なぜ? 第三皇子でいるより、ずっといいのではないのですか?』
『だって……父上が皇帝であらせられるし、兄上が次に皇帝になることは決まってます。そしてその次は、兄上の子供が皇帝になると決まってます。それが駄目だったら、二番目の兄上が皇帝になります。俺はならないと決まってます。それに、俺は皇帝にならなくても構わないです』
 拙くも言った言葉。今思うと、何も考えていないぼんくらみたいだ。けど、アレクサンドラはにんまりと微笑んだ。
『それは良いです。とっても良いことです。ランドリュー皇子、あなたのような皇子がいるシュベルク国は、いいですね』
 にっこりと笑って、アレクサンドラは終始ご機嫌だった。外交的に成功というわけである。ノアは今でも何故なのか、あまりわからないが。
ご機嫌なアレクサンドラは、こっそりとノアに耳打ちした。
『秘密を教えてあげます。絶対に秘密のこと。家族にも、侍従にも、ペットにも、とにかく誰にも言ってはいけないのですよ。ねえ、あそこの塔、見えますか?』
 アレクサンドラは東の方角を指差した。城というものは広く出来ている。あまりに遠いが、おそらく塀の内側にあるから城内に含まれると思う、そこに、塔の片隅が見えた。
『――あの塔に、幽閉されているんです』
『――誰が?』
『――偉大な皇王を殺そうとした、生きた魔法の皇子が――』
 アレクサンドラはくすくすと笑って……。

「殿下!」
 その瞬間、ノアははっと目覚めた。 
 ノアは自分が椅子でうな垂れて眠っていたことに気づいた。
 記憶の画像は夢と混濁していて、どこからが事実だかよくわからなくなった。
 すやすやとベッドで眠るパトリーを見るうちに、こちらも眠くなってきたらしい。
 すでに完璧な夜。灯りはつけていなかったので部屋は暗く、イライザが持っているランプが唯一の明かり。
「何だ? イライザ。俺を起こして」
 目をこすりながら問うノア。
「失礼しました。しかし、とにかく来てください。きっと早く知らせた方がいいと思いまして。驚くような方がお会いになりたいと来ています」
「驚くような相手……?」
 喜んでいるイライザを見ながら、ノアは脳内でいろいろな人を考える。
 パトリーの部屋を出て、一階の喫茶できるように椅子とテーブルが設置された場所に、その人はいた。後姿でも、ノアにはすぐにわかった。そしてそのまま後ろから抱きついた。
「ウィンストン卿!」
「おっ、殿下! まったく、子供のようなまねを……」
 そう言いつつ、ウィンストン卿は孫を見るように笑む。
 ノアにとってウィンストン卿は、親とも祖父とも思っている人物である。旅に出る前、絶世の美女のパトリーの肖像画を見せ、嘘のラブレターを作った人物。
 口ひげも頭も灰色だ。しわを深くしてウィンストン卿は笑う。
 ノアも子供のように笑って、無事を確かめ合った。
「まったく、いつここに来たんだ?」
「逆です。殿下たちが到着するまで、キリグートで待っておったのです。殿下から遅れてエリバルガ国の首都マイラバを脱出したとき、西のウダナ方面は革命の炎があがり、とても行ける状態ではございませんでな。比較的安全な東のタニア連邦を抜け、千鳥湾を遠回りする形で、セラへ行こうとしておりました。
 ところが、途中で殿下がキリグートへ向かっている、という話を皇家筋から聞き、それならと、このキリグートで殿下が来るのを待っておったのです」
「そうか……とにかく無事でよかったよ」
 ウィンストン卿は灰色のひげをなで、真面目な顔をしてノアに言った。
「ランドリュー殿下……実は一つ、話がありましてな。明日にでも、話し合いをしていただきたい方がおります。婚約者の、パトリー嬢のことをです」
 その名が出たとき、ノアは嫌な予感がした。
「パトリーのことを話し合う……? それってまさか……シュテファンのことじゃ……」
「お察しの通りです」
「嫌だぞ! 俺はもう、あんな奴と話したくない!」
 ウィンストン卿は頭が痛いとばかりに額を押さえた。
「殿下……冷静に……」
「今回ばかりはウィンストン卿の言うことはきかないぞ! たとえ彼女の兄だとしても、俺は、惚れた女を傷つけるような奴と仲良くなんかできない!」
 言い切ったノアに、ウィンストン卿はますます苦々しい顔となった。
「旅を経て、少しは大人になられたかと思ったが……」
「なんだよ。あいつがどんな奴か、ウィンストン卿は知らないからそんなことを言うんだろう。俺はもううんざりだ。あいつと話すと、ろくなことがない。楽しい思いをしたことは一度もないぞ。とにかく俺は……」
