TOPNovel「だから彼女は花束を抱える」Top
Back Next

   
 第22話 拾い上げた手紙(1)


 たとえば心から救われたと思うとき。
 そんなときは、あんなふうに心が熱くなるのだろう。
 世界が変わったとは、あんなことを言うのだろう。


「マレク、ちょっといいかい?」
 社員の一人が副社長のマレクを呼んだ。呼び止めたのは、この旅の中で、食料や料理を担当している人物だ。
 マレクは寝る直前の習慣にしている聖書を読むことをやめて、その社員に顔を向けた。
「シャチョーさんのことだよ」
 『シャチョーさん』とはパトリーのことである。マレクは暗い面持ちとなった。彼女がもうすぐ死ぬ、と本人から聞いたのは、数日前だ。それからパトリーは暗い顔をして、考え込んでいる。
「シャチョーさん、最近飯をほとんど食ってないぞ。いくら言っても。最低限の量は渡しているんだが……一人で食っているだろう? こっそり見たんだが、その分も、飯の匂いに近寄ってきたリスやら何やらにやっているみたいで……全然食べてないんじゃないかな」
 マレクは少し丸い目を見開き、
「……自殺? 消極的、自殺……」
 と言った。
 二人はパトリーが現在眠っている、荷馬車の方向を見つめた。
 そうやって心配して見つめる人のまなざしを、パトリーは知らなかった。いや、自分のことが精一杯で、気づけなかった。


 雲がどんよりと覆っていて、雨がざあざあと降る。昼間だというのに暗かった。
 パトリーと副社長のマレク、そして会社の社員などを乗せた荷馬車はあぜ道を進む。
 鬱々とパトリーは隅で考え込む。
 自己。意味。生死。
 考えるだけで落ち込むようなことを考え続ける。
 他の社員とは次の村で合流し、荷馬車は四台連なって、がたごと音が重なる。
 右手には牧草地が山の方まで広がっている。あいにくと牛や馬の家畜は見えない。
 パトリーと会社の社員たちは、小さな村へ向かっていた。最終的にはキリグート近くまで行くのだが、各地の村を回って、芸を見せたり、物を売りながら進んでいるのだ。
 シュテファンと再会したあの館を出てから、パトリーは鬱々と考え込む。
 ノアのことも。後悔していた。『何も話してくれなかった』なんて言ってしまったことを。少し考えれば、何か言いにくい事情があるからこそ話さなかっただろうに、勢いに任せて、言ってしまった。ノアに口を閉ざさせて、何も言えない状態にさせて。
 本当は、最期くらいいい印象を持ってほしかったのに。困らせたくなかったのに。
 自分は自分で首を絞めてゆく。墓穴を掘ってゆく。
 『お前には何も存在価値はない。』『なんて役に立たない奴だ。』『石ころより劣る、役に立たない、目に入れることすら厭わしい、ごみだ。』
 悪夢のように、兄の言葉が繰り返し繰り返し、パトリーの耳に蘇る。引き裂きたくなるような不協和音。耳を塞いでも、なお。
 がたごとと腰が痛くなるような、規則的な車輪の音は、突然、牛の鳴き声で止まった。
 雨音を切り裂く、悲痛な牛の叫び声だ。
 荷馬車は急停車した。
 まず男たちが、なんだなんだ、と降りた。パトリーも顔を出した。
「おい! 手伝ってくれ! 牛が沼に落ちて……!」
 それを聞くと、すぐさま男衆が駆け出した。
 パトリーも降りようとしたところ、マレクが止めた。
「シャチョーさん、病気! だから、だめ!」
 そう言って、マレク自身も走っていく。
 降りかけたままの姿で、パトリーは固まった。
 雨音の間に、牛の声が断続的に聞こえ、男たちの助け出そうとする声々もパトリーの耳に入る。
 ぼんやりと沈みながらも足を投げ出して、荷馬車のふちに座った。
 震える細く白い手を見つめながら。
 あたしは何の為に生きているのだろう。
 ――オルテスと別れたとき。
 お荷物になりたくない、彼ほど、一人で生きられるほど強くなりたい。と思った。
 けれど現実はどうだ。
 病気で不安定になればなるほど、誰かがほしかった。一人では生きていけないと、嫌になるほど自覚した。
 誰もいなくなって、自覚できた。自分は、他人がいなければ生きていけない人間だ。それくらい、弱い人間だ。
 弱い。兄の言葉に簡単に揺らぎ、落ち込むほどに弱い。
 自分の意味すら分からず、否定され。
 泣いて。それだけでは何も変わらないのに。
 ただの荷物。ただの、荷物……
 そう、深く、沈んで。
 
