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第10話 未来の妻(2)
物音に、ノアとイライザは思わず木陰に忍ぶ。
パトリーが歩いている。眠っていたはずなのに。ノアは不審に思った。
パトリーは泉のほとりに座り込んで、着ていたコートを脱ぎ始めた。更に上のシャツも。
「わ! え、あ、も、もしかして水浴び!?」
焦るノア。両手で目を覆う。
「殿下……覆った手の隙間から見ようとするのはどうかと……」
ノアはぎくりとして、パトリーが見えない木の裏側まで移動した。
「こ、これでいいだろっ」
「……あえてここで皇子として、とは言いませんが、最低限、大学を卒業した者としての品位は保ってくださいね、殿下」
「…………」
ノアは完全に木の陰に隠れてしまったので、パトリーの様子はわからない。
「いま、パトリーは何やってる?」
「上半身、服を脱ぎ終わったところです。……殿下、見ようとしないでくださいね」
「わかってるよっ!」
「あら……どうやら水浴びではなさそうです。左腕の包帯を巻き直しに来たみたいで……。月明かりに照らされた泉を鏡替わりにしているようですが、どうもうまくいっていないよう……」
イライザは立ち上がった。
「殿下、苦戦しているようですので、手伝ってきます」
「うん。見ないから安心してくれ」
イライザはわざと音をさせてパトリーの前に出た。
「あれ? ……イライザ?」
「パトリーさん、包帯を巻くの苦戦しているようですね。手伝いましょうか」
「うん。それは嬉しいけど……ノア、いないよね?」
パトリーは辺りを見回す。
「ええもちろん。ぐっすりとお休みです」
「なら手伝ってもらおうかしら。片手で包帯を巻くのって、難しいのよね」
ひとまず巻いてあった包帯をしゅるしゅると取ってゆく。
あらわになった左腕を見て、イライザの息をのむ音。パトリーはイライザに言われる前に言う。
「この腕、ひどいものでしょ?」
「……医者に、見せましたか?」
「――ウダナの暴動後、絶対的に医者は足りなかった。そんな中、怪我をした人間が二人いて、子供と大人ならどちらを優先させる? 長年暮らした町の人と通りすがりの外国人と、どちらを優先させる?……それでもあたしはマシな方よ。右目はまぶたが切れただけで眼球は無事だった。まぶたが治れば見えるようになる」
「ですが、この左腕は……」
「動くようになるのか、元のようになるのか、は、わからないわね。やけどに骨折……応急処置もろくにされなかったし」
会話がなくなる。包帯のしゅるしゅる、という音は聞こえているので、二人とも包帯を巻くのに集中しているようだ、とノアは思う。
ばさばさ、と空から羽音が聞こえる。
小さな鳥が、パトリーたちの辺りまで行き、そしてパトリーの右肩にとまる。
「あら、あたしに手紙?」
「片手では難しそうなので、私が開けましょうか」
「たのむわ」
紙のかさかさとした音が響く。
「……ああ、これは貿易会社の支店からのものね。ミラ王国の支店からだわ。――ハリヤ国が、ヴァイア=ジャハ国に宣戦布告――外国人退去命令に従い、支店にいたものは脱出できた、と。それと、収支関係ね。こちらでもちょっと計算しなければいけないわ……。今夜も寝るのが遅くなりそう……」
「昨日も夜遅くまで何かしてましたよね?」
「ええ。昨日はこのエリバルガ国の支店のことでね。この革命騒ぎのおかげで、やることが多くなって。必然的にこの国での商業活動はほとんどできなくなったし」
「……貴族、でしたよね?」
パトリーは笑う。
「ええ、そうよ。ただね、世界的貿易商人になることが夢の。2,3年前からやって、中央大陸の西側では、いくつか支店を置かせてもらっているわ。もし、ノアやイライザが、ガリヤラカや真珠、その他各地の民族衣装など、ほしくなったら、『パトリー貿易会社』をごひいきにしてちょうだい。知り合いってことで、お安くするわよ」
「…………」
唯一見える左目をつぶってみせるパトリー。完全に商人のセリフである。
「貴族、でしたよね?」
もう一度確かめるようにイライザが言う。パトリーが再び笑った。
「これでもシュベルク国で、名前はよく知られている方よ。ダンスを習わず貿易業に熱を上げている変人娘、って。他にもよくない噂もあると思うけれど」
もしこのパトリーが『クラレンス家のパトリー嬢』であり、『ノアの婚約者』であるなら、肖像画を見せたときにでもそんな噂、ウィンストン卿は話してくれるはずだが、とノアは不審に思う。
しかし、少し考えると、ノアは首を横に振る。……いや、話さない。
