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第24話 ダンスを踊りましょう(3)
「なるべく早く、キリグートに行くべきだ」
パトリーにあてがわれた客室で、ノアはそう言った。
「早ければ早い方がいい」
「じゃあ、ここで会社のみんなと別れて、一刻も早く……ということ?」
「そうだね」
パトリーの会社の人々の予定では、あと二、三村を回ってから、キリグートへ行く予定なのだ。それよりも、ここで別れてキリグートへ直行した方が、キリグートへ早く到着する。
「……わかった」
何かを考えていたようだが、そう言ってパトリーは頷いた。
「大丈夫。医者の手配は俺が何とかするから」
部屋は少し広い。ベッドに腰掛けているパトリーは、ふいにノアに問うた。
「ねえ、どうしてノアはあたしについてきて、ここまで親切にしてくれるの? あたしにそこまでしてくれても、ノアに得なことなんてそんなにないわよ。ううん、逆に大変な重荷を背負っただけで……」
先ほどまでパトリーの足を見ていたノアは立ち上がったばかりで、パトリーの目と近くで合った。
迷いもせず、ノアは言った。
「損とか利益とか、そんなことで俺は動かないよ」
パトリーの目が見開かれ、瞳が揺れた。
「俺は助けたいから助ける。それだけじゃだめ?」
首を傾けて同意を求めるように言うノアに、パトリーはぽつりと言う。
「ノアって、貴族的な人なのね……」
首を傾げるノア。それは的外れだ。彼は皇族なのだから。パトリーも首を振る。
「いえ、貴族的っていうのは違うのかしら。貴族って言っても、そんなに余裕のある人達ばかりじゃないわね。……あの兄のように、家のためなら、ってどこまでも何でもする人も多い……。ノアのそれは、ノア特有の自由さなのね」
パトリーの言葉は、いまいちノアには理解しにくかった。自由、とはどういうことだろうか。
「あたしは……そうできない。さっきだって、利益のために、不快な思いに目を瞑った。自分の感情だけで、事も無げに動くことはできない」
「そんな……俺だって、そんな偉い人間じゃないよ……。ただ、俺が考えなしなだけだよ」
「それでもすごいわ。あたしにはできないことよ」
「それなら……そういう努力をすればいいだけじゃないのか? 自分の思いのまま動こうとすること、自分の感情のままに動こうとすること。そんな仕事とか、全部忘れれば、自由になれるんじゃないか?」
ノアはつたない言葉で、うまくパトリーを説得しようとしていた。
話していくことで、だんだんとノアの中で何かが高まっていった。
「そうだよ。嫌なことばかりの、大変な仕事なんて。パトリーがする必要ないだろう? 薬を飲んでまで耐えるようなことじゃない。そんな義務はないよ。俺は、パトリーに苦しんでもらいたくも、悲しみに耐えてもらいたくもない。そんな苦労とは無縁に、笑っていて欲しい」
ノアは衝動のままに、パトリーの足元に跪いた。
「結婚して欲しい、パトリー」
パトリーの表情が、あっけに取られて目が見開かれ、口も少し開かれた。
ノアは勢いのままに言葉を続ける。
「結婚して欲しい。苦労はかけない。幸せになろう。海の見える大きな館で、一緒に暮らそう。仕事なんてやめて、裁縫をしたり、料理を作ったりして。仕事の苦労なんて、もうない。みんなから祝福を受けて、誰からも優しくされて。俺が家に帰ったとき、笑顔で出迎えて欲しい。そうやって穏やかな家族になってほしい」
呆然としていたパトリーだが、言葉を聞くうちに、顔には笑みが浮かばれた。
「そうね。いいかもね」
ノアは歓喜のあまり立ち上がった。だが、くすくすと笑い続けるパトリーを訝しがった。
「こういう場合、なんて答えるのが定石なのかしら。スポーツチームが作れるくらい子供がほしいわ、とか? ――結婚の申し込みなんて、おもしろい冗談ね、ノア」
パトリーはいつまでもくすくす笑っている。
「冗談? どうして? 何でそう思うのさ」
一気に昇った血が降りた感覚で、ノアはパトリーに問う。
「だって、すぐにわかるわよ。誰かに結婚を申し込む練習にしたんでしょ?」
「何でさ。どうして、パトリー自身に言われた、って取ってくれないんだ」
「わからない? どうして冗談だとわかったと、わからない?」
