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第五話 混濁の街・カデンツァ(2)
パトリーとオルテスはこの街に泊まることにした。
ハリヤ国からの赤い花・ガリヤラカと真珠をカデンツァ支店へとなんとか移した後。
これからのことや貿易のこと、ハリヤ国のことをミラ王国カデンツァ支店の人間と話し合って決断し、さらに各国の支店の状況を聞いているうちに、長引くなと思って、パトリーはこの街に泊まることを決めた。
……そう、泊まることを決めたのは、まだ日は落ちていないときだった。
そのときオルテスは、この貿易関係の話は興味がないので宿にいる、と言って、支店から出て行った。
なのに、夕方パトリーが宿に帰るとオルテスがいない。いるのは鳥のルースだけ。
何かあったのか、と不安に思いながら、男装の服を下手ながら繕っていた。
日は暮れて、いよいよ心配になって、探しに出ようかと思っていた。
それが。
「あれ、パトリー、帰っていたんだ?」
妙に軽快な声のオルテスが帰ってきた。
「帰ってたんだ、じゃないわよ。……何、お酒飲んできたの?」
「カジノなんだから、飲み物がミルクは格好がつかないだろう」
「カジノ!?」
パトリーはだんだんと腹が立ってきた。
心配して損した。
こちらは一度もこの街で遊んでいないのに、カジノに行ってきた?
むかむかとしてきた。
「へー、首尾はどうだったのよ。どうせすっからかんになったんでしょ。賭け事というのはそういうもので……」
オルテスが紙切れを差し出した。
見ると、小切手だ。しかも大きな金額。
仕事柄、見慣れているおかげで驚きはしなかったものの、戸惑うものは戸惑う。
「遅すぎるだろうが、居候していたときの滞在費、それと今の旅の世話になった食費と宿代。この金額で足りるだろう?」
「……何よそれ」
パトリーの肩が震えた。
「ミラ王国の首都・テベにあるドアラ銀行に持っていけば、その金額が受け取れる」
「分かるわよ! それくらい! 素人じゃないわよっ」
パトリーは大きな音を立てて立ち上がる。
「何を、怒っているんだ?」
その戸惑った声に、パトリーはカッとなる。
オルテスの頬に小気味よい高い音が響く。オルテスの頬が赤く腫れた。パトリーの右手も赤く腫れた。
「信じられない!」
激昂したパトリーは、そのまま部屋を駆け出て行った。
呆然としたのはオルテスだった。
いつもうるさいルースが静かだ。張り詰めたものを感じ取っていたのかもしれない。
「金が好きなんだよな。それで、どうして金を渡して不機嫌になるんだ?」
理解できないオルテス。滞在していたとき、うるさく言っていたのはパトリーだ。
変な疑いを持つのも好ましくないので、こうして一気に清算しようとしたのだが。
ルースは非難するように鳴く。
オルテスはパトリーの去っていったドアを見つめたが、
「まあいいか」
と、二つあるうちの右のベッドに座った。
ルースはまた、非難がましい声で鳴く。
「そんなに追いかけてほしいなら、お前が追いかければいいだろう」
と、オルテスは窓を開けて、ルースを外に放す。
突然の空に戸惑いつつも、ルースはオルテスに向けて、声をあげる。追いかけないオルテスに非難を向けているようだ。
オルテスはうるさいな、とでも思いながら再びベッドに座り、額を押さえていた。
長い藍色の髪が落ちる。翡翠色の瞳は、ゆらめく。
つい先ほどのことを、言われた言葉を思い出す。
『あなたの望みをかなえる、と』
『グランディア皇国の首都・キリグートへ、お帰りになることです』
ろくに酒の味も分からなかった。
……頭が痛いのは、酒のせいではない。
「さて、どうしたものか」
呟かずとも、答えは決まっていた。
それでも、何かが気にかかる。油の差された歯車の中に挟まれた、小石のように。うまく歯車が回らない気がした。
こくり、とパトリーはホットミルクを飲んでいた。
「フツーのお嬢さんが、こんなところにいるなんてね」
しわがれた声で言ったのは、この家の女主人。顔にはしみが、髪には白髪ばかりが目立つ。年は、六十歳ぐらいだろうか。
パトリーがなぜ彼女の家にいるかというと、迷ってしまったからだ。
部屋を出てきたはいいものの、娼婦や裏の男らしき人々がたむろする、表通りとは一線を画す危険な貧民街に迷い込んだのだ。
どうしようと困っているところ、この家の女主人が、「何やってんだいこんなところで! あんたは!」と一喝し、家に手招いてくれた。
どっかりと椅子に座った彼女。
