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 第3話 翡翠の向く先(2) 


 朝起きたとき、パトリーは少し違和感を覚えた。
 昨日おしゃべりをした奥さんが、妙によそよそしい。いや、青ざめて、ぎこちないのである。子どもたちの喧騒の中、遠慮したにもかかわらず、朝食をいただいた。
 あまりにも貧窮しているこの家にとって、ずいぶんとこれは負担だと思ったパトリーはその朝食を見つめて、手を伸ばすことをためらわせた。
 ルースはくちばしをつついて食べる。オルテスはもくもくと食べている。パトリーが手をつけないのを見て、「ダイエットか」とちゃかした。あのねぇ、とパトリーが言う前に、穏やかな笑みを浮かべながら、オルテスはゆっくりと言う。
「毒薬なら、入っていたらわかるさ。心配をするなら、ここを出て医者のいるところへ寄って、診察を受ければいい」
 なんてこと言うのだ、と思ったパトリーが怒る前に、ひきつり険しい形相で奥さんと旦那さんが、
「そんなこと、毒薬なんてありませんよ!」
「ええ! まったくそんなものは入れておりませんよ! お嬢様、なんでしたら毒見はいたしますから!」
 と、ひきつった笑みで必死に言うので、パトリーはあっけに取られてオルテスを怒れない。
「なんなら、毒見してもらえばいいだろう」
 とオルテスが言うのには、さすがに声を上げようとしたが、少しばかりでも毒見と称してこの家の人が食べてくれるなら、そうしようと思った。
 それにしても毒薬なんて不吉なことを言う、とパトリーは顔をしかめる。
「オルテス、何かあったの? 昨日」
 オルテスは、汁物を飲む手を少し止める。
「さあね」
 そう言って、再び汁物をすすった。


 朝食はそこそこに、オルテスとパトリーとルースは旅立つことにする。
 見送りとして家の前でその家の家族が立っていた。夫婦はぎこちない表情だ。
 パトリーは、一番上の九歳だという少年の目の前で、腰をかがめて、
「手を開けて」
 と言った。少年はきょとんとしながら、片手を開けて、目の前に示す。
「これ、あげる」
 そうして、ごく小さいものをころん、とその手の上に置いた。
 翡翠の光る、カフスボタンである。
 奥さんが、あっ、と声を上げた。オルテスも眉を上げた。
「もし、兄弟の食べるものに困ったりしたら、これ、なるべく遠いところに行って、売りなさい。そのときに、これも見せて」
 そう言って、折りたたんだ紙をジャケットの裏ポケットから出して、少年にあげた。
 少年はそれを開ける。それはこのカフスボタンを正式にこの少年に譲渡したという証明書であった。最後に、パトリーのサインもある。
「もし、盗んだと疑われたら、これを示しなさい。そして、クラレンス家に問い合わせればこのサインが本物かわかるから。それが、このカフスボタンがそれなりのものだという証明にもなるし、クラレンス家にけんかを売る人間なんてそういないから、安い値段で買い叩かれることも、多分ないわ」
 少年はそれをじっと見て、青空を見上げるようなそんな表情で、
「ありがとう」
 と、感謝の言葉を述べた。
「本当は、二個あげたかったんだけどね、ボートを漕いでいるうちに海に落ちちゃったみたい」
 パトリーは苦笑した。
 実はすでに滞在の代金は前払いで払っている。だからこれは純粋に、お礼の気持ち、というやつである。
 そうして、頭を下げる一家に手を振りながら、パトリーとオルテスとルースは旅立った。


