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第16話 旅路の果てに(2)
一方、ノアとイライザは。
ウィンストン卿の別邸はセラ中心部から遠く、たどりつくまで少し時間がかかってしまった。ノアとイライザは、身分を明かすとすぐに招き入れられた。
ウィンストン卿自身はいないらしい。エリバルガ国を出たのはウィンストン卿の方が遅かったし、セラへ早く行く方法も皆無に近かったので、当然とも言えた。
案内するメイドは、ウィンストン卿は千鳥湾沿いにこちら向かっている、無事だ、と知らせてくれた。聞いてノアは安堵した。ウィンストン卿はノアの言動をよく叱る人物ではあったが、嫌いではない。
「ところで、皇子としてするべき仕事、というのは何なんだ?」
案内するメイドはある扉まで案内して、
「どうぞ、中にいるお方にお聞きください」
とお辞儀した。
中に入った部屋は、応接間のようである。
グランディア皇国が極寒の国であるために、その部屋は、暖炉はもちろん、家のつくりから防寒については徹底していた。それが貴族であるためにそこまで徹底しているのかは、ノアにはわかるはずもない。
中には一人の人物がいた。
背の高い男だ。葉巻の煙がソファから上っている。亜麻色の髪がゆれ、男はこちらに気づく。葉巻の火を消す。
男は立ち上がる。
亜麻色の髪は肩ほどまである。
いや、そんなことはどうでもよかった。注視してしまうのは、その冷たい瞳だった。あまりにも鋭く、光一つない、闇の瞳。唇は笑うことがあるのかと思うほどに固く結ばれている。
その唇が少し動く。
「はじめてお目にかかりますね。ランドリュー殿下」
臣下としての正しい作法で、男は頭を下げる。
その所作も、表情も、何もかも冷たすぎた。
ノアは、ひどく、何かが気に入らなかった。初めて会う人間に対して思うべきことではないと、わかっていつつも。
「これほど、早くにお会いできるとは思ってもいませんでした」
男は表情を和らげた。けれども、瞳の冷たさは変わることはない。
「ああ、ウィンストン卿から、殿下への手紙です」
渡された手紙は、ノアへの謝罪だった。
最初に見せられたラブレター。あれはノアに結婚へ意欲を湧かせる為のものだったと。
パトリーが書いたのでなければ、何となく、ウィンストン卿だと思っていたノアは、驚かなかった。ウィンストン卿は、俺によかれと思って行動したにすぎない、とわかっていたから。怒りもしなかった。ただ、おかげで道中いろいろと混乱してしまったが。
ノアは手紙を受け取っても、読み終わっても、目の前の男に何も言わなかった。
何も言わずに立ち尽くすノアに、後ろからイライザが小さく、殿下、とたしなめる。
それでも、やわらかな言葉でこの男ににこやかにする気にはなれない。
――何かが、危険信号を出していた。
ハッサンの仕事部屋にパトリーは通された。さすが図書館。壁は全て本棚で、机の上にすら本が山積みになっている。
ハッサンは、重くため息をついた。おそらく、あの事故のことだろう。
「そんなに、穴をふさぐのにお金がかかるんですか?」
「……ええ。古い建物で、古い建築様式ですから……。それに、本も、詳しく調べなければどれが焼失したのかはわかりませんが、同じ本を入手するのに、ずいぶんと金は必要となるでしょう……。こんなことになるなら、火災保険にでも加入しておけばよかった……しかし、誰がこんなことを予測できるっていうんだ……もう、この図書館は、だめだ……」
「で、でも、貴族からの援助があるんでしょう?」
「…………」
気まずい沈黙が場を支配した。とりあえずすべきことをしなければ、とパトリーは焦って箱を取り出し、ハッサンへ手渡した。
「ああ。それが、シュテファン様から運ぶように言われたものなのですね」
ハッサンは、その箱を開く。すぐに彼は戸惑った。
「これは……中に何もない。……確か、中にあるのは指輪……と聞いていましたが?」
「はい。ただ、一度盗まれかけたことがあり、中と箱を別々に身につけていました。指輪はこのとおり、首にかけて」
パトリーは首にかかっている鎖を服の下から取り出す。その鎖の先には指輪があった。鎖から指輪をはずし、ハッサンへ手渡した。
それはクラレンス家の紋章の彫られたもので、ハッサンは確認するとうなずいた。
「あと、中に入っていた短剣ですが、これはちょっと、取り出すのが難しいのですが……」
コートを脱ぎ、短剣を取り出そうとしたパトリーだが、
「短剣……ですか? それは聞いていません」
という言葉に動きが止まった。
「私が命令されたのは2つ。期限内にクラレンス家のパトリーという人が来たのなら、クラレンス家の家紋が彫られた箱と、その中にある指輪を確認する」
パトリーは首を傾げる。では、あの短剣は何のためのものなのだ。
「短剣が入っていたというのなら、シュテファン様からパトリー様への贈り物ではありませんかな」
短剣が贈り物? 別に高価なものでもない、実用的な短剣が?
