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 第16話 旅路の果てに(1)


 雪はあった。けれども、道の端に寄せられて。
 グランディア皇国第2の都市。古き街。アラン派ギリンシア神教においての総本山。
 この地こそ、セラ。
 パトリーの旅の目的地である。
 彼女は、今まさに、セラに立っているのだ。
 このセラへ箱を届ける約束の期限最終日。
 厳密に言うと、目的とはセラにある図書館の主、ハッサンへ箱を届けることだ。そうすれば、結婚することもないし、もう安心――
 ――などと、極楽気分で考えていられるほど、パトリーに余裕はなかった。
 セラの街に入ったはいいものの、今、パトリーは、人ごみの中、押しつぶされそうになっているのだ。ぎゅむぎゅむ、と顔はぺちゃんこになるわ、骨折している左腕は痛いわ、思わずパトリー心の中で叫ぶ。
 なんで、なんで、こんなことになってるのよーっ!!
 苛立ちは最高潮であった。
 もう、オレンジ色の夕方。パトリーは一人、混雑する人の中にあった。
 ――エディの船は、約束どおり期限までにセラに一番近い港に運んでくれた。簡単な別れの挨拶をして、エディとは別れた。エディ自身、そのまま西大陸へ行くそうだ。もう、しばらくは会うこともない。
 ルースには手紙を結びつけ、オルテスの元へ飛び立ってもらった。ルースは一直線に、東へと向かった。
 ノアとイライザは、とある知り合いの貴族の館へ行くという。これで本当のお別れかと思ったけれども、『全てがすんだら、話したいことがある』、とノアは真剣な顔で言っていた。そうして、セラの街に入る直前で別れた。
 そうして一人でセラの街に入ってから押しつぶされそうになるまで、いろいろとあったのである。


 セラの街は、グランディア皇国第二の都市だけあって、広かった。あまりの広さに、目的の図書館に本日中にたどりつけるか、不安になった。
 セラの街に入って、そう考えたパトリーは、案内を地元の人に頼もうと考えた。
 門付近にはちょうど、本を数冊持っている人の良さそうな男性がいたのである。小太りで、背の低い中年男性だ。
「あの、すいません。セラの住民の方でしょうか」
 問いかけたパトリーに、男は嫌な顔もせず笑顔で、はい、と答えた。
「あたし、この街初めてなもので……」
 言い終わらないうちに、男はぽん、と手を叩く。
「ああ、はいはい、観光に来たお客さんですね」
 実際違うのだが、わかりましたわかりました、と言わんばかりにうなずく男に、あいまいにうなずく。
 セラの街は、約500年の歴史ある古い街で、観光客もよく訪れる。それはセラに入ればすぐにわかることだ。街に来るのが初めてだという発言は、即座に観光客と結びついたのだろう。
「わかりますよ。この街広くて迷うって言うのでしょう?」
「はい。門から眺めた限りではとてもとても目的地まではたどりつけなさそうで」
「そうでしょう。ルクレツィア女皇、ゼルガード皇王の御世はこれほどの街ではなかったそうですが、歴代の皇王が拡張工事を進めましてね。東の、あの建物が白っぽい区画は、200年前のゲンナティー皇王が大規模に街を大きくしたあたりで……」
 パトリーはぽかんと見た。
「……ず、ずいぶん、歴史のことに詳しいんですね……」
「ええ。歴史学の専門家ですから。歴史学・考古学は、この国では他国よりも盛んですよ。国からの援助も、協力も、元老院の下、充分にありますからね。……おかげで最近、歴史学者は強い権力を持ち、歴史学のためなら何でもしていいとまで考える人間が増えましたが……」
「え?」
「あ、ああ、いえいえ、何でもありません。観光でしたね? やはり、見て回るなら……」
