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 第19話 輝ける新月(1)


 雪はもう、降らない。葉の上に重そうに積もる新雪の情景も美しいと思っていたが、葉の先から静かに朝露が落ちる様もまた、違う新鮮さを感じて美しかった。馬車が止まったとき、偶然目に入った光景は、パトリーの目の奥に焼きついた。……落ちる朝露は、今の自分を暗示していたのかもしれない。


 キリグートへ向かうことに決めた後、パトリーたちは馬車の旅を始めた。それは今までの急いた旅と違い、馬車にしてもゆっくりと、そして安全な行路を使った旅であった。
 パトリーは馬車から淡々と数々の風景を眺めた。鳥の羽ばたく様、古く今とは違う建造物の有様、子供の遊ぶ様……今までの急いだ旅では慌ただしすぎて目を向けることもなかったようなものを、馬車から眺めた。
 グランディア皇国内を進むパトリーはセラから出て十日が経とうとしていた。
 6月。
 いかに極寒の国グランディア皇国とはいえ雪はそこらにつもってはいない。他国よりはずっと寒い初夏をようやく迎えていた。
 ある日、宿屋でパトリーが着替えているとき、ぱさ、と何かが落ちた。手紙だった。海上で、ルースによって運ばれてきたオルテスからの手紙。
 拾い上げた手紙は、約束の期日後に本来届くはずだったもので、ちょうど今のパトリーが読むべき手紙だった。けれどもすべて丸暗記しているわけではないが大体は覚えているパトリーにとって、その手紙を広げることは苦痛以外のものではない。手紙をジャケットの内ポケットにしまう。結局、苦い結果になったということは、信じたくない事実だ。
 兄との約束は果たされなかった。兄は約束を踏みにじった。そして、決して展望が開けているわけではない、という現状に、目を背けたかった。
 セラにいるシュテファンは、どういう気持ちであったのか。結局何の会話もなく別れたので、心情も何もかも、わからない。ただシュテファンはパトリーを騙して捕らえ、そして無理やりにでも結婚させようとした。そんな事実しか残っていない。シュテファンはそんなことに対して、何か正当な言い訳があるのだろうか。あってほしい。そうパトリーは思った。ないなんてことは……嫌だ。
 パトリーはシュテファンが裏切ったとわかったときは、烈火のような怒りがあったが、十日も経つと幾分か冷静になり、会うなら責めざるを得ないが、事情をしっかりと自分の耳で聞きたいと思っていた。ノアは何かこのことに関わっていたようだが、口をもごもごして要領を得ない。語らない。イライザも同様だ。怒りはくすぶってはいたものの、真相を知りたい、兄自身の口から話を聞きたいという気持ちが怒りより勝っていた。けれども、キリグートを目指して逃げて旅をしている今、当分叶わないことだとわかっている。
 いくら病気のためとはいえ、逃げ出した自分を、兄はどう思っているか。もしかすればとんだ恥知らずな変人娘、ということで婚約破棄という当初の目的は達せられているかもしれない。けれども兄が不本意にもそんな結果としたなら、自分を許しはしないはずだ。当主代理であるシュテファンを怒らせるとひどいことになることは、重々承知している。どんな制裁が待っているかわからない。お小遣いカットは、当然もう覚悟している。最悪、外に出られないように家でずっと軟禁状態にされるなんてことも考えられる。後で話しては遅いのかもしれない。
 自分は悪くないとわかっている。謝るつもりもない。けれども、妹として兄を知る身としては、どんどんと心配になってくるのだった。兄の顔を立てて穏便にすますためにも、不本意でも頭を下げて決着付けるのが最良ではないか、と。
 ところがそんな不安を、ノアとイライザはとんでもない、と否定する。パトリーが悪いわけではないんだから、そもそも謝る必要はないし、シュテファンとわざわざ話をする必要もない、と。二人とも、なぜだかシュテファンと話すことを非常に反対している。
「パトリーさん。シュテファンどのから言い訳や理由を聞き、和解しようなんて、甘い考えですよ」
 イライザは特に固くそう言った。
 パトリーは怒っている。でも、シュテファンに謝罪を求めようとまでは思っていない。だがせめて正当なわけを聴きたい。それすら甘い、と言われてパトリーは戸惑ってしまった。