「あの……少しお聞きしてもよいでしょうか。差し支えがなければ。どうして、シュテファン兄様は、この図書館へ指輪を届けさせたのでしょうか。クラレンス家の家紋の入った指輪なんて。こんな指輪、クラレンス家の人間が自分の身分を証明するためのものだと思うのですが。それに、この図書館と、兄様と、どのようなつながりが?」
ハッサンは箱と指輪を机の上に丁寧に置き、パトリーの右側の本棚のあたりへ移動しながら言う。
「シュテファン様は、この図書館へ多額の援助を約束してくださいました。この図書館は古すぎて、修築だけでもばかにならんのです。グランディア皇国内の貴族にはみな、そっぽを向かれ困っていました。頼みの綱の国や都市――我が国では歴史的価値のあるものに積極的に資金援助することは非常に多いのですが――国や都市ですら、あまりの費用の莫大さに援助をしてくれません。私は歴史学会の学会員ですが、この図書館の保存は、今、他の学者たちに重視されていません。
セラで最も重要な建築物は何か、ご存知ですか? 教会ですよ。アラン派のギリンシア神教の総本山たるセラで、セラ教会こそが最も重要。それ以外は後回しです。国などから見たこの図書館の重要度の順位が低すぎる。あまりに古い建築物が多いので、いかに資金援助が多かろうと、有名でないところまで回ってこないのです。セラ教会では、近々大規模な修築を行う。図書館まで、ろくに金は回りません。
その図書館への援助をしてもいいと聞いたときは、天の助けかとも思いました。シュテファン様にしたら、グランディア皇国での名を高めるためのことなのでしょうが」
それはありえることだと思った。兄は、クラレンス家の名を高めるためにそんなことをしてもおかしくはない。
「ただ……援助には条件があった。それが、今回のことでした。……私は断るつもりでした。こんなこと、いくら金のためとはいえ。あなたが期限内に来ないようにとも思いましたよ。シュテファン様は、90パーセント、絶対にあなたは期限内にはたどりつけない、お前は何もする必要はない、ただ万が一の依頼だ、と説明されて……。期限最後の日、今日。よかった、自分は何もしなくていい、そう喜んでいたんです」
「……なぜ、そこまで……? 指輪を受け取るだけでしょう?」
いぶかしんだパトリーが、体をひねってハッサンへ向き合う前に、ハッサンは低い声を出す。
「――おゆるしください、パトリーさん」
え、とパトリーが言った瞬間、首に重い衝撃が走った。
スカーフで右眼を覆っている為に、右側は何も見えない。その死角からの攻撃だった。
「な……! うっ……」
パトリーはうめいて倒れ、意識を失った。倒れた衝撃で本棚の本がばらばらと落ちる。
「申し訳ありません、パトリーさん。私がシュテファン様より受けた命令は二つ……。その二つ目が、箱の中身を確認後、パトリーさんを気絶させる。そしてパトリーさんと指輪を、クラレンス家の使いの人間に、渡すこと。本当に、こんなこと、するつもりはありませんでした。ですが、ですが、あの事故……! この図書館、援助がなければ、もうおしまいなのです。この、愛すべき古き図書館が……」
パトリーは意識を失い、それを聞くことはなかった。
ハッサンの手には重い本。それをパトリーへ振り下ろしたのだった。
部屋に続々と、私兵が入り込んできた。意識のないパトリーを担ぎ、そして箱と指輪を持って、
「よくやった。シュテファン様からの伝言だ。図書館への援助を認める、とのことだ」
と言って、兵士たちは部屋を出て行った。
散乱した本が、夕日に照らし出されていた。
冷たい瞳の男はふと気づいたように、
「ああ、自己紹介がまだでしたね」
とノアに言う。
「わたしの名は、シュテファン=クラレンス。パトリーの兄にして、クラレンス家当主代理を務めております。僭越ながら、ランドリュー殿下の、義兄となりますね。以後、お見知りおきを」
イライザは息を飲んだ。
シュテファンは必要以上にへりくだらずに、冷たい双眸で観察するようにノアを見ていた。誰をも威圧するような空気が、シュテファンにはあった。
ノアは険しい顔で、ようやく言葉を口にする。
「俺に、皇子としての仕事をしろ、というのは、まさか……」
「それくらいのこと、おわかりでしょう? 殿下と、我が妹パトリーとの結婚です」
ノアは強く、目をつむった。
この現状を、混乱しすぎて把握できていない。しかし、この後とても悪いことを聞く、ということだけは予測できた。
――それは、とても、正しかった。
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