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 第12話 覚悟と、失望と。(3)


  「パトリー……? 何を……冗談……冗談だよな……?」
 ノアの声には、明らかに動揺があった。
 パトリーの決断は到底信じられるものではなく、本気で冗談であることを願った。
 けれどもパトリーは何も言わず、するすると右目の包帯を取ってゆく。取り終わったとき、パトリーは顔を真正面からノアに向けた。ノアにとって、初めて見るパトリーの、スカーフも包帯も巻かれていない顔だった。思った以上に、整っている顔だった。
 パトリーの右目は、正確には右目のまぶたは、傷は残っているものの血は流れておらず、ふさがりかけている。
 双眸は真摯に、ノアを見つめ。紫の瞳はにごることもなく、澄んだままで。
 パトリーは何も言わずに、ノアを見つめるだけだった。
「パトリー、なあ、嘘だろ」
 彼女は首を横に振る。
 パトリーが言うのは、小さな、けれどもしっかりとした言葉だった。
「最後に、両目で、ノアの顔を、イライザの顔を見れてよかったわ」
「嘘だろ、なあ……!」
 ノアはパトリーの肩をつかんだ。
「言っている意味が、わかってないだろ? 眼なんて、取ってしまえば、もう元に戻ることもできないんだぞ。もう二度と! もうすぐ、まぶたも治って、完治して、両目で見られるところじゃないか」
「ノア。あたしは、この旅の始めに、あきらめないと誓った。安全でなくても、ボートに乗って、この中央大陸に来たのよ。もう――あと、もうあと少しのところなのよ。暴動に巻き込まれて、この右眼と左腕の怪我をしたとき。簡単にあきらめていいことなら、あたしは無理をせずに、そこで治療を受けるためにとどまっていた。でも、絶対に成し遂げるべきことだから、あたしは旅をしてきたのよ。ノア。あなたは優しい。でも、人には、犠牲にしてでもやりたいこと、というものは絶対にあるはずなのよ」
 ノアは聞き分けのない子供のように首を振る。
「わからない、わからないよ、パトリー」
 パトリーはそれ以上何も言わず、焼き付けるようにノアの空色の瞳を見つめ、そしてイライザの顔もしばらく見つめた。
「イライザ、ノアを押さえていてね」
 パトリーは後ろを向いて、エディへと挑みかかるような視線を向けた。
「さあ、エディ。もういいわ。あなたに、この右眼をあげるわ」
「そうか。嫌ならいつでも言いな。途中でも止めてやるぜ」
 エディは短剣を引き抜いた。
 パトリーはエディの部下に後ろから手を押さえ込まれた。
「暴れられると困るんでね。だが、嫌だ、と言えばすぐにやめてやるから、安心しな」
「そんなことは言わないわ」
 エディはパトリーの右眼のまぶたを、く、と強く押さえた。眼球は前に出て、傷のあるまぶたを押さえつけたせいか、傷口が開いた。血が流れ出し、目が赤く染まる。
 パトリーの右側の視界は、赤くなった。
「いくぜ」
 エディは短剣を右目に近づけた。
 パトリーにとって、恐怖であることは間違いない。それでも歯を食いしばり、目を背けることもできずに、短刀の先を見るしかない。
「やめろ!」
 ノアは叫んで止めに入ろうとするが、イライザが押しとどめた。
「イライザ、どけ!」
「どきません」
「……?! 逆らうのか」
「はい。ノア様を通すわけにはいきません」
「忠誠を誓ったのではなかったのか!」
 イライザは一瞬躊躇した。しかし、気を取り直す。
「誓いました。ですがノア様、あなたは今、混乱しておられます」
「混乱もするよ! おい! やめるんだ! 代わりに俺が眼をやる! だからやめろ!」
 イライザの目が見開かれた。
「イライザ! どけ!」
「……ますますどくわけにはいきません。私はノア様に忠誠を誓っております。何より重視すべきは、ノア様の安全。眼を渡す? そんなこと、させられません!」
「イライザ!」
 ノアは言った直後気づいた。イライザの目には、鋭い何かが宿っていた。頑強な、何者も彼女の決意を変えられないような、強い、力を。それはそのまま、気迫となってノアに感じられる。
 それを見たノアは、言葉を失った。
「……どうやらそちらさんは話がついたようだし、さっさとケリをつけようじゃないか」
 ノアはイライザに気を取られて、一歩出遅れた。
 エディはそのまま、短剣を振り下ろしたのだ。
 手を出す暇も言葉ひとつを出す暇もなく――
 パトリーの赤い視界に、短剣の刃が大きく広がった。恐怖が顔をゆがませる。
 声のない悲鳴が空気を震わせ――
 
