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 第5話 混濁の街・カデンツァ(3) 


 パトリーが宿に帰ると、部屋の外にルースがいて、肩に乗ってきた。部屋の扉を開けるとすでに暗く、オルテスはベッドの中に入っている。
 心配して待ってくれていることを期待したわけではないが、なにやら拍子抜けだ。怒っていることを覚悟して、気合を入れていたのだが。
 そおっとベッドに寄り、彼の顔を眺めた。寝ていると思って離れたところで声がかかる。
「ずいぶんとお楽しみだったんだな」
 オルテスは壁際を向いたまま、楽しくないような声で言う。
「起きてたの?」
「そりゃあ無作法に顔をじろじろ見られればな」
「………」
 パトリーは恥ずかしくなって、顔を赤くした。
 ひとつ息を吸い、トーンを変え、話題を変換する。
「頬、腫れてない?」
「赤くはなったが、腫れないで元通りになった」
「……痛かった?」
「それほど」
「…………」
「…………」
 会話がなくなった。
 オルテスの背からは不機嫌な感情を滲み出させていた。
 パトリーは目をつぶり、開いたところで勢いよく言う。
「いきなり叩いて、悪かったわ」
 オルテスは壁を向いたまま動かないし、答えない。
「冷静になって考えると、暴力は最低だったと思えてきたわ。本当に悪いと思ってる。ごめんなさい。代わりにあたしの頬を殴ってもいいわ」
 パトリーは片膝をつき、片方の頬を突き出す。
 オルテスはやはり、動かない。
「遠慮しないで。覚悟はできている」
 オルテスは起きて、パトリーに振り向いた。
 右手を大きく上げて、パトリーの頬へと振る。ぎゅっとパトリーは目を閉じた。
 風を感じて、叩かれる瞬間。
 音は、ごく小さな音。弱弱しいもので、軽快な音はならなかった。
 痛くない。
 パトリーは目を開け、オルテスを見た。オルテスは右手を引いて、不機嫌な顔のままはっきりと言う。
「おれがほしいのは謝罪でも贖罪でもなく、なぜ叩いたかの理由だ」
 オルテスは睨みつけるようにパトリーを見る。瞳の翡翠が、落ち着かなくさせる。
「……うまく、言えないけど……。オルテスが羨ましいけど、同時に悔しくなったからだわ」
 リュインはうらやましくない、と言ったけれど、パトリーにとって、羨ましいと感じるものはある。人間は境遇だけではない。人間性や、性格、それに力。持っていない自分を考えると、悔しくもあって。
 自分の心を認めると、少しすっきりしていた。穏やかに、オルテスの前にいることができる。
「よくわからないが」
「あたしも、よく分からない。お金はね、いらないなんて言わない。でも、この旅でいろいろ助けてもらったから、その分の……お給料? みたいな気持ちで、食費やそういうものを請求しなかったの。一緒にいる間なら、払う必要がないわ」
 パトリーは困ったように笑った。
「それを言っておけばよかったわね、先に」
「言っておいてほしかったな」
 オルテスは力なく下を見つめている。
「……? 小切手なら、ここに持っているわよ……?」
「いや、それはもうあげたからいい。おれが持ってたところでな」
「……どうか、したの? 様子がおかしくない?」
「そう見えるか?」
 パトリーは素直に頷く。
 オルテスは、そうか、とつぶやき、パトリーの肩に乗ったルースと目を合わせた。
「パトリーはおれを羨ましいと言ったが、おれもパトリーのことが羨ましくなる時があるな。ときどきだが」
「なあに? 急に」
「言えるときに言っておこうと思って」
 パトリーはそれに対して笑った。何か悟るようなことでもあったの? と。まるで別れの言葉みたいではないか、という言葉は呑み込んだ。それが本当になりそうで。
 オルテスはいつものとおりに、「金を払わなくていいなら食事もこれからは高いものを食べるか」と、ちゃかして、パトリーをほっとさせた。
 しばらく後になって思ったのだが、彼はもう、このときには決めていたのだろう。
 自分の悩みはろくに話さない人だった。勝手に決めて、勝手に実行する人だから。そんなところに、さびしい、と感じるのはおかしいだろうか。
 逆に、らしいな、とも思った。
 このときパトリーも、決意をしていた。
 羨ましがるだけでは、何も産まない。少しでも、少しでも、なりたい自分に、望んだ自分に、近づいてゆくしかない。
 オルテスも、そう考えて、決めたのだろうか、と後に思った。
 二人の進路は微妙にずれ始めていたのだ。

