ランドセルは冒険道具!――前編――
奈津が公園でランドセルをぶんぶんと振り回し、セン君に「ローリングサンダーアターック!」と技をしかけていたら、異世界にいた。
* *
初め、奈津はそこがどこかわからなかった。
目の前にいたはずの遊び仲間のセン君が消えている。よく登るジャングルジムも鉄棒も滑り台も消えた。
まったく別の木同士がねじり合って、奇妙な二等辺三角形の塔をなしている。そしてそんな不可思議な木々が林立し、森となっているのだ。
奈津はランドセルを振り回すのをやめた。
(ここは、どこ?)
異常はそれだけではなかった。暗い。
奈津が顔を上げると、そびえ立つ木々の隙間から、夜空が広がっているのだ。
奈津とセン君が公園で遊んでいたのは、学校帰りの夕方である。こんなに夜遅くではなかった。
(ああ、お母さんに叱られちゃう)
お母さんの怒る顔を思い出しながら、奈津はきょろきょろと見回して、明るい方へ歩き出した。
急に、知らぬ間にどこかへ来たことよりも、奈津にとっては、「いつまで遊んでいたの!」とお母さんに叱られる怖さの方が重要で重大だった。
(早く、家に帰らなくちゃ。――ここがどこかはわからないけど)
奈津はランドセルを背負って、明るい方へ走る。
走った先に見たのは、海――いや、湖だった。暗い広大な水面の先に、陸地が見える。その陸地も森に包まれていた。
森を抜け、夜空を遮るものはない。
奈津はそのとき、仰天した。
夜空に五つも月が浮かんでいるのだ。断じて、星ではない。一番左端が丸くて、そして右に行くに従って欠けてゆき、右端は細い三日月だ。どれも、赤い。
小学生だからって、もう五年生の奈津は、月がひとつしかないことを知っている。
「え! ええーっ!?」
大声で叫ぶと、それに反応するように、湖から水音がした。
奈津はまたも驚きながら、そちらへ目を向ける。
平らな水面から顔が出て、身体が出てきた。
男だ。それも、大人だ。
男は腰ほどまでの長い髪を持っていた。顔の前に落ちた髪を、男はモデルのようにかき上げる。
髪は波打っていた。五つの月の光に照らされたその色は、エメラルドグリーン。本当の宝石のような、透けるようなきらきらしさがある。
(うわ……)
奈津は彼をじろじろと見回した。
男も奈津の方を見て、水音を立てながら近づいている。下はズボンを穿いている。l
奈津が彼を見続けているのは、その髪の美しさに目を奪われたためではない。顔立ちは外国人俳優のように整ったものであるが、それに注目していたわけでもない。
奈津が見ていたのは、その髪の色と、波打ち具合。
うんうん、と奈津はうなずく。
「こんなところでどうした、がきんちょ」
外国人らしい顔立ちをしながら、彼は日本語を話した。
奈津は『がきんちょ』と言われ、むっとする。
「がきじゃないもん!」
「がきだろうがよ。あ、もしかして、どっかで俺に惚れて、追ってきたのか? いやー、こんながきまで落とすなんて、色男はつらいね。でも、悪いなあ、女はせめて俺と同い年、十六以上じゃないとなー」
男はがしがしと奈津の頭を撫でる。そのおかげで、二つに結んでいた髪がぐちゃぐちゃになってしまった。
「残念だったなー、ほんと。大きくなったら相手してやるからな。大丈夫、来る者は拒まないんだ。いやー、こんながきんちょを惚れさせるなんて、俺の色男っぷりも冴えてきたなあ」
はっはっは、と笑う男に、奈津はむかっ腹がたってきた。
「なーにが、色男だよ! ワカメ頭が!」
いい気になって笑う顔のままで、男は固まった。
「ワ……ワカメ……?」
「ワカメみたいな頭してるじゃん! 最初、ワカメを頭にかぶってるかと思ったよ」
奈津がこの男を注視していたのは、頭がワカメに見えたからだった。うねった緑色の髪。見れば見るほど、そう思えてくるのだった。
「こん……がきっ! 星や宝石に形容されてきたこの俺の髪を……!」
「ふん! 星? 宝石? ワカメにしか見えないもん! って、本当にワカメなんじゃないの?」
