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 第25話 皇太子殿下


 必死になってルースが飛んでくるのを見たとき、パトリーは嫌な予感がしたのだった。
 そのルースの足には、適当に結び付けられた手紙があって。それは、パトリーが送った手紙だった。
 問題は、その裏。
 血で走り書きされた文字。
 それを見たときパトリーは悲鳴を上げかけた。
 そしてそこに書かれた文字に、眉をひそめるのだった。
 読めない。
 字が汚すぎて、という意味でなく。単語がいくつか並んで文章になっていると思われるのだが、パトリーの知らない文字、単語が並んで、さっぱりわけがわからない。
 馬車の中で、騒いでいるルースをあしらいながら、何かの暗号文だろうか、と頭をひねるが、さっぱりわからない。間違いなく、中央大陸西部で広まる現代グランディ語ではない。ノアたちにも聞いてみることにした。
「ねえ、ノア。これ、読める?」
 血で書かれたそれにぎょっとしながらも、ノアは首をひねった。しばらく見て、ん、と、もう一度首をひねった。
「これ、もしかして、古代グランディ語じゃないか?」
「古代グランディ語?」
「うん……大学で教養に習ったけど、多分それだよ。動詞は『渡す』……いや、受動態だから意味を反転させて……そして、えっと、主語が省略されていて、語尾が『ツェ』ということは、要求、願い、頼みを示しているから……。『これを受け取って』もしくは『これを預かって』、という意味だと思う」
 『これ』? と考えるパトリーの肩の上で、ルースが、キ、と鳴いた。
「これ、っていうのは、ルースのこと?」
 答えを知る者はこの場にはいない。
 意味がわからない。血で書くほど切羽詰った状況なのに、古代グランディ語で書かれた意味も……。……そういえば、確かリュインに、オルテスは考古学者だ、という話を聞いた。古代グランディ語を知っていてもおかしくないが……。
 何より、『預かって』、と状況説明のない血の手紙は、オルテスのことを心配させた。何か不測の事態があったとしか……
 祈るように両手を合わせて握りしめる青い顔のパトリーに、隣のノアは肩を叩く。
「……大丈夫だよ。きっと……そう、多分、書くものがなかったから血で書いた、とか、そんなことだよ。ね、ここで心配しても仕方ないよ」
 パトリーを安心させようとするノアに、心細そうに瞳をさまよわせて、パトリーは頷いた。
 ……ノアを一緒に心配させても仕方ないのだ。
 ルースが飛んできたのは西からだった。西の地で、何かがあったことは確実だ。
 けれど、無力な自分は何をするべきか、どうすればいいのか、わからない。
 きつく瞳を閉じて、オルテスの安全を祈るしかない。
 そのとき、馬車が大きく揺れた。
 きゃあ、うわ、と悲鳴が上がる。
 馬車が止まった後になって、ノアとイライザは馬車の外に出た。歩けないパトリーは顔を外に出すしかない。
 御者とノアが何かを話していた。
 しばらく経って、ノアはパトリーのところに説明に来た。
「どうやら馬が怪我をして、馬車を引けないようなんだ」
「そんな……キリグートまであと少しなのに……」
「うん……近くで馬を借りれそうなところはないし……。でも、どうにかする! 首都近いから馬車は多く通るはずだし、そのどれかに頼んでみるよ!」
 え、とパトリーが止める間もなく、ノアは大きな街道へと走っていった。


