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 第18話 逃げ行く者


 真剣なノアの様子にためらいながら、パトリーはおずおずと言う。
「逃げる、って……ちょっと待って。確かに、逃げるべきなのはわかるけど、あたし、今どういう現状なのかわからないんだけど……。それに、このドレスを着て? せめていつもの服を着たいんだけど……。あ、こんなところに、服と剣ある!」
 パトリーはベッドの端にたたまれていた自分の服と剣を抱える。
「ちょっと、着替えてからでもいいでしょ……? この服着ているの、恥ずかしいのよ……」
 どうして一般的な貴婦人が着るようなものが恥ずかしいのかノアにはわかりかねたが、パトリーは居心地悪そうに身じろぎしている。
「だめだ。そんな時間はない。今すぐ逃げなきゃ……!」
 きっぱりと言うノアは、ちらりと扉を見る。
 ノアは、剣と服を抱えるパトリーの右腕をつかんで、乱暴に走り出した。
「え!? ノア!?」
 勢いよく扉を開けて、ノアはもと来た道をまっすぐに走る。
 こけそうになりながらもパトリーは引っ張られて。
 兵に見つかるのは早かった。
「逃げたぞ!」
「捕らえろ!」
 その怒声、金属的な靴音がいくつもあることを知ると、パトリーもようやく、今、切羽詰った状況であることがわかった。
 後ろから追いかけてくる靴音は大きく、多くなる。
 必死にもと来た道を思い出しながら、ノアは走った。
 ここで捕まれば終わる、と。
 十字路まで来たとき、前からも兵士が来るのが見えた。
 右に曲がろうとすると、そちらからも兵士。左からも兵士。
「か、囲まれたわ!」
 十字路の真ん中で、ノアとパトリーは迫り来る敵につばをのみこんだ。
「ノ、ノア……この服持ってて。一か八か、この剣でなんとか、血路を開くしか……!」
 パトリーは服をノアに押し付けて、手首から上だけ動く左手で鞘を持ち、剣を抜いた。
 完璧に鎧をまとっている兵士に勝てるとは思えなかったが、それしか方法はなかった。
 襲ってきた兵士たちに、パトリーは剣を振り上げた。
 かん高い音がして、剣と剣が交わる。
 ぎりぎりと拮抗を保ったのは3秒にも満たない。
 押し負けてパトリーは床に倒れた。
「パトリー!」
 倒れたパトリーを起こすノアであるが、幾人もの兵士の影が、2人を覆う。
 パトリーの持つ剣をつかみ、ノアは立ち上がる。
 ふらふらとした腰つきで、ノアは剣を向ける。しかし、あまりにもふらふらとして、剣先も落ち着かず、思ったとおりに剣を向けられるかどうかも不安だ。
 だめだ、とノア自身も思った。
 それでも、なんとか突破して逃げる外には……!
 なんとしても、パトリーだけでも逃がさなければならない。
 ただその一念で、ノアは剣を向けていた。
 兵士がノアに襲いかかった。
 死ぬ!
