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翼なき竜


 1. 野望と犬


「世界征服がしたい」
 女王はぽつりとつぶやいた。
 大量の書類を運んでいた宰相は、彼女の机にそれをどしんと乗せた。
 女王はその量に顔をしかめる。
「陛下、現実逃避せず、書類に向き合ってくださいね。本日中にお願いします」
 女王は長い指をこめかみに当て、宰相を見上げる。栗皮色の髪が意志の強い瞳の上に落ちる。
 頬にはあざがあった。片翼の竜のあざが、女王の右の頬に。まるで刺青のようであるが、これは生まれたときからだそうだ。
 竜のあざは『泰平を築く覇者』の印と言われる。王家に百年ぶりにその印を持って生まれたのが、この女王だ。翼が片方しかないが、それでも敬意をもって国民に見つめられる。
 しかし敬意どころかうっとりと見つめるようなのは、宰相くらいだ。
「このような書類仕事ばかり、いい加減うんざりする」
 女王のため息に我に返って、宰相はきりっとして言った。
「ここにあるのが終われば、一息つけます」
「終わればと言ったって、この量。明日は竜狩りに出たいが、無理そうじゃないか」
 女王は飽きたと示すように、羽ペンを回し始め、ゆったりとしたハーレムパンツを穿いた足を組んだ。
「陛下のお力なら、このまま夜まで続ければ、終わりますよ」
 宰相がいたわるように言う。
 彼だって、女王にしたくもないことをさせ続けることは忍びないと思っている。
 現在、王国は平和である。まさに女王は『泰平を築く覇者』をしている。女王自ら動くような軍事的案件もなく、式典の重なる季節でもない。
 となれば、彼女の仕事に書類に追われることが増える。書類のほとんどは、サインをするだけのもの。女王まで上がってくる書類が不可となることは少ない。
 このまま今日中にサインし終えれば、明日は思う存分、狩りにでも出させられる。
 そう思って言ったのだが、女王は目を細めて、眉を寄せてきた。
「……夜までしろだと?」
「はい。本日は夜には予定は何もなかったはずでしょう?」
「……他の臣下から、そう聞いたのか?」
 宰相は不思議に思った。
 そうではないのか?
 今日の夜は女王のスケジュールは何もないと、聞かされている。
 まだ年が若いため、宰相は侮られることが多い。本当は別のスケジュールが組まれているのだろうか。
 宰相は女王に訊こうとしたら、
「いや、何でもない。宰相、すまないのだが今晩……」
 女王は上目遣いで見てくる。ためらうように一度伏せられ、そして見上げられる。けぶるような睫毛の下にある黒鉛の瞳が宰相へ向けられる。
 妙に、女を感じる。
 宰相は心臓が高鳴るのを感じた。
 『今晩』?
 そ、それは、もしかして、さささ、誘ってる、とか?
 密かに慕い続けていた恋心に、春が訪れたとか?
 宰相は顔を赤くして、狼狽のあまり上着を直したり、髪を整えたり、せわしなく動いた。
「は、ははははい、陛下」
 声もどもる。
「今晩な」
「ははははい!」
「その……迷惑かもしれないが」
「そのようなこと全然まったく絶対にございません!」
「本当か?」
「ははははい!」
 それならな、と女王は机から身を乗り出す。
「西のフォートリエ騎士団のブッフェン団長に、会いに行ってもらいたいんだ」
「ははは……は、は?」
 宰相は人形のように、かくっと首を傾けた。
「騎士団に入っていたのときに私が親交を深めた相手だ」
「は、はい。それは存じておりますが……」
 女王は王女時代、騎士団に入団したことがあるという。それも本格的に訓練を積み、女王は現在、かなり強い。大の男でも持ち続けるのがつらいような大剣を腰にぶら下げているくらいだ。
 しかし、今なぜ、騎士団長の話が?
