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第7話 別れのフーガ(2)
出てきたパトリーと交代にオルテスが入っていった。
「今回も私は不要?」
書いたことを伝える役の女がオルテスに尋ねたのは、パトリーがその館の外に出てからだった。
「いや、おれは字が読めないから」
「あら、そうだったのかい。てっきり軍人さんかと思っていたよ」
それには答えずにオルテスはカードの置かれたテーブルの向かいに座った。
ソフィアがどんどんと目を見開いて、驚愕しているのが手に取るようにわかった。
『あなたは誰?』
彼女らしくもなく勢いで字を書いていた。
「あなたは誰か、と尋ねているわ」
「オルテス」
簡潔な言葉にソフィアは再び手早く書いてゆく。
『あなたは、今まで会ってきた人と、違う。発する光が……いえ、漂う空気……なんと言えばいいのか……ちがう人……』
同時に通訳され、ソフィアが書き続けていたのをオルテスは苦笑しつつも手でとめた。
「あんたが有能な占い師だってことはわかったよ。ただ、おれの素性よりも、占いが先だろう」
ソフィアは書くのを一時やめ、新たな紙をめくった。
『失礼しました。では、何を占ってほしいのかを』
「おれの願いが、叶うのかを」
オルテスの翡翠の瞳が美しく輝く。
「ただ、それだけだ。過程やそれ以外のことはどうでもいい。それだけが、知りたい」
ソフィアは一瞬悲しそうな顔をしながら、カードを切って並べ、めくる。
『あなたにチャンスはいつか必ず訪れる。今はそれしか言えません』
占いの館の外で、階段に座ってパトリーは待っていた。
体が影におおわれる。見上げると、浅黒い肌をした男が立っている。身が強張り、箱をしっかりと確かめる。
「あなたが、ソフィアを助けてくれた人、ですか?」
パトリーは眉根を寄せながらも、とりあえず首を前に振る。
「ああ! やっぱりそうでしたか! ああ、本当にありがとうございます!」
その男はパトリーの手をとり、ぶんぶんと頭を下げる。パトリーは思わず立ち上がった。
「あの……誰ですか?」
「ああ、失礼しました。わたし、ソフィアの夫のロタールといいます」
三十代ほどの、金髪の男だった。肌は浅黒く、右の頬に一筋の傷が残っている。
「本当に、あなたにはお礼をいくら言っても感謝のしようがありません、本当にありがとうございます……!」
「そんな。そこまで感謝されるほどのことではありませんって。結局憲兵が来たから逃げていったようなものだし。ソフィアさんの運がよかったんですよ」
こそばゆくなって胸の前で手を振った。
「……確かに、運もよかったのでしょうね。あなたのような人が来てくれたのも、憲兵がきちんときてくれたのも。……最近は騒動があるのが茶飯事となりましたから、当然のようにこんなことが起こり、騒動があっても憲兵が来ないことも多いですからね」
「……やっぱり、治安が安定していないんですね。失礼ながら他国の人のようですが、エリバルガ国は長いのですか? この国のことは詳しそうですが」
ロタールの肌や髪の色は、もっと南の地域の特徴を示していた。パトリーの経験からすると、ハリヤ国やミラ王国の南部あたりの。
ロタールは苦笑して一筋の傷がある頬を掻いた。
「ええ、まあ。かれこれ二十年近く前にこちらに来ましてね」
「それから、ソフィアさんと知り合ったと?」
「いえ。出会ったのは向こう――レーヴェンディア王国、いえ、今はハリヤ国でしたね、そのハリヤ国で出会い、駆け落ちのような形でエリバルガまでやってきたわけです。文字は知っていましたから、何とか小学校の先生の職につくことができましたが、そうでなければ、鉄鋼掘りにでもなっていたのかもしれませんね」
エリバルガ国の特徴は、教育と鉄、鉄鉱石だ。各地に小学校は林立し、大学は中央大陸各地から留学生が集まるほどの最先端かつ高度な教育と聞く。
そして、国全体が山に囲まれているゆえに貿易、人のやり取りは極端に少ないが、その山々からは鉄が多く産出される。
「学校って、子供たちがたくさんの部屋に集まって文字を習ったり、計算をするんですよね。どんな感じなんですか?」
