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 第19話 輝ける新月(2)


 部屋に戻ったパトリーは、机に向かっていた。傍らのランプが机とパトリーの顔半分を照らす。
 机にはたくさんの書類がある。無論、重ねられているのは仕事の書類であったが、そのときパトリーの取り掛かっている文書は、少し違うものだった。
 真っ白なその紙に、パトリーはペンにインクをつけて、落ち着くために息を吐き出した。
 そうして、文頭にこの文書の主旨を端的に表題として書く。
 そこでパトリーの手は止まった。ペンを置いて、指先でとんとんと机を叩き始める。髪の毛を弄んだり、口元を押さえたり、といったしぐさを無意識にしながら、深く思案していた。間違いがあっては困るものだから、自分への確認の為の思索であった。
 表題が完全に乾ききった頃、パトリーはようやく再びペンを手にとる。
 コンコン
 突然、扉が叩かれたことにパトリーは飛び上がった。
「は、はい?」
 声が裏返る。
「パトリー、ちょっといい?」
 ノアの声だった。慌ててパトリーは書類を片付ける。片付けるというより、全て引き出しにしまいこむ。大量の書類を急いで引き出しに入れて奥のベッドに座った後、
「い、いいわよ。ノア。入って頂戴」
 と、ノアを部屋の中へ促した。
 部屋へ入ってきたノアは、薬草を持っていた。
「町だから、ちょっといい薬草が手に入ったんだけど……」
 入ってきたノアは、いぶかしんだ。備えられてある机の引き出しから、白い紙がはみ出していた。
 ノアはおもむろに引き出しを開けた。パトリーが制止する間もなかった。
 中に入っていた大量の紙にノアは呆れ果て、パトリーをねめつけた。
「パトリー……これ、どういうこと?」
「ああ、あの……いえ……」
 とっさにうまい言い訳が思いつかず、パトリーは口ごもる。ノアは入っていた書類をどさっと机の上に取り出した。
 そして中身をぺらぺらと見る。やっぱり、という目で、仕事上の書類であることを確認していたノアだったが、
「だ、だめ! 見ないで!」
 と、パトリー立ち上がって走り寄り、書類をノアの目から隠すように、がさがさと紙を引き寄せる。強く制止してきたことで、ノアは眉根を寄せた。
 パトリーの仕事上の書類を見たところで、ノアにはまったくわからない。ただ、数字が書いてあるとかそういうことで、仕事上の書類だと判断したにすぎない。ノアが見たところでまったくさっぱりわからないことは、パトリーも知っている。
 確かに、仕事のことは、もちろん外部に秘密であろう。しかし、目の前で、焦ってノアの目から隠そうとしているパトリーを見ると、ノアにはそれだけとは思えなかった。彼女はこわばった顔で真剣に書類をかき集め、ちらちらとおびえるような顔で何度かノアを見ていた。
 なぜ。なぜ、そんなに見せたくない? 
 それは……仕事の書類以外に、ノアに見せたくないものがあるから。
 そう、ノアは直感した。
 広げられた書類を漁って、集めた書類を乱暴にかばんにしまおうとしているパトリーの手を、ノアは掴んだ。
 そしてもう片方の手でかばんに詰め込まれた書類を漁った。
 パトリーは、完全に焦っていた。
「ノア! やめて! 見ないで!」
 悲鳴のような声を、ノアは一時無視した。
 今から探すものは、とても大切な、重大なことだとノアの頭の中で何かが告げていた。何が見つかるのかはわからなかった。けれども、見逃してはいけないようなものがきっとある、と。
 ほとんどが仕事上の書類であった。それは一瞥しただけで分けてゆく。
 最後のあたりになって、ノアはそれを見つけた。
 ほとんど白紙の紙だった。
 紙は上等なもの。書かれているのは、表題のみ。内容はまったく書かれていない。
 けれども、その表題を読んだだけで、ノアは愕然とした。
 見つかってしまえば、パトリーは座り込んでうつむくばかりだった。
 その単語が、読み間違えであればいいと思い、その表題を何度も読み直した。が、変わりはしない。
「パトリー……。こんなもの、こんなものを、本気で、今、書こうとしていたの……?」
 信じられない、といった目で、ノアはパトリーを見つめた。座り込むパトリーの視線に合わせるようにノアも片膝をつく。まっすぐ目を見るノアに、パトリーは見つめ返すことは、とうていできなかった。
