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 第21話 暗闇の中(3)


 それこそ、ほんの少し。ほんの少し前のことだった。パトリーが目覚めたのは。
 目覚めたのは揺さぶられたためだった。
 そこは簡素なベッドの上だった。意識の喪失は数回経験していた。だから、ここはどこだ、何故、と驚くことはなかった。倒れた後、どうしてどうやってベッドへと運ばれたのだろう、と思いながら。
 驚いたのは、起こした人物だった。
「起きましたか、パトリーさん」
 目をこすってよく見ると、そこにいるのはハッサンだった。
 セラの図書館の館長。パトリーを殴って気絶させ、シュテファンの元へ送った男だ。
「なぜ、なぜあなたがここに……!」
「キリグートで学会があり……同じ方向だというので、シュテファン様とご一緒にここまで来たのです。……ぜいたくはできませんから、召使のような真似事をしていますが。……かつてあなたを殴ったこと。そしてシュテファン様の手のものへ渡したこと。図書館の為とはいえ、いつか、謝りたいと思っていました。すいませんでした……」
 ハッサンは頭を下げた。
 それをぼんやりと見つめて、空気に溶けるような声でパトリーは言う。
「もう……いいです。前のことは、もう」
 ハッサンはほっとした顔をした。
「逃げ出しましょう。窓から裏口へ。私がなんとか……」
「いいえ」
 きっぱりとパトリーは言った。
 このままハッサンに頼って逃げ出して、どうするというのだ。
 セラで捕まった時と同じではないか。あのときはノアと……逃げ出した。
 あのときとは違う。
 もう知っている。シュテファンの本音も、自分の命が終わるということも。
 そして失った。自分を。自分の価値を。
 もう、どうでもいい。
「まさか……このままここにいるつもりですか? シュテファン様がどうなさるか、わからないのですか?」
「いいえ、ここにいるつもりはありません。ただ、裏からこそこそと逃げ出すなんてことはしない。正面から、あたしは出て行きます」
 無茶な、と言うハッサンを置いて、パトリーは扉を開けた。
 部屋の前で、私兵がパトリーの姿を見て驚いていた。しかしすぐさま扉の前で、剣と剣とをクロスさせて通さない。
「通してください」
 そう言っても通すはずはない。
 パトリーは躊躇することなく剣を抜いた。貴族のお嬢さんが剣を抜いたことで、私兵は戸惑った。
「通しなさい」
 底冷えのする声でパトリーは剣を構える。
 パトリーはそこそこ剣を使える。針も持てない貴族のお嬢さんだと油断している私兵を倒すことは、可能かもしれない。
「最後の忠告よ。通しなさい。さもないと……」
 私兵はそれでも剣を引かなかった。
 パトリーは素早く剣を振り……。
「何をしているのです!」
 その一喝は、寸前で動きを止めさせた。
「……シルビア義姉様……」
 その場にいるのは紛れもなく、彼女の義姉、シルビアだった。こげ茶色の髪をまとめて、若草色の落ち着いた色のドレスを着ている。シュテファンの妻にして、クラレンス家の家計など家の内部のことについて責任を負っている彼女。
「誰に剣を向けているのです! パトリーさんがクラレンス家の娘だと知った上でのことですか!?」
 彼女が怒っているのは、私兵に対してだった。
 私兵は慌てて剣を引く。
「しかし……シュテファン様からの命令で……」
「そのシュテファン様の妹なのですよ! パトリーさん、大丈夫ですか? 倒れたと聞いて……心配しました」
 久しぶりに会ったシルビアに懐かしさを覚えながら、パトリーは淡々と訊く。
「シルビア義姉様。玄関はどちらですか」
「え? そちらの廊下の先の、階段を降りた先で……」
「ありがとうございます」
 そう言って、パトリーはその方向へ歩いた。慌ててシルビアが追いかけてきた。
「パトリーさん!? 出て行くつもりですか? どうして……。結婚のことは納得なさったのでしょう?」
「納得? 納得ですって?」
 歩みを止めずに、パトリーは言う。
「ええ……シュテファン様がおっしゃっていました。説得して、納得させた、と……」
「説得! 面白い言葉を使いますね! ……確かにすばらしい説得でしたよ。あたしにはとても真似できないような、説得の仕方です。……あたしにはあんなこと、とても言えません……」
 正直なことを言うと、結婚もどうでもよくなっていた。
 兄に自分を否定され、一番こだわっていたそれさえも、もうどうでもよくなっていた。
 どうせ死ぬのだ、と。
 今パトリーが動いているのは、その兄の思うとおりにしてたまるか、という最後の抵抗のようなものにすぎない。