奈津はぐいぐいと男の髪の毛を引っ張った。いででで、と男は痛がる。
残念ながら、本当に毛髪だった。
「自称色男かどうかは知らないけどさ、緑色に染めるのはやめた方がいいよ。外歩けないし、髪を傷ませると若くてハゲるって、お母さん言ってたもん」
友達が茶髪に染めたとき、奈津がお母さんに同じように茶髪にしたいと言うと、そういう理屈で止められたことがあった。
「ハゲ……! 縁起でもないこと言うの、やめろっ。……ああ、親父やじいちゃん……お願いだから俺へ受け継がないでくれ……」
男はぶるりと肩を震わせた。
「だからさあ、染めるのやめた方がいいって」
「意味わからないことを言う奴だな。誰が染めたっていうんだよ。俺は髪を染めたことなんてないぞ?」
「え? じゃあ、そのワカメ頭、地毛なの?」
「ワカメ言うなって」
(世の中には、緑色の髪の人がいるんだ……)
驚きながら、奈津はこの男が可哀相になってきた。
緑色の髪に生まれたなら、きっと学校でいじめられてきただろう。それに反発して、今これほどワカメに見えるほど伸ばしたのだろうか。
「で、がきんちょ。真面目に訊くが、こんなところでどうしたんだ。迷ったのか?」
「え……あの……なんか、森の中にいたんだよ」
「? 森の中に置いてかれたのか?」
「そうじゃなくて……」
奈津にもうまく説明できないことだ。
「なんか……セン君っていう友達と遊んでいたら、森の中にいたの」
「その友達っつうのは?」
「いなくなって、奈津、一人で森の中にいたんだよ……。どうしよ……こんな遅くになってまだ家に帰ってないって、お母さんに怒られちゃう……」
男は難しい顔をして、がしがしとワカメ頭を掻いた。
「家はどこか言えるか?」
奈津は自分の住所を言った。転校したばかりだけど、住所だけは真っ先に覚えたし、ランドセルにも書いてある。
ところが、男はすっとんきょうな声を上げる。
「トウキョウ? そりゃ、どこだ?」
「どこって、東京は東京だよ」
「おい、がきんちょ。本当に親にそう教えられたんだな? ちゃんと思い出してみろ。本当にトウキョウなんて場所が、自分の家だって言われたのか?」
がきんちょ呼ばわりはむっとしたが、奈津はこくこくとうなずく。
「……こりゃあ……やっかいながきと巡りあっちまったかな……?」
小さく男は呟く。
「つまり……となると……最低の親だな……」
最後のところだけ聞こえた奈津は、猛反発した。
「お母さんは最低じゃないよ! そりゃ、ピーマンとか無理矢理食べさせられるけど……悪いお母さんじゃないよ! それに、本当に東京に住んでるんだよ! ……家に帰りたいよう……」
「ああ、わかった。悪かった。お前のおっかさんは、いいおっかさんなんだな。……だけどな、このあたりでトウキョウなんて村も町もないんだ」
「東京は村じゃなくて、都道府県だよ! 日本の首都だよ!」
奈津はだんだん自分の頭がおかしくなってくてくる気がした。こんなこと、小学校で習うことなのに、目の前の男は知らないという。
「トドウフケン? ニホン? なんじゃそら。そんな国知らないぞ?」
奈津の大きな瞳に涙がにじみ始めた。
「……家に帰りたいよう……」
「ああ、悪かった、悪かった。女の相手ならお手の物なんだけどなあ、こんながきんちょの世話は、苦手なんだよな……」
男は奈津の頭を撫でる。今度は髪をぐちゃぐちゃにするような乱暴なものでなく、優しいものだった。
その晩、赤い五つの月の下、湖の畔で、奈津は眠った。
ワカメ頭の男は、レナートと言うらしい。
本当に外国人のような名前だ。日本語を話すけれど。
彼は旅の途中だったそうだ。彼の持っていた毛布をかけて、奈津は外で眠ることになった。
よくわからないことばかりに、奈津は混乱している。
だけど、なぜか身体がひどく疲れていて、奈津はランドセルを枕に、すぐに眠った。
「起きやがれ、がきんちょ」
目覚めから、むっとすることとなった。
「……がきんちょじゃないよ、ワカメ頭」
「ワカメ言うな」
「じゃあ、がきんちょって呼ばないで」
