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第22話 拾い上げた手紙(2)
ノアは荒い息でマントを羽織って、そのマントは雨露で濡れていた。後ろからイライザも現れた。
ノアはパトリーが商品を並べて売っていることに驚いた。
お客さんも、なんだなんだ、と観察している。
パトリーはその場を踊り子の一人に任せて、ノアを連れて奥へ行った。
どうしたの、とパトリーが聞く前に、ノアが真面目に言った。
「パトリーは怒って当然で、顔も見たくないかもしれない。けど、言わなきゃいけないことあるから来たんだ。今まで、ずっと、隠していたこと……。実は俺は……」
「ストップ」
パトリーはノアの口の前に手のひらを出して止めた。
「もういいの」
戸惑いのノアの視線と、まっすぐなパトリーの視線が交じり合った。
ノアの目に映るパトリーは、かつての不安定で不安げな眼差しはなく、揺るぎなさを身につけていた。
「今まで言わなかったってことは、言いたくないのか、なかなか言えないことなんでしょう。事情も知らないのに、教えてくれなかったなんて言ったあたしが悪かったわ。だって、知ろうが知るまいが、ノアはノアだっていうのにね」
ノアはずっと考え続けた謝罪の言葉や、言い訳の言葉が吹き飛んでいた。
「……怒ってないの?」
「どうして?」
「だって……。……そう、パトリーは知らないんだ。全部、俺のエゴにすぎないのに。パトリーが傷ついたのも、全部、俺が悪いんだ」
中途半端に決断をしたり覆したり。全てもっとしっかりしていれば、パトリーは兄に暴言を吐かれずに済んだはずだ。ノアはそう後悔していた。
「どうして、あたしが怒るというの? あたしはノアがどんなことをしたのかは知らないけど、ノアがどういう人かは知っているつもりよ。決して、人を傷つけようとするような人間じゃない、ってね。あたしは怒るよりむしろ、感謝しているのよ」
パトリーはノアの言葉を聞いてもなお、瞳は揺るがなかった。問いただすこともなく。
何か変わった、とノアは確信した。
勝手に婚約破棄やその撤回を行って。それに対してノアは覚悟していたのだ。パトリーに殴られることすらも。
信じられない気持ちが顔に表れていたのか、パトリーはノアの肩を優しく叩いた。まるで家族にするように。
ノアは思わぬことに硬直した。
「素直に聞いてよね。ありがとう、って言っているのよ」
近くで聞いたパトリーの優しい声に、ノアは無意識的に安堵していた。
「今、あたしはとっても嬉しい気持ちなの。だから、これはそのお裾分け」
パトリーは少し背伸びして、ノアの額にキスをした。
パトリーが離れて、ノアは赤い顔で前髪を上げて額をさわった。
「さ、これで話はおしまい。商売をしなきゃね。さ、ノアも買っていく? いいものが揃っているわよ。魚の干物とか……」
「ちょ、ちょっと待って。パトリー病気だってこと自覚してる? 休まなくちゃ……」
「休まないわ」
きっぱりとパトリーは言う。勢いに乗って反発しようとしたノアだが、
「休まないわ」
と、パトリーが念押ししてもう一度言ったもので、脱力した。
「……あのね、パトリー。いくら、治る病気だってね、無理をしたら、治らないことだって死ぬことだってあるんだよ……」
歩き出そうとしたパトリーはぐるりと振り返った。
「……何ですって? 治る病気!?」
「そう。それも伝えたかったんだけどさ。パトリーは誤解してる。パトリーの病気は、きちんとした優秀な医者に治療を受けられれば、治るんだ。キリグートへ行ったら、間に合うんだよ」
「……ちょっと待って。だってノア、何か隠していたじゃない! それに……別れてから、病状はひどくなる一方よ。歩いたりするだけで息がすぐ切れて、頭痛はひどくて……」
「隠していたけど……ああ、もういっそのこと言うけどね、キリグートでいい医者を見つけるのは難しいんだよ。何とかツテを使おうと思っているんだけど。それをどうしようか、って考えていた。けど、パトリーに心配させたくないから言わなかったんだよ。あとね、薬とかで抑えなきゃ、本来病状はそれくらいなんだ。俺がパトリーの病気で隠していたことは以上。何なら、神様に誓ってもいいよ。わかった? パトリーはこれから安静にして治療を受ければ、助かる可能性が高いんだよ」