 そのとき、パトリーの内ポケットから、手紙が落ちた。
 それは、オルテスからの手紙だった。パトリーは拾い上げ、開いた。
 『親愛なるパトリーへ
 元気でやっているだろうか。おれは今、タニア連邦の首都・ファザマにいる……』
 一度読んだ文章に、オルテスに、懐かしさを覚える。
 事務的な字をゆっくりと追う。
『……勝負に勝っていた場合。これはつまり、パトリーの望むとおり、結婚しなくてすんだということだな。
 おれは一言、おめでとう、と送る。
 たったこれ一言だけか、とパトリーなら怒り出すかもしれないが、勝負に勝ったなら、おれが言葉で飾り立てずとも、喜んで喜んでたまらないだろう。――決して、手抜きではないぞ?
 もし、勝負に負けていた場合。つまり、意に沿わぬ結婚が決まってしまった、ということだが――
 その場合、パトリーはずいぶんと落ち込んでいるかもしれないな。絶望すらしているかもしれない。
 だが、忘れるな。』
 パトリーの瞳の中に、光が生まれ始めた。
 雲間にさす、優しい太陽の光のように……
『結婚しようがしまいが、パトリーはパトリーだろう。どんな服を着ようが着まいが、どんな場所にいようがいまいが、パトリーはパトリーだ。』
 以前、隣で歩いていたオルテスが、霧の奥から徐々に鮮明に現れるように感じた。彼の冷たいけれども優しいまなざしを、自分を確かに見てくれるまなざしを、感じて。
『たとえもし、願った、商人への望みが絶たれても、願わないことばかりをすることになっても、そばに、望んだ人がいなくても。そこが、自分の世界ではないと思っても。
 胸を張りパトリーと名乗るなら、立ち上がり前へ進むなら、それがパトリーだ。
 どうなったとしても、また会えるなら、おれは変わらずに声をかけるから、安心しろ。
 ま、会えたら、やっぱりまた何かを奢ってもらうだろうから、用意しておいてくれ。
 では。
 ザギス ブルシェ
                       オルテス』
 『オルテス』と書かれた最後の部分を、震える指先でなぞった。
 胸に炎が宿ったように、熱かった。
 胸は打ち震えていた。
 凝っていた暗い思いが、優しい光に照らされ、溶け出したように。
 手紙は震え、強く握りしめたせいでしわができていた。
 ――救われた。
 生まれて初めて、パトリーはそう思った。
 たった、こんな、ちっぽけな手紙の言葉で。
 たとえようもない、世界への歓喜の感情が溢れ、オルテスへの感謝と何と名づければいいのかわからない強い想いが溢れ。
 パトリーは憤然と立ち上がった。
 そして雨降りしきる中を、男たちの元へ走った。
『結婚しようがしまいが、パトリーはパトリーだろう』
 ――そう言ってくれる人が、この世界にどれだけいるだろう。何の条件もなく、ただ自分を認めてくれる人が。
 初めて読んだときには気づけなかった人間の大きさを、パトリーは感じ取っていた。
 牛に縄を結んで、その縄を男たちが引いていた。パトリーが現れたことに、男たちは、特に副社長のマレクはぎょっとしていた。
「シャチョーさんっ!」
「何もしないのは、あたしらしくないでしょう?」
 沼に落ちている牛は泥まみれで、鳴き声をあげ続けた。
 パトリーたちは協力して、呼吸を合わせて縄を使い、牛を引っ張り上げようとした。
 足が沼から出た、と思った瞬間。
 その足が滑った。大きく牛は転倒し、縄ごとパトリーも男たちも沼へと引き込まれる。
 うわああ、と男たちが摩擦で熱くなった縄を放す。
 牛側にいたパトリーは、自身も半身、沼に落ちてしまった。
 派手な音を立てて、落ちた。浮かび上がると、同じく沼にいる隣の牛と、目が合った。
 少し目をぱちぱちとさせて、隣にいる牛の真っ黒くて純な瞳を見つめた。
『たとえもし、願った、商人への望みが絶たれても、願わないことばかりをすることになっても、そばに、望んだ人がいなくても。そこが、自分の世界ではないと思っても。
 胸を張りパトリーと名乗るなら、立ち上がり前へ進むなら、それがパトリーだ。』
 服も顔もみんな泥だらけ。まるでいたずらした子供のようだ。
 隣で暢気にぶもーっ、と鳴く牛に、ぷ、とパトリーは吹き出した。そして、ふふふふふ、と笑い出した。
 久しぶりの、屈託ない笑いだった。
 全てが浄化されたかのような。
 そうだ、あたしはパトリーだ。これまでも、これからも。
 パトリーは震える手で、その震えを気づきながらも牛の首を抱き、
「さあ、行こう」
 と、沼から出ようと、牛の首に縄を引っ掛けて、縄を引っ張ることで沼から抜け出したのだった。
 特注の男装の服は泥まみれだ。顔も、手も、みんな。なんてみっともないだろう。
 けれど、雨雲から、いくつか光の柱が降りていた。遠くの空には青空が見える。
 世界は美しく見えた。
 ほんの少しの言葉が、世界を変えた。
『どうなったとしても、また会えるなら、おれは変わらずに声をかけるから、安心しろ。
 ま、会えたら、やっぱりまた何かを奢ってもらうだろうから、用意しておいてくれ。』
 また、会いたいと思った。
 誰よりも、どんなときよりも。
 再び逢いたい。
 そして、感謝の言葉を言うのだ。
 たとえ別れたときから何も変わらない、弱い自分だとしても。死を前にしても。
 胸を張って。
 こんなに誰かを求めるのは、誰かに逢いたいと想うのは、初めてかもしれない。
 ――オルテス、あたし、あなたに逢いたい。
 ――どんなに辛くても時間は限られていても、笑っていよう、あたしらしく生きよう、と思う。
 パトリーは決意した。
 ――ねえ、あなたのおかげよ、と。
 そう、笑って言おう。絶対に。
 こんな感情を、愛しいというのかもしれなかった。
 けれど、名はどうでもいいのだ。
 ただ逢いたい。
 ただ、それだけ。
 真っ直ぐな、それだけ。