   *

 時間をさかのぼり、カジノで、二人の会話があった。
『どうしたんです? オルテス。カジノでわたくしを待ち伏せて』
『金が入用でな。高官なんだから、持っているだろう?』
『ただで差し上げるほど慈善家ではありませんが。そうそう、考古学学会から、貴方が論文を書けば報酬がある、と言っていましたよ』
『……チッ。あいつらのために論文なんて……』
『楽して金は稼げませんよ』
『そういうリュインは賭け事で簡単になくなるだろうが』
『わたくしの趣味なんですから。世の中に賭け事がなくなれば、わたくしの生きる理由もなくなるくらい大好きで』
『賭け事狂いめ』
 オルテスは、その場で論文を書き始めた。タイトルと、自分の名。オルテス、と。
『ファミリーネームは書きませんか?』
 オルテスは低いテーブルで書き始めていた。だから、自然と見上げるような形でリュインを見て、前に落ちた髪を後ろへ流した。
『あの名は、もう別の人間たちのものだ。ただのオルテスで、通じるだろう』
 リュインは少し苦笑する。
『まあいいです。……現在のわたくしの仕事は、ハリヤ国へ行き、外交関係のことを話し合うことなのですが、あなたへの伝言を言付かっておりまして』
『……誰からだ』
『無論、わたくしの主・皇太子殿下から』
『皇太子……ああ、あいつか』
 オルテスの顔に苦いものが広がった。
『主いわく、あなたの願いをかなえる、と』
 オルテスは体を起こし、リュインを凝視した。
『まさか。おれの願いを、叶える? あいつに、できるはずがないだろう』
 リュインは何も言わずに見つめる。
『何か、方法が見つかったとでも言うのか?』
『グランディア皇国の首都・キリグートへお帰りになることです』
 オルテスは持っていたペンを置き、リュインを見つめる。汗が一筋流れる。
『伝言は以上です。あなたが勝手に出て行ったことも怒っていません。快く、あなたを迎え入れる、と皇太子殿下はおっしゃりました』
『快く? おれがルースのことを忘れたとでも思っているのか? 全部忘れたと思うのか? 確証もない言葉に踊らされ、おれが帰るとでも?』
『あなたは帰るでしょう。どんな小さな希望でも、あなたは追うでしょうね』
『お前はどうなんだ。お前なら、おれの願いを叶えられるのか?』
 リュインはテーブルにあるペンを、手の上でくるくる回す。
『その質問に意味はありませんよ。もうすでにあなたはそれを、信じている。絶対に不可能だ、という言葉よりも、あなたは叶えられるという言葉を信じている。そこでわたくしが本当を言う必要などありません』
『お前は、不老不死の魔法使いだろう』
 オルテスの言葉に苛立ちが混じった。リュインはくるくるとペンを回して、奇術を行うように、華麗な手先の動きを披露する。
『あなたの口からそんな言葉が出るとは。わたくしと会ったとき、あなたが何と言ったか覚えてます? 不老不死なんて嘘だ、と言いましたよね』
『……よく、そんな大昔のことを覚えているな』
 オルテスは大きな驚きが顔に表れたが、次には、打ち消すように首を振った。
『たいていの人間はそうです。自分にないものを持つ人間なんて、信じない。構いませんよ、それで。信じるのは、強い願いが生まれたとき。そして、あなたのためにわたくしがその質問に答え、手を尽くす義務も何もない。あなたの願いを叶えると言ったのはわたくしでなく、皇太子殿下ですよ』
『リュインがあの皇太子に尽くすように、おれがあいつを信じられると思っているのか? 到底、おれの願いが叶えられるとは信じられない』
『信じなくとも、信じざるを得ないでしょう。グランディア皇国へ、首都・キリグートへお帰りなさい』
 オルテスは何も言葉を返さずに、論文を書き上げていった。


 ……パトリーは結婚をしない主義だと言っていたな。
 だが、誰かとの結婚を望んだ人間は、その相手を忘れられないものだ。その相手が死んだのなら、なおさら。記憶は振り切ろうとも、追いかけ、からめとる。ずいぶんと性質が悪いものだ。
 願いも同じ。叶えがたい、願いだとしても。強い願いの前には、現実も理想もない。たとえ歯車に小石が挟まろうとも、回るしかない。混濁した世界を、回るしかない。
 悪いな、パトリー。もうすぐお別れだ。




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