パトリーは呆然としていた。
逆に、ノアの言葉を聞いて大きく反応して現れたのは、全部隠れて見ていたパトリーの会社の踊り子や芸人やマレクだった。
「シャチョーさん、助かるのねっ!」
「いやったー! おめでとう! シャチョーさん!」
「助かる!助かる、嬉しい! 嬉しい! シャチョーさん、これからずっと、シャチョーさん!」
それぞれパトリーの頭をぐしゃぐしゃにしたり、跳びまわったりした。
「ちょ、皆、どこで見ていたのよ……もう」
騒々しい祝福の数々に、パトリーはテンポが遅れて、
「本当に、助かるのね、ノア……」
と、嬉しそうな明るい顔が露わになった。
ノアは、シャチョーさんって何だろう、と見ていたが、パトリーのその少しためらいがちな、喜びを溢れさせながらノアを見つめる透き通った表情に、他は思考も何もかも全て消えうせた。
ノアは力強くうなずいた。
ほころんだ花のように、パトリーはゆっくりと笑った。
ノアはそれをもっと見ていたかったのだが、しかし次の瞬間、パトリーは気を引き締めて、固く言った。
「けど、やっぱり戻って売り子をしてくるわ」
「え!? 話聞いてた!?」
パトリーは商品を並べているあたりに、戻ろうと歩き始めた。ノアも隣で追いかける。
「この病気で死ぬとしても死なないとしても、戻るのよ。何となくわかったの。これが、あたしの生きる道なんだ、って」
パトリーは手のひらを見つめる。そこには何もないはずなのに、まるでそこには至上の幸福が形となっているかのように、パトリーは見つめていた。
「あの笑顔を見たい。そのために、苦労してでもあたしは……」
「でも、安静にしなくちゃいけないよ」
「そうね。じゃあ、全部売り切れるか、夜になったら、きちんと休むわ」
笑いながら言うパトリーに、ノアはこめかみを押さえた。
「あのね……今具合がいいからって、無茶をすると……」
そう言っているうちに、パトリーたちは再び売り場へとたどりついた。
売り子をしていた踊り子の女性に、代わるわ、と言って再び内側へ行こうとするパトリー。ノアは並べられている商品をざっと見て、目に留まった女性用の髪飾りを手に取った。
「もう、わかった! 全部売り切れば休むんだね? 買う! ここにあるもの、全部買うよ!」
その発言には、その場にいた人全員が唖然とした。
パトリーはにこりと笑った。
「よし、商談成立ね! ちょっと手の空いている人来て頂戴! ノア、あなた馬車で来たのよね。そちらに、ここにあるもの全て運んで! 御代は現金かしら? お客様」
「……ツケで頼む。額を教えてくれ。銀行で振り込ませるよ」
いろいろな物資が外の馬車に運ばれるにつれて、もしかしたら俺はパトリーに騙されたのかな、とノアは思った。
「ここにあるもの全部運び出したら、奥から商品をまた並べなおして!」
「え! まだあるの!?」
パトリーは苦笑する。
「あちこち回るんだから、商品もたくさんあるのよ。それにここでノアが全部買い占めて、他に商品ない、ってことになったら、村の人々ががっかりするでしょう。安心して。約束どおり、あたしはもう休ませてもらうわ」
ほっとした様子のノア。マントは雨露で濡れている。パトリーたちを追いかけてくるだけで大変だっただろう。
その姿を見て、パトリーは、やはりあれは誤解だったのだろう、と考えた。
谷の村で嵐の日。ノアとイライザの喧嘩のような言葉。
あれは誤解だったのだろう。
目の前にいればわかる。ノアは本当に心配してくれている。
そう、そういうことに、もっと気付くべきなのだ。語るように求めなくても、別の方法で――たとえばしっかりと見て、話を聴いて、その人のことを考えて――知ることはできるはずだから。
パトリーは会社の他の社員に一言ずつ声をかけて、村の宿屋に入った。
ノアも入って、薬草を手渡した。
「この薬草は、頭痛がひどくなったときに、これは震えがひどくなるときに。そういうのを軽減させてくれる作用を持つ。それと、それらとは別に、食後の薬。これは今までも飲んでいたから知っているね?」