「たくさんの生徒がいますからね、いろいろと苦労はします。けんかもしょっちゅうで騒がしい……でも、今はさびしいものですよ」
「生徒さん、来なくなったんですか?」
ロタールは首肯した。
「今、この国はそれどころではありませんからね。国の財政は大赤字、そして税金の大増税。子供も学ぶ時間があるくらいなら働け、という切羽詰った雰囲気で。おまけに王族、聖職者のケタ違いの浪費生活の末の大赤字だとわかれば、各地でいざこざが起こるのも当然です。小規模な暴動も何度も起こり、ビラが撒かれ、王家への不満を多くの人が演説しているのもよく聞きますよ。憲兵がやってきて、たいてい途中で終わりますが。まだそれでも大規模な暴動はありませんが、もっと大きくなるのではないかと心配です」
パトリーはこの不安定な状況を理解できた。ロタールは続ける。
「あなたも、旅に出るというなら早くこの国を出た方がいいですよ」
「忠告、ありがとうございます。でも、あなたたちは国を出ようと思わないんですか? 特にあなたなんて、この国の人ではないのに」
少しぶしつけかな、と思いながらパトリーは尋ねる。
「ソフィアは、出て行くことなんて考えていませんから。私も、そんなことはありえない」
きっぱりとロタールは言った。
それは反論を寄せ付けず、パトリーはしばらく言葉につまったが、ふ、と笑う。
「……いい、夫婦ですね」
パトリーは複雑そうな顔で、笑っていた。
どこか遠くのことを噂で聞いたかのように、パトリーには現実的に思えなかった。でも、本当だというのなら。本当に『いい夫婦』なら。
コートの中にある箱に触れながら、パトリーは少し勇気を出す。
「一つ、尋ねていいですか。立ち入ったことを」
ロタールはその先を促す。
「どうして、駆け落ちしてまでソフィアさんと共にこのエリバルガまで来たんですか?」
「ソフィアを愛しているからですよ」
ロタールは即答した。
彼は言った直後、顔を横に向けた。横顔は赤く、恥ずかしくなったらしい。
「愛して、いるから?」
なぜかパトリーの声は震えている。自分でも分からない。
「……彼女を、守りたかったからです。国も、家も、誰をも捨てても。若かったからできたことですね」
照れている様子に、パトリーは声を荒げる。
「本当にそれでよかったんですか! 何もかも捨てて? ……結婚が、本当にいいものですか? 本当に、後悔が無かったんですか」
ロタールは思わず口を開いたが、パトリーの顔を見て、そして一度口を閉ざした。
パトリーは手で顔を覆っていた。
いろいろな苦しみを、耐えているようにも見えた。
男物の服を着てその上にコートを着て、でも見えるのは少女の姿にしか見えない。太陽がパトリーの右半身に影を落とす。暗い、影を落とす。左半身が明るく照れば照るほど、影は濃く見える。
顔を少しだけ下に向けて両手で顔を覆う様は、どこか彫像にありそうな姿だった。
ロタールは厳かに言ったそ。
「後悔しましたよ」
パトリーが少し顔を上げる。
正直に言っていると、パトリーは分かった。面目のため、後悔など無い、といくらでも嘘はつけたのに、正直に彼は言っていた。
「故郷で内乱が活発化したと聞いたとき、レーヴェンディア王国という国がなくなったと聞いたとき、弟とも息子とも思っていた人が亡くなったと聞いたとき、今多くの人々が苦しんでいると聞いたとき、私があの国にいれば何かが変わったかもしれない、と後悔しましたよ」
ロタールは力をこめて言っている。言葉は丁寧なのに、感情を爆発させているように感じる。
「それでも! ……それでも、選んだのは自分です。後悔するとわかっていてもここへ来たのは自分です。ソフィアを愛して守りたい、そう思ったのは自分です。……あなたは?」
パトリーは首を振る。
「……っ。あたしは、あたしは! 結婚したくないだけ、それだけなのよ……!」
本当は知っていた。それがどこか論理的に正しくないことを。そしてそれだけではないことを。
「私は結婚して幸せですよ」
ロタールの言葉が胸に突き刺さる。
きっと、その言葉を忘れることはできないだろう。パトリーがこの迷いを解決できない限り。
自分は、何を選ぶ? 何のためにここへ来た?