 しばらくの沈黙の後、弱弱しくパトリーはうなずいた。
 その動作を見た瞬間、ノアは衝動に駆られ、表題のみのその紙をびりびりと破った。
 あ、とパトリーは言い、止めようと手を伸ばしたが、結局止めなかった。
 紙は細かく破かれ、ぱらぱらと落ちてゆく。
「どうして!!」
 ノアはパトリーの肩をつかんだ。
「……真っ先に、するべきことが、これしか思い浮かばなかったのよ……」
 パトリーは笑おうとして笑えなくて、弱弱しく、ノアに見つめ返した。
「今日、ノアたちが本屋へ行ったとき、病院へ行ったの。セラから出て、立ち寄るのは村ばかりで、町はなかった。だから医者もいなくて病院もなかったけど、ここなら、あるかと思って」
 ノアの顔色が変わる。
「最初から不思議だった。『なぜキリグートへ向かおうなんて言い出したのか』って。シュテファン兄様に探されているだろうから、セラはだめだというのはわかる。でも、他にも、ここのように病院なら、探せばある。わざわざあんな遠い首都まで行こう、と言ったノアの考えがわからなかったわ。……診てもらった医者はね、お手上げだ、って言ったわ。知らない症例だ、って。
 そしてね、ノアと同じように、治りたいならキリグートへ向かうことだ、と薦めてくれた。あそこなら、優秀な医者もいるから、もしかしたら君の病気がわかるかもしれない、もしかしたら治る可能性があるかもしれない、って」
 『もしかしたら』『可能性があるかもしれない』……そんな言葉を聴こうとは、思わなかった。
 それはつまり、そうでなければ、『死』が、訪れるということ――
「死ぬ、病気なのね。あたしは」
 楽観的な答えが返ってくるとは思っていなかった。十日、自分の体を考えれば、ノアが嘘をついていたであろうことは予測できた。
 それでも、それほどまでに『死』が近かったとは、思っていなかった。盗賊に襲われたこともあった。旅をして、死に掛けたこともあった。けれども、それらは予想外のことだった。これは、確実に自分の未来の姿を示したのだ。
 ショックのあまり、泣き叫ぶことすらできなかった。
 呆然として、でも少しだけ残った理性で、何かをしなくては、と思った。帰り道空を見ながら、月が浮かんでいないことにすら気づかず、空を見ながら……考えた。
「……だから……遺言を、残そうとしたのか……?」
 パトリーは今度は、ためらわずにうなずいた。
「自ら死のうとは思っていないわ。でもね……いつ、死ぬかわからないなら、何かを残さなくてはいけないと思ったの。……自分の、言葉を。会社のことも、あたしが突然死したら、法律上、財産は父様とシュテファン兄様の手に渡る。会社にとってそれは、困るしね。いつかは……書いておかなければならないとは思っていたことよ」
 その『いつか』が、今、こんなに早く来るとは思っていなかったけれども。
 パトリーは座り込んだまま窓を見上げた。そこからは、大樹の枝が手前に広がり、星の瞬く夜空が広がっていた。枝から、はらはら、と葉が落ちてゆく。一枚の葉が、窓から部屋の中へ入り込み、パトリーの目の前へ落ちた。まだ落葉の季節でもないというのに。一度落ちてしまった葉は、生き生きとした木の枝へは戻れない。後は、かさかさになって、土の養分となるだけ。
「あなたが知っていること、今度こそ正直に教えて」
 パトリーはノアに目を向けた。
「あたしは、生きたい。生きる可能性があるなら、何としてもすがりつきたい。見苦しくても、どんなに浅ましくてもね。でもね、本当にもう、どうしようもないなら、それなら、……心残りがないように、安らかに死にたい。動けるうちに、会いたい人に会い、話したい人に話し、見たいものを見て。それは望んではいけないことなの? お願い、ノア、知っていることがあるなら、話して頂戴」
 パトリーは強い瞳で、切羽詰った表情でノアを見つめる。
「……わかったよ、パトリー」
 ノアは、長い長い沈黙の後、重く、そう答えた。そして、語った。
「ただし、これだけは注意して。俺は医学部を卒業したけど、医者じゃない。だから、診断が間違っている可能性もある。それだけは十分に覚えていて。いい? 俺はね、エリバルガ国の大学で医学を学んだ。だから必然的に、エリバルガ国で発症する病気を学ぶ機会が多かったんだ。パトリーの病気は……発症事例の少ない、エリバルガ国特有の奇病、だと、思う」
「奇病……」
