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 第21話 暗闇の中(2)


 その後、ノアは皇家への返信を書き始めた。
 『婚約者』のパトリーが病なので、キリグートへ向かっていると。
 シュテファンのことは、もう一度彼に会おう、ということでこの場は落ち着いた。
 ごうごうと響く強い風。
 激論していた結果、もうすぐ夜が明けようとしていた。
 ノアが皇家への手紙を書いている途中、イライザはふと隣室のパトリーのことを思った。
 彼女の行く末は、彼女の知らぬまま、決まっていく。
 だがそれは憐れむべきことではない。誰だって自分の運命の手綱を完全に握ることはできない。運命の女神を手に入れられる人間はいないのだ。そんな『自由』な人間は存在しない。
 別に悪い選択肢ではないだろう。
 ノアを心底憎くて嫌いだというならまだしも、『友人』関係となれる程度ならば。
 何よりイライザにとって、全てはノアが優先される。ノアが幸せなら、パトリーの『ちょっとした不満』など、取るに足らないことだと考える。それを強硬手段を使わず優しく説得しようというのが、イライザとシュテファンとの違いだ。
 じっと隣室への扉を見ていたイライザだが、どこか違和感があった。
 少しだけ扉を開けた。細長い光が暗い部屋へ差し込む。光はベッドまで伸びていた。しかし、ベッドにふくらみはなかった。
 思い切り扉を開けるが、いない。それどころか荷物すら見当たらない。
「……! 殿下! パトリーさんがいません!」
「なんだって!?」
 羽ペンをあわてて戻して、ノアは立ち上がり、パトリーの部屋を見回した。
 いない。
 残されているのは書置き一つ。
 『今までありがとう。さようなら』
「……いったい、どういうことだ?」
「……もしや、私たちの話を聞いたのでは……」
 びゅうびゅうと家屋を揺らす風が、少し弱まってきていた。
「俺たちの話を? 全部なわけはない……。ベッドはもう冷たい。どこらへんを聞いたんだ?」
 もしや素性を知って逃げたのだろうか、とノアは考えた。
「わかりません……。けれど……挨拶も怒ることもなく出て行ったということは……何か、誤解した可能性も……」
 ノアは小さなその紙をじっと見つめた。
「とにかく、探さないと。夜中に一人で出て行くなんて、危険すぎる。無理するのは体にもよくないんだ。途中で倒れている可能性だって十分にある」
 二人は皇家の鷲に手紙を取り付けて放し、宿屋の外に出た。
 夜明け前だというのにまだ飲み続けていた宿泊客に聞いても、ろくに情報は手に入らなかった。
 唯一の情報は、パトリーらしき人物が谷の村から出て、東への道を進もうとしていたということだ。
 夜明け後、ノアたちは馬車を入手して、その東への道を駆けていった。
 途中、少女が倒れていなかったかといろんな人に尋ねていたが、知る者はいなかった。
 足を止めたのは、森の中に目にまぶしい白い館が見えたときだ。
 立ち寄ってみると、騒がしい館だった。
 館の外で、荷馬車が止まっている。その周りにいる大柄の男に、ノアは尋ねた。
「すまない。人探しをしている。赤黒い髪の少女をどこかで見なかったか? 病気で、倒れているかもしれないんだ」
 男は驚いていた。
「赤黒い髪、少女……病気?」
「ああ。知っているのか? パトリーという名前なんだ」
 男は驚いた。丸い目が怯えたようにさまよった。
「パトリー、病気? 病気?」
「知っているんだな。今どこにいる?」
「館……。でも、でてこない。待つ、でも、でてこない」
 ノアはそれを聞くと、館へと走った。
 パトリーに会いたい、と言ったが、館の主は胡散臭そうにノアを見た。
「会いたいから会わせてくれ、と言われてもな……素性も知らん人間を、簡単に中へいれるわけにはいかん」
 ノアは心の中で舌打ちして、皇子の身分を知らせるものを取り出そうとした。
 そのとき。
「……お待ちしていましたよ」
 正面の扉の先に、シュテファンが立っていた。
「ここまでずいぶん探させてもらいました。ようやく私も肩の荷が降りるというものです」
 この場にシュテファンがいることは完全に予想外だった。
 ノアは驚きのあまり発するべき言葉を失った。
「失礼。この方は私の大切なお客様なので、中へ通させてもらってよろしいかな?」
 シュテファンは館の主へそう言うと、慌てて館の主はうなずいた。シュテファンの方が立場は上であるようだ。
 ノアは二階の客室に通された。
 そこにもしやパトリーがいる、と思ったが、いなかった。
「パトリーはどこにいるんだ」
「……これからの話次第では、すぐにここに呼ぶこともできますよ」
 シュテファンは葉巻の入った箱を取り出して、一本口にくわえた。ノアに、どうぞ、と薦めたがきっぱりと断られた。