 ノアはそう覚悟した。
 キィン、と、剣をはじく音がした。
 ノアと兵士の間には、イライザがいたのだった。
「逃げます! 私の後をついてきて下さい!」
 イライザは双剣で、右の敵を順になぎ倒した。軽々とした動き。あまりにも早く、神技とも言えるほどに。
 起き上がったパトリーは、律儀にも自分の服を抱え、開いた道の先へ走った。イライザは最後尾で、追いかけてくる兵士を倒す。
 追いかけてくる兵士はある程度まいたのか、音は、走る3人の足音と息のみとなる。
 走るパトリーが、不自然な様子で立ち止まった。
 思わず追い越したノアは、振り返った。
 パトリーは、がくん、と片足をつく。そして服を取り落とし、頭を押さえ始めた。
「パトリー? どうしたんだ。まさか、どこか怪我したのか!?」
「ち、が……。手足が、震えて……頭が、痛……!」
 よく見るとパトリーの頭を押さえる手は震えている。
 ぷつり、と、糸が切れたようにパトリーはその場に倒れた。
「パトリー!」
「パトリーさん!?」
 起こすものの、パトリーの意識はない。
 再び後ろから足音が響き始める。
「ここは私が足止めを……!」
「頼む! 命を賭けるということだけはやめろよ。足止めして逃げたら、外で落ち合おう。セラの街の中では危険だ。街の東が集合場所だ」
「わかりました、十分にお気をつけ下さい。私もすぐに追います!」
 イライザが戻るのと同時に、ノアはパトリーを背負い、走り出す。
 一人背負っている分、格段にスピードは落ちる。
 広すぎる館に文句を言いつつも、ノアは進んだ。
 広い庭に出て、ノアは出口を探す。
 庭は、極力自然なものであるように努力されている庭だ。各種の木々が生い茂っていた。その木々が茂るあたりなら、館と外とを分ける塀もないだろう、と見切りを付けて、ノアは雪に足跡を残しながら進む。
 館全体に塀をつけて囲めるほどの大きさではない。このあたりは街の郊外で、森と一体化しているような様相である。
 背負われたパトリーはぴくりとも動かない。心配であったが、とりあえず逃げることが先決だ。
 木々の中を進むノア。
 ある程度進み、この辺りまで来れば、と思いかけたとき。
 後ろからの声にびくり、と震えた。
「本当に紳士でいらっしゃいますね、殿下は」
 冷や水をあびせられたような顔で、ノアは振り向いた。
 数人の兵士を引き連れて、シュテファンが立っていた。
「シュテファン……」
 うなるようなノアの声音に、シュテファンは口の端をあげる程度に微笑む。
「式を挙げれば、妹は殿下のものですのに。さあ、お戻り下さい」
 ノアはパトリーを背負いつつも、後ろ足で2、3歩離れる。
「多少強引な方法であったかもしれませんが、妹と殿下は婚約者同士ではありませんか。こんな、駆け落ちのようなまねを。逃げずとも、両家とも結婚を認めておりますよ。殿下は、結婚することは嫌ではなかったでしょう? 皇子たる義務ですからね」
「たしかに……パトリーみたいに、死ぬほど嫌ではないさ。でも、こんなの、こんな結婚なら、お断りだ!」
 納得のない、パトリーが不幸になるためだけの結婚だなんて。そんな結婚、望んでいない。
 こんなもの、最悪だ。
 シュテファンの表情が、見るからに険しく、厳しいものとなる。
「あんたが断らないなら、俺が断ろう。結婚は、婚約は破棄だ!」
 睨み付けるようなシュテファン。
 シュテファンが断らない以上、この最悪な結婚をなしにするには、ノアから断る以外ない。
 それは正しいはずだ。パトリーも喜ぶ。
 そう思うのだけれど、ノアの胸の中で、何かしこりができた。
 本当にいいのか、それで。
 結婚をなしにして、それでいいのか、と。
 それでもノアはおくびにも出さず、シュテファンを負けじと睨み返す。
「……後悔しますよ、殿下」
 吹雪のような冷たい言葉。負の感情がにじみ出るシュテファンに、
「するものか!」
 と、返したノアには、もはや引き返せなかった。
 ノアは再びパトリーを担いで走り出す。
 シュテファンの後ろで、追いかけようと兵士が動いたが、シュテファンは手で制する。
「今は見逃してやる。今は、な……」


