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第13話 雪だるま(1)
ぐちゃぐちゃとしていて、整理がつかない。頭の中は台風が過ぎ去ったかのように散乱していた。けれども、それをどうにかする気力はノアにはなかった。
ベッドに横になって、ノアは眠れもせずに、そしてただ考えるだけだった。
パトリーの、裏切りのことを。
いや、彼女にとっては裏切りでもなく、ただ正直だったのだろう。
けれどもノアはそう思った。
彼にとって『皇子』というものは、身分の一つのことであり、自分であり、……そして一種の禁句だ。
皇子ゆえの苦しみばかりが、ノアには降り積もっていた。そうだとノアは思い込んでいた。
「パトリーのことなんか、もう知らない」
こうなれば、シュベルク国本国の指示通り、この『入り口』にいよう。
パトリーは喜んでセラへと向かうだろうが、そんなこと、もう知ったことではない。勝手に婚約破棄でも何でもすればいい。
どうせすぐに他の人との結婚が持ち上がる。
しかし……そして今度の婚約者も「皇子だから結婚したくない」なんて言い出したら……?
ノアは顔を上げた。
急速に怖くなった。足元からずるずると音をさせて、恐怖が忍び寄ってきた。
それの繰り返し……どこまでも、『皇子』である限り、誰もが否定したら……?
皇子、皇子、皇子。
その鎧は頑強過ぎて、中身は何も見せやしない。
そうして、俺は、一生、飼い殺されるのか。誰も中身は見てくれずに。
兄は二人いて健康で、皇太子の座も、皇帝の座もめぐっては来ないだろう。ほしいとも思わない。姿の見えない『母国』の言葉どおりに動き、意志のない言葉を口から吐き出す。そしていつの間にか、どこか辺境の領地を与えられて、全て縛り付けられた人生を終えるのだ。誰にも忘れられて。
ただ問題を起こさずに、目立たずに。昔から言われていた言葉だ。
皇帝の座に近い兄たちを刺激させずに、そして皇子という身分を自覚し、他人の前では気を抜かずに。
皇子といわれながら、すべきことは何もなかった。皇子として行ってはならない、と言われたものはたくさんあるが、皇子として、しなければならないことはなかった。
結婚以外は――。
よく考えれば、自分と結婚したい人間は、身分を上げたいだとか名誉がほしい、という欲望を持たずしてはありえないだろう。もしくはよく知らずに『皇子』という名だけに惹かれるか。実際、大学も卒業し、結婚もしてしまえば、父たる皇帝や兄である皇太子に気を遣って、宮廷の片隅で目立たずに生きてゆくほかない。いつか領地を得るだろうが、母の身分・出自を考えれば、あまりいいところは得られない。そういうみじめな皇子の横にいたい人間は、考えれば、そんなにいないのではないか。
パトリーがあそこまで嫌がるのも、賢かったわけだ。
ノアの思考は鬱々としてゆく。
いっそ問題を起こして身分を剥奪されようか――。
「殿下」
気がつくと、扉の前にイライザがいた。この宿屋はイライザがとったものだった。逃げてきたノアにイライザは追いつき、そしてこの宿屋をとった。パトリーは……知らない。
「なあ、イライザ。いっそのことさ……皇子をやめようかな……」
悲しげな笑みを口元に浮かべるノア。だが、イライザは即座に言った。
「いけません。そのようなこと……。たとえ冗談でも口に出してはいけません」
「……本気でも?」
「本気なら、なおさらです。……やめて、どうするのですか。ご生母さまはどうなるか、お考えになられましたか」
ノアの母は、亡国レーヴェンディアの貴族だった。滅ぶ前に亡命してきて、皇帝の目にとまった。そしてノアを産んだが、夫人としての地位は低く、7人いる妃の中で第5夫人だ。それには亡国レーヴェンディアとその土地に新たに生まれたハリヤ国との外交的な問題もあった。つまり、今は亡きレーヴェンディアの亡命貴族の地位をシュベルク国で高くすると、今あるハリヤ国にいい感情をもたれない、ということなのだ。だから皇子を産んでも、皇女を産んだ妃よりも身分が低く、現在宮廷でも肩身狭い暮らしをしている。
唯一の頼みの綱が、皇子を産んだ、ということのみで、その皇子が問題を起こせばどうなるか……。