 割れてしまった陶器を無理やり繋ぎ止めた、ぼろぼろの矜持にすぎない。――ここで兄が現れ、先ほどと同じ、心を殺す言葉を叩きつけられれば、壊れてしまうような――姉たちと同じく従順になるような、あまりに不安定でぎりぎりの矜持にすぎない。
 パトリーは絶望を身にまとい、歩みを止めない。
 玄関の前へと進んだとき、さすがにシルビアは手を引いて引き止めた。
「待って……待って! パトリーさん、熱くならないで、冷静になりましょう。シュテファン様を今、呼びに行かせますから――」
 シルビアは侍女にシュテファンを呼びに行かせた。
「シュテファン兄様を……? どうぞ、お呼びください! ええ、どうぞ! 呼んだ所で何も変わりません! どうぞ、呼んでください! シュテファン兄様なんて、シュテファン兄様なんて、二度と会いたくない! もう二度と!」
 全く反対のことを同時に、支離滅裂で非論理的な言葉を吐いて、パトリーは暴れた。けれどシルビアは離さない。
「パトリーさん、落ち着いて、とにかく落ち着いて――。シュテファン様は今来ますから……冷静に、冷静に話し合いましょう!」
 けれどもシュテファンは来なかった。
 帰ってきた侍女の言うには、今お客様がいるので出られない、と。
 それにパトリーはほっとした。本心から、シュテファンにはもう二度と会いたくなかった。あの暴言をもう二度と聞きたくなかったから。
 けれど同時に、泣きたい孤独な気分も味わったのだった。結局、シュテファンにとって自分は、本当にどうでもいい人間なのか、と。
 もう二度と会いたくないのに、もう一度会って話したかった。
 後者の気持ちの方がなぜか強くて、揺れるような気持ちを隠すために、とにかく勢いでパトリーは叫ぶ。
「もういいんです! もう……! こんなところ、出させてもらいます!」
「そんな……お待ちになって、パトリーさん」
「これ以上、無理にあたしを引き止めるなら……無理に結婚させようというのなら、あたしは神の嫁となります!」
 神の嫁……それは教会で尼となることをいう。
 パトリーが思った以上にシルビアは驚いた。
「な、何ですって!」
「無理に結婚させようというのなら、誓いの言葉を言う場で、神父様へ、神の嫁となりたいと求めます。ええ、クラレンス家の問題児の、愚かな娘にふさわしい所業でしょう! さあ離してください、シルビア義姉様。本当にそうなってよろしいのですか?」
 シルビアはためらった後、パトリーから手を離した。
 パトリーは振り返らずに、館の外へ出て行った。


 それが、シルビアから、シュテファンとノアとイライザが聞いたことだった。
「パトリーさんに、何を言ったのです!? シュテファン様! あれほど憔悴して、やけっぱちなパトリーさんは見たことがありません! 神の嫁……そこまで追い詰めたのですか!? シュテファン様!」
 シルビアは夫を咎めた。夫のシュテファンは何も言わなかった。
 ノアたちは走って、玄関を出た。
 館の外へ出ると、荷馬車のあたりで人がたかっていた。人々は深刻そうな顔で荷馬車の中を覗いている。
 ノアはその中へ分け入った。
 するとそこには、ぐったりと横になっているパトリーを、館に入る前に話した大柄な男が、どうしようと言わんばかりに膝へ頭を乗せていた。
 ノアは顔色を青くした。
 パトリーの手を取り、脈を計る。
「イライザ、クルココの葉だ! 荷物の中にあった! 早く出してくれ!」
 イライザが取り出したその葉を、ちぎってパトリーの口の中に入れる。次に水も入れて、ごほ、とパトリーは咳き込んだ。
 ゆっくりと、アメジストの色をしたパトリーの瞳が現れる。揺らめいて、視線は真上のノアへと注がれる。
 少しノアがほっとして、頬に触れようとしたとき、
 パシッ
 軽い音をさせて、パトリーはノアの手をはらった。
 後ろにいたイライザが思わず立ち上がりかけた。――途中でノアが止めた。
 たった数時間前だというのに最後に会ったときよりも青白く、不健康で弱々しいパトリーは、ノアを完全に拒絶した目をしていた。
 大柄な男の肩を借りて、パトリーは上半身だけ起こす。
「駄目だよ、パトリー。もう少し寝ていなくちゃ……。それから、この葉をもう少し食べて……」
 パトリーは何か強い感情や思考をコントロールするかのように、目をしばらく瞑った。
「ノア……あなたには感謝している。今も、今までも、これからも。あなたには助けられたわ。けれど、もういい。その薬草も、もうどうせ後がないあたしなんかより、もっと使うのに有意義な人に使ってちょうだい」
「え……何、後がない……?」
「もうとぼけなくてもいいのよ。どうせあたしは死ぬんでしょ。わかっているのよ。死ぬと分かっている人間につきあってくれてありがとう。……たとえ迷惑だと思われていても、嬉しかったのよ。死ぬまで感謝するわ」
 パトリーは笑っていた。それがノアには不思議だった。そんな、笑って言う話じゃない。
