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 第2話 海の災難(2)


 目を覚ますと、そこには晴れ渡った空が広がっている。
 勢いよく起き上がると、穏やかで平らな海。
 ルースがボートの上を旋回している。晴れた空を喜んでいるように。
 オルテスは、いつもよりもゆっくりと漕いでいた。
「起きたか。大丈夫か、体」
「え、大丈夫って」
「眠っていたとき、ボートにあちこちぶつかっていたぞ。ガンゴンと音させて」
 言われて見ると、体のあちこちが痛む。
 気づくとボートには海水がほとんどなかった。
 それをうつろに見つめるパトリー。ああ、オルテスがやってくれたのか。
 顔を上げると、元気いっぱいに彼女は言う。
「うん体は大丈夫。お昼だし、あたしが漕ぐ。疲れたでしょう? ご飯食べて眠って。任せてよ、よく眠ったし、随分進んでおくから」
「……じゃあ、任せる。……ああ、嵐の影響で、流れてしまったらしいんだ」
「方向は変えなきゃいけないかしら」
「いや、方角は同じでいいはずだ。ただ、到着地がずれると思う」
「ならいいわ。とりあえず中央大陸につくことが第一目標だからね」
 オルテスは、ひとつ乾パンを食べ、水を少々飲んで眠った。その眠り具合から、疲れていることは容易に想像できた。
 パトリーは漕ぎ始める。キイキイとボートから音がする。
 肘や脛が痛んだ。漕ぐたびに、ちょっと、ほんのちょっとだけ、涙が出そうになった。我慢したけれど。
 コンパスは残っている。荷の中ではなく、ジャケットのポケットに入れていたからだ。
 そのジャケットはぼろぼろだ。どこかに引っかかって裂けてたり、裾が破けてたりしている。当たり前だが体を動かすための服でもないのだ。
 パトリーは、ゆっくりと慎重に立ち上がる。ボートとはいえ2人が乗りその荷物が乗る大きさはある。立ち上がっても多少は大丈夫だ。
 パトリーは時折こうして立ち上がる。うーんと体を伸ばし、周囲360度見渡す。
 まだどこにも海岸は見えない。
 ぐるぐるとルースは空を旋回している。太陽が眩しい。あの嵐が嘘のようだ。
 「よしやるぞ」と小声で自分に言い聞かせ、パトリーは座る。
 キイキイキイキイと、大洋に音が再び鳴り始めた。


 それから2日後。
 重大な問題に直面していた。
 食料だ。
 最小限の食料は、まず水の問題をもたらした。
 夕方頃、それに直面した。いやそれまでの2日避けてきた問題が、もう見逃さずにはいれないほど大きくなったと言うべきだろうか。
「……こうなるなら、あの嵐のときしっかりと雨水貯めておけばよかったわねえ」
 パトリーは笑う。
「あのときに、そんな暇あったか?」
「うーん、やっぱなかったかなぁ。急に嵐になったものね」
 残っている水量は、コップ一杯分もない。
「嵐に、水不足。水難の相でもでていたのかしら。旅に出る前、占い師にでも見てもらえばよかった」
「このバカ鳥がな、水をこぼさなければ……」
 バカ鳥と言われたルースは、心なしかしゅんとしている。
「過去のこと言っても、仕方ないわ。この残り少ない水をどうするか考えましょう。この量だと、二人で分割しても意味がないと思うのよね」
「それは同意見だ」
「オルテス、じゃあこの水はあなたのものよ」
「おい、パトリーが飲めよ」
 パトリーは水の入った小さな水筒をオルテスの顔前に差し出すが、オルテスは手で遮る。
「なによ、何今更、人に譲るってことを覚えたのよ」
「パトリーこそ今更だな。この旅はずうずうしくするんじゃなかったのか?」
「あたしはオルテスと違って、譲るってこと、知っているのよ。譲られた方だってマナーを守りなさいよ。人から物を貰ったらら、謹んで受け取るのが常識よ。つき返すなんて相手に失礼なの」
「悪いが、勝手に欲しくもないものをあげると言われても、迷惑なだけだ。貰う側の気持ち、考えてほしいな」
「ああもう、うるさいわねっ! とにかく受け取りなさいって! 飲みなさいよ!」
 パトリーは一歩擦り寄ってオルテスに近づく。水筒の口を向けてもオルテスは顔をふいと横に向ける。
「おれは殴られようが飲む気はないぞ。パトリー、さっさと飲めよ」
「あたしはいいの! 今ダイエット中だからちょうどいいの。だから、こんな水いらないのよ」