信頼しているイライザであろうとも話さないだろう。もうすぐ結婚する相手の悪い噂を、故意になんて。
「ノアやイライザは、どこの人なの? やっぱりエリバルガ国の?」
「いえ……そう、ではなく……ノア様はこのエリバルガ国に遊学に来ているだけで……」
素性を明らかにしない、と決めた以上、あまりうかつなことは話せず、イライザはしどろもどろだ。
運よくパトリーはそこへは踏み込まなかった。
「遊学? つまり、最先端の教育を受けに来た、ってこと? いいわね、とっても。大学?」
「ええ。ノア様は、このたびめでたく医学部をご卒業なさいまして……」
「医学部卒業! すごいわね! ノアはお医者様になるつもりなの?」
イライザは答えない。
ノアにはそんなつもりはない。皇族が医者になって、誰が受診されに来るというのだ、とノアはかつて、皮肉げに言っていた。
大学の学部には、主に神学・法学・医学が三本柱になっている。神学は、エリバルガ国の神様とノアの神様は違うので、まっさきに除外。もし暗殺者に襲われても少しくらい自力で治せるだろう、と医学部を選んだはいいものの、実際慌てふためいていたのは、馬車が襲われたときを見ればわかる。
卒業すればシュベルク国に帰国して、皇族としての仕事を果たさなければならないと考えれば、ノアの医学に対する熱意はそれほどないのも当たり前だろうか。法学部を選んでいても、同じであっただろう。
「さあ……ノア様がどうなさるかは、私には……」
ノアの心中を知るイライザとしては、苦しくともとぼけるしかない。
「そうなの。ああ、そうだ。あたしの名前はね、パトリー=クラレンスっていうの」
ノアは息をのんだ。
思わず木の影から出て、ノアはパトリーの前に顔を出したくなった。幹に手をついて、そこでだめだ、と、とどまる。
息をのんで、しばらく言葉が出ないのはイライザもだったようだ。
「……な、何を、急に……名前を、明かして……」
クラレンスは、ノアの婚約者『パトリー嬢』の名字。
彼女は、まさか。
ノアは幹についた手を離せずにいた。顔も、出せずに。
パトリーは再び服を着る。
「うん? 知りたそうだったじゃないの。もう一度言うわよ。あたしの名前は、パトリー=クラレンス。クラレンス家の六番目の娘よ」
イライザには言葉がない。
ノアは単純で。驚き、そして現状把握をしようと必死になっていて。
ど、どういうことだ? これは……か、彼女は……?
「……私達の正式な名を明らかにしてから、言うのではなかったのですか?」
腹を探るようにイライザは言う。
「そもそもそれほど隠す話でもないのよ。どうやらそちらは話せないような事情があるようで、にも関わらずこちらの素性を確かめようとしてたわよね。少しだけでもね、一緒に旅するなら、信用した相手としたほうがいいでしょう? イライザも、ノアも。名前ぐらいで信用されようとは思わないけど、知りたがっていたようだし」
ノアは浮かしかけた腰を、ずるずると下ろす。
素性を言わないようにしていることも、知られていたとは。彼女は思った以上にこちらのことを知ろうと、よく見ていたらしい。
冷たい空気が、彼らの間を通り過ぎた。
その風と同じくらいに冷たい表情がイライザの顔にある。彼女はノアよりも厳しい見方をしていた。まるで誘拐犯に言うかのように、剣を向けて対峙しているかのように、イライザが緊張をはらんだ声音で言った。
「……なにが、望みですか?」
「なによ、それ。言いたくないことを話せ、なんて言わないわ。ただね、信用するにせよ何にせよ、見るんだったら身分だとか家だとかではなく、あたしの中身を見てちょうだい」
ノアの頭に、先ほど自分が考えたことが、ろうそくの灯りのようにぼんやりと思い出された。
皇子なんて身分ではなく……
ノアは、夜空を見上げる。月は漆黒の空に映え、星は瞬き。
皇子なんて身分ではなく、中身を……
『身分だとか家だとかではなく、あたしの中身を』
それは、望み。自分と同じ、望み。
ノアは……『皇子』という身分が嫌いだ。大嫌いだ。でも、どうしてもその身分は取り外せない。友達だと思っていた人が、『皇子』だと知った瞬間、顔を地面にこすりつけるほどに卑屈になり、ひれ伏す。それを見る苦みを、知りもしないだろう。何度も飲み込んだ苦味が、たまらなく厭わしい。『皇子』に生まれてあなたは幸せだ、と押し付けられた方は、とてつもなくさびしい気持ちになる。
彼女が自分の全てを理解しているとは思えない。でも、自分が願っていたことと、同じことを言った。それだけで、嬉しいなんて、思いもよらなかった。出ていって、パトリーを抱きしめたくなるくらい嬉しいなんて、思ってもみなかった。