 その疑問は言葉にならずとも、顔に出ていた。
「うむ。最近会っていないので、手紙とこちらの酒でも送ろうと思っていたんだ。宰相、頼むな」
「え……ええと……今晩でなければ、なりませんか?」
「ああ」
「……そ、それは、私でなければならないので?」
 宰相の仕事とは思えない。使者ならいくらでも立てられる。
 ――という職務上のことよりも、『今晩』という一言で踊った自分は、惜しんでしまうのだ。
 『今晩』が誤解だったとしても、使者に赴くより、二人で書類仕事していた方がいい。
「宰相、私が最も信頼を置くお前だから、ブッフェン騎士団長のもとへ送り、彼へ信愛の情を示しておきたいのだよ。特に最近会っていないものだから。お前だから、使者になってほしいのだ」
 『お前だから』『信頼を置くお前だから』
 宰相の舞い上がったり落ち込んだりした心は、再び浮上した。
 二人で書類仕事がだめになったのは残念だが、そんな機会はまた来る。ここで女王の信頼を裏切りたくない。
「はい!」
 宰相はうきうき気分で、使者に立つ用意をしに、部屋を出るのだった。宰相の背がかなり高いせいで、途中で扉の上の壁に額をぶつけていた。痛みにうめきながら、それでも踊り出しそうな様子で去っていった。



 その夜の城では、豪勢な宴が開かれていた。
 この大国は難しい建国の歴史ゆえに、ずいぶんと東西の文化が宮廷で混在している。西の国家には野蛮とひそかにあしざまに言われているが、あくまでひそかにだ。面と向かって喧嘩を売る国はない。
 宴は広いホールで行われ、円形に囲む。中央に開いた空間で、催し物が行われ、楽しませる。
 もちろん上座には女王。やわらかく大きなクッションに身を沈め、露出の多い女達が給仕役として侍っている。
 そして周囲には名だたる家臣たちが集っていた。……宰相を除いて。
 女王のグラスに、濃い色味のワインが注ぎ込まれた。
「ほう……エルマーナ地方のだな。私が好きなワインだ」
 女王はグラスを回して、一口飲んだ。
「ささ、陛下、どんどんお飲み下さい。他にも酒を取り寄せております。もちろん、食べ物も。ささ」
 女王は家臣の顔を見ながら、もう一口飲み干した。
 踊り子の踊りがあった。芸人の芸があった。楽が鳴らされた。
 それらは見事なものばかりであった。女王は終わる度に拍手を打ち鳴らす。そんな彼女を家臣達が顔色を窺うように見ているのも、女王は気づいていた。
 酒も大分呑んだ。うまいものも食べた。
 そろそろ散会してもおかしくない頃になって、女王は訊いた。
「それで宰相をのけ者にして、私に何の話だ?」
 家臣達は顔を見合わせ、一人の臣下が前に出た。
「宰相を軽んじるつもりはございません。お若い方ですが、有能な方であることはみな認めております。ただし、この件につきましては、あの方はこの場にいない方がよいのではないかと……宰相にとってはショックだろうと思いまして……」
 女王は度数の高い酒を舐める。
「私の結婚話か」
 はい、と家臣が頭を下げる。
 宰相は女王の結婚話をことごとく潰しにかかってるのだ。
 だが、大国の女王たるもの、他国とのつながりの上としても、結婚は重要だ。
 女王はいまだ一度も結婚していない。十代で結婚するのが当然の中で、適齢期を過ぎてしまっている。
 これではいかん、と特に老臣達が憂慮し、女王を結婚させよう計画が発動した。
 第1段階が、宰相に秘密で話をする機会を作り、宴に誘う。
 第2段階が、女王を酔って酔わせて良い気分にさせる下地作り。
 計画は成功したようで、女王は少し赤らんだ顔で笑った。
「私の結婚か。……申してみよ。相手の候補は誰がいる?」
 家臣は書簡を取り出す。
 女王の好みというものがよくわからないので、各種取りそろえてみた。
「まず、ラビドワ国の第2王子・プール様。この方は、国中で評判の美男で、女性が見たら最後、とろけてしまうような御方だそうです」
「次に、ボーリア国の第4王子・バジル様。この方は、筋骨隆々、たくましい御方だそうです。体を鍛えるのが趣味で、そのはちきれんばかりの筋肉が魅力だとか」
「そして、カプル国の第5王子・リニア様。この方は、繊細で優美で線の細い御方だそうです。笛を吹くのが趣味だとか」
「さらに……」
 女王の顔がどんどんと不快さを増していった。
 家臣達は慌てて、次の候補者を説明してゆく。そうすれば一人くらい目に叶うような方がいて、表情を和らげるかもしれない、と。
 だが、女王の顔はますます剣呑なものとなる。
 ダン! と地面が割れるような衝撃があった。
 女王が背筋を伸ばし、持っていた大剣を床を裂くように下ろしたのだ。
「たわけものめ」
 低い怒りすら含んだ声様だった。
 女王の顔に、酔ったものはもはやない。
「私を舐めているのか。その候補者どもは何だ」