「何、何を……」
「でも、迷惑なら、迷惑だと言ってくれればと思ったわ。ノアの性格上、言わないとは思うけど。もういいの。あなたが無理につきあってくれなくても、今、こうして会社の仲間と合流したから。ノア、あなたが、重い負担を背負う必要はもうない」
「ちょ、ちょっと待って。パトリー、何か、何か誤解が……」
 パトリーは首を振る。
「誤解……? もう、あたしには何が真実で、何が誤解だか、分からないわ。あなたは何も話してくれなかった。ノアは自分のことを、何一つ話してくれなかったわね」
 最後は反論できず、ノアは言葉がなかった。
「もういいの。あたしには生きている意味すらないらしいわ。運命とはうまくできているわね。生きていても仕方がない人間が、もうすぐこの世を去るなんて。さようなら、ノア、イライザ。元気でね。ありがとう」
 毅然と、パトリーは別れを告げた。
 それは拒絶だった。笑いながらの。
 パトリーは最後、笑っていた。小さなろうそくの一瞬の輝きのように。
 それがとても不思議で、ノアには決して真似できないだろうと思う。
 パトリーは誤解している。自分が死ぬなんて、そして迷惑に思われているなんて。
 それでも、なぜ笑っていられるんだ。
 あのシュテファンに、何か話を聞いたはずだ。とても、聞くに耐えないようなことを。
 それでも、どうして笑えるんだ。
 怒るでもなく、感謝の言葉なんて口にして、無理に。
 その笑顔がノアの目に焼きついていた。
 考えているうちに、荷馬車は行った。
 ノアは呆然とそれを見続けて。
「どうしますか、殿下」
 荷馬車の影も形も見えなくなって、イライザがぽつりと問いかける。
「パトリーは……誤解している。だから……」
「また、他人の『理由』ですか?」
「……違う。俺は……俺は、パトリーと一緒にいたいんだ。だから……」
 あの笑顔が、忘れられない。
 簡単に壊れそうなほどに脆い、笑顔。
 ノアは今まで、パトリーの笑顔をいくつも見てきた。
 見たい笑顔はあれじゃない。
 本当に楽しいときの笑顔は、もっと明るくて、こっちまで楽しさが伝わってくるようなもので……
 その笑顔を見たい。
 それを守りたいんだ。
 婚約破棄だとかその撤回だとか、大事なのはそんなことじゃない。大切なのは……
 振り返ると、イライザが手に口を当てて、寂しそうにノアを見ていた。それも遠くを見るような様子で。
 ノアはそれを問いただしたが、イライザは答えなかった。
 イライザはじっと黙って、一つに結ばれていた長い黒髪を風に流していた。
 彼女が遠くに行ってしまったように、ノアには思われた。


 荷馬車は揺れる。
 あまり舗装されていない小道などは、特に揺れが激しい。
 パトリーは荷馬車に横たわりながら、暗い荷馬車の中で瞳が光っていた。
 荷馬車の中は、微妙な雰囲気が流れていた。先ほどの、パトリーの病気の話、死の話……それらは皆の耳に入っていたのだから。
「マレク」
 パトリーが副社長の名を呼ぶだけで、周りがびくついた。マレクは大きな体を小さくしてパトリーの横に座った。
「……話しておきたいことがあるの」
「……何」
「あたしの死後のことよ」
 息を飲む声が多数聞こえた。
「これから、町へ出たら、正式な遺言書を作成する。中身は、会社の財産などについて、あたしが所有するものについては、全てあなたに譲る、というものよ」
「……無理。俺、無理」
「あたしが思う限り、あなた以上に適任者はいないと思うの。けれどもそれでも嫌だ、というのなら、あたしの死後、あなたが誰かに譲るか、会社で話し合いなさい」
 マレクはうつむいた。横たわるパトリーにはその表情がよく見えた。
「シャチョーさん……死ぬ、本当……?」
「ええ」
「でも、シャチョーさん、笑ってた。あの男に、笑ってた」
 ふ、とパトリーは微笑んだ。
「あの男ってノアのことね……。今笑わなくちゃ、もう笑えない気がしたのよ」
 どんどんと負の感情に落ちてゆけばゆくほどに。
 いつまで、笑っていられるだろう。けれど、最期は笑えないだろう。自己を否定されて、ばらばらの心で、心から笑えやしない。
 シュテファンへの怒りは通り越し、向き合うのは自分だった。
 呆然として中身がない、自分だった。
 あたしとは何だろう。何を持っているだろう。何の価値がある?
 貴族の娘だけど、結婚を否定して。価値がない、とぼろくそに言われた。
 かといって貿易会社の社長と言っても、その社長の座は、死後マレクへと移る。
 何も……。
 パトリーは目をつぶる。
 頭痛が最高潮だ。
 目を閉じた後に訪れる、何もない暗闇の世界が、パトリーにはやけに悲しく見えた。




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