 街の東にあった宿屋で、パトリーを寝かせた。
 パトリーは起きない。
 ノアは少し医学の心得のある者として、怪我の有無を確かめたり、熱を測ったりした。彼女の首の後ろを見ると、ノアはしばらく考え込んだ。
 しばらくすると、イライザが宿屋の外を通りかかるのが見えたので、呼んで、合流した。
「殿下! ご無事でよかったです」
「イライザも、無事でよかった。……って、パトリーの服を持っているのが不思議なんだけど」
「ああ、パトリーさんが倒れたときに置いて行ったでしょう。パトリーさんなら、この服あったほうが嬉しいだろうと思いまして。……パトリーさん、大丈夫なんですか?」
 イライザは心配そうな顔でパトリーを覗き込んだ。
「ああ……実は、調べてみたところ……」
「う……」
 パトリーが身じろぎした。
「! パトリー!」
「ん……ノア……?」
 パトリーはゆっくりと起き上がる。
「あ……れ?」
 きょろきょろとパトリーは部屋を見回す。
「ああ。逃げ出して、運び込んだんだ。ここは街の外の宿屋だ」
「逃げている途中に倒れて、心配したんですよ?」
 パトリーは手を開いたり閉じたりして、そして頭を軽く叩いた。
「……うん、大丈夫みたい。安心して、ほんと、大丈夫。今はなんともないわ」
 元気だということを示そうと、パトリーはベッドから起きて、立ち上がった。
「心配かけてごめんなさい。でも、今は大丈夫よ」
 イライザはほっとした。
「あ、イライザ、あたしの服、持ってきてくれたの? ありがとう、さっそく着替えるわ。ドレスって、すごく動きにくいんだもの……」
 パトリーは服を受け取り、二人を部屋から出した。
 外に出た二人は、小声で話し始めた。
「……なあ、イライザ。エリバルガ国へは、今、帰れないよな」
 一瞬、イライザは何を言われたのかわからなかった。エリバルガ国は、このグランディア皇国の、千鳥湾を越えた南にある国。ノアが長年遊学していた国であるが、その名が、なぜ今ここで出てくるのか。
「は……? あ、当たり前ではありませんか。現在、革命軍と国王軍の内乱は激しさを増し、とてもとても殿下を連れて帰ることはできませんよ」
 状況がわかっていないのだろうか、とイライザは思う。
「うん……そうだよな……とても、パトリーを連れてゆくことなんか……となると、限られる……」
 と、ぶつぶつとノアはつぶやく。
「殿下?」
「あ、いや、なんでもないよ」
「それならいいのですが……。それで、どうしますか、殿下。何と言って、パトリーさんに今までのことを説明すればいいか……」
 ノアは腕を組んで考え込む。
「う……ん。そうだな……。本当のことを話すなんて、絶対にいけないし。絶対に……傷つく。今まで、あんなにがんばってきていたもんな。実の兄があんなこと言うなんてこと、知ったら……。何とか、ごまかすしかない。身代金目当ての盗賊に誘拐されていたとでも言うしか……」
「……そうですね。パトリーさんがどのような状況で連れてこられたのかは知りませんが、何とかごまかしましょう。……それにしても、パトリーさん、着替えるのが遅いですね。もうとっくに着替えていてもよさそうですが。まさか、また倒れて……」
 ノアの顔色が変わった。どんどん、と激しく扉を叩く。
「パトリー! また、倒れたのか!?」
 返事はない。顔を見合わせ、イライザは勢いよく扉を開いた。
 中では、パトリーが立っていた。きちんと服も着替えている。ほっとするノア。
「なんだ、びっくりするじゃないか。返事くらいしろよ」
 パトリーは二人にまったく目を向けずに、自分の手を凝視していた。いや、正確には右手の手のひらにあるものを。
 ノアは近づいて、その手の中にあるものを覗き込んだ。
 ぎくり、とした。
 そこには指輪があったのだ。以前、一度だけ見た。パトリーが運んでいた箱の中にあった指輪。革命軍のアジトにあった、クラレンス家の紋章のある……。
「どうしてここに、あたしの服のポケットにこれがあるの」
 険しい顔で、パトリーがずっとその小さな指輪を凝視する。
「あたしは確かに、図書館の館長、ハッサンにこれを渡したわ。……その後に、殴られた」
