TOPNovel「だから彼女は花束を抱える」Top
Back Next

   
 第21話 暗闇の中(1)


 階段から降りたシュテファンは、パトリーが旅に出る前――最後に顔を合わせたとき――と同じ表情をしていた。彼の眸は対等に見ることなく見下ろすこと以外ないような表情。
 パトリーはいらいらとした。兄への対応をこの期に及んで決められない自分に対して。
「行くぞ」
 唐突なシュテファンの言葉にパトリーは怪訝そうな顔をした。
「セラへ行くぞ。そしてランドリュー殿下と結婚しろ」
 あっけにとられたパトリーは、反発するしかなかった。
「何を……本気ですか? あたしは、期限内にセラへたどり着きました! 結婚はなし、そういう約束でしたね? 忘れたとは言わせませんよ!」
「だからどうした。お前がそれほど自分に正当性があると言いたいのなら、勝手に言え。約束など、ただのお遊びにすぎん。そのお遊びも、セラへたどりついた時点でおしまいだ。結婚は決定事項だ。お前に拒否権はない」
 パトリーの顔はどんどんと、お面のように冷たいものとなっていく。
「初めから……あたしに選択権はなかったと……言うのですか。どれほど、どんな思いで、怪我をしてまでセラへ行ったか、シュテファン兄様には、わかるつもりもないのですね……。約束を守るつもりもなく……。
 あたしは、シュテファン兄様を冷たい人と思っていました。けれど、それを非難することはありませんでした。それがクラレンス家当主代理として、必要だとわかっていましたから。冷たさだけでない、と思っていましたから。だから、約束も、信じていました。シュテファン兄様は守ってくれる、と信じるだけの優しさはあると思っていましたから……」
 パトリーは手を強く握りしめた。
「シュテファン兄様にとって、あたしは何ですか……。あたしは、そこらにある、感情のないも同然の石ころですか、妹としての情も何もありませんか?」
 パトリーは真剣にシュテファンを見つめた。怒りと、まだ残る最後の信頼とが混じり合い、切実な表情であった。
「ふ……はは、ははは!」
 シュテファンは声を立てて低く笑った。
「あの殿下と同じようなことを言うとはな。『妹を何だと思っているんだ』……。ふ……その愚かなところは同じか。何、だと? 決まっているだろう。クラレンス家のための道具以外、何がある!?」
 パトリーは思わず後ずさった。
「シュテファン……兄様……」
 戸惑うパトリーに、シュテファンは厳しく吐き捨てた。
「お前のそんなところが嫌いだ。大嫌いだ。優しさだとか家族の情だとか、そんなものを期待した目でいつも見上げる……昔から全く変わらない……。少しは学習したらどうだ。そんなもの、どこにある? あの女がいい例だろうが。どれほどお前に教え込んだと思っているんだ。頭の悪い人間はこれだから……。情や一時期の感情で動いて、我らが両親がどういう経路をたどったか、お前によく教え込んだな? 何を学んだ? 碌なことを行わない代わりに、そんなものばかりを夢見る。煩いこと、この上ない!」
 シュテファンの発した言葉は毒を凝縮したものだった。彼が瞋恚に燃えていることは透けて見えた。
 シュテファンはパトリーの髪の毛をつかんだ。痛さのためにパトリーは思わず目をつむった。
「結婚しろ」
「……嫌、です……」
 パトリーとシュテファンの視線が、身近で交わった。シュテファンの鬼神のように睨みつけるまなざしは、パトリーを思わず竦ませた。
 パトリーの姉たちは、皆、不幸せな結婚をした。それでも、姉たちはシュテファンに反発することなく、素直に結婚していったのだった。その理由が、パトリーに、ようやく、本当にようやく、身にしみてわかった。
 恐怖だった。
 シュテファンがまるで自らが間違ったことはないと言わんばかりに鋭く叩きつける言葉に、見下ろす瞳に、恐怖するのだった。否定し、反発する意欲が削がれる。それくらいなら、大人しく従った方がいいと思うくらいに。
 シュテファンの言葉は一つひとつ、パトリーの心を鋭く、深く、抉った。パトリーの全てを、何も残さないくらいに。