 家臣達はおびえたように口を閉ざす。勇気ある一人の老臣が前に出た。
「お、おそれながら……我が国と友好関係を築くのを望む国の王子たちです。陛下、趣味に合わないというのであれば……どのような方をお望みか、お教えください。我が国と友好関係を築きたい国は山ほどあります。見つけてみせましょう」
 見つけるまでもなく、むしろ嬉々としてどこの国でも男を差し出してくる。この富める大国を敵に回す国はないのだから。
「そういう問題ではない」
 女王は立ち上がった。床に下ろした大剣は鞘に入ったままなのに床に突き刺さり、ひび割れさせ、かけらが飛んでいる。
「戦場では聞いたこともないような第2王子、第3王子……役にも立たん」
「では、戦に強いお方がお望みで?」
 女王は老臣達を見下ろし、口許を歪ませて、たわむれるように言った。
「私の条件を満たしたものとなら、考えてやる。――私に世界を征服させる者だ」
 老臣達は、絶句した。
 息を呑む声が、静かな宴会場に響く。
「な……陛下……」
「他国との友好関係だと? この大国にそんなものはいらん。全ての国を滅ぼし、全ての戦場で勝利する……それを助けるような男、私が望むのはそれだ」
「陛下……」
 老臣は驚き狼狽するばかりだった。
 『泰平を築く覇者』――その印を持つ女王がこのようなことを言うなんて。
 『泰平を築く覇者』というものは、過去何人も王家の血筋に現れたが、その誰もが戦を好まず、平和をもって国を治めた。彼らの御代では、戦争の回数は驚くほど少なく、かつ他国と対等に渡り合ったという。竜の印は平和と友愛の印だ。
 だが、だがこの目の前にいる女王は、気迫に溢れている。
 大剣を床へ突き刺し、まっすぐに見下ろす彼女から、戦場に立っているかのような覇気がある。片翼の竜のあざが赤く浮かび上がる。
 自信のある笑みが女王の唇に乗る。
 瞳には色がある。欲の色、強い色――
「陛下の結婚ですって――!?」
 頓狂な声に、家臣達は一斉に後ろを向いた。
「結婚!? か、勝手にっ!」
 宰相が慌ただしく扉を開き、現れた。青銀のさらりとした髪が、走ってきたせいで乱れている。蒼い瞳は見開かれ、信じられないと言わんばかりだ。
 女王が呆れたように言う。
「宰相、お前ブッフェン騎士団長のところへ行ったのでは……」
「行って帰ってきました」
「嘘をつけ」
 宰相はぐっと詰まって、
「すいません。部下に使者を頼みました。……なにやら、陛下のことで嫌な予感がしたもので」
 女王は硬く厳しい表情を崩して、笑い始めた。
「ははっ……お前は、嗅覚のいい犬か」
 宰相は照れたように頬を掻く。と、気づいたように、女王をねめつけた。
「陛下! 世界征服だとか、笑えない冗談はおやめくださいって言っているでしょう! みなさん本気だと思っているではありませんか!」
 家臣達は、目が覚めたように戸惑う。
「じょ……冗談、ですと?」
 老臣がこわばった顔で宰相に問うと、彼は強くうなずいた。
「陛下はよくそういった冗談をお言いになって、からかうのですよ。そのようなことをしても国は潤わないと、女王陛下の施策から、おわかりでしょう?」
 家臣達は冷静に考え始める。
 そう、確かに女王の政策の方針は、大国ゆえにどっしりと構え、戦争をせずに友好関係を築くもの。世界征服など、その対極だ。
「は……冗談、冗談でしたか!」
 老臣達は笑い始めた。
「いや、陛下、失礼いたしました! あまりにも陛下の迫力が凄いもので」
「そうですよな、『泰平を築く覇者』の印を持つ陛下が」
「我々を本気にさせるとは、陛下はうまい役者ですなあ。まんまと騙されましたぞ」
 女王は薄く口許に笑みの形を描いた。
「まったく皆さん、私に隠して陛下を結婚させようなんて……。いつも結婚話は中止にさせているというのに、性懲りのないことを」
 宰相は老臣達を恨めしげに見やる。
「そ、それは、宰相の陛下への心情はわかりますけれどな……」
「わ、わわわ私のへへへ陛下への心情って何ですか!」
 宰相は顔を真っ赤にする。この動揺の仕方を見てわからない方がおかしい。
「まあまあ、それは置いておいて、陛下も結婚してもおかしくないお年であるし、ここは老骨を鞭打とうと考えて、な。宰相も、いかに複雑な心境だろうと、陛下の結婚話を全てぶちこわすなんてマネはやめなさい」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は確かに陛下の結婚話を潰してきましたが、それは陛下から頼まれたからですよ?」
 今度は家臣達は一斉に女王に視線を向けた。
 女王はいつの間にか突き刺していた大剣を腰に戻し、座ってワインを飲んでいる。
 本当なのですか、という家臣の視線に、彼女は肩をすくめた。
