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第2話 海の災難(1)
帆船が立ち並ぶシュベルク国最大の港・レベン。
空は晴れ、賑やかに人々は荷を運んだり釣りあがったばかりのみずみずしい魚を競る。
その一角で、男装をした少女ととある船主が周りの音にかき消されないよう、大声で話していた。
「だから、むりだって!」
「どうしてよ!」
少女はパトリー。たくさんの荷物を持って、男装のシャツとジャケットの上に、コートを羽織っている。
「こっちにも都合があるんだ。中央大陸への船は、1ヶ月先だ。今出てったばかりなんだよ!」
「そんな……!」
兄・シュテファンに言われ、セラという街を地図で調べたところ、ここシュベルク国から海を渡って一ヶ月ほどでたどり着ける。
だがそれは、順調で何もない行程でのこと。
かつてパトリーが遭遇したように、旅には盗賊や山賊に襲われることは珍しくない。それに、通過する国によっては、道や門が通行禁止になることもある。
「それでは遅いの! どうにかならないの?」
「どうにもならねえな。おとなしく待つこった」
「……いいわ。私が船を買うわ。それならいいでしょ?」
船主はまるで冗談を聞いているように真剣に取り合わない。
「はあ? あんた、船の値段を知ってるのか?」
「ええ、それ相応するのはわかってる。会社のお金には手をつけられないけれど、でも、これまで貯めたお小遣いで払えるはずよ。あたしは、クラレンス家のパトリーなんだから」
船主はさらにうさんくさそうなものを見る顔である。
「……あんたが、クラレンス家のお嬢さん?」
「ええそう。金は即金で出す。だから、売ってください」
「いいか、クラレンス家のお嬢さんとやら。おれの船は売れねえ。こいつはおれの財産なんだ。こいつを売っちまったら、おれはおまんまの食い上げだ。他の漁船だってそうだぜ。特に、今の季節は魚がたくさん獲れる。賭けたっていい。船を今売るようなやつはいないね」
パトリーは言葉に詰まった。船主は去っていく。去り際に、言葉を残して。
「忠告しておくが、船を売るやつを探しても無駄だぜ。たとえそんな奇特な奴が現れてもな、船の権利の譲渡ってのには、国の認可やいろいろ面倒なんだ。全部終わる頃には一ヶ月経っているぜ」
パトリーは呆然とした。
旅に出ようとして、いきなり出鼻をくじかれた形だ。
このままでは旅どころではない。
もしや、シュテファン兄様はこれを知っていたのか。とぼとぼとこのまま家に帰るのをみはかり、結婚を押し付ける気か。
「そうは、いくか……!」
重い荷物を強く握る。
「あたしは、絶対に結婚しない……!」
「おや、そこにいるのはパトリーお嬢さん」
後ろからの声に、パトリーは振り向いた。
「お、オルテス!?」
「何だ、その大荷物。また貿易のために旅行か」
オルテスは少々の荷物と巨大な鳥を連れてそこに立っていた。色鮮やかなその鳥は、確かオルテスが飼っていた鳥だ。
「なんで、こんなところにいるの?」
オルテスは片方の眉を吊り上げる。
「なんで? それは決まっている。おれは恩知らずなクラレンス家のお嬢さんに、滞在していた館を追い出され、まるで懸賞金のついた犯罪者のように、惨めったらしくこの国を去ろうとしているわけだ」
「あ、わかった、悪かったわ」
「みなさーん、知っていますかー。クラレンス家のお嬢さん、パトリー嬢はー、命を救われた恩人に我が家に滞在してくださいって言ったのにー、その恩人をさっさと出てけって脅したんですよー」
周りの人に言いふらすオルテスに、パトリーは慌てる。
「お、オルテス、ほんとに悪かったって。だからやめてっ」
「おまけに、脅されて出て行った恩人とこの港で再会したパトリー嬢はー、自分のせいだということも忘れたようでー、『なんでここにいるの』なんて言うんですよー、信じられますー?」
「オルテス! 本当に心の底から悪かったと思う! ごめん! あやまるから、とりあえずそれをやめて!! ちょっとあの後色々あったのよ。だから、ほんとに、つい、よ」
オルテスは、それを聞いて大声で言いふらすのをやめる。
「いろいろって?」
「それは……ここでは言いにくいことで……」
「ふうん。まあいい。そういえばパトリー、さっき騒いでいたようだけど、中央大陸に行きたいんだって?」
「え、ええ、うん。もしかして、オルテスなにか別の行き方知っているの?」
希望を持ったパトリーに、オルテスはあやふやに答える。
「うーん、別の行き方というか……。冷酷なお嬢さんに追い出されたおれも、中央の大陸にとりあえず渡ろうと思って、さっき同じように色々聞いていた」
「ええ、それで?」