「嫌、か。結婚をせずに、お前に何の価値がある!? クラレンス家の娘としてなぜ16年も育ててきたと思う? 家のために結婚させる以外、どこにあるというのだ? 結婚が嫌か。しないというのなら、お前には何も存在価値はない。石ころより劣る、役に立たない、目に入れることすら厭わしい、ごみだ」
 ゆっくりと目の前で言われる完全に存在を否定する言葉に、パトリーは弱々しく首を振る。ちがう、ちがう、とつぶやきながら。
「結婚しない、などと言う娘に成長するとわかっていたなら、お前など誰も育てなかった。そこらに捨てておいたものを。なんて役に立たない奴だ」
 シュテファンは決して冗談を言っているわけではなく本気だと、ありありとわかった。
 だからこそパトリーの心に激震が走ったのだった。
 誰に言われるよりも、この人に言われたくなかった。決して、聞きたくなかった。
 兄妹の中で、家族の中で、最も慕っていた兄に。あの思い出の中で、微笑んでいた兄に。今まで信じていた兄に。
 この人にだけは、自分を否定されたくなかった。
「それが、あたしに対する本音ですか。ずっと……ずっと、そう思っていたんですね……シュテファン」
 かすれた声で、パトリーは言った。
 いつの間にかパトリーの頬に幾筋もの涙が流れていた。
 パトリーもまた、兄に向けるものではない冷たい目でシュテファンを見上げた。疲れてしまったように。
「ふん。私の前で泣いてどうにかなると思うな。無駄に泣くぐらいなら、ランドリュー殿下の前で泣いて見せて、利用するくらいの頭を働かせろ」
 シュテファンはパトリーの髪の毛を引っ張った。
「来い」
 パトリーの痛みを考えずに引っ張る兄に引きずられた。
 その途中で、ずっと継続する頭痛が鋭さを増したことに気づいた。そして、意識を失い倒れる、と自分の少し先の未来を予測した。
 それでも、目の前の兄に何かを言う気には全くなれなかった。
 ここで倒れて、シュテファンはどうするだろう、と静かに思った。
 倒れたまま引きずるだろうか、それともここに置いてゆくだろうか、と。
 ……自分が近い未来、死ぬ、と知ったら、どうするだろう。
 当てが外れて悔しがるだろうか。それは面白いかもしれない。けれど現実はきっと、彼はもう二度と振り向くことなく、簡単にパトリーの存在を忘れるのだ。それを見たくなかったから、言わなかった。
 疲れた。
 もう、いい。このまま二度と目覚めなくてもいい。
 そう暗く思いながら、パトリーは倒れていった。
 暗闇に飲み込まれた。
 底なしの、誰の声も届かない闇に。


 ノアたちがパトリーの部屋で、書置きを発見したのは、二人の激しい議論の後、夜明け前のことだった。
 そもそもかつてないほどの喧嘩じみた言葉のやりとりが始まったのは、深夜、鳥の来訪がきっかけだった。
 パトリーが夕食の席をさっさと去り、しばらくして二人が部屋に戻ったとき。ノアが眠ろうとしたところ、その鳥がやってきた。
 それは鷲の一種だった。気高い目はノアを見つめる。そしてその足には、金の金具がつけられており、それには紋章が彫られているのだった。
 一目見ただけでわかる。シュベルク国の皇家の紋章である。
 ノアとイライザの目が変わった。
 金具に入れられていた手紙は、結婚の延期について詳しく知らせろ、いくら延期とはいえグランディア皇国内で勝手にうろつくな、セラへ戻って来い、という内容のものだった。
 読み終えると、ノアは頭を抱えた。
 少し緊張した様子で同じように読んだイライザはそのノアの態度を不思議に思った。
「どうしたのです、殿下。正直に報告すればいいことでしょう。婚約者のパトリーさんが病気だから、キリグートへ向かっている、と」
「そんな簡単な話じゃない……」
 うなるようにノアは言う。
「だって最早、パトリーと俺は何のつながりもない他人にすぎないのだから……。そのいきさつをどう説明するのがいいのかもわからない……。何より関係ないのなら、俺がパトリーを連れて行くことが了承されるとも思えな……」
「どういう、ことですか……?」
 いつになく真剣な表情でイライザはノアの言葉をさえぎった。
「婚約は解消した」
「!」
 ノアの短い言葉にイライザの顔が蒼白となった。
