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 第24話 ダンスを踊りましょう(2)


 舞踏会は、貴族の規模にしたら小さめだった。私的な懇親会、という様子だ。あくまでこの貴族にしたら、というだけで、舞踏会という形式はきちんと整えられている。
「パトリー嬢! このたびは、ワインをありがとうございます。何十本も……!」
 スペシネフは言った。
「いいえ。ミラ王国産の赤ワインがちょうど手に入りまして……。お好みに合えばよろしいのですが」
「ええ、とてもおいしいです。特に、グランディア皇国ではミラ王国と離れており、なかなか手に入らないのですよ。ええ、本当にありがとうございます」
「そう言っていただけて、貿易会社を経営している甲斐があります」
 パトリーは小さく頭を下げる。
 本当は……非常に大変だった。グランディア皇国首都キリグートに保管してあったそのワインを、急いでここまで運ばせて……。値段も相応にする。しかし、本当にこの取引相手は重要なのだ。
 ポランスキー夫人とトトレーベンはいない。夫人は足腰が弱いため、トトレーベンは発明が忙しいそうだ。
「それにしても、パトリー嬢、あなたのドレス、斬新ですわね。どこの店で?」
 どこかの貴族の女性がそう言った。
「わが社で取り扱っているものです。ルーン共和国製のものですよ。キリグートの東にある、わが社の支店で売っております。他にもいろいろございますから、どうぞ、ぜひいらしてくださいね」
 赤ワインを手に、にっこりとパトリーは言う。
 パトリーに舞踏会を楽しむとかそんな余裕はない。完全に、仕事の席の顔をしていた。
 スペシネフはワインで酔ったのか赤い顔で、パトリーのことを見ていた。その視線は粘つくようで、気づきながらもパトリーは気づきたくない気持ちだった。
 いろいろな人と話して、あちらへ行ったりこちらへ行ったりを繰り返し、笑顔を浮かべ、頭を下げて。てんてこまいだ。
 そして、更に顔が赤くなっているスペシネフと二人で話さなくてはならなくなった。壁際、窓の近くで。
 スペシネフは堅い会話は好まないようだ。八割方スペシネフが話した。グランディア皇国の古からの魔法のこと、社交界のこと、貴族の人間関係、流行っている遊びなどを。パトリーはもっぱら相槌を打つ方に回る。
 赤い顔、焦点の定まらない目。その目がパトリーをねっとりと捉えたとき、パトリーは嫌な予感がした。次の瞬間には、それが正しいと判る。
「パトリー嬢」
 スペシネフはパトリーの腰をぐい、と引きつけた。
「……っスペシネフ様、大分お酒を召されたのでは……」
「そんなことはありませんよ。北国、グランディア皇国では、これよりも強い酒など、浴びるほど飲みますからな」
 パトリーの肩が、びくりと震えた。
 腰を引きつけていたスペシネフの手が、下へ動き、尻を触り始めた。
 嫌悪感、鳥肌が立つような感覚がパトリーの中で駆け巡る。
「スペシネフ様、悪酔いをなされているようですよ」
 言葉では冷静に、パトリーはスペシネフから離れようともがく。そのパトリーの耳に、彼は囁いた。
「まあまあ、いいじゃありませんか。今までの取引量に、1000足してもいい」
 パトリーの動きが一瞬止まった。
「対価は同じで。いい話ではありませんか?」
 再び、スペシネフが触り始める。
 パトリーは見上げる。そこにある、にやり、と笑う赤ら顔。確かに、飲みすぎて忘れるほどには酔っていない。
 パトリーは強く握った拳をぷるぷると震わせて、振り上げようとした。しかしそれは途中で止まる。
 パトリーは、1000ね、と呟く。
 パトリーの頭に浮かぶのはマレクたちのこと、会社のこと……。強く、強く握りしめた掌から、赤い血が流れた。
「1200……にしていただけませんか?」
 そう言ったパトリーの表情は、貼り付けたような笑みであったが、殴りかかる寸前のような表情が一瞬垣間見えた。だが、スペシネフは気づかずに笑った。


