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 第6話 白煙は春を呼ばず(2)


   *

 春のことだった。
 島国シュベルク国では、爛漫たる春を迎えていた。
『兄様? シュテファン兄様?』
 迷子になっていたのは幼き日のパトリーだった。
 ろくに館の外に出たことのないパトリーは本来、一族の花見に出席しているはずだった。だが、一族が一堂に会するその席で、人ごみの多さのせいで迷い込んだのだった。
 もともとその場はクラレンス家の花園で、花見のため以外のものもいろいろな花を咲かせる。
 パトリーの目の前にあるのはチューリップ。
 なめらかな花びらは天を向き、豊かな香りを振りまいている。
 それにつられてやってきたが、気がつくと一人、という典型的な迷子の様式である。
 泣きかけのパトリーの傍で、色とりどりのチューリップがやわらかに揺れる。
『兄様ぁ……』
 えんえん、と泣き続ける少女に声をかけるものはいない。それでもパトリーは泣き止まず、それに気づいた一人の女性がパトリーの前にしゃがんだ。
『どうしたの、お嬢ちゃん』
 あやすようにその女性は言った。
 三、四十代の女性。大きなつばの真っ白な帽子をかぶり、そのせいでろくに顔は見えなかった。空色のドレスを着て、しゃがんでふんわりとひろがった。
 帽子にはリボンが結んであり、そのリボンの先が長くて、髪の毛のように風に揺れていた。
『だあれ?』
 パトリーの知らないひとだった。
 知らない人には注意するように、それぐらいのことは乳母に教え込まれていたので、警戒して近寄らない。
 それがあからさまな態度だったので、女性は警戒を解こうとしたのだろう。
『アタシは、親戚のおばちゃんよ。お嬢ちゃんが泣いているのが気になってやってきたの。ねえ、どうしたの? こんなところで泣いて』
 パトリーを気にかける言葉、親戚だという言葉、どれがパトリーの心を解きほぐしたのかは分からなかったが、パトリーは信頼した。
 後に、それは嘘だと判明したが。
『おばちゃん。あの、あのね、迷っちゃったの。いいにおいがしたから来たら、誰も、いなかったの』
『そう、迷子になったのね。わかった。一緒にお父さんとお母さんを探してあげるわ』
 『おばちゃん』は、パトリーの手を引いてゆく。
 帽子についた長いリボンが揺れるのが楽しくて、パトリーはそれを若干後ろ向きになりながら見つつ、歩く。パトリーには幻想的に思えて。
 おそらく、彼女は、人のいる館の入り口か、門へと向かっていたのだろう。
『ありがとう、おばちゃん。でもね、父様はいるけど、母様はいないの』
 『おばちゃん』は少し動揺していた。
『お母様が、いないの?』
『うん。いないんだってー』
『そう……いなくて、さびしい?』
『よくわかんない。知らない人だもん』
 パトリーにとって、それは事実。物心つく前にいなくなった母親は、記憶の片隅にもない。世話は乳母がやってくれる。
 帽子の影が濃く落ちて、小さく動く口元しか見えない。
『……そう。そういうもの、かしらね、アタシの子供たちも……』
『どうしたのー? おばちゃん』
『なんでもないの。そうだ、お嬢ちゃん、お名前を聞いてなかったわ。
 なんて言うの?』
『パトリー!』
 元気良く言ったパトリーに『おばちゃん』の動きが止まった。
『……パトリー? パトリー=クラレンス?』
 彼女の声は震えている。パトリーが再び元気に肯定すると、つぶやき始めた。
『まさか……だって、あんなに小さくて……でも、母親はいないって……。その時点で、気づくべきだったわ……! なんて、鈍いのかしら……!』
『おばちゃん?』
 『おばちゃん』はしゃがんで、おもむろにパトリーを抱きしめた。
『どうしたの、おばちゃん?』
 パトリーが苦しさに押しのけようとするのと、その怒声は同時だった。
『貴様っ! 何をしている!!』
 パトリーが、シュテファンが立っていた。
 当時十四、五のシュテファンは、目のくらむような憎悪をむき出しにして、大股で近寄りながら言葉を続ける。鋭いのは言葉だけでなく、目に宿るものもだ。
『よくも貴様! おめおめと顔が出せたな!』
 パトリーには自分が怒られたと思い、びく、と言葉一つ一つに体を震わせた。
『シュテファン、パトリーがおびえているわ』
『偽善者め。貴様どうするつもりだったのだ? パトリーを誘拐するつもりだったのか。護衛兵! さっさと来い! この女を捕らえろ!』
 後を追ってきた護衛兵は彼女を両脇から挟みこみ、引きずるように連れて行った。
『おばちゃん!』
 叫ぶパトリーの手をシュテファンは掴んだ。パトリーは彼の剣幕に悲鳴をあげそうになる。
『パトリー』
 ほの暗い響きでシュテファンはパトリーに問う。
『あの女と今まで、何度会った?』
『あ、さ、さっき、初めて……』
『なら、もう、あの女と会うな。会おうと思うんじゃない。いいか、もう二度とだ!』
 目が血走ってもおかしくないシュテファンに、パトリーは頷くしかなかった。
 その後、この事件についてクラレンス家で語ることはタブーとなった。父親ですら、息子のシュテファンの怒りのすさまじさにたじろいだのだ。
 ……その『おばちゃん』が自分の母親だったとパトリーが知るのは、ずいぶんと後になってからだった。