 ノアもイライザの言うことに賛成で、
「あんな人と話なんてしない方がいいよ」
 と言うので、パトリーは二人に対して口を閉ざす以外なかった。ノアたちとシュテファンがどのような関係か、それすら二人は話さなかったが、非常に悪い印象を兄は与えたのだ、ということは推測できた。
 だからといって、このまま一生逃げ隠れているわけにはいかない。クラレンス家の娘として、結婚はしたくなくとも家への責任がある。兄はともかく、義姉のシルビアなどは心配するだろうし。かといって、逃げている現状で自分の居場所を書き記し知らせることがいいことなのか悪いことなのか……。
 なんだかんだと考えているうちに、キリグートへ向かい治療を受ける、ということを決めた以上後のことは後のことで考えようと、そう決めた。病気の疲れで、非常にやっかいな命題を考え続けるのが困難になってきたからだ。
 十日。その間、パトリーはノアにずっとかいがいしく看病されていた。
「もう十日……。新聞を読んでも、皇子の結婚話はちっとも書いてないわね……」
 パトリーがベッドで新聞を読みながら呟いた『皇子』という言葉に、部屋に入ったばかりのノアはびくりとした。
「あ、そ、そうなの?」
「ええ。まったくそんな記事はないの。せめて皇子がご立腹されているのかどうか、それくらいは知りたかったのだけど……。そもそも結婚相手が逃げ出した、なんてことも書いてない……。シュベルク国があんまりにも田舎だから、中央大陸では新聞にすら載せてもらえないのかしら」
 シュベルク国の中央大陸での知名度は高くない。そんな国あったっけ、と言われることもしばしばだ。やはりシュベルク国のことはシュベルク国の新聞が一番だろう、やはり逃げ出した後のことが気になる、と考え、日にちはかかるがシュベルク国の新聞を取り寄せよう、と思った。
 一緒にキリグートへ向かう仲間であり、現在料理を持って部屋に入ってきている男が当の皇子だということを知らないパトリーは、数々の心配事の中でもとりわけ皇子のことについて推量して考えていた。
「ま、まあ、さ、そんなこといいじゃないか。それより、食べてよ。ほら、昼食持って来たんだから」
 ひきつった笑みのノアは、トレイをベッドの横の低い棚に置く。
 オートミール、細かく刻まれた野菜のスープ、そして薬草、薬。
「この野菜スープはね、体にいい野菜たくさん入っているんだ。グランディア皇国では、牛肉とか入れたこってり味の赤いスープが人気らしいけど、お昼だからさっぱり目のスープに作ってあるよ。町に市場があったから野菜選びは俺がして、イライザに作ってもらったんだ。無理に全部食べろとは言わないけど。野菜、小さく切ってあるから食べやすいと思うよ。味も、味覚だけなら、俺、自信あるから、安心して」
 そうしてトレイごとパトリーのひざの上に置いた。湯気立ち上る野菜スープは、確かにおいしそうだった。一口スプーンを運ぶと、やはり見た目どおりに奥深く、美味。パトリーは申し訳ないような気持ちで、その野菜スープやオートミールを見る。
「あ、熱すぎる? ごめんっ」
 一口食べただけで手が止まったパトリーを、ノアはそう誤解した。
「違う、違うのよ、ノア。あのね、あたし申し訳ないと思うのよ。こんなに至れり尽くせり、おいしい料理まで作ってくれて、本当に。ありがたいとも思うけど、あたし、そんな重大な病気じゃないんだし、そこまでしなくてもいいわ」
 パトリーは本当に申し訳なくてそう言った。ノアはいろんな場面で、大丈夫か、と尋ねる。具合が悪くないか、食事もきちんととれているか、痛みは、その他体の不調は、と。そしてパトリーが快適に、病状を悪化させないように、食事もとれるように、と細心の注意を払って動いてくれる。そこまでされて、感謝の念を抱かずに、そして申し訳なく思わずいられるだろうか。
「病気は病気だよ。ほら、ゆっくり休んで。今までパトリーは全然休まなかったんだから、今こそ体を休めるべきなんだよ。食事を取ったらこの薬を飲んで、ゆっくり眠ってね」
 ノアはなんでもない、というように明るく笑って気にもしてない、という具合なのだ。
 パトリーは、納得はいかなかったが再び食事を始める。鳩の鳴き声が聞こえた気がして、ベッドから外の様子を見る。