目をごしごしとこすると、レナートは枝に魚を刺して、焼いていた。この湖の魚だろうか。
「……黄色い」
「ん?」
「湖、黄色い!」
「当たり前だろが」
太陽の下にある湖は、黄色かった。黄金を溶かしたような色をして、きらきらと輝いている。
大きく口を開いたまま、言葉が出ない。
そういえば、テレビの番組で、どこかの国に赤い湖があるとか、言っていた気がする。
それなら黄色い湖があっても不思議じゃない。
『自然とは我々のはかり知れないものです』と、別のテレビ番組でどこかのえらい先生が言っていた。
たまには、月が五つの夜もあってもおかしくないし、黄色い湖があってもおかしくないのかもしれない。
何も知らない奴だな、という目で見られたくないから、
「そ、そうだよね。黄色い湖なんて、普通だよね」
と言って、焼き魚に近づいた。魚は普通だった。
「食ったら、出発するぞ」
「? どこに?」
「一番近くの街・コダッパラル。……知っているか?」
「知らない……」
そんな言いにくい場所、知らない。
「多分、お前が住んでたのはそこだろうな」
「奈津が住んでるのは東京だよ。学校の帰りに遊んでいたら、いつの間にか夜になってこんなところにいたんだよ」
必死に奈津はレナートに言う。
「ああ、わかったわかった。でも、一番近い街はそこだ。そこなら、お前を知っている奴がいるかもしれないだろ?」
「そんなとこ、知らない。奈津が住んでるのは東京だもん……」
「とりあえずそこへ向かう」
レナートは聞いちゃいなかった。
奈津は不満に思いながら、朝食後、彼についてゆく。
彼が悪い人だったらどうしよう、と考えながら、それはないだろう、とも思う。
夜に寝ぼけて毛布から身体をはみ出したら、近くで寝ていたレナートは、「まったくがきんちょは」と呟きながら、毛布をかけ直してくれた。
がきんちょ、がきんちょ、と言うのは腹が立つが、お母さんがそうしてくれたような気分になったのだ。
それに、レナートがただ世間知らずなだけかもしれない。
そのコダッパラルというところについたら、他の人は東京を知っているかもしれない。
『ああ、あっちの角を曲がってまっすぐ行くと、君の家だよ』と、誰かが教えてくれるかもしれない。
そうだ、レナートが何も知らないだけなのだ。名前も外国人っぽいし、きっと外国暮らしが長くて、何も知らないのだ。
思うと、奈津の心はうきうきとしていた。
ランドセルを揺らし、レナートと横に並んで奈津はコダッパラルへ向かった。
コダッパラルは、人の多い街だった。
男はみんな頭にターバンのようなものを巻いている。女は布をかぶっている。大きな籠を頭の上に乗せている人もいる。
顔立ちは日本人的な人は少ない。
赤髪や金髪、青い髪すらいる。黒髪黒目が少ないくらいだ。
さらに……。
(なに? あの耳)
耳がとがった人がいる。ぴんと後ろへ向かって立っている耳。
鼻が妙にとがった人もいるし、馬のような――というか、馬の顔をした人もいる。首がキリンのように長い人も、遠くにいた。
そんな人々を見ながら、奈津は居すくんでしまった。
「どうした、がきんちょ。……ははあ、驚いているな? 安心しやがれ。ここに初めて来た奴は、ビビっちまうもんだ。この人混みの中に入るのに、たっぷり日が暮れるまでためらった初心者だっているんだ」
「……それ、レナートのこと?」
「…………」
奈津が顔を上げて、「ねえねえ、どうなの?」と追求すると、手をつかんだまま歩き始めた。
「さあ、行くぞ! 知り合いがいたら遠慮無く言えよ!」
こんな変な人たちの中に、知り合いなんているはずがない。
そう思いながら、奈津は手を引かれて街へ入っていった。
まるで『不思議の国のアリス』みたいだ、と思う。だったら、今も自分はどこかで眠っているのだろうか。
いや、けれど、直前まで奈津はセン君と遊んでいた。遊びの途中で寝るなんて、あるはずがない。
だったら、もしかしたら、まだ家の布団の中で寝ているのかもしれない。その日の学校のことも、セン君と遊んだことも夢で――