   *

「……何故、シュテファンはそんなにも怒り狂っていたんだ?」
 オルテスは冷静に尋ねる。
 パトリーの父はあごを手の上におき、嘆息した。
「私たちの離婚騒動は長引いていてね、貴族同士の離婚なのだからいろいろあった。パトリーが腹の中にいたときより以前から、それは続いていた。ずいぶんと醜いことをしたものだよ、お互いに。それをずっと見続けさせられたのが、シュテファンだ。妻の不倫の現場を見たのが、シュテファンの限界点だったのだろうな。決定的に妻に対して憎むようになった。……私とて、好かれてはいない。クラレンス家当主でなければ、目も合わせることもないだろうな。私たちの離婚の最大の被害者は、シュテファンとパトリーだ」
 パトリーも含まれることに疑問を覚え、オルテスが問うと、パトリーの父は説明した。
「ああ。パトリーは直接には離婚騒動のことは知らない。だが、シュテファンが教え込んだ。あの事件後、シュテファンは徹底的に離婚騒動の詳細をパトリーに説明し、母親に会いたいと思わせないように仕向けたのだよ。私は、長男として末娘の世話を焼いていると思っていたのだが、そんなマインドコントロールがされていると知ったときには、もう、十分にパトリーは知っていた。だからなのだろうな。結婚を嫌がっているのは。最悪な離婚を知ってしまったから」
 そうだろうか、とオルテスは考える。なら、シュテファンは結婚したのに、パトリーはしたくないという違いは何なのだ。確かに一つの理由ではあるだろうが、それだけではない気がした。
「それで、その、元妻はどうなったんだ。捕まったままか?」
「まさか! ただ、シュテファンの怒りがすさまじい以上、そのままで帰すわけにもいかなかった。多少の約束をさせた。シュベルク国から出てゆくこと、もう二度と子供には会わないということ。おまけにシュテファンは元妻の実家にまで圧力をかけ、家から追い出させた。生活に困っているらしくてね、時折私のもとへ金をせびりに来る。離婚したとはいえ元は夫婦。断りきれずに援助しているが、慣れない庶民の生活に性格も外見も変わって、見るたびに切なくなるよ」
 オルテスは軽く腕を組んで壁に背を預け聞いていたが、少し考えるそぶりを見せた。
「……もしかして、その元妻は、明日、ここに来るのか?」
「驚いたな。どうして分かったんだ?そう。また金が足りないらしくてね。君たちとは鉢合わせしなくて良かった。とんだ騒ぎになるからな。対面したところで、お互い気づかないだろうが。ブリジットは、ずいぶんと姿が変わっているから」


