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 第20話 揺れ動く心、現実(2)


 パトリーは誰かの至言を思い出した。
 死は一人だ、ということ。このまま一人で、美しい景色を見ながら、静かに死ぬというのも、いいのかもしれない。そう考えつつ。
 風は強くなりすぎて、嵐と呼んでいいほどになっていた。
 荷物だけでなく自分すら吹き飛ばされそうになっている。よたよたと道を歩いて、谷の村を抜けた。
 夜道は暗い。
 少し前のパトリーなら絶対にこんな時間に進みはしなかったが、パトリーはノアたちのもとへ戻るつもりはなかった。寂しい別れ方だけれども。
 川が隣で流れていて、水音もよく聞こえる。
 ふらふらと歩くパトリーは、自分の歩みが以前より遅いことに気づいた。ノアが、無理をしてはいけない、と、足で歩くようにはさせなかったからだろう。体力が落ちたためだろう。
 ……優しい人だった。とても。
 だから、面と向かって自分へ伝えなかったのだろう。
 病気の自分はどれだけノアにとって迷惑だったろう。
 どれだけ困らせたろう。
 それでも目の前に病気の自分がいたから、ついてきてくれた。そんな優しい人を困らせていたのなら、去るしかない。そしてしがらみなく自由であってくれればいい。
 友と今でも呼べるなら、友として、笑っていてほしい、と願う。ついてきてくれただけで、嬉しかったから。
 それでも、もう、会うことはないだろう。
 風が塊となってパトリーを叩きつける。夜だから、暗闇で誰が相手かもわからず殴られているようだ。
 夜だというのに、目の前から馬車の駆けてくる音がする。大きな荷馬車のようで、複数の笑い声がする。
 慌てて川沿いに寄って、避けようとした。ばしゃん、と派手な音がして、右足が川につっこんでしまった。
 パトリーは「あーあ」と弱弱しく笑って、右足を川から出した。
 そのとき、震え始めた。川から出した右足を、がくん、と地に着いた。
 頭痛がすぐに始まる。しかしその頭痛は、今までと比べものにならない鋭さを持っていた。ろくに思考なんてできない。
 体に力が入らない。ひどい疲労感。すぐこの場で倒れてもおかしくない。
 パトリーは自分の体がどれだけ弱っているか、どれだけ症状が進んでいたか、実感した。
 頭痛のあまり、横に倒れそうになるパトリーを、誰かが支えた。
「大丈夫……?」
 大柄な男だった。
 どうやら先ほど通り過ぎた馬車の人間らしい。馬車がすぐそこで止まって、他の人間も馬車を降りていた。
「川に落ちたのは誰だい?」
「夜だってのに、あんな運転するから」
「早くと言っていたのはお前だろ」
 などと、口々に何人もの男女が言って、騒がしくなった。
 パトリーを支えていた男は、ひょい、とパトリーを立たせた。
「水、濡れた? 服、靴、代わり、ある、馬車に」
 独特の言い方に、頭痛の為ぼんやりとしているパトリーは顔を上げて目を凝らした。
 彼女の知っている人物の口調であったからだ。
 男の方も、何か思ったのか、パトリーの顔を見た。
「……シャチョーさん?」
「まさか、……マレク……?」
 同時に彼らは言った。
 か細い月の光を頼りによくよく見てみると、二人とも思った人物と相違なかった。
 パトリーの目の前にいる男は、飛びぬけて大柄の、丸い目をした男だった。黒い髪ははねていて、東の地方の顔立ちである。彼を見ると、動物のような親しみを感じる。
 まさしく彼は、パトリーの会社の副社長、マレクなのであった。
 そのマレクは、感激しきった様子でパトリーを抱きしめた。パトリーは足が宙に浮いた。
「シャチョーさん!」
「え? シャチョーさんだって?」
「こんなところに?」
 馬車から、人々が降りて、パトリーの傍に集まった。
「久しぶりだなあ、シャチョーさん!」
「ちょっと背が伸びたんじゃないかい?」
 パトリーは集まっている人々の顔を一人ひとり、じっくりと見た。
「クルト、ドニ、ラウラ、オリガ、ヨニー……。本当に、久しぶりだわ……」
「シャチョーさんもね」
「こんなとこで再会できたのも、マレクさんのおかげだな。水音がした、って、馬車に乗って音を聞き分けたのは、マレクさんだけだったから」
 パトリーは副社長のマレクの顔を見上げた。
 マレクは耳が良かった。さらに、目もいい。身体能力的に、動物のように優れているのだ。
「マレクさんがいなければ、こんな夜に馬車を走らそうなんて思わないからなあ」
「シャチョーさん、キリグート向かう、手紙で読んだ。会いたい、思った。早く、会いたい。だから、夜、馬車、走らせた。会えた。嬉しい」
 マレクはたどたどしく言いながら、子供のように笑った。
「でも、シャチョーさん、顔色、悪い。元気ない?」
 ぎく、とパトリーは体が強張った。
「そんなことないわ。気のせいよ」
 パトリーはマレクから顔を背けた。
「そうか。ならいい。会えて嬉しい。嬉しい」
 マレクはもう一度、親愛の情を示すかのごとく、パトリーを抱きしめた。
 パトリーは自分が小熊になって、母親熊に抱きしめられているような気持ちになった。
 そして、ノアのことを思った。
 あのイライザとの諍いの声を聞かなければ、自分はどんな言葉でノアに頼っただろう、と。抱きしめられて胸がつまった今、パトリーはわかった。