「なあイライザ……今パトリーは舞踏会なんだよな……」
「ええそうですよ。楽しく踊っているんじゃありませんか?」
「……んで、一方俺達はコレ?」
「……コレです」
 二人の手の中に在るのは、干し魚。
 むしゃむしゃ食べているそれは、かつてノアがパトリーから一気買いしたときの商品。残っているので、やむなく二人は食べている。
 召使の為の部屋で、ノアとイライザの他にも、パトリーの会社の社員、マレクもいる。
 きっと、今踊ったり、楽しく話したり、上等なワインを飲んだり、楽しい時間を過ごしているのだろうな……。
 ノアはそう想像した。
「いろいろとおかしいよな? 何で俺が召使扱いされるんだ? イライザ、俺はどうしてそんな風に見られたんだ?」
「え……いや、ただ、偶然だと思いますが……。単に社員さんたちと一緒にされただけで」
「そうだよな、そうだよな! おかしいよな! 本当は俺だって、舞踏会に招待されてもおかしくないはずだよな!」
「確かにそうですが……」
「決めた!」
 ノアは憤然と立ち上がった。
「俺も舞踏会に出る!」
「ちょっ、ノア様!」
「確か舞踏会用の礼服ぐらい、あったよな。よし、行ってやる!」
 イライザの制止も聞かず、ノアは単純に用意を始めた。


 気持ち悪い……。
 吐き気がする……。
 一人バルコニーで胸の辺りをパトリーは押さえた。
 半円状のバルコニーからは、庭も、夜空もよく見えて、本来ならすがすがしい。
 しかし、今のパトリーからすれば、全てが不快に感じる。触られたところも、最悪に気持ち悪い。
 殴ってやりたい。殴り飛ばしてやりたい……。
 何とか理由をつけてスペシネフから逃げてきたが……。
 本心、パトリーはもう逃げ出したい。けれど……ここにパトリーしかいない以上、それは駄目だ。
 ……戻らなくてはならない。
 足取りも弱々しい。うつむいて歩くパトリーは、
「駄目、こんな調子じゃだめよ」
 と顔を上げた。
 こんな弱々しくてどうする。足が、また震えてきたせいだ。
 パトリーは顔をぱち、と叩くと、薬を取り出した。
 ノアからもらった、足の震えを止めるための、強い薬。粉状だ。
 紙に包まれたそれを、一気に飲み込む。水が欲しくて、手元にあったワインを飲んだ。
 手の中には、あと二、三袋薬がある。
 心配だったパトリーは、もう一袋、またワインで飲んだ。
 よし、と歩き出したパトリーであったが、身体の不調を感じるのはすぐのことだった。
 ――医学に詳しくない人は本当に何も知らない。
 ――よく効く薬をたくさん飲めばよくなると勘違いしている人もいれば、水代わりに酒で飲むことが悪いと知らない人もいる。まったくそういうことを学ばなかったパトリーも、その中に含まれていた。
 不調はすぐにやってきた。
 足の震えどころではない。本気で嘔吐の波が襲い、それをこらえるのだけで精一杯。頭痛、震え……視界はぐにゃぐにゃと揺れる。地面さえも波打つようだ。体の痛みや震えに集中せざるをえないために、ろくに考えることが出来ない。
 駄目だ、限界だ。
 精神力でそれらを押さえようとしたが、ついにパトリーは断念した。冷や汗が流れる。
 スペシネフのもとへ寄り、
「スペシネフ様……体調が優れませんので、申し訳ないのですが、失礼させていただきたく……」
 と、頭を下げた。その瞬間も、視界はぐらぐらと揺れる。
「それは大変です! 顔色も悪いようだ。……でしたら、私の部屋で休まれてはいかがかな……?」
 スペシネフがパトリーの手をつかんだ。パトリーは目を見開く。
 うまく断る言葉を……。
 失礼のないように断るような言葉を……。
 だが、頭は働かない。
 スペシネフは調子に乗って、再び腰を引き、その手が下に動く。
 不快さにパトリーの眉がつりあがった。
 掌がぐぐ、と力がこめられる。今剣を携帯していたら、抜かないでいる自信はなかった。
 不快、不快、不快!
 殴っては駄目だ、という今後のことを考えた結論と、凄まじく不快という感情とがパトリーの中でせめぎあう。さらに、体の不調まであり、パトリーの頭の中ではもはや冷静に考えることは不可能だった。視界すらぐらぐらとして、気持ち悪い。
 駄目だ、何が、痛い、吐きそう、不快、殴りたい……ぐるぐると回る。
 耐えるパトリーを、許諾の意に受け取ったのか、スペシネフは手を下へ滑らせようとした……。
 その瞬間、パトリー体が後ろに引かれた。不快さの絶頂にあったパトリーは、風を感じた。
 ぐい、と後ろに引っ張ったのは、パトリーの友人、ノアだった。
 だが、仰ぎ見てパトリーは唖然とした。
 ノアは立派な盛装をして、頭も後ろに整えられ、立派な貴公子に見えたのだ。堂々として、このような場に相応しい態度。
「な、何だ、君は!」
 スペシネフがノアに向かって叫んだ。
 ノアはと言うと、逆に鋭く睨み返すようにして、静かに答えた。
「俺はパトリーの婚約者です。婚約者を守って何が悪いのですか」
 凛として言うと、パトリーの体を抱き上げた。そして呆然としているスペシネフを置いて、舞踏会のフロアを出て行った。