「……パトリー。ダイエットに水を取らないのは危険だって聞いたことあるが」
「暇人はこれだから変なことを覚える! 確かにそうだけど、まだあたしは大丈夫。だからね、オルテス、お願い、この水飲んで、飲んでよ」
 パトリーは懇願するがオルテスは聞き入れない。いや、聞き入れるはずがない。
「今にも倒れそうな奴が、そんなこと言って説得力ない」
「オルテスだって、もう限界なのはわかっているわよ!」
 そう、お互いにわかっている。相手の体力が限界なことを。
 双方共に倒れてもおかしくない状況になったから、こうして切実な水の話になったのだ。
 オルテスはパトリーの持つ水筒を奪った。そしてパトリーの口元に寄せる。
「パトリー、飲め」
「い、や」
「パトリー」
 彼女は顔を横に向ける。無言の抵抗だ。
 オルテスはため息をついた。
「パトリー。このまま拒絶するって言うなら、殴って気絶させて、無理やり飲ませる。それでもいいか?」
 パトリーはおそるおそる正面を向き、オルテスの顔を見た。本気でやりかねない表情をしている。
 二人はしばらく睨み合う。先に目をそらしたのはパトリーだった。
「……ばかみたいだわ……」
 パトリーは俯いて睫毛を震わせながら、絞り出すように呟いた。近くにいたのでオルテスにも聞こえた。
 パトリーは、オルテスの手から水筒を受け取る。
 軽くてコップ一杯もないぐらいの水だ。でも、とても重い水なのだ。
 オルテスはこのボートに乗ってから優しかった。
 パトリーが非力なことも責めず、昼と夜に分担しようといったとき、「ならおれが夜にする」と、勝手に宣言した。
 昼は日差しがきつくて、当初恨めしく思ったものだが、夜の方がきついと判ったのはすぐだった。
 春はまだだ。夜は寒く、かけるものはないに等しい。
 あまりの寒さに起きたときに、気づいた。パトリーは自分のコートとオルテスのコートを羽織って寝ていた。
 ならオルテスは? その答えのわかる問いが彼女の頭に浮かぶのは当然である。
 そのまま何も言わずに、軽口を叩くのがパトリーにとってひどく辛かった。
 思ううちに、涙が滲んだ。
 目の前の水筒がゆれて見える。
 それは一瞬だった。すぐ横に、すぐ横に顔が……。
 オルテスは口を寄せて、涙を掬い取った。右目、左目と。
 パトリーはあまりのことに呆然としていた。
 口をパクパクさせて、何をされたかを理解すると、赤面して大声で叫んだ。
「っな、何するのよ!」
 意外と元気なのか、とオルテスは思う。
「もったいないだろ、この水不足の現状では」
「ばか! しょっぱい体液飲んだって何にもならないわよ!」
「体液って……もうちょっと言い方考えろよ、飲んだほうが嫌な気分だ」
「乙女の瞳から流れる真珠の輝きの清水、とでも言えば満足?」
「体液って言った時点でどんなに取り繕っても無駄だぞ」
 オルテスは笑った。
「まあ、おれはその涙だけで十分だ。だから、早くその水飲めよ。な」
 パトリーは一度にらんで、ふうとため息をついた。
 もう、怒る気もない。体力的にも精神的にも。
「わかったわ……もう、限界だもの。飲む」
 パトリーは水筒を口に近づける。
 言ったとおり、もう限界だ。意識は朦朧として、片手でボートの縁をつかんでいなければ、倒れているだろう。口の中は乾ききって、どれだけ海の水を飲もうとしたか。
 口つける前、オルテスの顔を見た。じっと見ていて、飲むまで見ているつもりだろう。
 水筒に視線を落とし、意を決して一気にその水をあおった。
 そしてその水筒を海に放り投げた。
 オルテスはほっとして安堵の笑みを浮かべる。
 そのときだった。
 パトリーはオルテスの肩をつかみ、襲い掛かって押し倒す。
「なっ!」
 あまりのことにそのままオルテスは倒れた。頭を打ち、思わず顔を上げようとしたところにパトリーが無理やり唇を重ねた。
 同時にオルテスへ流れ込む水分。
 それがわかったと同時にオルテスはパトリーを押しのけようとする。
 がたがたとゆれるボート。ルースは鳴きながら空に飛び立つ。
 日が沈み、闇が訪れる。薄い白色の月が昇っていた。
 二、三秒のせめぎ合いの後、オルテスはパトリーを押しのけた。
 パトリーは派手な音を立てて、オルテスとは逆の方に横になって倒れた。