パトリーの問いに、ノアは真剣に悩んだ。
ノアは真剣に言ったつもりなのだ。全て。それがどうして、冗談だと確信されるのか。
腕を組んで、あたりをぐるぐる回って考えたが、ノアにはわからなかった。切羽詰ったように、ノアは、
「ごめん。何故冗談だって取ったんだ。俺には……全然わからない」
とパトリーを問い詰めた。パトリーは平然としたものだ。
「あたしに言うべき文句じゃない、ってわかったからよ。ノアの素性がわからないことは置いておきましょう。海近くに大きな館を建てられるだけの財力ある貴族だ、ってことはわかっているから、そこは別に構わないわ。
ねえ、ノア。あなたは知らないかもしれないけどね、あたしそんなに裁縫うまくないの。へたなくらいよ。いつも着ている男装のジャケット。一度裏側を繕ったんだけどね、もう、縫い目はがたがた、時間もかかったし、手を怪我しちゃったくらいなのよ。それくらいへたなの」
「そ、それがどうしたっていうんだ。裁縫が苦手なら、しなくてもいいよ。針子を雇えばそんなの簡単にしてくれるし、あえてする必要もないよ」
パトリーはうんうん、と頷く。
「そう、ノアはそう言ってくれるわよね。それとね、これはノア、知っていたはずだけど、あたし料理もへたなのよね。その結婚生活で、ノアはあたしに料理を作って欲しいの?」
パトリーの料理を思うと、ぐ、っとノアは息をつめた。パトリーの料理は壊滅的とは言わなくても、へたなことに変わりない。
「それなら、作る必要ないよ。どうせコックを雇えばいいんだし」
パトリーはその言葉に、先ほどより多く、うんうん、とにこやかに頷いた。それをノアは疑問に思った。言ってしまってから気づいたが、これではパトリーの料理が食べたくない、と言ったも同然なのに。
「そうよね。『ノアはそう言うと思った』わ。あたしのへたな料理を食べるよりも、おいしいプロの料理を食べたいわよね。あ、大丈夫よ。怒っていないわ。あたしだって自分の料理がいいとは思ってないんだから。……ノアがね、あたしの料理がダイスキ、なんて特異な人なら、まだあの結婚申し込みを信じただろうけどね。
さて、ここで問題よね。ノアの希望する裁縫もせず、料理もせず、あたしはその海沿いの館でノアの帰りを待っている間、何をすればいいのかしら?」
「そんなの、好きなことをすればいいじゃないか」
ろくに考えもせず、ノアは答えた。
「好きなこと? 好きなことって、何があると言うの? それなりの貴族の奥様になんてなったら、仕事はやめざるを得ないわよね。仕事をやめて、後あたしに何があるの? 何もないわよ」
ノアはそれを簡単に言うパトリーの顔を凝視した。
パトリーの言葉は、少なからずノアにとって衝撃だった。仕事以外に何もない、なんて言葉は。
パトリーは淡々として言う。
「確かに、辛いことも多いわよ。今日みたいなこと、初めてじゃないもの。行商し始めのときは、踏みつけられたこともあるし、唾を吐かれたこともあるわ。悲しくて泣いた夜もあれば、悔しくて悔しくて仕方なかったときもある。
でも、あたしはこの仕事が好きなの。治るのなら、早く治って、仕事を遅れていた分取り戻したい。あたし、大好きなのよ、とっても。させられる義務じゃないの。
……だからね、あなたの結婚申し込みは、あたしにとって的外れなの。海の館で、裁縫して料理作ってくれて、家を守ってくれる奥様は、あなたの希望にしかすぎないわよね。あたしと全然条件が合わないの。だから、冗談だとわかったのよ」
ノアは、言葉がなかった。フォローするようにパトリーは続ける。
「別に、あなたの本命がそういう方なら文句はないわよ。それを望むお嬢さんも多いでしょうから。ただ、あたしなら、それで幸せにはなれないだけで。するべきこともなく、ただ家にいるだけなんて、あたしには耐えられないだけなのよ。ノアは練習台の選択を間違えただけなの」
ノアは、考えた。パトリーの仕事に対する熱意を甘く見すぎていた、と。
そして、なら、どんな人間だったら、パトリーは結婚を受諾するのか、と。『皇子』である限り、その妻が自由に動くことなど不可能だ。
会社の社長を続けられるような、商人だったら?
それとも、家政夫になるような男だったら?
地位が邪魔をしないような自由な男?
会社の為になるような、大商人?