「んで、同じく何にもないって言われたから、待てないので、自分の船で行くことにしたんだが」
「自分の……船?」
「ぼろっちいけどな」
「それ! それに乗せてくれない?」
パトリーは目を輝かせる。オルテスは驚いた。
「おいおい、いくら貿易のことだって、一ヶ月待った方がいいだろう。何かあるなら、鳥を飛ばして手紙で向こうの人間に伝えればいいんだ。そういう商売をやっている奴らだっているんだろう? 無理しておれの船に乗るなんて危険なことやめた方がいい」
「……貿易のことじゃ、ないのよ。あたしの一生がかかっているの!」
パトリーは荷を持っていない手をぎゅう、と握った。爪が食い込む。
「あたしがこれから、一生、人生の墓場に閉じ込められるか否か、それがかかっているの! 悠長なこと言っていられないわ!」
オルテスはその言葉に目を見張った。
「人生の墓場?」
「うん、そう。そんなところに押し込められるなんて、冗談じゃない。だから、危険でもいいから中央大陸に渡る方法があるなら、教えて欲しいの」
「……人生の、墓場か……。確かに解る、わかるな。それは重要なことだ。とても……」
それはからかうような声の調子ではなく、独り言を呟くような静かな声だった。パトリーはオルテスの顔を見上げる。けれど直前でオルテスは人畜無害面の顔に戻った。
「まあ、乗るかどうかは船を見て決めてくれ。たぶん、やっぱり諦めることになるだろうけど」
それからオルテスはパトリーを港から離れた、砂浜の海岸へと連れて行った。そこは船舶の並ぶ港レベンから歩くには少々遠く、パトリーはたどり着く頃には荷物の重さでへとへとであった。
おまけにどこにも帆船一つ見えない。
「これだ、これ」
「は?」
オルテスが立ち止まり、指差したもの。
それは漁船でも帆船でもなく……。
「ボート?」
「そう。ボート」
さも当然そうに言う。
「船は買えなかったけれど、ボートは売ってくれた。手漕ぎ式だから……中央の大陸まで1週間強といったところか」
「……え、本気でこれが自分の船とかいうやつ?!」
パトリーは呆然としている。
「おいおい、これでもおれが買えるせいいっぱいの船だ。筏よりましだ」
「それはそうでしょうね。六ヶ月もふらふらぶらぶら仕事もせずに人ん家にいれば、ボート買うのが精一杯でしょうね」
ちくりと突き刺すようにパトリーが言うと、
「へーえ、いくら金金金とばかり言って貿易事業に力を費やしたって、その金を使ってボート以上の船を買えなければ無意味な紙切れだろう。今のパトリーにとってはな」
と、オルテスも同じ調子で返した。
「人を金の亡者のように言わないでよ! 人聞きの悪い! ただあたしは貿易とかの仕事が好きなだけよ!」
「あ、そう。じゃあ、その権力と金と貿易のノウハウを使ってどうにかしたらどうだ? おれは食料も買ったし、もうこのボートですぐにでも出るつもりだ」
「……どうにも方法なんて、もうない……」
パトリーは呟く。貿易で船を使っているが、それも今偶然、シュベルク国に使える船がないのだ。
オルテスはボートの横に立って、食料を入れ始める。あわててパトリーはその後を追い、
「ちょっとちょっと! 本当にこのボートで中央の大陸まで行く気!? 公園の湖じゃないのよ、海は」
「…………。なら、一ヶ月待てばいいだろう。人生の墓場だって、死ぬわけじゃない。人生に妥協はつきものだ」
パトリーはその言葉に吊り上った眉をますます吊り上らせた。
「だれが妥協するって! いいわ、わかった! そのボートに乗る! パトリー=クラレンス、一世一代の賭けよ。どうせ一ヶ月待っていたらお仕舞いなんだもの」
「本気か?」
オルテスは目を大きくして呆れているようだ。
「本気じゃなくて、こんなこと言ってどうするの。食料は私の分ももう買ってあるわ。旅は何があるかわからないって思ってね」
そう言ってパトリーは大荷物をボートに乗せ始めた。オルテスが口を開き何か言おうとするのを制してパトリーは言う。
「この期に及んで、乗せないだとか帰れなんて言わないでね。このボートを教えたのはオルテスなんだから。たとえそんなこといったって、もう遅いんだから。あたしだって、人生が懸かっているの。必死なの。一つでも希望の道が見えたなら、オルテスみたいにどこまでもずうずうしくさせてもらうわ」
オルテスは口をつぐんだ。それを見て、パトリーは笑う。
「大丈夫。お荷物にはならないように、漕ぐのも手伝うし、2人いれば夜は交代できるでしょ? どう?」
「お供の者なんて、連れて行けないぞ」
「わかってる。小さなボートだもんね。元々この旅は一人で行くつもりだったわ。あとは何か問題ある?」
オルテスは首を横に振る。パトリーは安堵の息をついた。