「あ! 行きたいところは決まっているんです。この街で古くて有名な、貴重な蔵書数の非常に多い……」
「ああ! わかりましたよ! なるほどなるほど、やはり有名ですからね。ははあ、やっぱり、ギリンシア神教アラン派の方ですな?」
「? はい、そうですが……?」
「それなら、こちらです。案内しますよ」
 と、男はさくさく歩き出した。パトリーは慌ててついていく。太陽は頂から下り始めたところ。
 よかった、これで間に合う……そうほっとしたのは、歩いていた途中だけの、本当にほんのつかの間のことだった。


「え! ここ、図書館ですか!?」
「え? 図書館?」
 二人が到着したのは、巨大な建築物の前。ホイップクリームのような形をした屋根の部分。それは古い時代に作られた様式のようで、歩いている途中も、何度か見た。右辺は修築中のようで、工事の音が響く。古いがゆえの、大規模な補修工事のようだ。問題はそんなことではない。その建物に入ってゆく人物はみな、ギリンシア神教の正式な作法で頭を下げて、入ってゆく。そして建物の外から見える、宗教的なステンドグラスは太陽の光を反射して……。どことなくかもし出される荘厳な雰囲気。表にでかでかとかかげられる、ギリンシア神教のマーク……。
「ここ、教会……じゃないですか!」
「ここじゃなかったんですか?」
 困惑気味の男。
「違います! あたしは図書館に行きたかったんです! どうして、教会に……!」
「セラで一番古くて、一番有名なのはセラ教会だから……貴重な宗教的蔵書なら、ここに勝る教会はありませんし……。観光客の大半は、アラン派ギリンシア神教の総本山たる、このセラ教会に来るものですから。ああ、つい、間違えてしまったようで」
 これはどうも、と笑う男の向こうで、太陽は着実に傾き、夕日へと変わるのは時間の問題。パトリーの顔が青ざめてゆく。
 この男に文句を言っている場合ではない。
 ここまで来て間に合わないなんて、冗談ではない!
「図書館は、どっちにあるんですか!」
「ここからなら、このまま右の道を……って、あ! そんなに急いで走って……」
 男の言葉は途中までで、パトリーは走った。図書館の閉館時間は知らない。扉が完全に閉まってしまえば、やっかいなことになる……!
 パトリーは、走る。


 そのまま走り続けたパトリーの目の前には、確かに古い巨大建造物が見えた。先ほどのセラ教会と同じく、屋根にあたる部分はホイップクリームのような形で、赤と金の色が螺旋を描いている。どうやら、セラ教会とほぼ同年代に作られたようだ。窓からは、中の本棚が確かに見える。たくさん見える。
 ここが、図書館だ!
 そう思うけれども、パトリーは少し離れた場所で動けないでいた。
 なぜなら、パトリーと図書館の間には、ぎゅうぎゅうになっている人ごみが道を埋め尽くしていたからである。
「な、なんで、こんなに人が……!」
 たかが(と言ってはいけないのかもしれないが)図書館にこんなに人が集まるとは思えない。
 目の前で背伸びをしていた若い男は、
「全然見えないぞ。せっかくここまで、車を見物に来たっていうのに……」
 とつぶやいた。
「車? 車の見物!?」
 若い男は驚きつつも、説明する。
「ああ。ちょうどこの先の広場で、蒸気の力で動く、馬を使わない車が見れる、っていうんだ。すぐそこの角の広場でやっているはずだけど。動くのなら、見れるかな」
 パトリーは、何でこんな日にやるのよ、と行き場のない怒りを感じた。こんな時でなければ、見たかった。それはセラ教会もである。
 パトリーの母国・シュベルク国の最も大きなアラン派の教会は、数年前、国を揺るがす宗教的な争いの後、大規模な犯罪を行ったとして、取り壊された。シュベルク国内の他のアラン派教会は、小さすぎるものばかり。アラン派ギリンシア神教の信者として、あのセラ教会ほど大規模のものは、しばらく見ていないのだ。……総本山がセラ教会だと知っていても、セラの場所を知らなかったような不信心者は行くべきではないかもしれないが。