「なん……何ですって!? 婚約解消!? いつ、誰から……シュテファンどのからですか!?」
 イライザの剣幕に押されてノアは答えた。
「セラで、パトリーと一緒に逃げて……そのとき途中でパトリーが倒れただろう。追っ手をまくためにイライザが俺から離れた後、俺がパトリーを担いでいたとき、シュテファンが現れたんだ。そのとき、婚約を解消した。俺から、そうシュテファンに直に言った」
「殿下から!? 何て……何てことを! セラということは三週間も前……! 今さら……けれども、結婚が延期、となっているということはまだ……。殿下! 婚約を解消すると宣言なさったとき、シュテファンどのはどんな対応をとられましたか!?」
 切羽詰った様子のイライザの問いに、ノアは返答に窮した。
 婚約破棄だと言ったとき、シュテファンは険しく冷たく、底の知れない厳しい表情をしていた。そして彼は言った。「後悔しますよ、殿下」と。
「……何も言わなかったよ」
 ノアは嘘をついた。それを悟られないように、早口でまくし立てた。
「それが何だっていうんだ。シュテファンがどうしようと関係ない。婚約解消はしっかりと言ってきた。もうパトリーは強制されることもない。結婚延期とか言っているそうだけど、そんなものは……」
「何を言っているのですか! ことの重要性を理解しておいでですか!?」
「……なに……?」
「婚約とは、子供同士の、たわいないお遊びではないのです。しっかりとした契約なのですよ。今はそんな気分じゃないから、と簡単に破棄して、新たに再び婚約、というわけにはいかないのです。そんなことが簡単に行われていいものではありません。契約とは、そういう重いものなのです。当然です。一生添い遂げると宣誓することは、神聖にして不可侵。それを事前に破棄する、ということは、結婚の誓いに劣るとはいえ、また重い決断なのです」
 イライザの説明を聞くうちに、ノアの顔色が変わっていった。
「……殿下が、相手方へ婚約破棄の意思をお伝えになられたのなら……。婚約解消が正式なものなら、二度と、同じ人物と婚約が結ばれることはないでしょう。わかりますか。殿下はもう、パトリーさんと結婚できないのですよ」
 それはノアの頭を打ち抜いた。
 『後悔しますよ、殿下……』。後悔……、後悔、後悔!
 ノアの手が自身の上着を固く握りしめるのを見て、イライザは口を閉ざした。
 代わりに低い声でノアが声を発した。
「だから……だから、何だっていうんだ」
「なんですって?」
「俺がパトリーと結婚できないから、何だっていうんだ!」
 イライザは唖然とした。
 これはただの虚勢だ。完全に。心細そうに揺れるノアの瞳が、それを証明している。
 自分にそう思い込ませようとするために叫んでいるように見える。
「パトリーだって……結婚したくない、って言っていた。なら、何が悪い。パトリーも喜んで、……それなら俺も嬉しいさ。後悔なんて、していない……!」
 自分の気持ちから目をふさぎ耳を閉じ背を向けるノアの態度に、イライザはかっと血が上った。
「そこまで殿下が臆病なお方だとは思いませんでした! 率直に申し上げます! 殿下はパトリーさんを望んではいませんでしたか? 恋しておりませんでしたか? その上で、後悔していませんか?」
 言葉通り率直過ぎる発言に、ノアは面くらい顔を赤くした。けれど認めなかった。
「そんなことは、ないっ! 俺は、パトリーのことなんて……どうでもいいんだっ!」
 意地でも否定する様子に、イライザの血が更に上る。
「ならば聞きます。なぜパトリーさんと共に旅をしてきたのですか。そういった感情がない、とおっしゃるなら、なぜですか!?」
「それは……! パトリーが……婚約者か、と疑って……。感情は……なくても、興味はひいたから……。ただそれだけだ!」
 時折詰まる言葉をイライザは観察していた。イライザは追い詰める。
「ではパトリーさんが婚約者だとわかった後。千鳥湾の『入り口』からパトリーさんと共に行くと決めたのはどうしてですか!? それこそ、殿下がパトリーさんに特別な感情を持った証拠でしょう。これ以上、殿下が反論できるような言い訳があると!?」