はじめて、だった。傍にいたイライザでも与えてくれない。でも、パトリーはくれた。
自分と明るい夜。月の光が砂のような粒となって、降り注いでいる感覚。
「――寒月ね」
同じように、パトリーも月を見上げているのだろうか。白く、澄んだ空気に映える月を。
ノアは、彼女こそが婚約者だと思った。
クラレンス家の娘と名乗ったなんて、それこそ今の彼にはどうでもいい。
『身分だとか家だとかではなく』
そうであってほしい、と願ったゆえの、確信。胸の中にともる、小さな温かさ。
ノアは手をぎゅっと組み合わせ、白い息を吐く。そして、目を閉じた。
「シュテファン様」
シルビアは椅子に座る夫へ向けて、まっすぐに目を向けた。
「パトリーさんのこと、どうなさるおつもりですか? 義父様から聞きました。賭けをなさっていると。パトリーさんが、グランディア皇国のセラに、期限どおりにたどりついたら、結婚はなしにする――」
ぐらり、と揺れた。倒れそうになる妻を、座っていたシュテファンは支える。
「気をつけろ。船は揺れる」
そこはクラレンス家の所有する大型帆船の中。シュベルク国から、グランディア皇国に向けての船路。
「――失礼しました。ですが、皇家にも打診した今、なかったことになど……」
「簡単だ。パトリーが賭けに負ければいい」
亜麻色の髪を後ろへすきやり、シュテファンは父からの困惑の手紙を読んでいた。内容は、今、妻のシルビアが話していることと大差ない。
「パトリーには人をつけさせている。南のハリヤ国からの旅路を、ずっと。グランディア皇国のセラへ行くには、最短距離として必ず、千鳥湾の『入り口』を抜けなければならない。そこを私兵に押さえさせた。『入り口』の領主の許可も取り、検問を一定期間作った。必ず、その検問にパトリーはひっかかる。腕ずくでも期限まで捕らえておけば、賭けは楽に勝つ」
シルビアはそのあんまりな計画に、義妹のことを思った。
「……シュテファン様。それは、パトリーさんが知れば……」
「知ったらどうだと? 手を出したらいけない、なんてルールはない。手をこまねいて待つ、など、愚か者のすることだ。賭けは負けるわけにはいかない。――クラレンス家のためにも、……パトリーのためにも」
再び大きく揺れる。シルビアは今度こそソファの縁につかまり、倒れこむことはなかった。
「――お前も、そう思うだろう?」
滅多にない、人へ同意を確かめるシュテファン。
月が映る海を背景に立つシルビア。彼女は眼を伏せていた。
彼女は、パトリーのことを知っていた。貿易商人になりたい、とあちこちを駆け回り、学ぶために努力していた彼女を。こんな家というものに強制された結婚を、嫌がるということもわかっていた。それでなくとも結婚自体を嫌がっていることも。
ここで、パトリーさんの好きなようにさせるべきだ、自由にさせるべきだと言えば――
もしかしたら、シュテファンは少しでも考えを変えるかもしれない……
だが……
シルビアは伏せていた目をしっかりと開ける。
だが、彼女もまた、政略結婚の末シュテファンと結婚した女なのだ――
駆け落ちして飛び出した貴族の男も女も知っている。そうして庶民の生活で、ひどい苦労をして、選択を後悔した人も。そうして絶望して、泣きついて帰ってきた人も……。
自由なんてあまりに甘い言葉。生きるということは、甘いものではない。何かを我慢して、何かを犠牲にして、そして衣食住に満足できる生活を手に入れられる。シルビアはそう考えるから、シュテファンと政略結婚をした女なのだ。
シルビアはゆっくりとうなずいた。
「……ええ。パトリーさんにとって、それが一番です。皇子との結婚、そして女として限りなく高い場所まで上りつめることは。貿易商人になる、なんてあまりに現実的でない夢よりも、はるかに。夢破れて傷つくくらいなら、心を鬼にして、今、私達は手を下さなければいけませんのね。パトリーさんは、私にとって、義妹。――幸せになってもらいたいのは、私も同じです、シュテファン様」
シルビアは、そういう形で義妹を心にかける女であった。
ちらりとシュテファンは妻の顔を見た。
そして、ふん、と目の前の書類に再び目を戻し、
「パトリーの幸せ? そんなものはクラレンス家にとって、何の意味もないことだ」
と吐き捨てる。
シルビアはこっそり、あきれともあきらめともつかぬ、ため息をついた。
月が、煌々と海を、船を照らす。
――着実に、真綿で首を絞められるかのようにゆっくりと、パトリーが何かに絡めとられていくことを、彼女自身、知るよしもなく。
月が、煌々と、全てを照らす……。
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