 宿に帰ったオルテスはそこで、パトリーが暖炉に薪をくべているところを見た。
 椅子には足にストールを掛けているブリジット。
 パトリーがまず顔を上げて、お帰り、と言う前に、ブリジットが口を尖らせた。
「なんだいあんた、こんな遅くに帰ってきて。信じられないよ、まったく」
 そこまで言われるいわれなどないのでオルテスは一言言おうとしたが、パトリーが、まあまあ、と宥めた。
「ああ、ほら。もっと火を強くして。こう寒くちゃ凍ってしまうよ」
 ブリジットは震えるふりをして、小間使いのようにパトリーに命令した。
 オルテスは上着を脱いで、つるした。
 外は霧が降りていた。白煙のように色は濃く、帰ってくるまでには上着は濡れて。この寒さは、冬のものだ。
 パトリーとオルテスは北に向かって旅をしている。
 島国シュベルク国にいたときはもう、春の始まりといった気候だった。だが、南国ハリヤ国からこのミラ王国まで北上して、季節を追い越してしまったらしい。
 このまま北上すれば、進むごとに寒くなってゆくだろう。今は、冬の終わりといったところ。
 更に北のエリバルガ国へ行ったら、防寒着が確実に必要だ。
 パトリーは暖炉に火かき棒を入れて、火を強くする。
 体が冷たかったので、暖炉の傍に寄った。
「あんた、小腹が空いたからいもを揚げたやつ、買ってきておくれ」
 暖まろうとしたオルテスに、ブリジットが指示を出した。
「…………」
「オルテス!」
 オルテスの立場であればごくごく当然のことを言う前に、パトリーが制止した。そして背を押して、扉へ向かわせる。
「ふん。あんたの旦那は礼儀がなっていないようだね」
「……オルテスは、あたしの夫でも何でもありません」
 一際大きくブリジットは驚いて見せた。
「あんたたち、夫婦でもないのに一緒の部屋に泊まるつもりだったのかい。嘆かわしいよ、最近の若者ときたら!」
 いつもは部屋にしきりを作って泊まっている。二つ部屋を取らないのは部屋代節約のためで、ブリジットが想像するようなことは何もない。
「でもねえ、結婚したところでいいことなんてないからねえ……」
 何かを考えたのか、ブリジットははぜる暖炉を見ながらストールを握りしめた。
「結婚は、いいことなかったですか?」
 パトリーは緊張をはらんだ声音で慎重に問うた。
「するんじゃなかった、って思うほうが多いよ。ろくなものじゃない。今苦労しているのは、だいたいそのせいだしね。そう考えれば、あんたたちが結婚していないっていうのは賢いんだろうね」
 大人が子供に諭すよう。
 パトリーはオルテスの背中を押す手を握りしめた。背中のシャツが引っ張られる感覚でそれをオルテスは分かったが、振り向かない。
 振り向かないのが最良だと分かっていた。
 そしてそのままパトリーはオルテスの隣を通り、扉を開ける。
「……あたしが行ってくるよ」
 と、オルテスの方を向かずに、パトリーは出て行った。
 霧の街へ出て行ったパトリーは、しばらく戻ってこなかった。


 朝は早かった。
 ブリジットは乗合馬車で『金のあて』に会いに行くというので、そこでお別れをした。
 最後までブリジットは横柄な態度を崩さなかったが、最後にようやく、最初に尋ねるべき言葉を言った。
「そういえば、あんたたち、名前はなんていうんだい?」
 オルテスの隣でパトリーが揺れた。
「おれはオルテス」
「ずいぶんと古い名だね。あんたは?」
 ブリジットはパトリーを見る。
「あ、たしは……」
 その日は朝から、霧が出ていた。
 白煙のごとき霧は冷たい。肌寒くて、まだ冬。
 パトリーは、遠き記憶と、遠き春を思い返しているようだった。
 少しだけパトリーは笑って、ささやくように言う。
「……から」
「え?」
「知る必要なんて、ないわ」
「なんだい。せっかくだから聞こうとしているのにさ」
「もう、あの春は来ないもの」
 パトリーは言ってから、軽くばからしいとばかりに笑った。
 周囲が白く埋め尽くされている。でも、隣のパトリーが、悲しそうなどこか遠くに行ってしまいそうな顔でブリジットを見ているのだけは分かる。苦笑しているようにも見えた。
 オルテスは解った。パトリーは全てを夢にするつもりなのだと、わかった。この偶然の出会いも、全て、他人の、偶合として。ブリジットにはなんてことのない、小さなハプニングとして、思ってほしいと。
 ブリジットだけが、わけの分からない顔でいる。
「もう、二度と会うことはないです。だから、あたしの名前なんて知る必要もないわ」
 はっきりと言いながらパトリーは微笑んだ。はかなげに、微笑んだ。
「さようなら……ブリジットさん」
 ブリジットは、最後までわけの分からない顔で、馬車で去っていった。
 馬車は駆け、白いもやの中に消えた。
 それでも二人は見送りの姿そのままで。パトリーはようやく振っていた手を下ろす。
「良かったのか、本当に」
「ええ」
 白煙が、覆う。
「母親だったのだろう?」
 風がふいた。白い、白い霧が一瞬だけ、サクラのように舞い散った。
 一瞬だけ見えた、姿。そんな、一瞬のこと。ただ一瞬の、めぐり合わせ。
「……ええ」
「向こうは気づいてすらいなかった。それでも?」
「だからよ。あたしが何なのか知って、それで、こんなあたしを見て、落胆してほしくなかったの。それに母様はもう二度とあたしたちと会わないと、クラレンス家と約束していたの。名乗ったら約束違反として、母様は父様に会うことすらなくなってしまうかもしれない」
「逃げ、だな」
 パトリーは睨み返さなかった。どこか澄んだ瞳で見つめる。
「そうなのかもね。いえ、そう、なんだわ。結局あたしは……変わることは求めていないから。結婚に後悔しているなら……どちらともが……知らないでいるのが、多分、一番なんだわ。あたしは過去の遺物そのものなのよ」
 オルテスはそれ以上、その決断を問い詰めることはしなかった。それが彼女の人生である。