「……ちょ、ノア! おおお、降ろしてっ! ……は、恥ずかしいわ」
 運ばれるままにぼーっとしていたパトリーだが、お姫様だっこの現状を認識すると、慌てて降りようともがいた。
「……危ないよ、パトリー。ほら、他に人いないから」
 かつかつ、と靴の音が響く。
 そこはもう舞踏会会場を出て、広い廊下だった。
 窓からの月明かりで廊下は青白く照らされている。
 ぶつぶつ言いながらも、パトリーは落ちないようにノアの首に手を回した。
 すぐ身近にあるノアの顔は、いつも見るものと違ってりりしく見えた。
 軽々と自分の体を持ち上げているノアを、一瞬パトリーは『皇子』のようだと思った。婚約者なんて言って助けてくれたが、彼が上流過ぎて不釣合いなくらい。
 気恥ずかしさばかりがあって、何だか気まずい。それはパトリーの一方的な思いだろうけども。いつもと違う、という感じで、変な気分だ。
「……何? パトリー」
「…………。なんでもないわよ」
「もしかして俺に見とれてる、とか? ……ってうわっ!」
 急にぐらついて、パトリーは床に投げ出された。
「きゃあっ!」
 べしゃ、と落ちて、その上にノアが覆いかぶさった。
「いた……な、何……う、重……」
 上半身をほんの少しだけ起こすと、ノアの足元に段差があるのが見えた。そこに足首が引っかかっている。パトリーを持っていたから、足元の段差に気づかなかったのだろう。
 いてて、とか言いながらノアが顔を上げた。
 そのノアの目の前にあるのは、パトリーの胸。
 思わず息を飲んで見てしまうのは仕方ないとしても、それをパトリーに見られたのはまずかった。
「な、何見てるのよ!!」
 ドン、とノアの体を強く押しのけた。
「ご、ごご、誤解だっ む、胸を見たのは偶然で……!」
「偶然にしてはしっかり見てたじゃない!」
「うぐっ。だ、大体、あんなふうに、谷間が目の前にあったら、誰だって……! それが無理やりに、ないのを寄せて上げて作ったのだとしても……」
 パトリーの目の中に炎が見えて、ノアは口元を押さえた。
「どうせノアも、あのスペシネフと同じというわけね!」
 パトリーはつんとして立ち上が……ろうとした。けれども、がくんと座り込んでしまった。不思議そうな表情でパトリーはもう一度立ち上がりかけた。けれどもそれも再び、すぐにしゃがんでしまって、ふわ、とドレスの赤い布が踊る。
 ノアはパトリーの意図がつかめなくて首をかしげた。
 パトリーは両手を床につけて、慎重に立ち上がりかける。けれども、滑ってしまったかのように再びしゃがみこむのだった。
 パトリーは呆然としたようにして、呟いた。
「立てない……」
 その呟きに、ノアははっとした。
 パトリーはどうすればいいのかわからない、心細そうな顔でノアを切実に見上げた。
「足が、力が入らない……。ノア、立てない……立てないの……」
 ノアはパトリーの足のあたりを触診した。
「ど、どう? あ、足、も、もう、駄目なの……?」
 震えるようなパトリーの声に答えることはノアにできなかった。
「……とにかく、部屋に行こう。こんなところでは……」
 パトリーを再び抱えようとしたノアを、パトリーは止めた。
「やっぱり恥ずかしいからそれやめて」
「は、恥ずかしいって、それどころじゃ……」
 それから少し攻防が続いて、結局パトリーはノアの横で首に手をかけて、ぴょこぴょこと歩くことにした。
 ほとんどノアに頼りきって、自分の力では歩いていない。その点で先ほどのお姫様だっこと同じようであるが、パトリーは安心した。
 なんだか戦友みたいで、さっきの『皇子』と『お姫様』よりも、『らしい』と思えたからだ。
 ロマンチックさよりも、頼れる友人を体現したかのような現状にパトリーは安堵した。




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