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第23話 戒めの自我(2)
中央の薪には火がともり、それを囲んで、みな眠っている。それはノアも。
すーすーと安らかな寝息の傍で、イライザは慈しむような眼差しを向け、ノアの前髪を撫ぜた。
す、とイライザの前に出されたのは、コップに入った暖かな飲み物。差し出したのは、パトリー。彼女は肩に布を羽織っている。
「まだ寝てなかったんですか」
「……ええ。体に悪いのはわかっているんだけどね……。もう、こうやって動けるうちに、動いておこうと思って」
パトリーの顔もイライザの顔も中央の焚き火だけでは明かりに乏しく、陰が支配していた。
パトリーは隣に座って、イライザの顔を見た。
イライザは今、自分が闇に溶け込んでいることを自覚していた。自分というものがなくなるくらいにまで溶け込みたいと願うこともある。こうやって夜、明かりの乏しい中にいることは、イライザにとって落ち着けることだった。
パトリーは今、それらを理解しつつあるだろう。
「……マレクは、危険ですよ、パトリーさん」
コップを両手で挟み、太ももの上において見つめているイライザは言った。
「あれは、決して日の下で生きるべき人間ではない。私と同じです」
「マレクはうちの副社長よ。昔何があったとしても、今も、これからも」
「……パトリーさんは知っているのですか? マレクが、どういう人間か」
「大体知っているわ。イライザが思う以上に」
イライザはゆっくりとパトリーへ顔を向けた。
「……組織のことも……?」
「ええ。そこでマレクが何をしたのかも」
イライザは驚いて、コップを取り落としそうになった。そして慌てて支えると、再びパトリーの顔を見た。
パトリーもコップを手にして、熱すぎた飲み物を冷ますために太ももの上においていた。焚き火の明かりが、パトリーの顔に映り、揺らめいている。
そのときのパトリーの表情は、大人のものだった。苦い味を知っているもの。自分が清い場所で生きられないことを知っているもの。
「驚きました」
正直にイライザは言った。
彼女は知らないと思っていた。知っていて、それでも雇い続けているとは。そして、あんな世界の闇そのもの、といったあの組織のことを知っているとは。それこそ、パトリーは少女ゆえの潔癖さを持ち、それゆえに、否定する人間だと思っていたから。
パトリーはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「商売っていうのはね、教会の慈善事業じゃないの。利益を得る、というのは、誰かの利益を奪う、ってことになることもある。利益を上げるには、お行儀よくしていればいいものじゃない。どういう意味か、わかるでしょう。……あたしは誰かに恨まれている人間だし、更に恨む人間が増えるとわかっていて、世界一の貿易商人になろう、って言う人間なのよ」
それは利己的な言葉だ。これをノアが聞いたら、どんな反論をするか。そんなものになろうなんて、と言い出しそうな気がする。
けれど、それを聞いて納得し、安心したイライザがいた。この言葉でわかった。パトリーは自分が正しいとは言わない。目の前のこの少女は、闇に染まってはいなくても、闇を知っている、と。闇というのは自らの中にあるものこそ、最も深く、最も怖い、と。
語る気はなかったのに、ぽつり、ぽつり、とイライザは語り始めた。
「……私があの組織に入ったのは、十五のときでした。私の家は、そこそこ立派な家で……武芸を奨励する家風でした。私のこの双剣も、幼いころより父に習いました。父は私よりも強く、私の目標で……。このまま父のように国を支える騎士となろうと目指して。何の疑問も持たずに。
けれど、十五のとき、父が国家反逆の重罪により国外追放の刑に処せられて、私の人生は一変しました。
家のお取り潰しは奇跡的に何とか免れましたが、家は無茶苦茶になりました。親類からもほとんどが縁を切られ、母は病に臥せり。財産はほとんど没収されて……家を維持することは不可能でした。けれど、母は病気で……そうでなくてもショックで落ち込んでいる母に、庶民の暮らすような家へ引っ越しましょう、とは……言えませんでした。
金が必要でした。かりそめでも家をもたせるために。けれど、私は正規の騎士団に入ることや、国の騎士になることはできません。重罪人の娘ですからね。だから、私は、暗い世界へ身を落としました」
イライザは苦笑していた。
「母のため、母のため、そう歯を食いしばって……。けれど、すぐに母は亡くなりました。なのに、その世界から身を洗いませんでした。母のため、なんていうのは、言い訳にすぎなかったのかもしれません。結局、自分から落ちて行ったのです。賭博、売春、薬、詐欺、殺人がまかり通る町に……。