 ノアが思ったほどに馬車は通らなかった。首都への道とは思えないほど轍は深くない。それほど発展していない国のせいだろうか。いや、この道が主な通りでないのかもしれない。イライザも一緒に馬車を待っていたが、ノアはいらいらとしながら草むらで、じっと道の遠くを見ていた。
 がらがら、という馬車の音を耳にすると、ノアは立ち上がった。
「殿下……一体どうやって馬車を止めようとなさって……?」
 とイライザが訝しげにしていると、その目の前で、ノアは馬車迫り来る街道ど真ん中に飛び出した。向かい来る馬車の、すぐ前に。
「――っ殿下!!」
 イライザは瞬時に飛び出す。ノアを抱きしめ、向こう側へ二人で地面を転がった。
 二人は轢かれなかった。
「何て、何て無茶を……!!」
 身を挺して守ったノアが無事だったことに、イライザは青い顔でほっとした。
「ご、ごめん……。馬車を目の前にして初めて解ったけど、馬車ってあんなに恐いものだったんだな……。簡単に止められる、って思ったけど……。ごめん、これは俺が悪かった」
 さすがにこちらも青い顔のノア。
 よろよろと立ち上がるノアを支えるイライザは、しばらくしてその馬車が止まっているのに気づいた。
「貴様! 何用でこの馬車を止めたのだ!」
 御者の男が物騒な顔でノアとイライザにそう叫んだ。
「も、申し訳ありません」
 見ると、その馬車は高級なものだ。貴族階級レベルの人間が使うような。
「すいません。馬車を引きとめて、迷惑をかけたことは謝ります」
「すまないで済むと思うのか!」
 御者は今にも殴りかかりそうである。ノアは不自然に思った。貴族階級の人間に雇われるタイプの男ではない。
「まあまあ、いいだろう。それより何故飛び出してきたのか、聞くほうが先じゃないか?」
 その豪勢な馬車の中から、少し低い男の声が聞こえた。それがこの馬車の所有者の貴族だろうか、とノアは思った。
 御者が、緊張したようにぎょっとした。御者席から内部に目をやった。
「あの、実は俺達の馬車の馬が使い物にならなくなって……。足が動かない友人もいて……。この馬車はキリグートへ向かうのでしょう? キリグートまで、せめてその友人だけでも、同乗させていただければ、と……」
 ノアは馬車内部に向かって言った。カーテンで閉ざされて、男の顔かたちはまったく分からない。
「それは大変だな。おれとしては別に一緒に乗っても構わな……」
 奇妙な沈黙が訪れた。
 その沈黙のうちに、何か奇妙な金属音がかすかに聞こえた気がした。
 あまりに不自然で、ノアは眉をひそめ、問いかけようとしたところ、再び男が話した。
「すまんが、この馬車の中は一杯で、乗せられないんだ。その足が悪い友人とやらには悪いが」
「そんな! だって、さっきは……」
 ノアの抗議に耳を貸すことなく、何も答えずに馬車はキリグートへと向かってしまった。
 行ってしまってから、ノアは腹が立ってきた。
 品位だとか貴族としての立場だとかを理由に断られたとしか思えない。いっそ、素性を明らかにすればよかったと後悔した。
「殿下……どうしますか? 言っておきますが、先ほどのようなことは二度としないでくださいよ」
「……わかってる」
 あと少しなのだ。キリグートへ行けば、一人、知り合いがいる。その人の力を借りれば、優秀な医師も手配できる。その人が、ノアのことを覚えていれば、の話なのだが。
 それよりも前に、キリグートへたどりつけなければ無意味だ。どうにかして馬車を止めなければ……。
 馬車を止める方法に悩んで、顎に手を当て考えていると、車輪の音が聞こえた。それは馬車と比較すると、小さめの音。
「ノア!」
 そちらに目を向けると、車椅子でやって来たパトリーがいた。肩にはルースが留まって、後ろで御者が頭を下げている。
「どうせもう少しでキリグートでしょう。馬車に頼らなくても、行けるわよ」
「でも、パトリー……車椅子で……」
「大丈夫。馬車の荷は後で運ばせることにして、ほら、行きましょう」
 と、慣れない手でパトリーは車椅子を動かして、前へ行った。
 ノアとイライザは顔を見合わせながら、そのパトリーの後を追った。


 馬車はキリグートへ行く。
 中は少し暑苦しい。カーテンも締め切っているので、見るべきものもない。退屈そうに馬車の内装を見ながら、ふざけるように男は言った。
「どうせなら、さっきの奴らを乗せてやればよかったのに」
 目の前にいる覆面の男が睨んだ。構わず男は続ける。
「どうせ碌なことしてこなかったんだろ? たまには人助けでもしたらどうだ? ……と言っても、おれもそんなに人助けなんてしたことないけどな」
 男は軽く笑う。
「ふざけるな」
 覆面の一人がぐ、と持っているナイフに力を入れた。
「立場が分かっていないようだな。我らはお前を『無事に』運ぶ必要などないのだぞ。オルテス=グランディ」
 覆面の男に囲まれている男――オルテスは、目を細めた。
「……その名を知っている、ということは、お前達を雇った人間は想像がつくな」
「ふ、すぐに会えるさ。キリグートでな」
 馬車は急ぐ。キリグートへ……。