「そういえば、久しぶりの町よね」
「そうだね。セラを出てから立ち寄るのは村ばかり……というか村しかなかったからね。いろいろと不便な国だよ」
 グランディア皇国は、600年ほどの伝統ある国家だ。その伝統の名の下に、生活上多くの弊害があることはよく見られた。宮廷文化は発達しているようだが、旅して見る限り庶民の生活との差が激しすぎる。字を読める人間が、庶民、農民では皆無に近い。そういう環境が、いまだ魔術などを信じる土壌となるのだろうか。
「じゃあ……本屋もあるかしら」
「確かあったよ。何か読みたい?」
「うん……ディール教授の市場経済に関する本、新刊が出ていたはずなの」
 ノアはあきれた顔をした。
「パトリー、俺の話聞いてた? ちゃんと、休むように、って。休むときは休んで、仕事のこととかは忘れること!」
 パトリーは身を縮こまらせた。
「……暇だっていうなら、何か買ってくるから。とにかく、食べたら眠っていてよ」
 ノアはそう言って、部屋を出て行った。足音が遠くに行ってから、パトリーは感謝の心を持ちつつそそくさと食事を終えて薬を飲むと、ベッドから出た。そして備え付けの机で書類を取り出して、指示書を書き始めた。
 もちろん、仕事である。昨今の国際事情からの物価が急騰している。戦争がいいとか悪いとかは置いておいて、利用しない手はない。オルテスからハリヤ国対南方三国の戦争があると言われた直後、買えるだけ麦など食料を買い占めさせた。予想外のエリバルガ国の内乱もあり、上がっていた物価はさらに上がった。どこで売るのがいいのか、各地の物価と運搬料を調べさせている。市場は軍需景気で、各地で嬉しい悲鳴をよく聞く。しかし、だからと言って彼女は浮かれているわけにはいかない。景気は不景気を生む。冷静にチャンスは確実にものにしつつ、引くべきときは引き、使える手段は使い、儲けるべきときは絶対に儲ける。
 パトリーは額を押さえながら、ガリガリと指示書を書き殴る。十枚、二十枚……。それらは鳥を育てて運ばせることを生業にしている店で、副社長や各地の支店へと送る予定だ。
 パトリーはずっとベッドに眠ることが嫌になっていた。確かに体の調子は悪く、起き続けているとつらい。だんだんつらくなっている気がする。手足の震え、頭痛、などはますます頻繁になっている。ただ、意識の喪失は少なくなっている。それは薬のおかげだ。左腕は治ってきているようで、包帯で巻いてはいるが吊ってはいない。普通の生活ができはじめている。
 そういった悪い健康状態ながらも、パトリーはずっとベッドにいることが嫌だった。これほどずっとベッドにいるのは、3度目だ。
 一番最近は、エリバルガ国での暴動に巻き込まれたとき。2ヶ月ほど前か。この左腕の骨折と火傷の治療のため。
 その前は、2年前。婚約者の事故死と、それにまつわるある事件のとき。
 そのどちらもいい思い出はない。
 ずっとベッドにいると、嫌でもそれらのことを思い出す。無理してでも働いた方がましだと思えてきた。するべき仕事は多いのだし。
 ふと、窓の外を見ると、ノアとイライザが二人で町へ向かっていた。先ほど言ったように、本屋に向かってくれているのだろうか。
 二人もいないのなら、仕事もやりやすい。そう考えた後、すぐに震えと頭痛がやってきた。
 その痛みに顔をしかめながら、ふと、パトリーは一つのことを考えた。それはセラを出てから、頭の隅から離れない、暗い考えだった。


 町の本屋は、街の規模にしたら本がそろっていた。しかし、それはこの町にしたら、という意味。
「観光のための本ばかりだな……。あと、時代錯誤な魔術もの……。医療の専門書なんて、ろくにない」
 ノアはむっとした顔で本棚を見ていた。
「殿下、これはどうでしょう」
 イライザが持ってきたのは、辞書ほどの厚みのあるもの。『医療大全』というタイトル。
 ノアは目次をめくり、そして真剣に中身を確認していたが、首を横に振った。
「確かに……詳しい専門書だけど、これではだめだ」
「何がいけないのですか?」
「いや……この本、グランディア皇国の人が書いた本だから……。グランディア皇国内で多く発生する病例は詳しく載っているんだけど……俺が知りたいのは……」
「?」
 イライザはノアの考えることがつかめず、首をかしげた。