 パトリーは頭を振る。今は本当にそれどころではない。思いもかけない地味な障害を前に、パトリーは大きく息を吸い、覚悟を決めた。
 がっ、と人ごみの中に割り込み始めたのである。
 車見物が終わるのを待っているわけにはいかない。……となると、この人の波を渡りきるしかない。
 ぐぐ、と体中が潰される。いまだ骨折は治らず吊っている左腕も痛い。右眼の上に巻いているスカーフは邪魔だ。実は右眼はたどりつく少し前に完治していたのだが、念のため、と包帯でまだ巻いている。取ってくればよかった、と思った。
 多くの人の邪魔になりながら、心の中で、そして口に出して、ごめんなさい、と言いつつパトリーは泳ぐ。
 パトリーの脳裏に、今までの旅路が蘇える。
 海、嵐を越えてオルテスと共に中央大陸に来て。ハリヤ国から、北上してミラ王国、エリバルガ国……各地でいろいろなことがあった。そしてエリバルガ国でオルテスと別れ……革命、暴動に巻き込まれて、右眼と左腕に怪我を負って……ノア、イライザと出会った。千鳥湾の『入り口』にまでたどりついて、でもセラへ期限内にはたどりつけない、と知り……それでも、なんとかエディの力を借りて、海を渡って、こうしてセラへとたどりつけた。
 これが解決しても、まだ、やるべきことはある。相手のランドリュー皇子のことはきちんと決着をつけなければいけない。『結婚』というものも、きちんと考えなければいけない。
 それでも、今は、図書館へ。
 旅の目的を、達成するため……。
 あたしは……。
 パトリーは腕を伸ばす。これ以上ないというくらいに伸ばす。
 そのとき、パトリーは圧迫感から開放された。風が、心地よく。
 パトリーは、図書館の前にいた。
 一度パトリーはその人ごみを振り返り、そして重厚な扉を開けた。
 夕焼けの光が図書館の中へ入っていった。古い本の香りと入れ替わりに。


「待ってください……館長がいない?」
「はい……申し訳ないのですが……」
 入り口すぐの受付の係は、絶望的な言葉を告げた。
「館長がどこにいるかは、ちょっと……。このセラのどこかにいるとは思います。セラ教会と古い蔵書の問題を話し合うために向かったのですが、このように行方知れずになることが多いのです。歴史学者として他の建築物を見て回ったり、きまぐれに観光客に歴史学的知識を披露なさっていたり……どこまでも歴史学者な方ですから。今日は特に機嫌が良くて」
 パトリーはめまいがした。
 何かに耐えて、振り絞るように言う。
「わかりました……館長の容姿を詳しく教えてください。探します」
「なっ! 無茶な! どれだけこの街が広いか、わかりませんか?」
「探します」
 パトリーは強く言葉を発した。
「わかりました。私もつきそいましょう。館長は、あまりに普通な容姿でして、特徴を言うのも難しいですから」
「あ、ありがとうございます」
 受付の係は、いえいえ、と言いながら、重い扉を開く。
 そこには、先ほどと同じように、人ごみの群れ。
「まさか、この中に……」
 パトリーはほほがひきつった笑みを浮かべる。
「それでも、探すしか、ないわね……!」
 そうやって、再び人ごみの中へ入ろうとしたパトリーは、見物客の大きなどよめきを聞いた。
「蒸気自動車が動いたぞ!」
「本当に、馬なしで動いているなんて!」
「広場から道に出た!」
 人ごみは、高い波のように激しく動き始めた。それと共に、ざわめきも大きくなる。
「……おい、この車、まっすぐしか走らないぞ」
「え、まさか、このままだと、ぶつかるっ」
「あ、ああっ!」
 ドン! ガラガラ、ガシャガシャガシャアアン!