 キリグートに到着したパトリーたちは、まず宿泊所を手配した。
 車椅子で進み続けてきたパトリーは、疲労のために病気が悪化していた。
 ノアたちが手配した宿屋は、高級なホテルだった。朦朧としながら持ち前のきっかりさで、「もっと安い所でいい」、とパトリーは言ったが、「いい医者を呼ぶ為に必要なんだ」とノアが言ったので、訳が分からないながらも、高級な羽毛布団に寝転ぶこととなった。羽毛布団は確かに心地よかったが、沈みすぎてパトリーは苦手だと思った。
 どうやら熱も出てきたようで、ぼんやりとして、どこも動かすことができない。
 ぼんやりとベッドに横になっているうちに、ノアは、
「いい医者を呼ぶ為に、最大限にコネのある人を呼ぶから」
 と言って、なぜか立派な格好をして、イライザと一緒に行ってしまった。
 思考はうまく働かないが、パトリーの脳裏を占めるのは、オルテスのことだった。
 無事だろうか、どんな問題が起こったのだろうか……。
 視界の隅で、ルースは水を飲んでいる。
 オルテスは強い。イライザと同じくらい強いと思う。そのオルテスが、急いでルースを預けなければならないこととは……。どうしても、安心できる事態ではない。
 無事であって欲しい。
 どうか……。
 そう祈っているうちに、朦朧としたパトリーの意識は沈んだ。

 次に目覚めたのは、数々の声を聞いたからだった。
「……伝染病の類いではないのですね……」
「……はい。その点は保障します……」
 まぶたを開けるのも億劫だが、重いそれを押し上げると、ぼやけた視界に、藍色の髪の人間がいた。
 藍色の髪は長くて、顔は白くて。
 オルテス!?
 と、ばちっと目を開けたが、そこにいるのはオルテスではなかった。
 確かにどこか似ているが、違った。
 北方の人間らしく、肌は白く、鼻は高くて、背はイライザやノアよりも高い。彫りも深く、均整の取れた上品な顔立ち。やはりどことなくオルテスに似ている。オルテスは翡翠の色の瞳を持っていたが、その人は紅玉の色を持っていた。その瞳の色の激しさとは対照的に、大人しく静かな印象。年は十代後半だろう。
「目覚めましたね」
 ノアはパトリーの体を支えて、上半身を起こさせた。
 いまだぼんやりとしているパトリーには現状がよくわからない。
 よく見ると、その人だけでなく、後ろには数人、鎧を着た人物がいる。その人を守るためにいるようだ。
「パトリー、よく聞いて。この方が、国立医師団から医師を手配してくださるって言うんだ。グランディア皇国でもっとも優秀な医師を揃えたっていう、その医師団から、いい医者を。この方は……」
 ノアが言いかけるのを、その人は微笑とともに止めた。
「自分で自己紹介をさせてくださいよ。わたくしはこのグランディア皇国の皇太子です」
「こ……う、たいし……?」
 パトリーは朦朧としながら、現状を認識しようとしていた。
 皇太子、というのは、皇帝、もしくは皇王の座を次に継ぐ人物……。
 このグランディア皇国の次代の頂点に立つ……。
 それが、今、目の前にいる……。
 ……女性?
 彼女は微笑む。
 藍色の髪に合わせて、青いドレスを身にまとっている。そのドレスも重たそうなものでなく、比較的すっきりとしている。髪は下ろしているが、控えめに髪飾りがある。ネックレスや指輪などはあまりない。好んでないのかもしれない。けれど、自分に自信があるゆえのことに見える。孔雀の羽根で作られた扇を優雅に手にし、口元を覆っている。
 雪化粧を施した険しい山嶺を思わせる女性だ。
 玲瓏たる美人。それが何から滲み出たゆえの美か、今のパトリーには判別できなかった。
「アレクサンドラ=グランディアと言います。難しい病気だと聞きました。わたくしの力になれることなら、力を貸しましょう」
 藍色の髪の皇太子は、ふわりと微笑みながら、パトリーを見下ろしていた。




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