 寂しい。と。

 自分はノアにそう言いたかったのだと、自分の心がどんなときよりも理解できた。助けて、とか、治して、とか、そういう言葉でなく。
 『寂しい』を、縋り付いて言いたかった。
 言ったのなら、何かが変わっていただろう。心が。
 ノアとの関係も、感情も、どこかで。
「シャチョーさん、おれたちの来た村、帰る? それとも、シャチョーさんのいた谷の村、帰る?」
 パトリーはマレクの問いに迷わなかった。
「谷の村へは帰らないわ。……先へ、キリグート方面の、マレクたちのいた村へ帰りましょう」
 もう、ノアに『寂しい』を言うことはない。
 会うことすら、ないだろう。
 きしむように頭が痛かった。それを皆には隠して、パトリーはぎゅうぎゅうの荷馬車に乗り込んだ。
 会社の仲間との楽しい会話がある中、さようなら、とパトリーは心の中でつぶやいた。


 パトリーと、副社長マレク、それに会社の社員たちは、荷馬車に乗ってキリグート方面への村へ向かっていた。
 だんだんと空が白んできたとき、馬車は森の中を走っていた。
 社員は若い人間が多かったので、それほど疲労の色は見えなかった。寝ている人間もいたが、いまだ話している人間もいた。
 起きていた人間が、左手の森の奥に、館を見つけた。
「ねえねえ、すっごい大きな館が見えるわよッ! 皆、起きて!」
 白んだ空に、森の中の館の白い壁が照らされていた。グランディア皇国独特の建築様式でなく、ミラ王国で見られるような一般的な館は、まさしく貴族の別荘かどこかの領主の館であろう。
 体のだるさの為に一番最後に目覚めたパトリーは、その館の白さが、目に痛かった。
「夜通ったときは、暗すぎて気づかなかったんだな。立派な館だ。今日は、ここで興行しようか」
 マレクがうなずいた。
 パトリーの会社にはいろいろな側面があり、ただ貿易をするだけではなかった。旅芸人を社員として、各地を回る。芸を披露する傍ら、交易品も売る。そういうことも行っていた。
 旅芸人は、こうした貴族の館で芸を披露することも、よくあるのだった。
「村、待ってる、仲間、呼んで、きて。残り、館で、交渉する。シャチョーさん、交渉、頼りに、する」
 マレクがパトリーの方に振り向くと、頭を押さえてうなだれている彼女がいた。朝日の照らされた中で見ると、青白さは歴然としていた。視線はうつろであった。
「シャチョーさん……?」
 マレクの心配そうな言葉に、パトリーは隠すように顔を上げた。
「大丈夫よ! 寝起きだから元気がないように見えるだけ!」
「シャチョーさん、震える……」
「気のせいよ! 館で興行ね? こういう相手なら、あたしの得意分野よ。知り合いだったら儲けもんだし、知り合いでなくてもね」
 パトリーは立ち上がって荷馬車から降りた。その後を、マレクが慌てて追った。
 森の小道を進むと、異常なほどにパトリーは息が切れていた。そしてときどき片足をついた。それらを指摘するたびに、パトリーは強く否定した。
 館に辿り着くと、そこは早朝だというのに騒がしかった。
 パトリーたちが館へ案内されて、館の主に話を聞くと、その理由がわかった。
「旅芸人……それに交易品も売っているのか。それはちょうどいい。ちょうど大切なお客人を館に招待している。踊りや音楽なら、客人をもてなすのに役立ちそうだな」
 と、とんとん拍子に話が運ぶかに見えた。
 その『お客人』が、その場に姿を現すまでは。
「朝から騒がしいようだな」
 貴族であることがすぐにわかる服装の『お客人』が階段から降りてきた。螺旋階段を降りる彼を見上げて、パトリーの意識があるのかないのかぼんやりとした顔が劇的に変わった。
 階段を降りる音は規則的で、機敏さを表していた。
 その『お客人』も、パトリーの顔を見ると、足が止まった。
 館の主は階段を駆け上がる。
「これはこれは、起こしてしまったようで、すいません。朝食には、まだ時間がかかるようで……。申し訳ありません、シュテファンどの」
 亜麻色の髪の男は館の主を見ていなかった。ただ、パトリーを。
 そしてパトリーもまた、シュテファンを睨みつけていた。
 館の主は、その場の言い知れぬ、緊張した空気に、二人を交互に見た。パトリーとシュテファン、顔立ちがどことなく似た二人を。
「……お久しぶりですね、シュテファン兄様」
 先に口火を切ったのはパトリーだった。決してにこやかな顔はせず。ぴりぴりとしたものを含み。
 シュテファンは館の主に顔を向けた。
「すみませんが、少々この場からお外しいただきたい」
 館の主は驚きながらも、部屋から去った。
 パトリーもマレクや他の社員に、
「ちょっと、この館の外で待っていてくれるかしら」
 と告げた。彼らもまた戸惑いながら、部屋を去った。
 扉が閉じる音がして、再び階段を降りる音が響く。
 パトリーにとって、今までで最も冷たい兄妹の再会であった。
 思い出と、信じたい気持ちと、イライザとノアがそれを否定した言葉と、裏切られたような現実と。
 それらを考えると、パトリーの顔は笑ってはいらいれなかった。ただどちらの立場にも立てず、動けないでいるにすぎない。けれど、これで嫌でも動かざるを得ないのだ、と予測した。
 嵐が来る。
 近づきつつある靴音を聞きながら、パトリーはそう思った。それを待っていたのか、逃げたいのか、パトリーにはわからなかった。
 死刑台を上るような靴音がパトリーの耳に響いていた。




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