 ノアは取り繕う言葉が思いつかなかった。
「……ただの誘拐なら、勝手に服着替えさせたりして喜ぶ変態が誘拐犯なら、身代金目当ての誘拐なら、これを返す意味がないでしょう? なぜ、これはあたしに返されたの? そもそもこの指輪を届ける為にあたしは旅をしてきたのよ。この、クラレンス家の指輪を届ける為に……。そもそも、クラレンス家以外の人間にこれを届ける意味なんてあったのかしら。だってこれは、クラレンス家の人間だって証明する為の指輪のようだわ。それを、あたしに返された。指輪を、あたしに。結婚を強制されたあたしに、指輪を。まるで、これを使って結婚の儀式を行えと言っているかのように」
「パトリー、これは……」
「――シュテファン兄様ね?」
 鋭い言葉は、ノアにごまかすことを許さなかった。 
「シュテファン兄様が仕組んだのね? あたしを殴らせたのも、あたしを着替えさせたのも、かつらをかぶせたのも、変な部屋へ運ばせたのも、全部、シュテファン兄様が」
 もはや、その言葉には確信があった。
「シュテファン兄様は、もともと約束を守る気はなかった、というわけね……」
 パトリーは指輪を見つめていた視線を、ノアへと移した。ノアは即座に否定することもできず、一瞬躊躇した。それを見て、パトリーは確信を深めたように、一度ゆっくりうなずく。
 手のひらにあった指輪を壊すかのようにいきなり強く握りしめた。
「さっきの館はどこ」
 パトリーは二人を睨みつけて詰問する。
「そこにシュテファン兄様がいるのでしょう。どこにあるの、あの屋敷は!」
「パトリーさん、落ち着いてください」
 イライザはノアよりも早く冷静さを取り戻す。
「落ち着けるわけがないでしょう。どこにあるの、早く教えて」
「行ってどうするというのですか。逃げ出してきたばかりだというのに」
「どうする? 決まっているわ。約束を破ったことを問いただす。……どうやら二人とも場所を教えてはくれないようね」
 パトリーは一人で部屋を出ようとした。
「! 待って、待て、パトリー!」
 ノアはパトリーの腕をつかんだ。あのシュテファンとパトリーは会ってはいけない、とノアは思った。それに、それどころではないのだ、彼女は。
「だめだ、行ってはいけない。パトリー、それどころじゃないんだよ」
「何がよ! 離して!」
「……っ、パトリー、君は、病気なんだ!」
 時が、止まった気がした。そう感じたのは、誰だったのか。
「な……何……病気……?」
 パトリーは暴れるのをやめた。声は、震えて。
 その姿を見て、ノアは首を横にぶんぶんと振る。
「あ、違う! そんな大変な病気ではないんだよ! 風邪みたいなもの。最近、パトリー、ろくに寝てないだろ?」
 パトリーは自覚があったので、うなずいた。
「やっぱり! だから疲労がたまってさ、あんなふうに倒れたわけ。命にかかわるような病気ではないよ。その点は安心して。でも、こじらせるとちょっとやっかいなんだよ。だから雪の降る街をうろつきまわるのはまずい。わかってくれる?」
 パトリーは、病気、ということに、水をかぶせられたかのように、冷静さを取り戻していた。少し逡巡して、ノアに従おうと決断し、再びうなずいた。ノアはほっとして笑顔を向けた。
「よかった、わかってくれた。あと、それに、医者に診てもらうべきでもある。俺自身、医学部卒業と言っても、医者ではないからね。……だから、キリグートへ行こう」
「キリグート……?」
 キリグートは、このグランディア皇国の首都。ここセラよりも東にある、古い都市だ。
「キリグートなら、いい医者がいるから。あそこも医学では有名なんだ。ね、一緒に行こう」
「でも……」
「パトリー、せっかくグランディア皇国まで来たんだから、首都に行こうよ。古臭いけど、いいところなんだから」
 パトリーは戸惑っていた。
 だが、突如目的地を失い困った状態のパトリーは、ノアのとても強いすすめを受け、会社やオルテスのことなど諸々をしばらく熟考した後、結局はうなずくのだった。




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