 他にも医療専門書はあったが、最近グランディア皇国で発表された『凍り漬けによる不老不死の可能性』という論文についての賛否が多い。内容はというと、人間の肉体を完全に凍り漬けにすると、肉体は老いることなく解凍するまで若いままになる、というものだった。医学を多少かじっていたノアは知っていたが、可能性は低い。そもそも技術がない。死なせずに凍り漬けにすること自体、確率が非常に低い偶然に頼るほかないだろうし、その場合、意識はない。そもそもなんとかして完全に凍らせた検体は生きているのか死んでいるのか、という問題がある。凍ったままのそれを生きた人間と呼び、不老不死の人間だと言われても多くは納得できない。ならば意識は保つようにする、となると100年後の未来でも不可能に違いない。生きた不老不死は不可能だ。結局のところ、極寒の国ならではの奇天烈な話、ということに落ち着くだろう。
 この論文で得ることと言えば、グランディア皇国特有のとある魔法のような条件下、うまく冷凍させると、老化せずに眠ったまま、仮死状態となる、ということだった。……その結果を引き出すために、どんな経緯があって、どれほどの犠牲があって、奇跡的な実験結果を得たかということは、想像したくない。
 医学専門書はその論文の話ばかりだったので、ノアはほしいものは見つけられなかった。
「ないなら仕方ない。パトリーの暇つぶしのために、何か買っていこう。俺、女の子の好きそうな本ってよくわからないから、イライザ、アドバイスをくれ」
 と、ノアは別の棚へ向かった。最終的にノアは、話題になっている女流作家の人気小説を買った。
 

 本屋から帰ったノアは、パトリーの部屋の扉を叩く。ところが返事がない。いぶかしんだノアは、思い切って扉を開けた。
 がらん、としていた。少しだけ開いた窓からの冷たい風が、部屋を支配していた。誰もいない。
「パトリー!?」
 ノアは本を取り落とした。
 イライザと宿屋中を、ノアは探した。けれども見つからなかった。宿屋の人間に聞いても、わからなかった。
 ノアたちは外へ出た。
 そのころには薄闇の夜が訪れていた。月のない、明かりの乏しい世界。
 ノアたちにはパトリーの向かう場所はとんと見当がつかない。もしや、新刊がほしくて本屋に向かったのか、と考えた二人は再び本屋へ向かった。
 本屋では扉に鍵をかけようとしていた。
 あの、とノアが店員に語りかけるとき、大通りの向こうで、ふらりと人が歩いていた。
「……! パトリーさん!」
 イライザは遠くに見える彼女を見つけ出した。
 真っ先にノアは走ってパトリーの元へ行く。
「パトリー、探したよ! 体は大丈夫?」
 こくん、とパトリーはうなずく。ようやくノアは笑った。それに対して、三拍ほどパトリーはじっとノアを見つめて、しみじみと言う。
「……心配かけて、ごめんなさい。ノアに、イライザ。……迷惑、かけたわね。今までも散々迷惑かけて、今も病気で足手まといだというのにこの旅についてきてくれて、いろいろと、本当にありがとうね」
 パトリーはいろいろなものを咀嚼したかのように老成した言い方をした。言い方だけでなく、まなざしも今までと違う、と、見つめられたノアにはそう感じられた。それはイライザもだったようで、ノアとイライザは戸惑った顔だ。
「……な、んだよ。そんなこと、いきなり。照れるようなことを……。それより、今までどこに行っていたんだ?」
「……え……? ああ、……月を見ていたのよ。綺麗な、月だな、って」
「今夜は新月じゃないか」
 え、とパトリーは空を仰いで、月を探したが、どこにも見当たらない。
「月、ないわね。そうだったわ。……星を見ていたの」
 パトリーは天を仰いだまま、ゆっくりと言う。
「星は、美しいわよね。いつでも、今までも、これからも。どれだけ科学が進んでも、あの輝きを作り出すことはできないわ。かけがえのない宝よね。この輝きが数百年、数千年変わらず、永遠であればいい。今生きている人だけでなく、これから生まれる人々も、きっと見上げて、いろいろな思いを抱くのね」
 パトリーはずっと見上げていた。ずっと、見上げていた。目に焼き付けるように。




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