パトリーはうなずいた。
それと、とノアが差し出したのは、髪飾りだった。
さっき商品として並べられていたもの。つまり、現在はノアの所有物である。
繊細な細工のそれを、そっとパトリーの髪にさす。
「プレゼント」
驚いてその髪飾りに触れると、ノアの手とも触れた。やけどしたように、ノアはすぐに離した。
パトリーは視線を上げてノアを仰ぎ見る。
ノアの顔は少し赤いようで、眼差しは真剣なものに見えた。真摯に、パトリーの全て透かして見るかのような目。それにパトリーはどき、として、居心地悪いように視線をはずし、体も離した。髪飾りを外し、
「これはノアが買ったものじゃない。売ったあたしへのプレゼントなんて、おかしいわ」
「似合うと思ったんだよ」
ちょうどパトリーは東風の『女性用』の服を着ていたから。
「これは東南方面のルーン共和国東北部の伝統的な髪飾りよ。モチーフの蝶が女性の美しさを表しているの。本来、もうちょっと年上の女性が祭りなどの華やかな場所で身につけるものなのよ」
「ずいぶん詳しいんだね」
「当たり前よ。扱っている商品だもの。どこの何だか知らないものを商売する気はないわ。商品全部、情報は把握している。それが信条だからね。とにかく、あたしは受け取れない。こういうのは……そう、イライザみたいな人に似合うのよ。黒髪が長くて大人っぽくて、年齢もちょうどいい感じで……あら、そういえば、イライザは見ないわね」
きょろきょろとパトリーは見回す。
「イライザはさっきからずっと外だよ」
「どうして? いつもノアの近くに付き従っているというのに……」
「知らないさ。最近、よそよそしいんだ。遠くからでも護衛の任務はこなしているけど、あんまり話もしたくないようだし……」
ノアは少しむくれているようだ。
パトリーは髪飾りをノアの手の中に無理やり戻した。
「とにかく仲直りしたらどう? そうだ、この髪飾りでも渡して」
「これはパトリーに渡したいんだ」
「あたしは受け取れない。気持ちは嬉しいけどね」
ノアは、一歩引いたようなパトリーの態度を不満に思ったが、手の中にある髪飾りはもう受け取ってくれそうになかった。
「返されたとしても、イライザには渡さないよ。これは、パトリーにあげたいものなんだから」
パトリーは困ったような表情をして、少し顔をそむけた。
しょんぼりとして部屋を出ようとしたノアに、パトリーは宣言とも言える言葉を投げた。
「あたしキリグートへ行くわ」
ノアは振り返った。ベッドに横たわったパトリーは、手紙を大事そうに手にしていた。
「絶対に、キリグートへ行く。もちろん体を治すためもあるけど……あたし、オルテスに逢いたいの」
オルテス。ノアは記憶の中で引っかかった位置にいる彼の名を思い出す。パトリーがかつて共に旅をしていた男の名。
「絶対に」
ノアは何も言えなかった。
励ますことはできなかった。
そうでなくとも、励ましが必要ないくらい彼女は強く決意している。
セラへ行く、と言っていたときのパトリーと似たような、強い思いを感じた。
パトリーはキリグートへ向かう。もちろんノアも。
けれど、パトリーがキリグートへ一歩一歩進むにつれて、一歩一歩離れていくような予感がした。遠くへ。
ノアは強く髪飾りを握り締めて、手が痛かった。が、やめようとしなかった。
彼女は変わった。
今日、二回目、ノアは実感していた。
ぱたん、と扉が閉められた。
ふああ、とあくびをした。
雲が二つほど浮いた、晩春の空。
オルテスは緑生い茂る山々の中で、ほんの少し黙って立っていた。
そこはグランディア皇国とタニア連邦の国境線あたり。山中だから、厳密な国境線はわからないが。
オルテスはグランディア皇国にようやく入国したのだった。
何日だ、とオルテスは考えた。
パトリーとエリバルガ国で別れてから、2ヶ月近く経つ。
どう考えてもペースが遅すぎる。半分の時間でグランディア皇国の首都・キリグートへたどり着いていなければおかしい。
原因は何だろう。