そしてパトリーは荷物をボートに入れる。
それを見ていたオルテスはまじめに言った。
「……なんだ、パトリーも普通の少女みたいに笑えるんだな。今まで怒った顔しか見たことがなかったから、わからなかった」
もちろん、次の瞬間パトリーは怒りの言葉をぶつける。
そして、ボートの出航。その日は快晴。
彼らはぐんぐんオールを漕ぐ。
パトリーはすぐに手のひらにまめができた。
血が滲んで痛かったが、断固として漕ぐことをやめなかった。このボートが動いているのはほぼオルテスの力で、パトリーは役に立っていないとわかってはいたが、だからこそパトリーは漕ぐことをやめなかった。
女の力がこんなにも非力だと思ったのは初めてだった。
だってパトリーは、いつも貿易のために走り回って、多少は成功している。女のお遊びだと陰口を叩く人がいても。
こんなにも、力の差が歴然とわかるのは嫌だったが、だからやめるのは自分で何の役にも立たないと言うようで更に嫌だった。
それにボートが出る前、お荷物にならない、と言った意地がある。実際はお荷物になっていたとしても。
パトリーは必死に漕いだ。
途中から、昼にパトリーが漕ぐこととなって、夜にオルテスが漕ぐこととなった。
コンパスを片手に照りつける太陽は辛かった。
癒しとなったのは、意外にもオルテスのつれてきた鳥だった。
極彩色の大きな鳥は、極楽鳥を思わせる優雅な鳥だ。これは頭が朦朧とするパトリーの前で、急にド派手な翼を広げて驚かしたり、首をかしげながらキ、とかわいらしい声で鳴く。それは単調な作業、変わらぬ風景の前でひどく新鮮で、いとおしいものだった。
交代する夕方頃に、
「ねえ、この鳥さ、名前なんていうの?」
と訊いた。
「こいつか? こいつはルース」
「そっか、いつもありがとね、ルース」
オルテスの肩の上にいるルースは、眠そうである。この鳥は夜にはすぐに眠る。
「なにかしたのか? こいつ」
「悪いことじゃないの。いろいろ楽しませてくれたから、一言お礼が言いたくて」
「……ふうん、こいつが、ね」
ちろりとオルテスはルースを見た。それに呼応するかのように、そして何のことだとでも言うように、首をかしげ、鳴いた。
四、五日経つと嵐がやってきた。
さすがにこのときばかりは夜だから昼だからと言っていられない。パトリーとオルテス、そしてルースは頭からコートをかぶり、オールが流されないように、波に沈められないように、必死だった。そもそも空はどす黒く、昼か夜かさえ判別つかない。
雷の轟き。
高波がボートをさらい、何度死を覚悟したか。
そのたびに必死でボートを漕いで、転覆だけは、と祈るのだ。
轟音、波音、雨がコートを海を打つ音。
ピシャーン、と激しい音が響いた。
「な、なに?!」
「雷が落ちたんだ! 落ちるなよ! 即、感電死だ!」
張り裂けんばかりの声量での会話。
横から高波が急に現れ、ボートが横に傾いた。
「!」
「っの!」
波にさらわれるボート。
波は、ドームのように空を覆った。覆うのは一瞬。その水の塊は落ちてきて、ボートには海水があふれた。
パトリーはあわてて海水を海に出す。
が、これでは間に合わない。
「荷を、捨てるしかないな」
妙に冷静な声でオルテスは言った。
パトリーは荷を解き、選別をする。服にクラレンス家の者であるとの証明書は必要で、手鏡や装飾品は不必要……と。
「最低限の食料以外、全部捨てるしかない」
選んでいるパトリーにオルテスはきっぱり言い放つ。その間にも雨は打つ。
オルテスは自分の持ってきた荷を全て海に投げ入れた。
「何してるのよ! オルテス、あの中には食料も服も入っていたんでしょう!?」
「食料はパトリーの荷の中にある分だけだ。それ以外捨てないと、沈むぞこのボート」
そう言う間にも波が横から襲い、ボートにはさらに海水が溜まった。
海水を捨てるより、確かに荷を捨てたほうが早そうだった。足が浸かる現状を見て思う。
そして、パトリーは食料とシュテファンから渡された小箱を取り出して、それ以外を海に投げ捨てた。波にさらわれ、すぐに沈む。
オルテスは漕ぐ。パトリーは海水を出す。雨が降り、まるで不毛な無間地獄だと思いながらずっと海水を出しつづけた。
ルースは静かに、コートの中で震えていた。
ずいぶんと長い間海水を出し続けたパトリーは、まるで生まれたときからそれを続けていたような不思議な感覚にとらわれた。
音が遠く聞こえ、目の前もうつろに見える。
朦朧としたその意識は、雷の轟音が小さくなって聞こえなくなった頃、眠りに落ちた。
緊張と恐怖、そして疲労の限界だった。
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