「そのミルク飲んだら、さっさと宿に帰りな。このあたりは特に物騒だからね。この家を出て右手にずっと進んで、突き当りを左に進む。そしたら、表通りに出るからさ。そこからなら、帰れるだろう」
「ありがとうございます。あの、でも、どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?」
ミルクをテーブルに置いて、パトリーは女主人を見つめる。女主人はしみのある顔で笑い、パトリーの服をつまんだ。
「この服が、懐かしかったからさ」
パトリーはきょとんとした。
パトリーは民族衣装を着ている。頭にはスカーフを巻き、胴体とスカートは同じ濃い色のもので、腕は白いやわらかい布。北方の民族衣装だ。
「北の出身なんですか?」
「ああそうさ。子どものときだけだがね。本当に懐かしいよ、その婚礼衣装」
「婚礼衣装?」
パトリーは眉をひそめる。
「なんだい、知らなかったのかい? 若い人にはわからないかもねえ」
「……だって、真っ白いウエディングドレスではないでしょう?」
あれ、同じことを前に言った、とパトリーは既視感を覚える。
「それは最近の話さ。四、五十年前まではね、そんな決まりはなくて、上等な服を仕立てて婚礼衣装としたんだよ。うちの地元の地方では、代々その服を婚礼衣装として受け継いでいた」
パトリーは言葉が出なかった。
「いつの間にか、婚礼のときでなく普通に着るようになって、民族衣装に格下げされちゃったのかねえ」
「…………」
「うちが子どものときまで、その風習をやっていたんだけどね。時は流れるものだよ」
しみじみと言う女主人。パトリーはぼんやりと、考えていた。全てが混濁して、朦朧として……。
『あれパトリー、結婚するのか?』
『その、婚礼衣装』
答えは出やしない。
一気に飲み干した。
「さて何を飲みますか? いいですよ、ここではおごりますから」
「それじゃあ……オレンジジュースで」
酒のメニューを見せていたリュインは拍子抜けしつつ、パトリーの言うとおり頼んだ。
「あなたのようなお嬢さんが、あんなところを歩いているとは思いもしませんでしたよ」
表通りに出たところを、『不老不死の魔法使い』リュインに声をかけられた。
そして現在、なぜかカジノにいる。
「やっぱりいいですよねー、カジノは!」
嬉々とした様子でリュインは現金をコインに換えてきた。
「そんなに楽しいの?」
「ええ! 賭け事は最大の娯楽ですよ! 勝つか負けるか、その瞬間のスリリング! 相手の手札を見るときのドキドキ感! わたくしは賭け事やカジノといった場所が大好きなんですよ」
興奮して語るリュインについていけない。
「ふふふ、実は、わたくしの収入のほとんどは賭け事に消えていましてね。やめられませんって。おかげで貯金はゼロ」
ちゃめっ気たっぷりなリュインだが、言っていることはすごい。高官の立場にいる彼の収入なら、どれだけの額だろう。千年生きているというのが本当ならば、一国の国家予算を軽く超えるのではないか?
カジノといっても、高級な場所ではない。パトリーとリュインの服装では入れてすらもらえない。だから、少々庶民的なカジノだ。
パトリーは飲み物を飲みつつ、リュインの傍で眺めるだけにした。賭け事はしない主義なのだ。儲けるなら仕事で儲けたい。
数回、リュインが賭けるのを見たが、それほど強くない。数回に一度、勝つくらい。妙に強気に出て大金を賭けたときも、あっけなく負ける。
コインはどんどんなくなってゆく。大勝負とばかりに全コインを賭けてあっけなく負けたあと、二人は座り心地の良いソファに座って、休憩をとることにした。
「で、どうしたんですか? お嬢さん。オルテスと何かありました?」
いきなりの鋭い発言にパトリーは目を見張り、そしてその目を伏せた。
「……オルテスにビンタして、逃げてきたのよ」
「けんかですか」
「いいえ。あたしが一方的に、怒っただけ」
ウエイターがやってきたので、酒を頼む二人。
「オルテスが小切手を持ってきたの。今までの、滞在費や食費や宿泊費だ、って。金額はそれにちょっと上増しされたぐらいのもので。それを見て、殴ってきちゃった」
あまり明るくない灯りがところどころにある。薄暗く、そしてルーレットやコインの音でうるさい。
「あたし、お金の大切さは分かっているわ。館にいられたときに、その滞在費で悩ませられて、追い出しにかかったこともある。でも、この旅で、あたし、オルテスに助けられた」