今まで碌に遊んだこともなかったというのに、どんどんと堕ちてゆきました。世の中全てを忘れたくて……。堕ちて、堕ちて、堕ちて……簡単に人間は堕ちて行くものです。坂を上ることは大変だけれども、堕ちることには時間も必要ありませんから。時折は思ったんですよ。このままじゃだめだ、って。けれどそう思いつつも場末の飲み屋で酒を飲んで、すっかり忘れて。底なし沼に落ち込んでいる自分に気づくと、もう這い上がることは諦めました。もういっそ、どこまでも堕ちて行ってやろう、と。
堕ちていった人間の末路は二つあります。強い精神力によって、這い上がる事のできる者。そして、どこまでも堕ちて行く者。
私は後者でした。腕は鍛えることができても、精神は惰弱な人間でした。自分を擁護して、してしまったことに目をつぶり、忘れるように努めて。あのときのことを思い出すと、寒気がするんです。今ここにあのときの自分がいたら、殴り飛ばして殺してやりたいくらいです」
イライザは力を込めてコップを握り締めている。パトリーは口を挟まず、イライザに語らせる。
「どれほどの人と剣を交わし、勝ちを得てきたでしょう。しかし、自分に克つことは、何と……何と、難しいのでしょうね」
息が詰まったように、震えるような声がその場に落ちる。
「半ば必然のように、あの組織へ入りました。もう、何にも躊躇がなかった。完全にたがが外れていました。おそらく、そこでマレクは私を知ったのでしょう。すまないのですが、私に覚えはありません。もう、完全に這い上がることは諦め、組織の駒となりました。人生の末路が、見え始めました。そんなとき、あの方が現れたのです。ノア様のご生母様です」
あのときのことは、イライザには生涯忘れられない。
汚らしい町の片隅で生活していたとき、聖女のように現れたお方。
二人の前で、焚き火がパチ、とはぜた。
「あの方は、私の亡き母の友人で、私の惨状を知り、現れたのです。そして、全てすっかり手を洗い、ノア様の護衛となるように、おっしゃいました。……自分では沼から這い上がれそうにないような人間でした。が、あの方が引き上げてくださったのです。あんな私を……。あの方と、ノア様には、感謝のしようがありません。
私は裏切り者として組織を抜けると、ノア様の護衛兼指南役として、ノア様のお傍にいることにしました。初めてお会いしたノア様は、無垢な心で私を受け入れてくださいました。私は決めました。もう二度と堕ちまい、と。そして、このノア様を、日の下で堂々とした、立派なお方にしようと。約十年……私は、そのためだけに、命を賭してきたつもりです」
イライザが口を閉ざすと、パトリーはコップから一口飲み物をすすった。
「そして、今のイライザになったわけね」
「ええ……。何故でしょうね。ノア様にも言えなかったことを、あなたに話すなんて」
これからも、ノアには言えないだろう。あの方にだけは。
誰かにこれを話すときはないと思っていたのだ。誰かに語って、聞いた人間が気分のよくなる話ではない。だから、パトリーにも詳しくは語れなかった。
……いや、それは単に自らの罪を言葉にしたくないという弱さゆえかもしれない。だが、言葉で語れずとも、あのころにしたことは、鮮明に思い出せる。どれだけのことをしてきたか……。
こうして聞いてもなお、パトリーは問い詰めなかった。
曖昧な箇所を尋ねもしなかった。それは知っているゆえに尋ねないように見えた。語らずとも、彼女はわかっているかのように。それはイライザにとって、体の裏側まで透かされて凝視され、心臓を握られているような気持ちになったが、不思議と不快ではなく、安堵するような気持ちになった。
それは自分が、自分だけでは確固として立ち上がることのできない人間だから。だからこそ、ノアに出会ってから、自分を戒めてきた。戒めれば戒めるほど、安心していた。戒めの鎖を、欲していたのだから。
だから今、パトリーが全てを握っているかと思うと、薄ら寒い気持ちの裏側で、安堵する気持ちも生じる。
彼女のまなざしは優しかった。糾弾することなく、そして許すことなく。見つめるそのまなざしに、安堵した。
パトリーは口の中でじっくりと考えたように言う。
「闇を知る人間が、一番闇の怖さを知っている。あなたはノアの側で必要な人間なんだわ」
「……そうでしょうか。今なら、パトリーさん、あなたが代わりを務めることもできませんか?」
一毛も考えず、パトリーは否定した。
「あたしにはイライザのような力はない。命を賭けて守る気迫も、イライザ以上に強い人がいるかしら。何より、ノアが必要としているのはあたしではなくて、あなたよ」