冷たい風が、ボタンをとめずにおいたコートのすそをさらう。
ロタールは、では、と少しだけ笑って館に入っていった。
しばらくするとオルテスが出てきた。
階段に座り込んだまま、パトリーは体をひねってオルテスを見上げる。逆光でろくに顔は見えない。でも、見上げた。
少し凝ったつくりの厚めの扉を背に立つオルテスは、いつもと同じ表情をしていたような気がする。襟の部分がぴら、とはためく。
「待たせたか?」
パトリーは首を横に振る。
ふ、と笑う。憑き物でも落ちたように、やわらかくパトリーは笑う。パトリーは立ち上がり、そして視線をオルテスにしっかりと向ける。
――守ってもらうだけの女になりたくない。
守ってもらう弱い立場を皮一枚のところで感じながら、決して守る立場に回れない弱さに直視できる強さも無い。そうしたら、去るしかない。彼から去るしかない。
「お別れよ、オルテス」
一段片足だけ降りたオルテスはその後動かなかった。
「ここで、この街で、わかれましょう」
オルテスは目を細めて、上あごに張り付いていた舌を動かす。
「……突然だな」
「あなたも突然だったじゃないの」
「おれはしばらく前から考えていたんだ」
パトリーは階段から降りた。レンガ造りの道をゆっくりと歩き出す。オルテスもついてくる。
「あたしはこのまま最短距離でセラに向かうわ」
「一人で、大丈夫か?」
パトリーは振り向いて、くす、と笑う。
「もともと一人で旅する予定だったのよ。……結婚をしないためにね」
再び風が吹く。強くて、コートだけでなく髪もさらう。
オルテスは自分の髪が邪魔だな、一度切ろうか、と、この場では関係のないことを考えた。
パトリーは言葉を続ける。
「本当はね、いろいろ迷ってる。これが本当にいいのか、正しいのか。オルテスと一緒の方が、きっと安全で、楽しい。でも、あたしは、行かなきゃいけない。ここで安楽な道を進んではいけないと思う。守ってもらうために来たんじゃない。進むために来たの。そのために、あたしはここまで来たんだわ」
オルテスは目を閉じた。そして、開いたとき、
「そうか」
と言った。
どこかさびしいと感じたのは、オルテスの気のせいか。
オルテスとパトリーは握手を交わす。
「また、逢えたらまた、逢いましょう」
オルテスは答えない。
「いままで本当にありがとう。今度逢うときにオルテスが困ったことがあるなら、あたしは全力で助けるわ。約束する」
「そんなことはないだろうな」
さめた口調のオルテスに、パトリーは気が抜けたようなさっぱりとした表情で、「本当にありがとう」と言った。
「一度、手紙を書こう。このルースが運んでくれるはずだ」
「なぜ?」
オルテスにとってそれは予測していない質問だった。
「……なぜって……パトリーが、心配だから……」
言った自分の言葉に、オルテスが驚く。
パトリーはその言葉に胸が熱くなって、ほころんだ華のような笑顔を見せた。
「ありがとう。ありがとう。あたしも、ルースに返事を送らせるわね。オルテスと別れるの、本当にさびしいわ」
「おれもさびしいな」
だから、一緒に行かないか、とオルテスは誘ったのかもしれない。
一歩、一歩、二人は離れる。
「さようなら」
「ああ、さようなら」
二人は別方向に歩き出した。ただ一人、彼らは歩き出す。
いろんなものを振り切って、二人は歩く。
捨てた選択肢、自分で気づかないふりをした感情、そして、相手を。
枯れ木にはいまだ葉は無く、風が吹くとしなって。
オルテスは思わず振り向いた。
パトリーはずんずんと遠くへ進んでいる。まぶしそうに、オルテスは眺めた。
肩にとまったルースも同じように静かに。
王道を行くが如く進んでいたパトリーは止まった。
そして振り返り、目が合う。
距離にしてずいぶんとある。
赤茶色のレンガの上で、二人は見つめあう。
「……オルテスが、ランドリュー皇子だったらよかったわ」
まっすぐオルテスを見て、パトリーはそう言う。美しい目をそらさずに。
オルテスはその言葉の意味を判じかねた。
「なんだ? どういう意味だ。ああ、おれがそうだったら、ここでさっさと結婚断ればいいものな」
パトリーは口を動かさない。肯定も否定もしない。
「だが、世の中そんなに自分に都合のいいことばかりじゃないさ。そんなものに気をとられずに、それでも進むのだろう?」
「ええ、進むわ」
その力強さに、オルテスは滑らかな発音で、
「ザギス ブルシェ」
とよく通る声でそう言った。
パトリーには意味がわからないので首を傾げる。
「古代グランディ語で、幸運を神に祈る、という意味だ」
「ならあたしも。……ザギス ブルシェ!」
太陽の光を受けて輝くばかりだと互いに見えた。そして今度こそ、二人は別方向に向かったのだ。
待ち受けるものにおののきながら、パトリーは自分で自分の腕を握りしめ、一人の寂しさの為かなんなのか、泣きそうになりながら進む。オルテスもどこかで寂しさを感じ、だが進んだ。
彼らは一人、進み始めた。
先に何があるか知らなくとも、進み始めた。
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(2005.10.22)
(2006.11.4.改訂)