「俺も教科書で学んだ以上のことは知らない。だから、俺に治療はできない。十日、診てきたけど、多分……そうだと思う。何より、首の後ろ、そこに浮かび上がった特殊な紋様のアザのようなもの、それで、俺は確信した」
 パトリーは首をねじって、ガラスに映る首の後ろを、短い髪を上げて、見た。後ろは完全には見えないが、少しだけ、それが見えた。
「誰かに、うつるの?」
「それはない。安心していい。確かに……死に至る病だ。でも、死ぬまでに時間はまだある病気だ。薬、薬草で進行を抑えることも可能だしね。治療方法もある。まだ、パトリーは間に合う」
 パトリーの瞳が輝き始めた。
「間に、合うの……?」
「そう……けど、問題は、エリバルガ国くらいでしか、治療ができないということなんだ。エリバルガ国の大きな街なら治療できる医者もいるはずだ」
「けど……エリバルガ国は今……」
 エリバルガ国は、現在革命軍と国王軍との内戦が激化している。多くの街が焼かれ、戦場となっている。もはや治安状態は最悪。国が山々に囲まれているという地理条件から、他国へ出るのも大変だというのに、逃げ出している人々は後を絶たない。
 とても、病人が行けるような国ではない。
「エリバルガ国へは行けない……となると、このグランディア皇国なら、首都キリグートの医者くらいしか、治療できる医者はいない。地方の医者なら、そもそもこの病気そのものを知らないからね」
「だから、キリグートへ向かうように、言ったのね」
 ノアは明るい声の調子になって、パトリーに言う。
「でも、安心して。キリグートなら、すぐにでも治る。グランディア皇国はエリバルガ国と並んで、医学が発達しているんだ。だから、キリグートに到着さえすれば、もう安心なんだよ。だから、パトリーがするべきことは、キリグートにたどり着くまで、体を休ませておくこと。思ったよりパトリーの病気の進行はゆっくりしているから、何の苦もない。キリグートに到着さえすればいいから、不安になるようなことは言わないほうがいいと思って、言わなかったんだ」
 にっこりとノアは笑った。じっとパトリーは見る。
「問題はない、と?」
「ああ、そうだよ」
 ためらうことなくノアは返答する。
 パトリーはじっと、瞳の奥に隠れているものを見ようとするかのように、見つめた。
「……ノア。もう、あたしの病気で隠していることはないわね?」
 その瞬間、ノアの瞳がかすかに揺らいだのを、パトリーは確かに見た。
「何も隠してないよ」
「ノア。本当に、本当? あたし、どんな話でも真正面から聞いて、逃げないわ。自分のことから、逃げたくないのよ」
「……だから、何も隠してないって」
「ノア。あたしはノアのことを信じている。優しい人間だということはわかっているわ。そうでなきゃ、薬草を採ってきてくれたり、看病してくれたりしないものね。あたしが出会った人間の中でも、トップクラスの優しい人間だわ。こんな、他人にここまでしてくれるなんて。いくらお礼を言っても足りないくらいのことをしてくれた。本当に、ありがたく思っているの。だからこそ、あなたに、教えてほしいのよ。本当のことを」
 何かを期待する瞳で、パトリーはノアを見つめた。何かを求めていた。真実を求めていた。
 その強い瞳に、ノアは、顔をそらしてしまった。
「本当のことは、全部、話したよ」
 その言葉に、パトリーは違う確信をした。
 嘘だ。
 自分は。
 自分は。
 自分は、死ぬのだ、と。
 だから隠している。ノアはそれを隠したのだ、と。
 どこまでが嘘かはわからない。治らない病気なのか、もしかしたら、もう間に合わなくてキリグートへはたどり着けないのかもしれない。
 確かなのは、治らない、死ぬ、ということ。
 そんな確信が、冷たく体中を駆け巡った。
「ノア。お願い。本当にお願いよ。本当のことを話して」
 聞きたくないはずなのに、パトリーはノアの手を握り、強く迫った。
 ノアから正直な話を聞きたかった。彼は優しい。だから自分のために嘘をついたとはわかっている。でも、その彼から、本当の話を聞きたかった。
 ノアを最期まで全て信じたかった。
 彼だけでも、信じたかった。
 けれどもノアは首を振る。
「隠していることは、もう……ないよ」
 ノアは嘘を突き通した。
 パトリーは顔をそらしたままのノアに、落胆を禁じえなかった。
 もはや、これ以上問い詰めても本当の話はしてくれない。パトリーはそれがわかった。
「……わかったわ、ノア」