「それは違います、パトリーさん」
「違わない。ねえ、明日、ノアと話してみなさいよ。ノアはね、イライザがいなくて落ち込んでいたのよ。ここらで仲直りしなさいって」
「それであなたはいいのですか?」
「何がよ」
パトリーは眉をひそめた。
「私とノア様が一緒にいて、パトリーさんは何とも思いませんか? あなたにとって、今まで私の行動が護衛以上のものと見えたのなら、それに対してむっとしませんか?」
パトリーは面食らったようだ。
「イライザ……そんなことで、離れようなんてしたの? 周囲の目を気にして、なんて。構わないに決まっているでしょ。護衛として側にいるなんて普通じゃない。逆に、あなたたち二人が一緒にいないと、変な気分だもの」
イライザはパトリーの発言から、ノアの目指す道のりは遠いな、と思った。
「逆に、むっとしてくださった方が嬉しかったのですが……」
「え? 何?」
ぼそっと言ったイライザだが、パトリーには聞き取れなかったようだ。
「いいえ。……ノア様はもう、十八です。そろそろ、離れたほうがいいかとも思いましたが……」
「それはノアに聞いてみなさいよ。あたしには答えが想像つくわよ。仲直りが気まずいなら、間に入ってあげましょうか?」
笑うパトリーを見て、イライザは気づいた。
そうか、彼女はバランスのいい人間なのか、と。
ノアから見た彼女と、イライザから見た彼女は違うだろう。
ノアにとっては明るい少女で、イライザから見れば闇を知る少女。
そのどちらも備え、どちらか一方に転ぶことなく、中道を行く。イライザにはなかなか真似できないが、闇を知ってなお、光の中でも生きている。そして、自らの闇を自覚して、目をそらしていない。
それでなお、マレクを抱えられるのは大物だ。闇の危険性を知っているだろうに。
夜空は闇なれど、澄んでよく見える星々が輝く。それらは一つ一つ、違う輝きを放つ。
旅をする人々の朝は早い。軽く朝食をとると、準備をして、早めに旅路を進む。
出発前、慌しい中。パトリーがマレクと関税のことなど仕事の話をしていると、少し遠くの場所で、ノアとイライザが話しているのが見えた。
声は聞こえなくても、二人はぽつぽつと言葉を交わし、イライザが頭を下げ、ノアは慌ててイライザに顔を上げさせ、再び言葉を交わし。
最後には二人でいつもどおりに歩いていた。ノアの少し後ろをイライザがついていく形で。
パトリーがふふ、と笑うと、マレクもパトリーの見るものと同じものを見て、笑った。
マレクの頬は怪我をしたのか、ガーゼをテープで張っていた。マレクは何も言わないので、パトリーは問いかけない。
「よかった」
短く言ったマレクの言葉と、同じことをパトリーは考えていた。やはり、ああでなければ。
視線に気づいたのか、ノアたちがやってきた。
ノアは照れたように笑う。パトリーは顔を近づけて、よかったわね、と小さく言った。
パトリーは視線をイライザに向ける。イライザの表情は変わらない。いつもの冷静なもの。でも、安堵しているように見えるのは、パトリーの気のせいだろうか。
イライザが気づいたように、パトリーに囁いた。
「そうでした。一つ、言っておきたいことが。あの、私とノア様がどうだとかいう、ばかげた誤解は、もうしないでくださいね」
パトリーはイライザと、マレクと話して後ろを向いているノアを交互に見た。
本当に何もないのかしら、とパトリーは思いつつも、自分も誤解することは多いから、
「わかった。そう言うなら、もう、言わないでおくわ。ノアとイライザが恋人なんて」
と、約束した。
言わないだけで、考えるかもしれないけれど。ということは、秘しておいた。
「どーいうこと? パトリー」
低い声のそれに、パトリーは振り向いた。
機嫌の悪そうなノアがそこにいた。
「俺と、イライザが、どうだって!? どこを見てそんな誤解をしたわけなんだ? 疎いことは仕方ないと思ってた。言わない俺も悪いと思ってた。けど、何故、よりによってそんな誤解しているのか、俺は深く、ふかーく知りたいよ」
低い声、明らかに怒っているような表情に、しまった、とパトリーは顔を引きつらせた。
イライザは額を押さえて、だから言わんこっちゃない、とばかりに見ているが、手助けしようという気はないようだ。
その後、理由のわからないままノアに怒られ、条件反射的にパトリーは謝り、「もしかして、ノアは別の女性が好きなの? それならそうと早く言ってくれればいいのに。ぜひ紹介して欲しいわ。それとも、片思い? それならそれで、協力するわよ。だってあたし達、友達だものね」、なんてノアを逆なでして、なんだかんだと一騒動が起こったが、また別の話だ。