 
 牛を助け出して、男たちもパトリーも、荷馬車の中にいた女たちも、みんな、喜んだ。
 よかった、よかった、と。暖かくて、明るい顔で。
 道の先には、小さな村があった。
 パトリーたちの荷馬車が到着すると、村中から老若男女、外に出てきた。
 雨はまばらになっていた。
 荷馬車から降りてきた女たちに、村の住人は目を丸くした。
 みんな同じ、派手なドレスを着ていたからだ。
 そして後から降りた三人の男が楽器を演奏し始めると、女たちは陽気に踊り始める。
「さあさ、我々旅芸人! どうぞどうぞ、老いも若きも、ごらんくださあい! まずは、遠い南の踊り子たちです!」
 村人は拍手して、目をキラキラさせて見る。
 グランディア皇国は閉鎖的な国なせいか、特に寒村だとこういった娯楽は珍しいのだ。
 パトリーは適当に顔や手の泥を落としてジャケットを脱ぎ、村長と交渉した。
 芸を見せて稼いでいいか、交易品の売買を行っていいか。
 村長は快諾した。
「うちの牛を助けてくれた恩人に、文句を言うはずがないよ」
 沼に落ちたあの牛は村長の所の牛だった。おまけに、泥だらけになったパトリーに、温かい湯を使わせてくれた。
 お湯を浴びながら、人の優しさ、温かさが身にしみた。
 荷の中にある東方の民族衣装を身にまとい、パトリーは交易品を広げて、自らそれを売り出した。
 年頃の女性が身につけるような服飾品、好奇心旺盛な子供たちが目を輝かせる貝殻や玩具、それに保存のきく変わった食料……。
 村長さんは、屋根のある場所を貸してくれた。
 踊り子の女たちは軽快に手を振り腰をくねらせる。見ている者たちは御代を入れる籠に小銭やお札を入れていく。パトリーは隣で交易品を売る。
 商品を見る人々の目は、好奇心できらきらと輝く。
 それがパトリーはとても嬉しい。
 パトリーと同じ年頃の少女は髪飾りを自分の髪に差しながら、好きな男性のことを考えているのだろう。
 子供たちはわあわあと騒ぎ、これ何、あれ何、と訊いてくる。圧倒的な子供のパワーに押されながら、一つ一つ丁寧に説明する。『この人形はここから南のミラ王国のテベで作られた陶器の人形。壊れやすいのよ』『それはオルゴールといってね、横の螺子を回してごらん。ほら、素敵な音楽が聞こえてくるでしょう』と。貝殻に興味を持つ子供も多かった。ここは海から遠く離れているから。
 笑顔。
 笑顔。
 パトリーもつられて微笑む。
 こうしていると、思い出してくる。
 自分が、世界一の貿易商人を目指す、と決めたとき。
 それは、こんな笑顔を世界中で見たかったから。
 きらきらとした目をして商品を見る人たちを見ることが、何て嬉しいことだろう。
 子供たちは親にねだる。渋っていた母親も、結局は買ってくれた。魚の干物や、変わった食べ物も一緒に。
 パトリーは思い出す。
 一番最初、一人で籠を担いで行商を始めたとき。
 各地を回ったけれども、都会の人たちよりも、こうしたあまり交通の便がよくない村の人たちの方が、とてもいい表情をしてくれた。
 遠い地方のものにほとんど縁がないから、その分、好奇心旺盛に商品を見る。
 ありがとう、と言って買っていくのを見ると、苦労して来た甲斐があった、と、いろんな苦労が消えていく。
 そんな原点を、思い出した。
 ふと横を見ると、踊り子の踊りから、男たちの棒を投げる芸へと変わっている。
 汗をかいて休んでいる踊り子が、マレクが、安堵したような表情でパトリーを見ていた。
 どれだけ心配をかけただろう。その表情で、彼らがどれだけ自分を心配してくれていたか、わかった。
 パトリーが声をかけようとしたとき。
「パトリー!」
 扉の方から、声がした。
 聞き覚えのある、それはノアの声だった。




   Back   Next



TOPNovel「だから彼女は花束を抱える」Top