「本当にわかってくれた?」
「ええ。全部、わかった。もう何も心配する必要がない、って、わかったわ。ノアの言うとおり、これまでどおりキリグートへ向かいましょう。そうすれば……治る……のでしょう……?」
 パトリーは落胆を隠しながら、部屋に入り込んだ葉を見ていた。
「……ノア、あたし、もう寝るわ。だから出て行って頂戴」
「ああ……でも、パトリー……?」
 ノアは急に淡々としだしたパトリーに眉をひそめていた。
「大丈夫よ。ノア。治るとわかった以上、あたしが不安に思うことも、何もないんだから。あたしは大丈夫。さあ、出て行って」
 そうしてパトリーはノアを追い出した。
 ノアが出て行ったその部屋で、散らかりっぱなしだった書類をパトリーは片付ける。
 窓が開いているせいで、少し、書類がとんだ。
 遠くに行った書類を取ろうと伸ばした手が、震え始めた。
 震える手のその手のひらをじっと見る。
 ふいに、衝動が襲って、パトリーはその手を床になぐりつけた。数回殴ると、手の甲で骨が出ているあたりから、血がにじんだ。それでもなお、手は震えていた。それでも、なお。
 それを見ると、自然と顔がゆがんだ。
「どうして……あたしが……!」
 誰も答えを返してはくれない。
 夜空は美しい。誰にも支配されることなく、星空は広がる。その星空をいつでも見上げることのできる祝福を、初めてパトリーは知った。そしてその祝福を、もっともっと受けていたかった。
 月は無い。どこにも。
 座り込んでいたパトリーの頬を、優しく風が通り抜ける。
 風と共にいろいろな思い出を、パトリーは思い出す。
 一筋も欠けていない望月の夜のこと。
 シュテファン兄様と話した。叱咤か命令か、クラレンス家のためだけの冷たい言葉ばかり言っていた兄が、その夜、月を見上げて語った。
『まったく月というのは鬱陶しいものだ。どこにいても馬車で走ろうとも追いかけてくる。どこまでも。逃げられやしない。まるで看守のように。すると、地にいる人間は鎖でつながれた囚人か。自由などどこにもないのだろう。永遠に、何かに支配され管理されるわけだ』
 シュテファン兄様は酔っていたのかもしれない。饒舌に、暗い声で、月を語っていた。冷めた目で見ながら。
 兄に反論する人間は滅多にいない。その後が恐いからだ。それでもなぜか、幼少のときからこの兄に何度も反論していた記憶がある。言った後、ののしられ、逆にぐうの音もでないほどに説かれ、冷たい目で見られるとわかっていたのに、自分は何度も反論していた。どうしてだろう。何も学習していなかっただけなのだろうか。
 そのとき月について語っていたシュテファン兄様に、おびえずに反論した。
『そうでしょうか、シュテファン兄様。あたしは月がどこまでもついてきてくれて、嬉しいと思います。だって、いつでも夜にはある、と思えば安心できますから。寂しくないでしょう? あたしたちには母様がいません。代わりに、月が見ていてくれている、と思うと、あたしはあったかい気持ちになれます』
 言ってしまってから、しまった、と思った。母のことは禁句である。
 けれど、シュテファン兄様は怒り狂うことはなかった。逆に、冷たい目をやわらげて、少し驚いていた。
 やはり、そのときのシュテファン兄様は酔っていたのだろう。
『そういう考え方もあるか』
 と、本当に稀なことに、穏やかに笑っていたから。
 どうしてだろう、兄のことは許せず怒っているのに、そんなことを思い出すのは。選りによって、こんな話を。何かを信じたくなるような、こんな話を。
 ……月のせいだ。
 目の前の夜空をいくら探しても、月は無い。
 『新月だ』と言われて気づいてしまえば、もう月があるとは信じられない。大人になれば見ることのできない妖精のようなもの。
 今晩は月がない。
 誰も、何者も、見守ってはくれない。温かく見つめてはくれない。自分には、誰もいない。
 今こそ、月が輝いてほしかった。……とても、とても。
 恐怖の前におびえている自分に、眠ることのできないであろう夜に、すがりつける何かが……ほしかった。助けが欲しかった。
 部屋の中に落ちた枯葉。その上に水滴がぽたり、ぽたり、と。静かな部屋で、パトリーは嗚咽をこらえることしかできなかった。枯葉は、ぼろぼろになって、砕けた。




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