 葉巻の煙が部屋の中を揺らめく。
 シュテファンはそれ以上言おうとしなかった。ノアに言わせようとしていた。
 イライザは意味ありげにノアを見つめていた。
 ここで言うべき言葉。
 それは。婚約破棄を撤回する。ということ。
 他の二人は、その言葉を期待している。
 けれど……パトリーは望まない言葉……。
「……だめだ……。俺には……パトリーが嫌がることは……」
 ノアは首を振った。
「殿下!」
 イライザが咎めるように言う。
「これは……俺の、完全なエゴじゃないか。こんなの……」
「何がいけないのです! 悪いことだと、誰が言うのです!」
 けれど、ノアは再び首を振った。
 冷たい目で見ていたシュテファンは、驚くほど優しい声で言う。
「……わかりました。そこまで殿下が妹のパトリーと結婚したくない、というのなら仕方がありません。パトリーがそこまで厭われるような、愚かな、何の魅力もない女にすぎないのでしょうからね」
 そんなこと言っていない、とノアが言う前にシュテファンは続ける。
「別に恋愛結婚でもない。貴族と皇族の完全な政略結婚にすぎないというのに、殿下にとってクラレンス家との縁続きになる利益よりも、パトリーとの結婚への嫌悪が格段に勝るというのなら、臣下たる私に言うべきことはありません。パトリーには、はっきりとその旨、言い聞かせておきましょう」
 そんなことは意図していないノアはシュテファンの胸倉をつかんだ。
「勝手に捻じ曲げるな!」
「違うというのですか。では聞きます。なぜ、婚約破棄をするというのです。私のような頭の悪い人間には、婚約破棄をする、と言うのなら、相手方にそれはそれは不満があった、としか思えないのですよ。私だけでなく、大抵の人間はそう考えるでしょうね」
 胸倉をつかまれつつも、シュテファンは人を小ばかにしたような口ぶりで言う。
「お教えいただきたいのです。そこまで殿下が妹のパトリーを嫌っておられるその理由を。次の婚姻を考える上で、ぜひ役立つと思うのです」
 ノアが戸惑った。
「次の……婚姻……?」
「ええ。殿下との婚約が解消されたなら、次の婚約者を見つけなければならないでしょう? しかし私も同じ失敗は繰り返さないつもりです。今度はもう、パトリーを結婚させるまで、監禁しておきます。今度こそ逃げ出さないように、厳しく。相手と顔を合わせることすらないでしょう。誰とも会わせるつもりはありません。殿下とも。下手に自由にさせるから、こんなことになったのでしょうから。それも、早いうちに結婚させます。……ああ、こんなことは殿下には関係ありませんね。厭っている娘が、どんな末路をたどろうが」
 ノアは唇を震わせた。
 胸倉をつかむ手をシュテファンは離させた。そして、上着を整える。
 そのとき、扉から侍女が急いで入ってきた。
「お話中、申し訳ありません! 奥様から、早急に玄関へ来るように、きついお言葉が……」
「下がれ! 今は大切な客人と話し中だと、知っているだろう!」
「しかし……」
「今すぐこの部屋から立ち去るか、首になるか、どちらがいい」
「……は、はい、失礼しました!」
 侍女は立ち去った。
 シュテファンは、ノアが答えを出すまで待っているようだ。
「これは殿下には関係ないことですが、いくつか候補があるのですよ。リード家の長男の妻。これは確か妾が数え切れないくらいいたはずです。ヴォルムザー家の当主の後妻。パトリーよりも大きな子供が三人いましたね。
 それと……以前は、皇帝陛下の第8夫人なんてものもありましたがね。今は微妙ですが……皇子殿下の代わりに、皇家とクラレンス家とのつながりを強くするために、それはありえるかもしれません。そうなったら、殿下の義理の母、ということになりますか。殿下にとっては厭わしいでしょうが、仲良くやってくださると嬉しいです」
 ノアは、唇をかみしめて、にらみつけた。
「あんたは……最低だ」
「どうぞ。いくらでも罵倒の言葉は聞きましょう」
 シュテファンは嘲笑するように言って、鋭いまなざしでノアを見ていた。
「言うべきことは、それだけですか?」
ノアはうつむきつつも、現状を正しく認識していた。
 吐きたい言葉は数多くあれど、結局――
 言わなければいけないと。追い詰められて他に道はないと。
「婚約破棄を……撤回する」
 ノアは屈した。冷たい目をした、亜麻色の髪の男に。
 それではパトリーの元へ案内しましょう、とシュテファンは扉を開いた。
 しかしそこには女性が立っていた。
 まとめられた髪の毛が少しほつれて、憤り、興奮しているようだった。
「遅いです。――遅いですわ、シュテファン様。パトリーさんは、出て行きました――」
 シュテファンが驚いている顔を、ノアは初めて見た。




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