 激しすぎる音が響いた。パトリーの立つ地面も揺れるほどの、衝撃があった。音は、ガラスが激しく壊れる音、何かと何かがぶつかった音、何かが崩れる音、全てを含み、一瞬にして、その場はパニック状態になった。
 人々はいたる方へ向かいだす。
 パトリーは、何がなにやらわからぬまま、人ごみに飲まれて別のところへ行く前に、と再び図書館へと上った。状況はさっぱりわからなかった。
 けれど、図書館の前、少し高い場所に立って、全てわかった。
「これは……!!」
 車が、図書館へ半分つっこんでいた。そのあたりにはガラスが散乱し、車自体は煙突も何もかもがひしゃげ、図書館の利用客はパニックとなって、図書館の外へと逃げ出している。激しい、事故である。
 そしてその事故のあたりで、ランプが倒れたのか、本が燃え始めていた。
「本が!!」
 先ほどの受付の係が悲鳴を上げた。
「水! 水を早く、持ってきて!」
「早く!」
 大混乱の場。悲鳴を上げて外へ逃げ出す客とは反対に、即座にパトリーはその場へ向かった。
 車の運転手も無事で、逃げ出したようだ。パトリーは燃える本棚に寄る。離れろ、という周りの人間を背に、パトリーはまだ燃えていない、けれどもしばらくしたら燃えてしまう本を取り出し、急いで運び始めた。
「ぼさっとしてないで! 早く本を避難させなきゃ!」
「あ、ああ、そうだ!」
 パトリーに続いて、水を持ってくる人間と半々に分かれ、本の救助活動が始まった。
 しばらくして。近場の川からの水によって、その火事は、どうにか収まりを見せた。多くの本も、燃えずに助かった分、少し離れた場所に積みあがって。
 消火活動が無事に行われたことで、手伝った人間は、よかったよかった、と配られた熱いお茶を飲みながら、会話する。
 けれども、パトリーにはのんびりとしている暇はなかった。
 この火事のおかげで、ずいぶんと時間を費やしてしまっていた。もう、夕日も傾いている。
 同じく茶を飲んで一息ついている受付の係に、申し訳ないけれども、館長の捜索を手伝うように頼もうとした。そのとき。
「な、なんなんだ、これは……!」
 事故と火事の現場を見て、男が叫んでいた。
 見覚えがある。さきほど、間違ってセラ教会まで案内した男である。
 どうして、ここに……パトリーはそう思って、声をかけようとしたその前に、
「館長!」
 受付の係は男に向かってそう呼びかけた。
 え、とパトリーが理解する前に、男は事故の現場の近くまで来て、首を振って、頭を抱え込んだ。
「なんということだ……! ばかな、こんなに大きな穴を開けて……おまけに、本も燃えて……。400年の歴史ある、セラ教会に次ぐ歴史ある建造物だぞ! こんなに穴を開けて……! 誰がこんな事故を起こした! 改修するための金は払ってもらうからな! もちろん、この貴重な本の損害賠償も!」
「館長……ですが……普通の人に、それらの莫大な金額は、到底払えませんよ……。裁判を起こして財産を差し押さえても、すずめの涙程度かと……」
「だったら、どうしろというのかね!? ここ数年、図書館への援助は減っている。むしろ、赤字だ。国や街、歴史学に理解のある財団に援助を頼んだところで、今、セラ教会が大規模な修築を行ってそちらへ予算を回しているんだ。金は出してくれない……」
「一つ、あてがあるじゃないですか。以前、外国の貴族が援助をしてくれると」
「しかし……」
 男はあごに手をかけ、何かを考えて黙った。
「あの、もしかして、あなたが、この図書館の館長……ハッサン……ですか?」
 パトリーは沈黙が訪れたのを見計らって、声をかけた。
 男と受付の係は、パトリーへと顔を向ける。
「ああ、そうでした。館長に会いたいというお客です。セラ中を探し回ろうとまでしていましたよ」
「君は……さっきの」
「はい。……あのときわかっていれば、こんなに走り回る必要もなかったでしょうね」
 パトリーは苦笑しつつも、自己紹介をした。
「パトリー=クラレンスといいます。シュベルク国の者です。兄・シュテファン=クラレンスから、箱を届けるように言われ、ここまで来ました」
 ハッサンは驚いてまじまじとパトリーを見つめていた。
「シュテファン様の妹……。まさか、本当に今日までに来るなんて……」
 ハッサンは燃えて黒くなった事故の現場をちらりと見て、
「わかりました。私の部屋へ来てください」
 と言い、パトリーを図書館の奥へ案内する。
 パトリーは今までの苦労や重く背負ったものが、ようやく背からおりてゆくのを感じて。ほほがゆるんで、目頭が熱くなる。
 感無量の、心持だった。
 パトリーは力強く、ハッサンの後をついていく。事故でぽっかりと開いた穴から、オレンジ色が大きく差し込んでいた。




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