「殿下!!」
 その一喝は、その場にびりびりと響いた。
 ノアもイライザもびっくりして、言いかけた言葉は消えた。他の客もなんだなんだと驚いている。
「よろしいか、殿下。貴方はもはや、外国に留学している大学生ではありませんぞ。貴方は本国、シュベルク国へ帰るということを忘れているのではありませんか。本国へ帰れば、嫌でも宮廷の人々と渡り歩かねばなりません。嫌でも、楽しい思いをしない不快な人物と話をしなければならないのです。
 今までは殿下に優しくしてくれる人ばかりと接してこられたでしょう。エリバルガ国王宮の方々は、手厚く扱ってくれたでしょう。されど、世の中それほど甘いものではありません。
 殿下は本国へ帰るとそこで、嫌な人物と会いたくないから、と、自分の好きなことだけをするおつもりか。そのような、皇子の風上にも置けぬような責任感の欠片もない人物に、儂はお育てしたつもりは毛頭ございません!」
 ノアにとってウィンストン卿は親とも祖父とも思っている人物。それゆえに、とうとうとまくし立てられると、反論しにくいのだった。それでも、ノアは反論を試みた。
「け、けどなあ! あいつはパトリーを傷つけて、利用しようとするような奴で……そんな奴に迎合するなんて、パトリーはそんなことを……」
「パトリー嬢が望んでいないからと、それがどうしたのです」
 ウィンストン卿は全く揺らがず、ぴしゃりとその反論を押しつぶすのだった。
「よろしいか、ことは今、殿下とシュテファン殿とのことなのです。それはすなわち、殿下がシュベルク国で強力な後ろ盾を得られるかどうかがかかっておるのです。それは解っておられますな?
 失礼ながら、殿下の言い分は『パトリー嬢がかわいそうだから』ということを口実とした、パトリー嬢の立場を言い訳の道具に使っているだけで、ただ単に、苦手な人物と話したくないという感情論にすぎないようにしか見えませんな。言いくるめられるのを恐がっているにすぎないのでしょう。
 よろしいか、殿下。世の中優しい人物だけでないと、重々ご承知なされませ。特に宮廷には狸や狐ばかりでしょう。その中で生き抜くには、逃げているだけではいけないのです。
 シュテファン殿は確かに扱いづらい男です。容易い相手とは言えません。しかし、是が非でも逃げてもらっては困るのです。こんな最初から逃げてしまっては、パトリー嬢との婚姻後、貴方はシュテファン殿の傀儡と成り果ててしまいますぞ。それが危険だと、それくらいは貴方にもわかるでしょう」
 ノアはウィンストン卿の言葉にぐうの音も出なかった。
「で、でも……。……そう、その通りだよ、ウィンストン卿。でも、あいつと話して、ろくなことにならなかったのは確かなんだ。これからまたあいつと話しても、悪い方にしか進まない気がするんだ」
 ウィンストン卿はそこでようやく、好々爺然とした笑みを浮かべた。
「そうですな。しかし、今回は儂が間に入ります。一方的にあちらからの言い分が通ることのないように、努力しましょう。これで、殿下の迷いの種も消えましたな? それでは明日、クラレンス家の別荘で話し合いましょう。場所はこの紙に書いておきました。明日ならば、いつでもよいそうです。では、また明日。パトリー嬢にどうぞよろしく。イライザも、これまでよく殿下を守ってくれた。これからも頼むぞ」
 そう言って、ウィンストン卿は夜の街に去っていった。
 立派な扉から去っていった彼を見つつ、手の中にクラレンス家別荘までの地図が書かれている紙があって、よく考えると全て言いくるめられている自分にノアは気づいた。
「け、結局、また、あのシュテファンと話すことになったじゃないか……!」
「……仕方ありませんよ、殿下。ウィンストン卿に勝とうと言う方が間違いです。あの方もシュテファンどのと劣らぬくらい、狸なのですから……。ウィンストン卿が共にいてくれるだけでも、よかったと思わなくては」
 そうだろうか、とノアは思った。ウィンストン卿だって、ノアの『気持ち』の味方ではないのだ。どんどんと話が進むようにしか、ならない気がした。
「とにかく、明日はパトリーさんをキリグート城まで送ってから、クラレンス家の別荘へ向かいましょう」
 少し憂鬱な気分で、ノアはその日、豪華なベッドで眠りについた。




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