ソファに深く、体を沈めるパトリー。玉ねぎを切ったときのように、目がしみた。玉ねぎを切る、なんて経験は、この旅で野宿をしたときが初めてだった。それでシチューを作った。玉ねぎは火が通ってなかったからシャリシャリとした食感で。オルテスは怒っていた。
「海でボートに乗ったときも、オルテスがいなければ、どうなっていたか。命の危険もあった。でも、オルテスが助けてくれたようなもの。馬車を手で押し進めなければならないとき、オルテスがいなくて、進んだとも思えない。そんないろいろなことされて、お金を要求するほど恥知らずではないわ」
きっぱりと言ったパトリーにリュインは苦笑する。
「オルテスは、そんな貸しを作った覚えはないでしょう」
「そうかもね。それでもあたしにだってプライドがあるの。……小切手を渡されたとき、ショックだったわ。だって、それって、まるで手切れ金みたいだったのだもの。すっぱり縁を切らせてもらう、と言っているみたいで」
パトリーはふと何かを思い出して、笑う。
「そう、カジノから帰ってきた、ってことも、怒る理由だったわ。じゃあ、賭け事して運よく勝ったから、ついでに手切れ金に使わせてもらおう、ってことでしょ?」
「違いますよ」
リュインはきっぱりと告げる。
「あの小切手は、わたくしが書いたものですから」
パトリーは目を瞬かせる。
「オルテスはわたくしが大の賭け事好きだって、知っていましたからね。オルテスはカジノで待ち伏せていたんです。わたくしの仕事は早くに終わりまして、わたくしは昼間っからカジノに行こうとしたんですよ。こことは別のカジノでオルテスに待ち伏せられ、『金が入用だ』と言われて。そこでちょっとした話と、ちょっとした仕事をしてもらいまして、代わりにわたくしが小切手を書いたのです。ですから、カジノで儲けた、というのは間違いですね」
パトリーは持ち続けたままの小切手を取り出した。確かに、署名はリュインとなっている。
「オルテスは縁を切る、だとかそんなことを言いたかったわけじゃないと思いますよ。ずいぶんと、自分勝手な人ですから、人に貸しを作ろうが、そのまま返さずに行くような人ですからね。貸しを返すということは、少しは気にかけているんだと思いますよ。これから先、突然の別れがあっても、そのときに後悔しないために」
二人にお酒が運ばれてきた。パトリーはぐ、と飲む。
「後悔しないため、ね。オルテスらしい。準備周到で、冷静で。正直に言うと、あたし、オルテスがうらやましいわ。みじめな気持ちになるくらい、羨ましかったの」
感謝していた。いろいろなことで助けられるたびに。でも同時に、もやもやとしたものも生まれていた。
頭の中ではぐるぐると、何かが回る。混濁して、何がなにやら。嫉妬しているのか、憎んでいるのか、……好きなのか。
オルテスはパトリーにとって、『大人』だった。あらゆる意味で。認めると、無力な子供なのだ、自分は。ただ『大人』に助けられるだけで、『大人』の役には立たない。
「誰かに助けられるだけの人間ではなくて、助ける人間になりたい。誰かに貸しを作ったら、簡単に返せるような人になりた……かった」
分かりたくなくても、分かってしまった。無理だ。今の自分には、到底。
目がしみる。
小切手を渡されたときに気づいたのは、酷薄さだった。関係の酷薄さ。パトリーが思っているより遙かに、オルテスはこちらのことを必要と感じていない、ということ。そして、寄りかかっていた自分が、恥ずかしくなった。
どうしたら、対等になれるのだろうか。どうしたら、オルテスのように、知らず知らずのうちに寄りかかれるような、一人で揺らがずに立っている人間になれるのだろう。
「去ることも残ることも、気まぐれに生きられるオルテスが、うらやましい。何にも執着がないように見えるところが、本当に。オルテスは現実的すぎて猜疑心が強いみたいだけど、それって、一人で生きられる人間だからこそだわ。誰かの人間を必要とするあたしのような人は、信じるしかないんだもの」
彼の傍にいると、劣等感が刺激される。無力感が襲ってくる。気がつかないふりをしてきたけど、ずっと嫉妬していたのだ。
感情が、降り積もっていた。
誰かと対等の立場に立つ、というのはなんと難しいのだろう。守られるだけでなく、認められたかったのだ。憧れて、いる。
目頭が熱くなって、潤んで、手の甲でぐい、とぬぐった。お酒のにおいが充満しているため、酔ってしまったのだろうか。お酒はちょっとしたことで、ほろ、とさせる。そう、こんなこと、『ちょっとしたこと』だ。
リュインは目を細める。
「そんな完璧な人間ではありませんよ、オルテスは。……オルテスの家族は、わたくしを除いて全て死んでおりましてね」