「それに、殿下に期待をしている私たちのことを、お考えになられましたか」
ノアは髪を整えながら、自虐的な笑みを浮かべた。
「最近イライザは、俺にくってかかるな」
「……今の殿下には、ただおとなしく聞くよりも、言うべきときには反論も言うほうがいいと思いまして。……今私が言ったことはすべて、わかってらしたのでしょう? それに目をつぶりたかったのでしょうけれども、殿下、大人におなりください」
最後の言葉は、今のことだけを指しているとは思えなかった。
「ああ……冗談だよ。ただ、一度気持ちを一気にぶちまけてしまうと、何となく……割り切れなくなっただけだよ」
割り切ることはできずに、苦しむばかりだ。
皇子、皇子。八方ふさがりだ。
身分ではなく中身を見てもらいたいと思いつつも、その身分を捨てることはできない。
『身分だとか家ではなく、あたしの中身を』
パトリーの言葉が、ふいに思い出された。
ノアの思考は一時停止した。次いで、パトリーへの怒りの波が押し寄せてきた。
「うそつきだ」
小さく口の中でつぶやいた。
身分を見ているじゃないか。それだけで否定したじゃないか。皇子だからって、結婚したくないんだろう……? 顔も知らず、会ったこともなくて、中身でない部分で否定したのだろう? 傷を負ってさえ、厭わしいと思うことだったのだろう……?
怒りの後に来るのは、静寂な悲しさだった。
「……嘘吐きだ……」
もう一度、つぶやいた。
嘘であって、ほしくなかった。望みが同じであれば、嘘でなければ、代わりに本当に眼を失ったとしても、笑うことはできたのに。
何という、諦めの悪さだ。
どうして、諦められないんだ。どうして、忘れられないんだ。
どうして、こんなに苦しいんだ……。
「殿下……外を、ご覧ください」
イライザの言葉に素直にノアは窓の外を見た。
もう夜も遅く、漆黒の、曇り空。そこは2階で、すぐそこには暗い海が見える。
視線を近くまで戻し、すぐ下を見ると、
ノアは息を詰まらせた。
パトリーが立っていた。白い息を吐いて、再び包帯とスカーフを巻いて、立っていた。
「どういうことだ、イライザ」
後ろからイライザは懸命に言う。
「殿下、パトリーさんとお話しください。パトリーさんから、あの後詳しい事情は聞きました。殿下、一度きちんと、今度は逃げずにお聞きください」
「いい!」
ノアは窓から離れた。窓のほうを向きながら、体を固くしている。
「もう、いいんだよ!」
「殿下」
「知る必要もないよ。……どこまで、どこまで強さを求めるんだよ、イライザは」
ノアはきつくカーテンを握り締める。少しうつむいたイライザは、一言だけ言って部屋を出て行った。
「大人におなりください、殿下」
閉められた扉の音が、やけに大きく響いた。
ノアは再びベッドに寝転がった。
だが外で立っていたパトリーの姿が脳裏から離れず、眠ろうとしても眠れない。
怒りをわざわざ思い出して忘れてしまおうとしても、できなかった。外にパトリーがいる、と思うと落ち着かなかった。
――しばらく無視していれば、自分の宿屋に帰る。
そう自分の心に言い聞かせた。
だが、ちらちらと窓を見てしまう。
窓には、また雪がちらつき始めていた。窓から見える風景は、一枚の絵のようだった。暗い空、レンガ造りの家の屋根、それらすべてを隠してゆく、雪。
――寒くは、ないだろうか。
思ったと同時に頭を振り払う。
――そんな心配しなくていいんだ。寒くなれば、帰るさ。逆にいいじゃないか、それで。
意識はふらふらとあっちへ行ったりこっちへ来たり、を繰り返す。
窓を見るのをとめられなかった。外に見える屋根に雪がいくばかりか積もっただけの時間が流れたとき。
ノアは何かに耐え切れなくなって、窓の傍まで来た。
あと一歩、というところでとまり、ノアは考える。
――もう、さすがに帰っているだろう。誰もいない光景を見れば、俺は吹っ切れる。吹っ切れる、はずだ。いや、吹っ切るんだ。いつまでもうだうだと、こんなことでは、だめだ。もう、箱の奥にしまいこもう。忘れてしまえ。
ノアはどうしてだか緊張しつつも、一歩を踏み出した。