 パトリーとオルテスは馬車に乗って、再び旅に出た。その馬車の中で、パトリーは淡々と話し始めた。
 昔から、今でも、母親という存在を必要とはそんなに感じなかった。貴族の暮らしは家族のつながりがそんなにないのが原因かもしれない。だがシュテファンから母親の話を聞き、あの『おばちゃん』が母だと知って、母と『おばちゃん』とのギャップを感じ始めた。だから、一度だけでも、話を聞きたかった、と。
「理想どおりとはいかなかったけれどね」
 窓際に首を傾けて、パトリーは苦笑していた。
 ルースは朝早いと、ずっと眠っている。ゆっくりとした時が流れる。
 霧のために馬車はゆっくりと走っている。
「……パトリーが昨夜出て行った後、おれはひとつ、尋ねた」
 オルテスはいつもより柔らかな表情でパトリーに話し始めた。
「あんたは子どもがいるか、いるならどう思っている、大切に思っているか――と」
 馬車が少し揺れる。
「それ、で……?」
 オルテスの短い答えに、パトリーは目を見開いた。
 短い答え。そう、ごくありふれた言葉。そして、当然の。母親なら、当たり前の。
 ぱっちりと目を開いて、口はひらきつつも、十分な時間を置かなければパトリーの声は出なかった。そして腕を震わせて、
「嘘……」
 と両手をせわしなく握る。
 陶器の人形のようにぱっちりと開いた目。強く印象的な。
「おれは嘘をつかない主義だ」
 パトリーはまるで祈りをささげるかのように手を握った。
「だって、結婚、するんじゃなかったって言っていたわ。それに、そんなの……」
 強く、パトリーは手を握った。肩が細かく震えているのが見て分かる。
 もう二度と会うことのない人を思いながら。
 大切な何かを、いとおしんでいるように――
「――母様……」
 それからパトリーがつぶやいたのはそれきり。祈るようにつぶやいた、それきり。
 時はゆっくりと、確実に過ぎてゆく。
 あの女性が、パトリーのことに気づくかどうかわからない。もしかしたら、すっかりと生涯忘れるかもしれない。
 パトリーももう、逢うことはないのかもしれない。
 過去は車輪のようにめぐりつつも、時は決してまわることはない。
 はかなげに、一瞬が過ぎるだけ。馬車もゆっくりと車輪を回し、鮮やかな時はゆっくりと重なる。
 白煙の先に、春はない。待つのは本格的な冬だけ。春は来なくとも、時は過ぎる。
 パトリーの旅の期限が、その日、ちょうどあと1ヶ月になった日のことだった。


「お館様。シュベルク国のシュテファン様より、手紙です」
「シュテファンから?」
 パトリーの父は手紙を受け取り、開く。
 昨日パトリーがやってきたのだから、その前に来ればよかったのに、と思いながら。
 内容を読んでいるうちに、パトリーの父の顔色が変わっていった。
 シュテファンがクラレンス家所有の大型帆船で、中央大陸に久しぶりに渡ってくるという。
 それはいい。
 だが、「日付などは未定ですがパトリーの結婚式を行うので、指定の場所まで来ていただきたい」とは、どういうことだ。
 賭けをしているのではなかったのか。
 それとも、あの冷静な息子には確かな勝算があると――?
 昨日別れた自分の娘の姿と息子を思い返しながら、パトリーの父は眉を寄せた。




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