「……いつの間に、証明書なんて書いたんだ?」
「昨日の夜中よ」
「夜中?」
 パトリーはすました顔である。
「ええ。昨日の夜中、何か物音を聞いた気がしてね、起きちゃったの。あんな熟睡していたのにね、人の家だからかしら。それで、なんとなーく、書きたくなったのよ」
 オルテスは口を開いて反復する。
「何となーく?」
「何となーく。悪い?」
「悪くは、ないが……。書きたくなるような何かがあったのかと思ったのさ、その夜中に」
 少々おどけた調子でオルテスは言う。
 パトリーは少しオルテスより先に進み、
「さぁね」
 と、さらっと言って、道を進む。
 オルテスは苦笑気味に、ゆっくりと後を追う。
 だから、こういう彼女だから、彼女の家に滞在したのだ、と言ったら、おそらく彼女は毒を吐くように「あたしが何をしたっていうのよ!」と言うだろう。盗賊から、それこそ何となく助けたときも、素性も明らかにしていないのに「家に滞在してください」、と言う彼女に呆れたのは確かだ。
 なんて甘ちゃんで、箱入り娘で、でも変わっている。男装して、何にでもまっすぐ進み、貿易が私の一生の仕事、と熱っぽく語る少女に、新鮮味を感じて、こういう人間もいるのなら、ここも面白いかもしれない、と思ってしまったのだ。
 初めて、この世界に来て、よかったと思ったのだ。
「スバリオには、一日もあればつくわ。そこで馬車に乗れば、あと一ヶ月もあれば、セラにつくわね。……でも、馬車ってお尻が痛くなるのよね、一ヶ月……大変だわ」
「裸馬に乗るよりマシだぞ、それは」
「え、オルテス裸馬に乗ったことあるの?」
「こちらはパトリーより長く生きてるものでね、いろいろ経験しているさ」
「あたしの若さを妬んでいるのかしら?」
「……ちょっとはな」
 冗談で言ったつもりが真面目に答えられたもので、パトリーはオルテスを見上げた。
 オルテスの顔は太陽に照らされながら、どこか色濃く影が差している。
 二人は横に並んで、日差しの中を進んでいった。極彩色の鳥は、高く空を飛んでいる。


 時間は少々さかのぼる。
「シュテファン様!」
 青ざめた顔で、彼の妻は彼の前に立っていた。
「何だ」
 仕事の合間を彼の妻は待っていたのだ。ハンカチを両手で持っているのだが、持つ手は震えていた。
「申し訳ありません」
 と、まず頭を下げる。
 シュテファンは、パトリーの兄である。亜麻色の髪は肩より少々長く、女であるパトリーより長いのだから、この兄がパトリーを特にきつくあたるのも、彼としては道理と言えた。貴族の娘が髪を短くするなど、言語道断な時代であるから。そしてこのクラレンス家の当主代理として、管理する義務があるのだから。
「何がだ」
 20代後半のシュテファンは、年齢に不相応な圧倒感をもって、妻を見る。
「パトリーさんが、姿を消しました」
 シュテファンは、ぴくり、とほほの筋肉が痙攣した。それは一瞬。そして、小さく声を漏らす。
「……よく、この国を出られたものだ」
 シュベルク国は島国。他国へ行くには、船しか手段がない。その船は、当分の間出港しないはずであったが。どのようにして向かったかは知らないが、シュテファンは問題のある妹を見直した。
「どこを探しても……館も、国中、港も探しましたけれど、どこにもいませんでした。パトリーさんのことは、わたくしの責任です」
 シュテファンの妻・シルビアは、この館の事実上の責任者である。彼女の夫のシュテファンが当主代理であるのとは違い、義父が離婚しているものだから、館のことや家族親族の女性のことに関しては、彼女の責任であるとも言えた。
「いや、パトリーは、私が命令して中央大陸へ向かわせた。言うのが遅れてすまない」
 シルビアは、青ざめた顔が、ほっとした顔になった。
「……そうだったのですか。てっきり、誘拐や事故にでもあったのかと。……しばらく前、盗賊に襲われたこともパトリーさんにはありますし。それにしたって、一言でも書置きしてくださればよろしかったのに」
「いずれ、旅の途中報告が鳥で届くだろう」
 鳥は重要な伝達手段である。移動手段で最速のものが馬を使ったものでしかない以上、移動は馬、伝達は鳥、が一般的なのである。
 シルビアは純粋な興味から尋ねた。
「……それで、何をお命じになられたのですか?」
「あるものを運んでもらおうと思ってな」
 シルビアは首を傾げる。
「それほど重要なものなのですか? 他の者にお命じになられてもいいでしょうに」
 シュテファンは答えない。そういうときのシュテファンはどれだけ尋ねても答えない、と知っているので、シルビアは話題を変える。
「そういえば、最近お忙しいようですが、何かあるのですか?」
「今、というわけではない。これから、忙しくなる。……何せ、妹の結婚が控えているからな」




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(2005.7.8)
(2006.11.4.改訂)

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