「最初は私自ら潰そうとしたのだぞ? それを、宰相が自分でやると鼻息荒く言ってな。今回は宰相に隠して進められた話のようだから、たまには自分から断わろうとしてみたのだ」
「それにしたって、世界征服の手助けする男ならいいというのは、断り方としてもどうかと思われますよ?」
 宰相が顔をしかめて言うと、女王は苦笑した。
「そうだな。私も酔いすぎていたようだ。各国と友好関係を築くのに尽力してくれている臣下には、悪い言い方だったな。謝ろう」
 女王は少し頭を下げた。そして顔を上げると宣言した。
「ここで、一度言っておこうか。現在私は結婚するつもりはない。だから、結婚話を持ち込まないでくれ。――以上。わかってくれたか?」
 女王は凛々しい笑みを臣下に向けた。
 家臣達は心の中では納得しかねていた。『現在』と言う以上、『これから』なら前向きに考えてくれるだろうか、と思った家臣もいた。
 だが、この場ではみなが、「ははっ」と頭を下げたのだった。


 夜の女王の執務室には、二人の影があった。
「今日中に書類を処理すれば竜狩りに行けると思ったが……」
 女王はため息をつきながら、頭を押さえた。
「ほら、やっぱり無理ですよ、お酒を飲まれた後では。判断力も鈍っているでしょうし……。竜狩りはまた別の機会に行けますよ」
 宰相は書類の束を抱えながら慰めた。悔しそうに頭を押さえる女王。
「明日は久々の休みだったのにな……。じゃあ、今日はこの束で区切りをつけるか」
 女王は頭を軽く叩くと、集中して机に重なる書類に向かった。
 長い指は羽ペンを握り、滑らかにそして堂々と名を書く。
 彼女の厳しいまなざしは書類に向けられ、睫毛が下に向けられる。
 頬は酒のためか、いつもより朱に染まっている。竜の印も肌にとけ込むようだ。
 唇は時折動き、ランプにその艶が照らされる。軽くまとめられていた栗皮色の髪が肩からこぼれている様は、なまめかしい。
 宰相はほれぼれするような心持ちで彼女にみとれていた。
 目線に気づいたのか、女王は顔を上げる。
「宰相、もう帰っていいぞ。これくらいの量なら一人でできる」
「い、いいいいえっ! 私は陛下の第一の臣下です。終わるまでは……」
 二人でいる時間は長い方がいい。
 そんな宰相に、女王はくつろいだような笑みを見せた。
「お前は……かわいい忠犬だなあ」
「ちゅ、忠犬ですか?」
 女王は手を上下に振って、体をかがめるように宰相に求めた。
 宰相は不思議に思いながら、腰を折ってその通りにした。宰相は背が高いもので、床に膝をついても、椅子に座る女王と視線の高さが同じくらいだ。
 すると、女王は宰相の頭をなで始めた。
「お前は本当に、かわいいやつだな」
 手で宰相の髪を梳きやり、かわいいかわいい、と言い続ける。
 宰相は困惑しながら、彼女のされるがままになっている。
「あ、あの、陛下?」
「本当にかわいいやつだ。お前はいつまでも気づかないのだろうな。冗談が本当だとは、絶対に。そこがかわいいのだな」
「は? 陛下? 何の話で?」
 女王は目を細めて笑みを浮かべ続ける。
「いいのだ。気づかないお前がかわいくて、私は退屈な平和も耐えられるのだから。お前はお前のままでいい。かわいい忠犬でいてくれ」
 宰相は「はあ」と言いつつ、何が何やらわからなかった。
 女王に臣下として以上の好意を持っている。それはたとえるなら木の影からじっと見つめるようなもの、気づかれないけれど想い続けるようなもの――だと宰相は思っている。
 女王に笑顔を向けられただけで嬉しいし、頼られればもっと嬉しい。
 けれど今少し、不満に思った。
 『かわいい』はおそらく褒め言葉だとは思うが、ちょっと、胸の中がもやもやとする。
 髪を撫でていた女王の手が離れたとき、宰相はそれをつかんだ。
 こういう行為が失礼なことだとわかっていたけれど。
 目を丸くする彼女に、上ずった声を向けた。
「……犬はかわいいだけではなく、飼い主に噛みつくかもしれませんよ?」
 女王は目を大きくして、宰相を見る。
 驚かせたようで、宰相は少しすっきりした。
 だけど、女王はたくらむような笑みを作り、顔を近づける。息がかかるほどまで近づいてから、
「噛みついてみるか?」
 と囁いて、宰相の心を試す。
 彼の心臓は人生上これまでにないほどに高鳴った。瞳孔まで見える距離。へたに動いたら触れられる唇。香る甘い匂い。
 彼女の髪の毛先が、誘うように頬に触れた。
 はじかれたように宰相は手を離して慌てて立ち上がり、
「み、みみみ水っ、陛下喉が渇いたでしょう! 水を取ってきます!」
 と、赤い顔のまま壁にぶつかりつつ、部屋を出ようとした。

 ……一度振り返ったとき、女王が残念そうに見えたのは、宰相の気のせいだろうか。




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