 ――時間が止まったかのように感じたのは、パトリーだったのか、ノアだったのか。 
 軽い、音がした。
 誰の悲鳴でもなく、
 血の吹き出る音でもない。
 それは、エディの短剣の音。
「……え?」
 パトリーは、目の前のことに、驚きをその一言でしか言えない。
 エディの手には、短剣があって。
 パトリーの目は、右側は赤い視界のままで。
 ――確かに短剣を振り下ろされたのだ。
 押さえつけていたエディの部下が離れた。パトリーは自分の手で恐る恐る右眼に触れる。
 ある。
 確かに、ある。
「――え?」
 顔を上げると、にやにやした顔のエディが、そこにいた。
「眼の移植なんて、できるわけがないだろ」
 パトリーはぽかん、として口をあけたまま、まぬけな顔でいたが、だんだんと事態を飲み込めてきた。
「エディ……あなた、だましたのね!?」
 エディが短剣の先を押すと、柄の中へ収納される。おもちゃの剣である。
「言っただろう? 俺はお優しい人間だと。本気で行きたいのか、その『覚悟』を知りたかっただけさ」
「お! お前なあ!」
 ノアもこぶしを震わせていた。
「お医者様の卵サマ。お前の言うことは正しいぜ。いかに科学革命の時代といえど、今は移植なんてできるわけがないだろうよ」
 二人の怒りの矛先がエディに向けられようとすると、それを察知したのか、
「おいおい、こちとら、大サービスで、からかって楽しむだけでセラまで行かせてやろうというんだぜ? 喜ばれこそすれ、怒られるいわれはないぞ? それとも、他に、それ相応のものを請求してもいいのかな?」
 パトリーは言ってやろうとした罵詈雑言を飲み込んだ。
「お、お前! ほんと、悪趣味!」
 ノアは一言だけ、そう言った。
「あいにくと、お優しいが意地悪でもあってね。さて、セラへ行く船のことだが、整備や準備で時間がかかる。明日の夜明け前出航するから、そのときまた、ここに来な」
「セラへは間に合うのね?」
 エディはにっこり笑う。
「俺は『隻眼の海運王』だぜ?」


 もう、完全に夜になっていた。
 小船で『入り口』に到着して、イライザがまず先に降りた。次にノアが降りて、パトリーはノアに手を取ってもらって、降りた。
「ありがとう」
 そう言ってパトリーがノアの顔を見ると、ノアは怒っているような顔をしていた。
「……なあに、ノア」
「……パトリーは何故あんなことまでしたんだ」
 雪がちらつく。
 あたりは真っ暗で、喧騒も今はなく、曇り空で。月もぼんやりとして。小船がいくつも岸につけられていた。
「冗談だったからよかったものの、本当に眼がとられていたら、どうするつもりだったんだ!」
 パトリーは、優しいなあ、と思う。彼の怒りは、結局は人への優しさに由来する。彼は知り合ったばかりの他人ですら優しくあれる。こういう人間を見ると、ときおり胸が痛む。
 あまりにも、自分が自分しか考えていないと、自己嫌悪に陥るから。
「ノア……」
 パトリーに言葉は見つからない。
「なあ、なんでだよ。たかが、箱を届けるだけじゃないか。そのために眼を犠牲にする? 遅くなってもいいじゃないか。そこまでする必要はないだろう?」
 その答えは、たった一つだった。
「必要は、あるのよ」
 ノアが怪訝そうな表情になる。
「あたしが、結婚をしないため、なのよ」
 ノアの表情には次第に驚きが現れ、そしてだんだんと青ざめていった。後ろへ2、3歩、しりごみするかのようにたたらを踏む。息を飲む。
 気を利かせて先を歩こうとしていたイライザまでも振り返った。
 空気が張り詰める。
 パトリーはそこまで驚くことだろうか、と頭の片隅で思いつつ、続ける。
「兄に、ランドリュー皇子と結婚しろ、と、2ヶ月ほど前言われたの。それが嫌で、断るように頼んだら、代わりにあの箱を期限までに運べ、と命令されたの。もし成功したら、結婚は破談になる、って。だから、あきらめるわけにはいかなかったのよ」


 悲しみと、怒りと、そして強い失望が、ノアの胸の中を埋め尽くしていた。
 ああ、そうか。そういうことだったのか。ああ、なるほどね。
「またか……」
「え?」
 ノアは全ての感情を怒りへと変えた。胸の中にどろどろと湧き出る感情のマグマを押さえ込み、怒りへと爆発させた。
「皇子ってだけで、そこまで否定されるわけだ! 好きでそう生まれたわけでもないのに、会ったこともなかったのに、パトリーにそこまで言われなければならないわけだ! すばらしいよね。ええ? それで、皇子に生まれたら幸せだ、とか言われるんだから。皇子だから、って、何をしたっていうんだ。……パトリーにそこまで……そこまで言われなければならないのかよ。眼をやってでも結婚したくないだって……? ひどいよな。そこまで拒否されるほどの、厭われるほどの、何をしたっていうんだ! ああ、皇子ってだけでか! それ一つ、たったそれ一つだけが、他の努力も経験も全てを無にして、否定の道具となるわけか!」
 言わなくてもいいことまでべらべらと口から出た。自然と、顔がゆがんだ。
 悲しみや寂しさ、そして全ての感情を覆いつくす失望を、ノアは無理やり押し込めた。パトリーに非難の言葉を浴びせることでしか、このやりきれなさは、どうしようもなかった。それでも、ノアはすべての喜びや、楽しさが、反転してしまったかのように、世界が冷たく感じた。胸に冷たいものは消えやせず、逆にだんだんと侵食し始める。昔から言葉にはできずにしまいこんでいた、ずっと抱えていたもやもやとしたものも、パトリーへとぶつけるしかなかった。
 ひどく傷ついた顔をしたノアに、その言葉に、パトリーは考えもしなかった『結婚相手の皇子』という存在を自覚した。そして、ノアのあまりの変貌ぶりに瞬きすらできない。こんなノアを見るのは、初めてだった。
「もういい、もういいよ……」
 ノアは走り出した。
「……あ、待って、ノア!」
 パトリーは追いかけたが、追いつくことはできなかった。雪は彼らをさえぎる壁だった。
 辺りは十分に暗くなっていて、ノアは闇の中に消えた。




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