その日、暮れ初むまで街中を連れ回されたが、奈津が知り合いと会えることはなかった。
遠足後のようなくたくたになった足の疲れは、現実だと思った。
* *
「よーう、女ったらしのレナートさん、久しぶりじゃねえか」
「ああ、久しぶりだな、ジュード」
レナートはジュードにいつものを頼んだ。ジュードは羊の顔に、含み笑いを浮かべた。
「聞いたぜ、スタンルルで将軍の娘に手を出したのがバレて、警吏の仕事を首になって、逃げ回ってる、ってな」
「あちゃー、もうこんなとこまで知れ渡ってる? 女達に知れていたらいやだなあ。口説くとき、面倒になる。ああ、でも障害があればあるほど燃える、ってのもあるからな」
「ふふん、お前さんらしい。それと……これはついさっき知ったが、子供を連れているとか? 誰との子だ?」
「待て、それは違うぞ。それだけは濡れ衣だ。通りがけ、がきを拾っただけだよ」
「拾った?」
「……ああ、気づいたらこの近くの森の中にいたんだとよ。で、家を聞いても、トウキョウというトドウフケンだとかニホンという国だとか言う。……そんな場所、知っているか?」
レナートは少しだけ笑ったが、暗い顔をしていた。
「いや……聞いたこともない。それは……」
カウンターの前にいたジュードも暗い顔になる。
「十中八九、あのがきんちょは捨てられたんだ。それも、でたらめを教えられてな」
「……嫌な親もいるものだな」
レナートはコップの中の濁った液体を見つめる。
「スタンルルにいた頃も、そんながきを見た。けれど、そういうがきっつうのは、なかなか自分が捨てられたことを信じない。親を決して悪く言わないんだ。……あのがきも同じだった」
「……どうするつもりだ。親を捜してやるつもりか?」
「正直、困っていてな。捨てた親を捜して返してやるのがいいのか……。今日一日、そのがきんちょを連れて歩き回ったんだが、知り合いすら見つからなかった。そもそも、この街の人間ではないようだ。かといって、この近くに他に街があるか?」
「ううむ、ないな。かなり遠くからその子供は捨てられた、ってことか? そんなに親は捨てたかったのか……まったく、嫌なものだ」
まったくだ、とレナートも同意する。
「……レナート、その子供、誰かに預けたらどうだ?」
「預ける?」
「そうだ。お前さん、スタンルルの将軍に、追っ手を差し向けられているんだろ?」
「あいたた。そんなことまで知っているのか」
「情報屋をなめるなよ。この街もすぐに出る予定なんだろ? 危険な旅路に子供を連れていくのは可哀相だ」
「まあ、俺も連れて行く気はなかったけどな。……そうだな、この街にも知り合いは多いし、誰か預かってくれるような奴はいるよな」
「ここで、お前さんの日ごろの女達への奉仕の結果が出てくるぞ? ただ、覚悟はしとけよ? 子供を預けたが最後、その女の所に腰を落ち着ける覚悟をな」
「……ああ、渡り鳥のように女の元を飛び回るのが俺の性なんだけどな……そうだよな、さすがに子供を預けて、そのままにしておけないしなあ……」
レナートは「俺の渡り鳥人生よ、さらば」と言いながら、コップの中のものを一気に呑み干した。
ジュードは苦笑しながらそれを見ていた。
こいつはこういう奴だ、とジュードは知っていた。
スタンルルの将軍の娘に手を出したというのも、真相は、他の男を好きな娘のためにレナートが手助けをしてやり、その過程で誤解を受けたということだった。
困った人間がいても、見捨てる、とか、知らんふりをする、ということのできない奴なのだ。
レナートの女好きは有名で、泣かされた女は数知れず。
所帯を持つだとか、一人に心を決めることはない、というのが、レナートを知る者の定説だ。
だが、知りもしない、不幸な子供のために、決断することのできる人間でもある。
ジュードは一杯だけ、レナートにおごってやった。
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