とりあえず、ノアとイライザがそういう関係でない(イライザはともかく、ノアはイライザをそういう目で見ていない)、とパトリーが理解しただけで、多分喜ぶべきことなのだろう。
空は晴れ渡る。
澄み切っていて、旅には最適の気候だ。
二人の喧騒の側で、イライザは眩しそうに広がる空と太陽を見上げた。
ノアはパトリーとまだちぐはぐに言い争っている。元気で快活なノアを見て、イライザは目を伏せる。
太陽の光が降り注ぐ。それはノアに、パトリーに、マレクに……そしてイライザに。
ちゃぷん、と音が響く。
花の香りがその中に満ちている。いろいろな香りが混ざり合い、特定のどれかを示すのは難しい。
白く濁った湯が張られて、一人の女性がその中にいた。
こげ茶の髪は湯に浸からないように高くまとめられ、肩の辺りは湯から露出している。一児の母だというのに、肌は若々しい。
シルビアは静かに、その大きな風呂に入っていた。
風呂の側に、世話をする侍女が一人。シルビアが普段とは違うと、敏感に侍女は感じていた。
物思いにふけるように、時折肩に湯をかける。
シルビアの思案の向く先は、彼女の夫、シュテファンのこと……。
後になって、シュテファンがパトリーに何を言ったのか、全て知った。どんな暴言を吐き、どんな風に傷つけたのか……。
それを知ってもなお、シュテファンの強引にパトリーを結婚させよう、という意見を支持しようとは思わなかった。
それどころか……。
シルビアの左手の薬指には、指輪がある。デザインはシンプルな、けれど高価で、クラレンス家に相応しいように、と作られたものらしい。
湯から左手の手首から上を出して、シルビアはじっとその指輪を見つめた。
侍女にはシルビアの意図も、感情も、つかめなかった。
しばらくその指輪を見つめたシルビアは、右手をのばした。そして左手の指輪に、く、と力を入れた。
「出て行くのか」
シュテファンは、シルビアの背後でそう言った。シルビアは荷物をまとめるのに忙しい。侍女たちを使って、荷の整理をしている。
「はい。シュベルク国へ帰ります」
はっきりとシルビアは言った。振り返らず、荷をまとめる作業をしながら。
シルビアは、背後で言葉を言いあぐねている夫を感じた。
「シュテファン様は……私を、パトリーさんの説得のために連れてきたのでしょう。けれど、私にはもうそんなこと、協力できません」
「何がいけない? パトリーを結婚させるのは、家長、そして当主代理である私の義務だ。貴族の娘を政略結婚させるのは当然のことだろう。パトリーは私をイラつかせる天才なのだろうな。子供っぽいことばかり、まるで正論のようにほざく。そして何より、情を求めて見上げてくる、すがってくる、あれの何と、腹立たしいことか……!」
シルビアは、ばん、とかばんを閉めて、振り返った。
静かに見つめるシルビアに、シュテファンは興味ないように視線をそらした。
いつもそうだった。
シルビアは思った。
夫はいつも、まっすぐ自分を見つめることなく、冷たく視線をそらしていた。
結婚したときも、子ができた、と報告したときも、子が産まれたときも、いつも。
ついぞ、睨む視線以外で彼と見つめあったことがない。
まるで興味がないと言わんばかりに、視線を合わせようとしてもそらす。
「一つ一つ、言うことはよしておきます。いつまで経っても話は終わらないでしょうから。だけど、一つだけ、言わせてください。シュテファン様にとって、鏡に映った自分へ憎悪のためにナイフを振り下ろしていたつもりであっても、その鏡の裏にいるのは、関係のないパトリーさんです。
お義母様への復讐心、過去の自分への苛立ちや怒りを、人へぶつけるのは卑怯です。かつてシュテファン様がお義母様を心から慕い信じていたように、パトリーさんが同じように振舞っていたからといって、それはパトリーさんに責任はないでしょう」
シュテファンの瞳に怒りが燃え盛っている。
「だまれ」
呪詛のような言葉がシュテファンの口から洩れた。
「だまれ。あの女を、『お義母様』などと、呼ぶんじゃない」
そう言ってしまうシュテファンに、シルビアは哀れみを感じてしまう。抱きしめたくなる。そう言ってしまう彼は、自分がどれほど可哀想なのか、気づいていない。パトリーへ向ける言葉も、全て。
だが、それと協力するかは別だ。今では彼に賛同できないのだから。
侍女が、荷物を全て運び終わった。
シルビアは深く頭を下げて、行ってしまった。
残されたシュテファンは……だからといって、パトリーの結婚を諦めるつもりはなかった。
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