吐き捨てるように考えたそれを、ノアは吐露できなかった。
だって、そう訊いて、そのどれかに、「はい」、と答えられたら。
『皇子』のノアは、それが恐かった。
「はい」と聞いて、なら自分は『皇子』を捨ててそれになる、と言えるかどうか自信がない自分に気づいたからだ。
それは自分がパトリーに愛がないような気にさせ、自分を不安にさせた。
そして、かつて、あれほど嫌っていた『皇子』に対する自分の気持ちが、抵抗するのでなく流される方に変わっていることに気づいた。
ノアの気持ちはどこまでも揺れて、結局のところ……。
ノアに、パトリーは結婚を拒絶した、という結論にショックを受けているのだった。この分では、皇子だと真実を話しても、受け入れてくれるとは思えない。
だけど、受け入れてくれなくても……。
ノアは片膝を立てて、パトリーの手を握った。
受け入れてくれなくても、自分の愛に絶対の自信がなくても、ノアがパトリーを好きだということは事実だった。
「……足、絶対治るから。だから、そしたら、ダンスを踊ろう」
突然の言葉。驚くパトリーの目の中には、真摯に見上げる、貴公子然と凛々しいノアの姿。
「……あたし、そんなにうまくないわ」
「それでもいいよ。へたでも。今度は代わりはないんだ。俺がうまくリードする。だから、約束して。治ったら、一緒に踊ろう」
結婚を拒否されても、それでも怒りもせず、彼は真摯にパトリーを見つめていた。
そのノアを、どんな気持ちでパトリーは見ていたのか。それはノアにはわからない。
「治ったら、なんて約束してくれるの……? ……きっと、一緒に踊りましょう」
パトリーは泣きそうな顔で、ノアの手を握り返した。
その部屋には舞踏会の音楽がかすかに聞こえる。生演奏の、弦楽器の奏でるメロディ。軽快で、美しいワルツが。
次の日の朝は、晴れやかだった。
パトリーたちは再び旅に出る。
スペシネフに昨日の釈明をしたかったパトリーだが、スペシネフは明け方まで騒いで、今眠っているとのことだった。
「何なら言って欲しいことなら私が請け負いますがね」
そう言ったのは、次男のトトレーベンだった。本日、この貴族の家族の中で、別れの挨拶のため立っているのは彼とポランスキー夫人。
パトリーは立てなかったのでマレクに寄りかかりながら、謝罪などの言葉をトトレーベンに請け負ってもらった。
「パトリーさん、案ずることはありませんよ。兄貴は態度はねちっこくて最低ですが、何でも気にしない性質ですから。母さんと先に勝手に契約を継続する、と決めたってことも、ほんと、どうでもいいと思っているはずですよ。だいたい朝起きない奴が悪いんだ」
「トトレーベン! 兄にそのような言い方……!」
「母さんだってわかっているじゃないか。そりゃ私みたいに新しいもの求めて発明なんてしないけど、行動はだらしないし問題ばかり起こして迷惑をかけるって」
ポランスキー夫人はため息をついた。この老婦人がこの歳まで息子に家を引き継がせなかった理由がわかった気がする。
「昨夜も兄が迷惑をかけたでしょう。だから、これはほんの慰謝料代わりなのですが……」
と、トトレーベンが取り出したのは、車椅子だった。
「どんなに言っても母さんは使わないそうだし、パトリーさん、急に足が動かなくなったと聞いてね。使うべき人間に使ってもらってこそ、発明は価値があるから」
「けど、これはポランスキー夫人のためのものでは……」
「心配ありません。私は絶対にこんなものに乗りませんから。私のことは気にする必要などありません」
「まあ、母さんにはまた、これから改良したものを新たに作ろうと思っているんですよ。さ、ほらほら、どうぞ」
パトリーは促されるままに座った。こわごわと。車輪を回したりして、その場を動く。
「あ、ありがとうございます! とっても便利で……本当に、ありがとうございます!」
いえいえ発明家冥利に尽きます、と言いながら、トトレーベンは笑った。
そして、パトリーはマレクと向き合った。
彼とはここで別れである。マレクたち隊商は、二、三の村を回る。
二年の付き合いがある。パトリーがマレクを拾って、一緒に会社を設立してから。いつも一緒にいたわけでなくても、信頼しあう仲間なのだ。何度も別れた。そしてそのたびに、再会を疑いもせずに約束する。そして今度も。
「病院とか、決まったら連絡するわ」
「うん。重要書類、たくさん持ってく。……また、会う、絶対」
「ええ、また、絶対に」
ぐ、と熱く握手を交わして、別れた。
パトリーはノアたちの乗ってきた馬車に乗せてもらう。中にはノアが一気買いした干し魚などが溢れていて、思わずパトリーは苦笑いしてしまう。
車椅子を縛りつけ、馬車は進む。
ノアの服装はいつもの、盛装とまではいかなくても貴族的な軽装で、髪も下ろされ、本当にいつも通り。
パトリーはそれに安心した。
パトリーはノアを信頼していて、これから病気も治ることも、信頼していた。何も不安になることはなくて。
約束を守られることも、マレクとの再会も、オルテスとの再会も、信じていて。
――そう思っていたのは、ルースがやってくるまでだった。
かの鳥はオルテスからの手紙を運んできた。急いでやってきたと思われるルース。血で書かれた、異様な手紙。赤く急いで書かれたと思われるそれは、パトリーに衝撃を与えた。それは、全てに不安の影を落とすのに、十分な代物だった……。
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