金がなくて無銭飲食した結果、その店で働かなければならなかったせいか。金がなくなって稼がなければならなくなったことが、あまりにも頻繁におこったせいか。金をしっかりと管理して旅しなかったせいか。おいしいものを食べるため、いい宿に泊まるために、異常に金をそそいだせいか。それともルースの食事代がばかにならなかったせいか。
パトリーがこの場にいたなら、最後のを除いて全部だ、と言っていただろう。
オルテス自身も結局金が原因だ、とはわかっているが、かといって別にどうしようという気もない。
そのとき。
キィッ、と鳴いてすごい勢いで空から降りてくる鳥に、オルテスは思わずその場から離れた。
鳥は目にも留まらぬ速さで、オルテスのいた場所を直撃するコースを通っていった。ちょうど、オルテスの腹の辺りを。その鳥は空中をぐるん、と回って、しかめっ面をしているオルテスの肩に降り立った。
「……遅すぎるぞ、ルース」
キ、と、何のことかと言わんばかりにかわいらしくルースは鳴く。
パトリーへの手紙を届けさせてから、もう3週間以上経っている。いったいどこまで飛んでいったというのだ。やはり、訓練を受けさせなければきちんと運ばないか、とオルテスは嘆息した。
とりあえず手紙はパトリーへと渡したようで、返信が足に結び付けられている。
結婚しないためにセラへ向かった少女は、どんな顛末をとげただろう、とオルテスが手紙を開いた。
パトリーの字は小さく、流れるような筆記体。
開いて手紙全体を見た瞬間、オルテスはうめいた。
「しまった……」
あごに手を当て、そのまま眉を寄せて思案した。
「とにかく、どこか町で……」
と、内容を読みもせずに、パトリーの手紙をコートの内ポケットにしまおうとしたとき、その動きが止まった。
遠くから、森に生息しているであろう、小鳥の声がかすかに聞こえる。
その場に、緊張した空気が生まれた。
すっと鋭い目をして、手紙を再び取り出すと、裏を向けた。
指を切って、血で『こいつを預かってくれ』とすばやく書き、急いでルースの足にその手紙をしばる。
「さあ、もう一度、パトリーの元へ行け!」
ばさばさ、とオルテスがルースを空に放した。
木々に隠れた男たちがオルテスを襲い始めたのは、同時だった。
オルテスは剣を抜き、黒服で顔も隠す男たちを切り伏せようとする。しかし、男たちは皆、手だれだった。一気に倒すことはできない。
木々に隠れて隙を作って、と考えるオルテスは森の奥へ行こうとした。が、弓を引いてルースを狙う男を見ると、すぐさまそちらへ走った。一本の矢が、空を切ってルースへと向かう。オルテスは二本目の矢を取り出す男を切って捨てた。
空を見上げると、矢は間一髪でルースから逸れた。ルースは西へ向かう。もう、弓矢は届かない。
安堵したが、しかし、オルテスの首筋には剣があった。
後ろから羽交い絞めにされ、地面へ体を押し付けられる。もちろん剣も取り上げられた。
何とかして逃げ出そうと周囲を見つつ頭を高速で働かせていたが、男たちに隙はなかった。獲物を捕らえたというのにそこに油断はかけらもなく、間違いなく素人ではないとわかる。
慣れた手つきで手、体、足を縛り、乱暴にオルテスは運ばれた。
大男の肩に抱えられながら、オルテスは頭を働かせる。
敵の戦える男は五人。膝を使って担いでいる男のバランスを崩させ、剣を奪う。相手が驚き一瞬躊躇する間に、右側にいる男の剣を落とす。足の縄を切り、崩れた陣形の隙をついて、森の奥へ逃げ込む――そんな計画を立てる。
そううまくはいかないだろうし、腕の一本くらい持っていかれてもおかしくないが、何とか意表をついて、隙を作り出すほかない。
オルテスが決行しようと体をほんの少し動かしたとき、男たちは全員すばやく見咎め、短剣をオルテスの心臓・首筋・背中の上へやった。一人だけは実際にオルテスの腕を切った。
「動くな。殺しはしない。ただし、いくらでも怪我をさせることは許可を受けている」
腕への傷は浅かったが、オルテスはこのプロたちから逃げることは無理だ、と悟った。
オルテスへ剣を向けた全員の動きが、オルテスには目で追えないほどだったから。
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