リュインの声が一オクターブ下がった。
パトリーは声を詰める。
「彼の父上。わたくしの妻、つまり彼の妹であるルクレツィア。それにわたくしの息子・ゼルガード。みんな、亡くなりました」
パトリーは口元に手を当てた。
「息子さんが、いたんですか」
「ええ。やんちゃな。彼の父上と、わたくしの妻は病死でした。息子のゼルガードは、暗殺されたのでしたっけ。時期としては、ほとんど同じくらいに、みんな」
遠くを見るリュイン。先にはルーレットがあったが、それよりも遠い過去の光景が見えているのだろう。
「もう、皆いません。彼の父上と、オルテスには確執がありまして、……彼の結婚問題で。オルテスはミリーという女性との結婚を希望していました。それが彼の父上の逆鱗に触れた。彼の父上は別の女性との結婚を強制していましたから。オルテスもまあ、ずいぶんと強硬に反対をして、業を煮やした彼の父上はついに……オルテスは家族と縁切り同然となったわけです」
パトリーはいろいろなことに衝撃を受けていた。
オルテスがミリーという人と結婚をしたかった、ということ。家族がもう、いないということ。
「オルテスは、誰の死に目にもあえませんでした。彼の父上の力は強く、死後でさえ、どうしようもなかった。ミリーと結ばれることもなかった。ミリーも、同じ頃病死していましたっけ」
オルテスの顔が浮かんだ。母国のことを訊いて、話したくない、と言ったときの、その顔を。川を見つめる表情は、今のリュインと似ていた。
「オルテスは、碌に話したがらないでしょう? いろいろなことを、全て。話すと、思い出すから。辛いから。逃げているんですよ。オルテスは」
リュインは右目の片眼鏡を調節する。
「わたくしは、オルテスになりたいともうらやましいとも思いませんね」
執着がないのではない。その対象を、全て失っているから。
どこかで歓声が上がる。誰かが大勝でもしたのだろうか。
「お嬢さん、もう夜も晩い。コインも使い切ったし、帰りませんか?」
リュインが立ち上がり、続いてパトリーが立ち上がった。
カジノを出て、別れるとき、パトリーは見上げ、凛とした態度で言った。
「……リュインさん、長生きしてくださいね。あたしは正直、あなたが本当に不老不死なのか、疑っています。魔法使いの方は、もっと。でも、あたし、そうであることを願います。願いたいです」
リュインは目を細めて微笑んだ。
「あ、あと、一つ、オルテスのことで不思議に思ったことがあるんですけど」
「何ですか?」
「あたしのこの服、ずいぶん前、五十年以上前に、婚礼衣装だったそうなんです。それを、オルテスが知っていたようなんです」
「ああ、それは簡単ですよ。オルテスは実は考古学の専門家でしてね。特に北方の風習について、詳しいんです」
「え!? 知らなかった……」
パトリーは意外だと思いながら呟く。オルテスが考古学の専門家なんて、結びつくはずがない。軍人だ、と言われれば納得するのだが。
「小切手分、仕事をしてもらったんですが、ほら、考古学の研究について書いてもらったものです」
ひらひらとした服の中から、十枚近い紙を取り出した。
全て古代グランディ語で書かれてあり、文頭と最後には、オルテス、と署名がある。
古代グランディ語は読めないので、内容は一切分からない。ただ、ときおり図解が書かれて、古い時代の生活方式について書かれているようだ。
「企業秘密ですので、見た人に分からないよう、わざわざ古代グランディ語で書いてもらいましてね」
「そんな才能があったのね、オルテスって」
館にいたときには何の仕事もしない、ある意味心配になるような姿しか見れていなかった。そういえば、館の図書室で何か読んでいた。考古学の研究のためだったのだろうか。
そうして、今度こそ二人は別れた。
―最後に、リュインがこう呟いたことを、パトリーは知らない。
「都合上、いろいろと嘘をついてしまいましたが、すいませんね。それにしても、オルテスが嘘をつかずに、このわたくしを紹介するとはね。あのお嬢さんを気に入っているのでしょうか。いつか、わたくしの嘘を訂正するのか、嘘に気づくのかは、オルテス次第ですね。それよりも前に、二人の旅路が分かれることが先かもしれませんが」
彼は、見せる姿とは違う、何かを持っていた。
「少々、甘すぎますよ、パトリーさん。やはり、『お嬢さん』ですね」
本当も嘘も、混濁していた。
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