雪が、赤い鮮やかなレンガの路を覆いつくしていた。上から見ただけではどれほどの厚さがあるのかはわからないが。
そこに、パトリーはいた。
思わずノアの顔がこわばった。氷で固まったかのように。それでも、心のどこかで安堵していた。あったのは嫌悪ではなく、心震わすもの。
ノアからは後ろを向いて、座り込んで。髪も、服も、白いマーブル模様になっている。
パトリーは後ろを向いたまま動かない。頭と背中が見えるだけ。
首をひねっていたが、しばらくしてノアの顔は青ざめた。
――まさか、凍死して……? この寒さ、この雪の中、ずっと外にいて……。
部屋を出た。夜中、走って急いでパトリーの元へ駆けた。
「パトリー!」
すると、簡単にパトリーは振り返った。
「なあに?」
ノアはあっけにとられた。
顔は真っ赤だが、にこにこ笑っている。
最悪の状態を想定していたノアは、拍子抜けして、その場で座り込む。へなへなと片膝をついたノアに、パトリーはまた笑った。
「なあに、どうしたのよ」
くすくすと笑いながら、パトリーは、「濡れるわよ」と手を引き、ノアを立たせた。
パトリーの手は、とても冷たかった。思わずノアは強くつかむ。冷たさのせいで、赤くもなっていた。パトリーはノアがそれを尋ねる前に質問を察知して、
「冷たいのはね、雪だるまを作っていたからなの」
と答えた。見ると、後ろには小さな雪だるまがあった。
「……もしかして、ここでずっと雪だるまを作ってたのか? こんな夜中に?」
「ええそうよ」
平然と答えるパトリーに、あきれを通り越して、ノアに笑いがこみ上げてきた。
ひとしきり笑うと、あたたかな沈黙が訪れた。緊迫していない、奇妙な沈黙が。
ノアはパトリーの言葉を待った。こうなれば覚悟を決めるしかないと、観念した。つらい言葉も、きちんと、今度こそ逃げずに。
だけど、待っていたのは。
「ありがとう」
そんな、言葉。
パトリーは優しく手を握り締めた。まだ冷たい、小さな右手で。
振り払うことはできたけれど、動かなかった。
パトリーは……静かに微笑んでいたのだ。
「ありがとう、って、言いたかったの」
じんわりと、しだいにパトリーの手も温かくなってくる。
「眼のこと、あんなに心配して、必死になってくれて。きちんと、お礼を言いたかったの」
ノアは虚をつかれた。
「いや……そうではなく……その……」
ノアは、うまく言葉にできなかった。まっすぐ見ることも難しかった。あれほど、八つ当たりで言葉をぶちまけたのだ。それを具体的な言葉にして問うことをためらわれた。
パトリーはそれでも、しどろもどろな言葉で理解を得て、うなずいた。
「あたしの、結婚のことね?」
パトリーの目も真剣さを帯びる。
「あれだけ怒っていたから、顔合わせられないかもと思っていたけど、言わなくてはいけないことがある。ノア、ひとつだけ誤解があるのよ」
ノアは少しだけ首をかしげた。
「ノアは、あたしが『相手が皇子だから』結婚を断った、って誤解したでしょう? それは違うの。あたしは相手が皇帝陛下でも断ったし、他の誰かの名を言われても、断っていたわ」
自らのコンプレックスのせいか、そう思い込んでいたノアは少し混乱した。
――皇子だからではない?
「あたしはね、身分や家で、判断はしないわよ」
念を押すようなパトリーの口調に、ノアの混乱は深まった。
『身分や家ではなく』……それは、本当だったと? そんな馬鹿な話……。よく、わからない……。
「……どういうことなんだ? 『皇子だから』じゃないなら、相手も見ずに、どうしてそこまで断るんだ?」
ひとつの可能性を考えた。……もしかしたら、好きな男でもいるのか……。
「それは簡単よ。あたしが、結婚したくないからよ」
ノアは再び首をかしげた。
「結婚したくない? どうして?」
パトリーの目が少しだけ揺らいだ。ノアはいい意味でも悪い意味でも子供のようなところがあった。だから、簡単に尋ねられた。
「ちょっとだけ、長い話になるわ――」
パトリーは雪だるまの前に、ちょこんと座る。
雪がまた、ちらつき始めた。雪だるまにも、ノアにも、パトリーにも、白いそれは降りかかっていく。
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