 このあたりで、隣の部屋でパトリーが会話を聞きかじり始めたことを、頭に血が上っている二人は気づかなかった。
 それでも苦しそうに、ノアは子供のように反論する。
「そんなことはないっ! 俺は……俺がパトリーと共についてきたのは、ただほっておいて野垂れ死なれたら少し夢見が悪いから! それだけの理由にすぎない!」
 それは理由にしてはあまりにばかげた理由だった。
 なるほど、優しいノアなら一人で旅する女性に手を差し伸べて、共に行くと言っても不思議ではない。しかし、それなら正体をセラへついたら明かす、と宣言する必要もない(その宣言もうやむやのうちに延期されているが)。『嘘偽りない新しい関係を作る』必要もない。
 やぶれかぶれの苦しい理由に、イライザは心底呆れた。
 そこまで自分の気持ちに向き合いたくないのか。全て他へ押し付けるほどに。
 呆れたと同時に、情けなさがあり、イライザは叫んで追い詰める。
「本気でおっしゃるのですね!?」
「ああ! パトリーなんてどうでもいいんだ! どこでどうしようとも! 病気だと知らなければ、もうとっくに別れてせいせいしていただろうよ! 何にも関係のない他人なんだから!」
 さすがのイライザも、この言葉には目を見開いて、追求する言葉をとめた。
 あまりにもノアの心情とかけ離れた答え。それに失望しかけたイライザの前で、ノアは泣きそうな顔をしていた。苦渋に満ちた、かつ自責の念に捕らわれたような顔。
「もう……関係のない……他人なんだよ……」
 ノアは独り言のように言った。
「殿下……なぜそこまでお認めにならないのです……」
「認めてどうする!? パトリーは……俺のこと、何とも思ってないとわかっているのに?」
 イライザは言葉をのんだ。静かな悲しさがノアの言葉に溢れていた。
「……簡単な話じゃないか……。婚約破棄をしたと聞けば、パトリーは喜ぶよ。言う時機を逸したけれども、俺がランドリュー皇子だということは、いつかはパトリーの耳に入る。そのときパトリーは婚約解消した相手が俺だったと知り、悲しむか? 悔しいと思うか? ――いいや、思わないだろう。よく婚約破棄してくれた、と喜ぶだろうな。パトリーにとって万々歳だよ。そこに俺のこの感情なんて、必要ない」
 悲しみだけでない、慈しみの表情がノアの顔に浮かんだ。
「パトリーは喜ぶ。……それを、俺は喜び合いたい。俺の感情なんてパトリーは知らなくていい。……一生友人だとしても。それを、パトリーが望むなら。俺はパトリーの笑顔が見たいんだよ」
 何かを越えたノアの言葉に、イライザは少し考えて、言葉を返す。
「それで殿下はよろしいのですか?」
 皇家専用の鷲は、独特な鳴き声を上げた。
「理屈では、パトリーさんが幸せであれば幸せだ、と言い切れるかもしれません。しかし、殿下がパトリーさんを前にして、本当にそうできるかは疑問です。一生友人で構わない? 本当ですか? いつかパトリーさんが別の男性と結婚しても、同じことが言えますか? 笑顔で祝福できますか?」
 ノアの肩が、表情が揺れた。
 そこまで悟りきれるわけがない。理屈では相手を重んじることはできるだろう。しかし、嫉妬や独占欲などの気持ちを抑えきれるか。理屈抜きの感情を。それらをノアは完全にコントロールできない。見守るだけの愛を、今のノアは実践できない。
「殿下、後悔していますね」
 たとえ正しい行いだと、誉められるような行いだと、たとえばパトリーに言われたとしても、それは踏みとどまるべきことだった。
「パトリーさんを好きなのでしょう?」
 ノアは視線をうろうろとさせ、諦めたようにうなずいた。
 自己嫌悪の波にさらわれそうになるノアに、イライザは力強く言う。
「それでよろしいのです。ランドリュー皇子殿下。何も間違っておりません。自分の正直な気持ちを言って、何が悪いのでしょう」
 自分に対して言うように、顔を伏せてノアは小さく震える声で言う。
「俺はパトリーのことが好きなんだよ。――とても」
 陥落したノアを、優しい目でイライザは見つめていた。




   Back   Next



TOPNovel「だから彼女は花束を抱える」Top