 睨むオルテス、寝転がるパトリー。
 しばらくの、沈黙が訪れた。ボートは、静けさを取り戻す。
「……っくっ……くっくっ……」
 沈黙を破ったのはパトリーの押し殺した笑い声。
「くっくっくっ……ふふ、ふふふ……」
 楽しそうにパトリーは笑う。
「……ふ、ふふ……やったわ、成功した……」
「なにが成功だ」
「だって、……騙されたじゃない、ああおもしろい」
「……パトリー」
「……なに、美少女からの口移しなんて、……そうそう体験できないわよ」
「だれが美少女だ」
「ひどいこと言う……ふふ、ふ……」
 パトリーは笑い続ける。オルテスのにらみ顔は変わらない。
「恥ずかしくて赤面しそうになるのを我慢して、やった甲斐があるわ……」
「ならやるなよこんなこと。そんな演技を求めた覚えはないぞ」
 パトリーは仰向きになった。
「……だって、どうやったって水を受け取りそうになかったんだもの。普通ではね」
 オルテスはため息をついて、頭をかいた。
「なあに?」
「死ぬ気か? こんな馬鹿なこと。そんなことされて、こっちが嬉しいとでも思ったか? 誰かに命を犠牲にされて」
 もう、そんなことは嫌だと思っていたのに。オルテスは過去を思い出す。
「冗談! 死ぬ気なんか全然ないわよ!」
 片腹痛いとばかりのきっぱりとした言葉に、オルテスは目を丸くする。
「あたしはねえ、絶対に死なないし、絶対に中央大陸に行く。そして、セラという街に箱を届けるの。絶対よ。それにはね、ここであたしがあの水を飲むよりオルテスが飲むのが一番でしょ。……あたしより、オルテスの方がこの場では役に立つんだから」
 パトリーは陰のある笑顔を見せた。
「水をあげたんだから、あたしは、オルテスの命の恩人よ。だったら、恩人を中央大陸に連れて行くくらい、してよね」
「ずいぶん自分勝手な理屈だな。海に放り投げたくなる」
「あら、六ヶ月も家にいられたあたしの気持ち、わかってくれた?」
 オルテスは微笑んで、ボートを漕ぎ始める。
「あたしは……絶対にセラへと行くんだから……」
 決意の言葉は、星が瞬き始めた夜空に広がる。
 ルースがボートに降りてきて、パトリーの顔の隣に留まった。
 自分でも、ずいぶんひどいことをしているとわかっている。
 どちらも体力は限界だった。だからこそパトリーの渾身の力で、オルテスだって押し倒すことができた。
 水を少々飲んで体力全回復、というわけにはいかない。
 オルテスは乾パンをかじりながら漕ぎ進む。波音が心地よい。
 そうはいっても、あの場で自分が飲んでどうにかなったか。渇きは癒されても自分の力で、どうにかなるか。
 答えは決まっている。
 オルテスは、平気そうな顔をして漕ぐだろうけれど。
 そう、何も言わないのが辛い。
 風が冷たくなってきた。だがコートをかける気力さえない。
 パトリーはボートに乗ってから、自己の矮小さばかり考えている気がした。
「みじめね」
 からからの喉で呟く声は小さい。オルテスは反応しない。聞こえていないのだろう。
 呟くだけではだめだとパトリーは分かっている。きちんと、役に立つ何かを考えなければならないと。足を引っ張るだけではいけないと。
 星が自己を主張するように強く輝き始める。
 よくもまあ、いにしえの人々はこの点をつなげ、星座を思いついたものだ、と、ぼんやりと見上げながら思う。
 かつて一時期、星座について調べたことがあった。わくわくしながら、うっとりとしながら。そのときに覚えた星々の名を、思い出してゆく。
 北の変わらぬ位置の星。宵に一際金色に輝く星。
「おい、パトリー」
 オルテスの弾むような声で呼びかけられた。
 縁につかまり、ひどく重い体を起き上がらせると、暗い海の遥か向こうに、横に一列にならぶ小さな光が見えた。
「……家の、明かり……?」
 パトリーは夢から覚めたような気持ちで、その一列の光を見た。
 ボートはぐんぐんと、その光に近づいていく。
 ――ようやく陸へ、たどり着いたのだ。





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(2005.3.29)
(2006.11.4.改訂)


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